夜会の花
誰が言ったか『獣の檻』。グリムランドの王宮、それも主に王族が住まう中心区画、リィングリーツ宮の別称であり、蔑称である。
春先の淡雪が溶け落ち、川の流れとなって下々の生活に恵みをもたらし始めても、グリムランドの空気はまだ、冷たく、厳しい。
だが冷たく厳しいのは何も下々の生活だけではない。このリィングリーツ宮もまた人々が凍てつく寒さに凍え、仲間同士で身を寄せ合っているのだ。いや、仲間などというものは、誰にも存在しないのかもしれない。それとも、彼らこそがまさにその『獣』なのか。
「イェレミアス殿下は、随分と体調がよくなられてきたらしいですな」
「すると、王別の儀も?」
「ああ、棄権なさらないらしい」
「という事は王位争奪戦は三つ巴の戦いになるか。王党派のアシュベル殿下と共和派のガッツォ殿下なら分かりやすかったし、アシュベル殿下の優勢と思っていたがな」
「それが分かっていてか、ガッツォ殿下はイェレミアス殿下の取り込みを図ってるらしい」
口さがない貴族共の噂話。特にイベントがなくとも不定期に催される王宮の夜会にて飛び交ううわさ話は当然ながらただの井戸端会議ではない。
情報交換の場であり、同時に自身の派閥形成に必要な政局の場でもある。
そして、最近の夜会ではこのリィングリーツ宮でもここ数十年なかったほどの大きな動きが渦巻いている状態である。渦の中心はもちろんイェレミアス王子。
元々聡明な人物であり、寛容で、大変に人柄がよいという噂はあった。そして、アレが王の位につけば、貴族院も国民議会も大変に仕事がしやすくなるであろうと。まあ要は、神輿には最適な無能であると。
しかしそれだけではすまないのが政治の難しさ。彼の優しさはおそらくは王党派と共和派の両方にいい顔をして物事が決まらないだろうという予測もあった。それ故貴族共はガッツォとアシュベルのどちらに与するのかでもっぱら気をもんでおり、どうせ虚弱体質で王別の儀も通りそうにないイェレミアスはほとんど無視されていた。
その王子が、最近妙に調子がいいという。健在ぶりをアピールするかのように中庭で木剣を振っていたともいう。ガッツォ王子にも近づいて政治的にも色を見せ始めた。
挙句の果てには婚約者の護衛の騎士、ヒルシェンを決闘で打ち破ったという噂までが出回っている。しかもその噂を当の公爵令嬢キシュクシュが得意気に触れて回っていたと。
「しかしですな、そのキシュクシュ令嬢の話と言えば、最近はもっぱら、ね」
一人の貴族がそう言うと周りにいた男たちは思わず口に手を当てて笑い声を隠した。
そう、イェレミアス王子は健在ぶりを見せつけているものの、最近の王宮ではそれをはるかに上回るスキャンダラスなうわさ話でもちきりであった。
「おっと、いけませんぞ。当の本人が……」
きらびやかな夜会に似つかわしくない重苦しい空気を纏って姿を現したのはノーモル公オーデン・オーガン。イェレミアス王子の元婚約者の父親である。
そう。王宮でのもっぱらの話題はその令嬢キシュクシュの醜聞である。
置き手紙などは無かったものの、王子の婚約者である令嬢が護衛の騎士と共にある日からぷっつりと連絡を絶って消えてしまったというのだ。身分違いの妙齢の男女が姿を消した、となれば当然ながら疑われるのは『駆け落ち』である。
キシュクシュと王子が仲が悪いのは有名であったが、あの自尊心の高い女が身分を捨てて騎士と駆け落ちするなどとは、誰も予想していなかった。いなかっただけに、センセーショナルに語られた。
多くの貴族がガッツォかアシュベルに肩入れする中、ノーモル公は逆張りとばかりにイェレミアスに娘との婚約を取り付けていた。そんな中、王子と父親に恥をかかせるかのように娘が消えたのだ。「それみたことか」「ざまあみろ」という他の貴族からのやっかみ交じりの嘲笑と視線。
直接挑発されればこの肉体派貴族は怒りのままに相手をぶちのめしたであろうが、それもないので怒りの雰囲気を夜会で振りまくのが精いっぱい。
「そう言えば『王別の儀』、菜の花が咲くころには執り行われるそうですな」
「なんとまた急な。いつもは夏ごろではありませんでしたかな」
イェレミアス王子の王別の儀は今貴族の一大関心事である。この結果如何によっては今後の政局ががらりと変わる可能性がある。
貴族たちは少し声を潜めて、冬の小鳥が寄り添うように近づいて話を続ける。
「ほれ、王別の儀を取り仕切るのは騎士団総長のコルアーレ。ノーモル公とは昵懇の仲ゆえ……」
「まさかまさか。婚約が立ち消えになった腹いせに?」
「逆恨みもいいところですな。それでは婚約者に逃げられた上に王別の儀も邪魔されたのでは王子がたまったものではありますまい」
「なんだか王子が可哀そうになってきますな」
貴族達は部屋の隅の方でガッツォと話をしていたイェレミアス王子の方を見た。この一連の事件、傍から見ればイェレミアスは完全に被害者である。これまでイェレミアスに肩入れしていたものはいないというものの、自然と同情の視線が集まる。
骨肉相食む獣共にも、当然ながら「憐れみ」という感情があるのだ。
男どもはほうっと思わずため息をついてしまった。
それはまるで、豪奢できらびやかな金銀財宝によって飾られた宝物庫の中に一輪だけ生けられた百合の花のようであった。
その美しさを、いつも通り無粋な鎧を着こんだ護衛の女騎士ギアンテと、男らしさを絵にかいたような巨躯のガッツォ、そして後ろに控える煌びやかな衣装と装飾品に身を包んだ母のインシュラ妃殿下。
周りには有象無象の金銀財宝たる貴族共。
その中でイェレミアス王子は白銀の美しい髪とニンフの如く儚げなその容姿で、まさしく輝いていた。
夜会には少し不釣り合いではないかと思えるほど質素なシャツに身を包み。他の者全てを引き立て役として。
周りの者が豪華であればあるほどイェレミアスの元々持つ美しさが際立つのだ。




