第九話
早朝のゲリラ豪雨のせいだろうか。それとも五月中旬の、この気だるい梅雨という季節のせいだろうかと、宏太は便座に座って考えていた。
週末二日をかけて行われる『全国統一模試』は、毎年数十万人の受験生を対象にして行われる、大手予備校主催の模試だったから、宏太は入校したてのオリエンテーションの際、年に四回行われるこの模試は、国立私立関係なく全ての受講生が受けるのだと、教師から聞かされたことを思い出した。
例年通り、第一回は五月中旬に行われることになっていたから、宏太はいつもの講義が終わった後、顔見知りの講師が配った「受験案内」を見て驚愕した。
彼の会場は金沢区だったのである。
宏太の家は横浜駅西口から、平沼橋の方へ十分ほど自転車を走らせた浅間町という場所だったから、模試の際は横浜駅近くの、医療専門学校で受けることになっていたのだ。
けれどどういうわけか、今度の模試で彼は初めての場所である、横須賀市に近い金沢区の関東学院大学で模試を受けることになってしまい、彼は本番直前の、いつものルーティンができなくなってしまったのである。
通常、彼は模試が始まる二時間前に起床し、熱いシャワーを頭から浴びると、前日から用意しておいた豚の生姜焼き、納豆ご飯、温かいみそ汁を食べ、受験開始時刻の三十分前に家を出、道中はイヤフォンでモーニング娘。の『LOVEマシーン』を聴きながら、第一科目である世界史の復習ノートを読むというのを毎回のルーティンとしていた。
けれど今度の模試で、彼の日常は崩れた。なにしろ電車で向かわなければならないから、遅くとも開始時刻の三十分前には学校に着いていなくてはならない。模試の開始が九時だとすると、横浜駅から最寄りの金沢八景駅までは、特急に乗れば二十分ほどでつくことができるのだが、何しろそれまでの彼の会場は、最寄りである横浜駅よりも近くに点在していたから、彼は自宅から横浜駅まで自転車で十分、特急に乗って二十分、そして会場である関東学院大学までは、そこから徒歩で二十分もかかるのだった。
当日、彼はいつもより一時間ほど早く起き、朝食も儘ならぬまま自転車を走らせた。
前日の夜は緊張して眠れなかったのだ。彼は何度も自室の天井を見上げ寝返りを打っても、脳裏には明日の時刻と京急の銀色の車体が浮かび上がってくるばかりで、彼は早く会場の席に座って安心したかった。
天気予報では昼から夕方にかけて雨が降ると言っていたが、彼が自転車を走らせている頃には乳色の雲から雫がこぼれだし、横浜駅に着くころには土砂降りになっていた。
彼は濡れた身体のままホームに駆け上がった、大雨の影響で遅延すると言うアナウンスが流れ、彼は血の気が引いていくような面持ちで電車を持った。ホームには溢れんばかりの人の塊が、嵐の雲のようにゆらゆらと揺れていた。
十五分ほど遅れてやってきた電車に飛び乗る。もちろん席には座れないから、彼は押し詰め状態の車内で身を縮めるようにして、何とかつり革に摑まると、雨で濡れたTシャツの裾から垂れる雫を、見るともなしに眺めていた。
そのまま立ちっぱなしで金沢八景駅に着き、彼は時間を確認した。開始時刻の二十分前であった。本来なら遅延証明書を持っていけば、別室で本試験が受けられるはずなのだが、混乱した彼の頭ではそんなことを考える余裕もなかった。
改札を抜けて階段を駆け下りる。雨は小降りになっているが、濡れた床はスリップして尻もちを搗く。ああもうめちゃくちゃだぁといった感覚で尻をはたき、ロータリー沿いのタクシー停留場に駆け込む。「いけますか?」と、ハゲ面の老年男に尋ねる。ゆっくりとこちらへ振り返り「大丈夫ですよ」と笑顔で答えた運転手は、前歯がひとつなかった。
タクシーは海沿いの道路を走った。南国に生えていそうな巨木が、風に揺られながら遠くまで続いている。「お急ぎですか?」と聞く運転手に、「模試があるんです」と車窓を眺めながら答える。
海には何隻か船が出ていて、その上を八景島まで伸びるシーサイドラインというモノレールのようなものが通っている。薄暗い海の向こうには小さな島が見える。
「どこかへ行かれるんですか?」と運転手が聞く。
こいつ、さっき模試があると言ったのにと、彼は内心苛立ちながら「そうなんですよ」と愛想よく笑う。
「ここら辺は周るとこいっぱいありますよ。海の公園はここからすぐですし、あっちにいけば野島の展望台がある。更に向こうは八景島の水族館がありますから。あそこんとこの電車乗れば一日で全部周れちゃいますよ」
運転手は海の上を走る電車を指さすと、大学の敷地がある方へ左折した。
開始予定時刻の五分前に、宏太は急いで教室へ入ったが、黒板には大きく「京急線の遅延のため、試験開始時刻は九時三十分とする」と書かれていため、彼は席に座るなりホッとして肩の力を抜いた。
さぁ、ここからだ。と彼が鞄から世界史のノートを取り出し、筆記用具を机に置いた途端、それは始まった。
下腹部から鈍い痛みが走った。もしや、と彼はしばらく放心し、何も起こらないようにと強く願ったが、痛みの広がりとともに強い悪寒が、彼の身体を襲ったのである。
彼は数年前、まだ普通科の高校に通っていた時も、早朝の電車でこんなことがあったなと思った。それは彼が高校を辞める一か月前の、ある寒い早朝でのことだった。
前に立つサラリーマンの背中が視界に迫ってくるような。それが徐々に色味を増し、次第に一色の黒となって彼の世界を消してしまうのだ。その間に、額や首筋からは汗が流れ、気味が悪いほどに寒気が走り、もうこの場所にはいられない、早くどこか安住の地へ連れて行ってくれといったような気持ちが、彼の胸の中に押し寄せるのだ。
その時は、彼は次の駅で降り、改札横のトイレに駆け込んだから、彼の中では大ごとにならずに済んだのだが、その経験が一種トラウマのようになって、彼が通信制高校に進む羽目になったのは、言うまでもない事実であろう。
それが三年後の今現在。再発したかのように、彼を痛めつけているのだ。けれど考えればもっともだろう。病は気からと言う言葉があるが、彼はその言葉をそのままにしたような人間であって、どんな些細な事でも、満足する答えが出るまではそれに執着してしまう、一種病的な何かを持っていたのだ。
宏太はおぼつかない足取りでトイレへ駆け込んだ。酷い下痢だ。こんなときは予備校のトイレでしているみたく、腕組んで目を閉じるのが最善だと思ったが、暗闇の中では目まぐるしく不気味な何かが動いていて彼を世界から追い出そうとする。嫌だ、俺はこの後試験が待っているのだ。勉強漬けの毎日を送っていた俺の、結果を証明するための大切な機会。それが今、このような苦しめにあって、こんなにも呆気なく終わってしまうのか。
今までの努力は何だったのであろうか。
そうして痛みと格闘し、気絶して目を覚ました頃には、第一科目の世界史が終了するチャイムが鳴っていたのだった。