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MARCHはすべりどめ  作者: なしごれん
MARCHはすべりどめ
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第八話

「なぁ、ちょっと見に行ってみないか?」


「嫌だよ。何か言われたらどうするんだ」


「大丈夫だって。道を通るふりしてちょっと覗けばいいんだから」


賢二は楽しそうに舌を出すと、声のする自転車屋の角の方へと歩いていった。



自転車屋の支柱から顔を覗かせるようにして、二人は路地裏でいがみ合っている男女を眺めた。


路地裏の細道にはブラックの車が置かれていて、奥の方から反響して聞こえる彼らの声。手前側にチャーコルグレイのカジュアルコートを羽織った二十一ばかりの男が、泥埃で薄汚れたポタージュ色の外壁に凭れるようにして、口先に柿色に光るタバコを持っていくと、怒声に幾分か疲れたのだろうか、女を宥めるように声色を黄色に落としていた。


男の背は大きく、高い鼻梁の端に光る二つの眼孔は精悍で、ふとした拍子に男を十代でも三十代にも見せる魔性のモノを持っていた。宏太は富田の顔を見ようと身を乗り出すが、男の熊のような背中が彼女の顔を覆って、見えるのは、ピンク色のジャージのような上衣と、黒光りした厚底靴から伸びた純白のソックスだけだった。


「ああいうのを、ヒステリーって言うんだなぁ」


声の調子を落とした二人はその後も何か話し合っていたが、富田の「なによ。男のくせに」という喚声で、男はゆっくりと、路地裏の暗闇へと消えていった。


「バカ、アホ、スケベ、ロリコン、レイプ魔」


富田の喚声が徐々に大きくなって、吸い殻の散らばった路地裏に響く。


「変態、ヒモ、ニート、性犯罪者、放蕩者」


通行人が宏太達を見ている。それは明らかに様子のおかしい少女を、少し離れた店陰から、覗くようにして眺めている彼ら二人の、異様とも思える行動に対しての冷ややかな視線だったから、宏太は横でアホ面を構えている賢二の肩を叩くと


「ほら、もう行こうぜ。俺たちアイツの連れだと思われてる見たいだしさぁ」

と乱暴に言った。


賢二は何か奇態なものでも見るような、恍惚とした表情を浮かべ、荒く鼻息を立てながら無言で路地裏へと入っていった。


「おい。どうするんだよ」


宏太は賢二の後についていく。高く聳えたビルの影が、暮れかかった西日の光を閉ざして、明かりのない路地裏は汚泥のように黒くなっていた。



ショートパンツのように短い黒のフリルのついたミニスカートから、桜色の大腿をあらわにさせ、舗道よりも少しだけ低くなった溝に足を放り出すようにして座っている富田は、中学で見たよりも身体の線が細くなっており、眼鏡もかけていなかった。


彼女は泣いていた。両手を隠すようにしてピンク色の袖の部分を掴み、顔を覆うようにしてひくひくと泣いているのである。


姿は小動物のようだが、その泣声は猿のようで、悲鳴に似た金切り声は壁に響き、宏太はその声が堪らなく不快だった。


前を行く賢二の足が止まった。どうしたと声をかけようとして彼の顔を覗く。


賢二は笑っていた。


ニタニタと、眼を細くさせて綻んでいるのではなく、彼は目を大きく開き、口元だけが釣り上がるようにして、声も出さず静かに笑っているのである。


宏太は十数年ともにしてきた友人の、初めて見せる不道徳な表情に困惑して、その一種脅威的ともいえる横顔を、ただ呆然と後ろから眺めていることしかできなかった。


彼は内部にある前進的なものが、次第に慄いていくような恐怖に陥っていた。それは中学時代に短期間だけ顔を合わせた、この富田智咲という女の、想像もつかないほどの白ユリに変貌した彼女の容姿を、ハイエナの如く瞳孔をギラつかせ、鼻息を荒くして見つめ続けている辻村賢二という幼馴染の、生まれ持った性への気質を唐突に押し付けられたような。

そして彼もまた、自分と同じような特殊な何かを持っているのではないかという期待も、そこには含まれていたのだ。


宏太は不意に後ろが気になった。先ほどの通行人がまだ俺たちのことを見ているのではないか。もうかなり時間は経っているはずなのに、彼はそんな不安が頭によぎっていた。


通りを走り去っていく自転車の姿を確認すると、彼女の喚声が突如治まった。


富田は壊れて動かなくなった人形のように、覆っていた両手をタランと地面につけると、ビルの屋上からはみ出た僅かな夕日を見上げていた。泣きぼった顔は雫とファンデの粉状とが合わさるようになって、彼女の顔面は絵の具のパレットのようだった。

彼女は瞬きせず放心したように空を眺めていたが、やがて瞳孔だけをギョロっとこちらに向けた。宏太は彼女と目が合ったのだ。



その時の彼女の表情を、宏太はヨーロッパの前衛音楽家が収めた、粋の良いファッショナブルなジャケットのように思えた。


彼女は鼻血を出していた。乾いた涙の跡が皮膚上で桃色に浮かび、付けまつげは取れ、アイブロウは落ち、シャドウは剥がれているのに、目だけ宏太に驚いたかのように凝視し、鼻からは赤黒い血がゆっくりと、バラ色の唇に流れているのである。


彼は数時間前に、自習室で末野万弥香に言ったように、彼女にも「こんにちは」と言いそうになったが、唇を支流のように伝う血の流れを見ているうちに、脳裏には末野万弥香のあの、えんじ色のふくらみを思い出していたのである。


彼は突然、腹の中から喜々としたものが混み上がって、どうしようもなく笑い転げていたい心持になった。それはつい数時間ほど前の、あのカシミヤ女に揶揄られたことに対する、言葉にすることのできない悶々とした心のぶつけどころを、今目の前にたたずんで、哀れもない痴態を晒しているこの富田智咲と言う女に充てようと考えたからであった。


彼とて、健全な十九の男であったし、残忍な真似はしないものの、素肌を露出させた女の、辱めを受けられた姿ほど、興奮するものはなかったし、彼女のギラついて離れない眼孔は、カシミヤ女の羞恥をも、彼に連想させたのであった。


やがて彼は声を上げて笑った。驚いた顔でこちらへ振り返る賢二の顔が、視界の端に映った。


彼は笑うのを辞めなかった。全てのことが馬鹿らしく思えた。驚愕とも怯えともつかない表情で、尚もこちらを睨み続けている富田智咲の顔が、数時間前の自分の顔に思えてしかたなかった。


狭い路地裏に宏太の笑い声が響いていた。低く吠えるように発せられた声は唸るようで、人の気配がない通りからは、幾人かの気配が感じられた。


「帰ろう」


賢二が顔を変えずに言った。それは彼に似つかわしくない穏やかな声だったから、宏太は笑ったまま彼の背中を叩いた。


「次はいつ遊べるかなぁ」


宏太はその問いに言葉を返さなかった。ああいいのさ、なんだって。

苔が絡まった雑居ビルの端から、口紅色の太陽が沈みだしていた。

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