第五話
「それじゃあお前、午前中の講義はずっとトイレに居たって言うのかよ」
JR関内駅北口から交差点を渡り、伊勢佐木モールの入り口に差し掛かったところで、賢二が驚いた口調でそう言った。
「あぁそうさ。俺は井ノ川の講義をブッチしてやった。あんな授業を受けるくらいなら、自習した方がましだって言ってね」
「でもずっとトイレに居たんだろぉ?自習室には行かなかったのかよ」
「いや、一旦自習室に寄ったんだけどな……」
宏太はそう言って口を噤んだ。そして、あのカシミヤ女が自習室に入ってきて、軽蔑の含んだ瞳で俺を見つめてきたことを賢二に言おうかと迷った。
「なぁ」
「なんだよ」
「お前のクラスに末野って女、いるか?」
「すえの?」
賢二は怪訝な表情で宏太を見つめた。
「まぁ、いるけど……それがどうしたんだよ」
「本当か?ほんとうに末野ってやつがお前のクラスにいるんだな?」
宏太は賢二に詰め寄って何度もそう聞くので、賢二は一体何が起こったのかと不思議な面持ちのまま、問い詰める宏太の言葉にうんうんと頷くことしかできなかった。
「あの女がお前のクラスなら話は早いな。俺はな、その末野ってやつを負かしたいんだ」
「はぁ?」
賢二は呆れた表情で言った。
「さっき自習室で寝てたらそいつが部屋に入ってきたんだよ。俺はこんな時間に自習室に来るようなヤツは、講義に出ない不良か、学校を休んだ現役生のどっちかだと思って、そいつの顔を見てやろうと思ったんだ」
そして宏太が振り向いた時に、そのカシミヤの女がじっと顔を見つめてきたのだと彼は言った。
「俺がこんにちはって挨拶したら、アイツなんて言ったと思う?『こんな時間に自習室にいるなんて、親が見たら何ていうかしら』だってよ。その言葉で俺はもうカチンときたね。なんだよ偉そうに、お前だってこんな時間から自習室にいるんだから、俺と大差ねぇじゃねーかって、そう言ってやろうと思ったんだよ」
「それで、お前は何て言ったんだよ」
「いや、何も言わなかったよ。相手は女だからな」
賢二は声を出さずに笑った。
「それでむしゃくしゃしてトイレに行ったってわけか」
「まぁそういうところだな」
宏太はそう言って、自習室を出る一瞬、女の机に置いてあった参考書に、『末野』と書かれていたから、もしかすると賢二のクラスにいる理系の生徒なのかと思って、聞いてみたのだと言った。
「あぁ、俺のクラスにいるよ。末野万弥香。確か、最初のクラス模試で理系で二位になったんだ」
「二位?そりゃすげーじゃねーか」
「うん、でもそれっきり授業には来ていないんだ」
宏太と賢二の通う天筑予備校は、月に一度クラス模試があって、文系理系それぞれAクラスとBクラスがあり、その都度上位と下位の生徒がクラスを変えるという制度があった。
宏太は文系のAクラス。賢二は理系のBクラスで、新学期に入った初回のテストで、末野万弥香は理系全体で二位になったものの、その後の講義に出ていないことからAクラスには上がらず、賢二のいるBクラスにはいつも空席があるのだと彼は言った。
「アイツが予備校に来るなんて珍しいなぁ。俺が末野と会ったのが初回の模試の一回だけだから、アイツはそれから一か月間、一度もクラスに顔を出していないんだ」
そこまで口にして、賢二は小腹が空いたから少し何か食べないかと、横断歩道の先の、KFCの隣にある喫茶店に入った。
そこは昭和の雰囲気が色濃く残っている、会社員向けの純喫茶だったから、宏太はお金が足りるのかと心配に思って、今日は二千円しか持ってきていないのだと賢二に言った。
「大丈夫だ。俺が誘ったんだから、今日は奢ってやるよ」
絢爛な装飾が施されている階段を上りながら、賢二は得意そうに、木製の手すりを撫でていた。
それは傷がついていて、かなり年季が入っているだろうと思われるものだったが、頭上のシャンデリアで輝く光沢や、下に敷かれた真っ赤なカーペットなどから、宏太はこの店の雰囲気に、俺たちは合っているのだろうかと不安になった。
「お前、いつもこんなところで勉強してるのかよ」
宏太のその問いに賢二は何も返さず、向かい合ったテーブル席まで歩いていき、腰掛けた。
「ここ、俺の秘密基地なんだ。高校の時から何度も帰り道に寄るんだ。店内は広いし静かだし、何よりここのババロアが世界一美味いんだ」
伊勢佐木モールの端にあるここ『カフェ・ドルーム』は、横浜でも屈指の名店で、砕いたコーヒー豆を生地に、ブルーベリーとイチゴが乗っている特製ババロアは、毎日二十色限定で、賢二は学校が終わってすぐにドルームに寄らないと、ババロアが食べられなくなってしまうから、そのためだけに早退をした日もあったのだと言って笑った。
「こうちゃんも一回食べてみなよ。今はまだ早いから、売り切れてないはずだ」
賢二にそう言われ、宏太は値段を気にしながらメニュー表を開いた。
意外にも値段は良心的だったため、宏太はアイスティーとババロア。賢二はサンドイッチとババロアとスパゲッティを注文した。
ウェイトレスが去ってから、賢二は深刻な表情を作り、
「それで、末野を負かすって、具体的に何をするんだよ」
と言った。
「なんだよお前、アイツが気になるのか?」
「そりゃそうだろぉ?理系で二番目に頭がいいんだぜぇ?それも授業には全く顔を出さないのに、籍だけうちに置いている。そんなヤツが文系で一位のこうちゃんとたまたま自習室で居合わせて、唐突に失礼なことを言ったんだ。こんな面白いことは無いよ」
賢二は二人きりになると、宏太のことを「こうちゃん」と呼ぶ癖があった。それは幼稚園の名残で、その頃は宏太も賢二のことを「けんちゃん」と呼んでいたのだが、小学校に上がってからは、宏太は「けんじ」か「お前」としか呼んだことがなかった。
「実はな、俺も前から末野のことが少し気になってたんだよ」
「なんだお前、彼女がいるのに浮気か?」
「そういうんじゃねーって。ほら、あいつ顔が幼いだろぉ?色白で童顔で……なんか中学生みたいな形してる。それなのに頭はいいし、ちょっとした瞬間に大人びた表情をするし……とにかく、あんな不思議ちゃん滅多にいないよ」