獣の王
「憶測で物を言うのはあまり感心せんな」
あくまでも物腰は柔らかく。しかしその威圧感は凄まじく。
「い、いえ、左様なことは。ただ色々とよくないことが立て続けに起こっておりますな、と思っただけでありまして……」
決して強い態度ではなかったのだが、ガッツォ王子に注意を受けた貴族は完全に委縮してしまっていた。彼がイェレミアス達の元に戻っていくとふうと、大きく息を吐きだした。貴族にとって重要な情報交換の場でもあるが、しかしあまりにも目に余る者は野放しというわけにもいかない。
戦士としてのメンツを重んじるグリムランドの夜会は、優雅なように見えて過去には侮辱されたことに腹を立ててその場で決闘が始まったこともある。現在もイェレミアス王子以外のほとんどの男性は帯刀している。
そんな『戦士』達の中でも三兄弟の王子、特に長兄のガッツォの存在感は抜きんでている。
イェレミアスが最近頭角を現し始めたことに浮足立っていた貴族達であったが、やはりガッツォの堂々たる胆力にはため息しか出ないし、自分の事であるのに自分は前に出てこず、相変わらず女騎士ギアンテと母の隣ににこにこして佇んでいるだけだったイェレミアスに対してはいくらか失望があっただろう。
「口さがない奴らのことなど気に止む必要はないぞ、イェレミアス」
「僕は気にしてませんよ、殿下。ただ、二人が発言できないのをいいことに悪者にされてしまうのは悲しいです。きっと何か、やむにやまれぬ事情があるんです」
この期に及んで二人をかばうような発言。
当然ながら二人がどうなったかを知っているのはヤルノだけであるし、現状で二人の失踪にヤルノが絡んでいるのではないのか、と疑っている人物すら一人もいない状態である。
この状況、周りは皆婚約者に駆け落ち失踪をされ、大恥をかかされた可哀そうで情けない男、というのがイェレミアス王子への評価である。この王子を「それでも二人をかばう寛大な人物」であるととるか、それとも「婚約者に逃げられても怒れない玉無しフニャチン野郎」と取るかは人それぞれであるが、現状ではまだ後者の方が多そうであった。
そして元々のイェレミアス王子のイメージはまさに後者なのだ。大きな変化があれば影武者を疑われる。少しずつ、ゆっくりとイェレミアスの評価は「王にふさわしい人物」になってゆく。
そして親しげに話すガッツォとイェレミアスを見て王党派、特に次兄アシュベル王子は気が気でない事だろう。元々はそちらの派閥ではなかった男、ノーモル公オーデン・オーガン卿も同じように鋭い視線でイェレミアスを睨みつける。
政治も武力も、そして私怨さえもどす黒く渦巻いてゆく夜会の宴もたけなわ、本来の夜会の主役がようやく遅れて現れた。
「遅くなってすまんな、みな息災であるか」
しわがれた老人の声に皆が背筋を伸ばす。
重そうに体を支える杖と豪奢なファーのついたマント。夜会では威圧的な王冠は被ってはいないものの、誰もがその姿を畏怖する。この国の主にして獣の檻のボス、ヤーッコ・インティッカ・ベスペリプスである。
(なぜ杖を……)
誰かの唇から声が漏れた。
王の齢はまだ六十に満たぬはず。しかし頬はこけ、毛髪も少し薄くなっているように感じられる。
何より目は落ちくぼみ、しかし肉食獣のように爛々と輝いて不思議な光を放ち、なんとはなしに彼が尋常な状態ではないことを知らせていた。
(やはり噂通り……)
王はさっそく夜会に交じり、特に親交の深い諸侯と歓談を始めたものの、その異様な雰囲気にやはりどこからか小さな声が漏れる。
幸いにしてそれが王やその近しい人物の耳に入ることは無かったが、しかしそんな言葉が漏れ出てしまうのも仕方がないくらいに、王はあきらかにやつれていたのだ。
(左様だな、陛下の健康に不安があるという噂は本当だったか)
ただで王子たちの王位争奪戦が混とんとして来たところへきて王の健康不安。冬は開けて気候は段々と暖かくなってくるものの、王国の雲行きは暗澹として先を見通せないような未来を指し示しているようだ。
(聞いたか? あの噂……)
(夜な夜な王の寝室に美しい淫魔が現れて、生気を吸っているというあれか?)
くだらない噂話。
いったい誰が王の寝所の中を見張ることなどできようか。少し考えれば嘘と分かるような噂話でも、くだらなければくだらないほど噂は人々の間を駆け巡るものだ。
「王別の儀についてだが」
全員が噂話をやめて、王の言葉に耳をそばだてた。
「どうせ元々国を挙げて祝う催事のようなものとは違うのだ。春になればすぐに執り行おうと考えておる」
「本当ですか陛下!?」
思わず声をあげたのは王妃インシュラであった。
「春になれば」とはいうものの、もうそろそろ菜の花も咲き始めるころ。下手をするとひと月の猶予もないかもしれない。王の健康不安を反映してなのか、あまりに急いだ日取り。
「元々先延ばしになっておったのだ、最近はどうやらイェレミアスの調子も良いらしいではないか。ならば早い方がよい」
準備期間は長ければ長いほど良い。ヤルノが王宮に来てまだ二月ほどなのだ。「自分の健康が確かなうちにさっさと片付けてしまおう」とでも言わんばかりのぞんざいな扱いに王妃インシュラは抗議の声をあげようともしたが、彼女にそんな力はない。
むしろ、王がイェレミアスを煙たがっている空気をひしひしと感じていた。
長い間嫡子が出来ず、その間に側室との間にできた二王子は見事な偉丈夫に育った。その上で今更できた虚弱体質の正室の子に国を引っ掻き回されたくないという腹積もりは道理でもある。
それゆえにこそ王妃は王妃で陰謀を張り巡らせたのだ。
この上さらに自分に有利な取引など出来ようはずもなし。
「わかりました」
王妃の覚悟は決まった。
いや、覚悟などとうの昔に決まっていたのだ。村一つ丸ごと生贄にして、彼女は何事にも代えがたい懐刀を手に入れた。
彼女は自分のすぐ隣にいる息子を、いや、息子のふりをした何者かを見つめながら力強く答えた。
「イェレミアスはきっと、王別の儀を見事突破して見せる事でしょう」
王は、末の息子の姿を、目を凝らすように細めて眺めていた。




