用済み
「ええ? キシュクシュの護衛の騎士さんを……? たしか、ヒルシェンさんでしたっけ?」
王子の私室。イェレミアス王子は影武者のヤルノの報告に大きな声を上げてから、あわてて口を押さえた。
「ふふ、まあ足がもつれて転んだようなものですけどね。ギアンテも相当驚いていましたよ」
一方のヤルノの方は落ち着いた様子である。数日に一度、不定期ではあるがリィングリーツ宮の王子の私室では二人きりの情報交換会が行われている。いつものように固く閉ざされた扉の外にはギアンテが見張っている事だろう。
王子はふぅ、とため息をついて呼吸を落ち着けた。普段引きこもって刺激のない生活をしている王子にとって、自分と入れ替わっている筈のヤルノの毎日は、まるで物語を読んでいるかのように負荷が強い。
「なんか、ヤルノの話を聞いてると王別の儀が終わって僕が戻るときの敷居がどんどん上がっていくような……」
「そんなことないですよ、イェレミアス。僕が来た時よりも随分元気になってように見えますよ」
ヤルノの言葉は根拠のない社交辞令ではない。実際この一か月余りで、ふさぎ込みがちだったイェレミアスは随分と元気になり、それに伴い心なしか肌艶も良くなっているように感じられる。
ヤルノが入れ替わりを演じることにより部屋の外に出られなくなっているのに、である。
ストレスというものはただ対象を疲労させるだけではない。「全く無い」のもそれはそれで問題があるのだ。イェレミアスは体が弱いために王妃インシュラの管理の下、大事に保護されて生きてきた。しかしある程度のストレスがかからないと人は成長しないのだ。
そういう意味ではヤルノが来てからの彼の生活は自分が経験したことではないながらも、大変に刺激的なものであった。
「同年代の友達が出来て、お話ができるのが楽しくて、健康になったのかもしれませんね」
ヤルノにとって特に近しい人間は母のインシュラと騎士のギアンテ。二人とも彼には大変に好意的ではあるものの、少し特殊な立場であることは否めない。キシュクシュは婚約者に対してあんな態度であったし、本当にヤルノが初めての、そして唯一の友人であり、そして彼の『世界』なのだ。
「それで、その『リィングリーツの妖精』の話をしたんですか? キシュクシュに」
キシュクシュと同様イェレミアス王子もヤルノの妖精の話が気に入ったようであった。
――――――――――――――――
「ギアンテ、イェレミアスは……?」
ギアンテが心を無にして廊下で見張りをしていると、王妃インシュラが声をかけてきた。彼女は慌てて姿勢を正して敬礼をする。
「中で王子とお話をしています」
答えながらなんとも言えない奇妙な感覚に襲われるギアンテ。そしてそれは王妃インシュラも同じであった。
王妃の言った『イェレミアス』とは誰を指すのか。ギアンテの答えた『王子』とは誰の事を指すのか。
イェレミアス本人はヤルノの事を大変好ましく思っている。それは二人とも理解しているのだが、ヤルノについては単純に言葉で言い表せない感情を持っている。
「その……まるで、ヤルノが本当にイェレミアスに成り代わろうとしているように思えてしまって」
絞り出すようにインシュラが言葉を口にした。成り代われと言ったのは自分達なのだが、正直ここまでとは思ってはいなかった。イェレミアスの事を完全にコピーし、彼がとったことのない行動までも予測して、対応する。
周りから見て別人とは分からない程度に成果を上げ、周りの人間の王子への評価が上がっていく。
― このまま、ヤルノが王子に成り代わって生きて行った方が、全てが上手くいくのではないか ―
二人の頭の中に、そう思いながらも決して口に出したくはない言葉が浮かぶ。
「私は、あの少年が恐ろしいのです」
あまり接触の少ないインシュラですらそう思うのだ。四六時中彼の隣にいるギアンテの思惑は如何ばかりか。
「妃殿下は、ヤルノを疎んでおられますか」
もしもこの計画を白紙に戻すのなら、今しかない。ギアンテはそう考えた。しかし王妃は首を横に振る。
「いえ、むしろ私を母として接する姿はまるで……」
その姿は何もかもイェレミアスに生き写し。意識せねば嫌うこともできない。
「だから、なるべくあの少年の方とは接しないようにしています。あまり一緒にいると、情が移ってしまいそうですから」
ヤルノは何一つ悪くない。むしろ勝手な理屈で生まれた村から引き離し、王子の身代わりになれと無茶な要求を選択肢を与えずに命令したのはこちらの方なのである。
その上で「あまりにも王子に似すぎている」などという理由で計画を止めることなどありえない。しかもこの場合「計画を止める」とはどういうことなのか。おそらくイェレミアスはそれに気づいていない。しかし首謀者たる二人はそのことをよく理解している。
だがもし……
もしも、イェレミアスが健康であったならば。
その上で、彼にヤルノほどの才覚があれば。
……いや、もしヤルノが自分の息子であったならば……
考えてはいけないことまで考えてしまう。別に提示されたわけでもないが、まるで悪魔と取引をしているようだった。情が移ってしまうからだけではない。王妃がヤルノと接したがらないのは、そうした己の心の仄暗い部分から目を逸らしたいからでもあるのだ。
そして、内容は違うが、同じような仄暗い感情はギアンテも持っている。
自分と王子が結ばれることなど絶対にありえない。だがもし、ヤルノならば……
王子と騎士はあり得ずとも、騎士と平民ならばあり得る。もし、本当に王子の演技としてではなく、本心からヤルノがギアンテの事を思ってくれるのならば……何もかも捨てて、二人でどこかで過ごすことが出来たら。
ありもしない空想を思い描いてしまうことがないと言えば嘘になる。
二人がともに、幻想を抱いているのだ。あの少年に。
言い方は悪いが、イェレミアスさえいなければ容易く実現してしまう幻想を。ギアンテはそれに気づいてぞっとした。彼が公爵令嬢に話したおとぎ話を思い出す。
もしかしたらあのヤルノという少年は本当に人間などではなく、人を殺し、成り代わる黒き森の妖精なのではないか。ヤルノ少年に成り代わり、そして今もまた王子イェレミアスに成り代わろうとしているのではないのか。
……そしていずれは、この国そのものに、成り代わろうというのではないのか。
「では、計画は予定通りに」
「ええ」
部屋の中からは何やら楽しそうな話し声が聞こえる。ありえない空想を振り切って、二人は話を続けた。
もはや賽は振られたのだ。後戻りはできない。
「無事計画が終われば、あの子は用済みです」




