第四話
自習室には誰もいなかった。壁一面を白で統一され室内は防音で、扉の真横にまっさらなホワイトボードがあり、その前に三人ほどが座れる長机が五列並ばれていた。
宏太はドアとは反対の列の、一番後ろの席に腰掛けてテキストを開いた。
どうにも割り切れない気持ちが彼の胸を襲って、テキストの文字はすらすらと頭から離れていった。
こういう時、彼はむやみやたらと集中しても、気持ちが前に進まないことはわかっていたから、すぐにテキストを閉じて机に突っ伏すと、宏太は静かに瞼を閉じた。頭が冴えない時はこうするに限る。彼は長年悩んだりすると、静かに目を閉じて心を落ち着かせることが、なによりも効果的なのだとわかっていた。
机に突っ伏しながら、宏太は一か月前の、一橋大学を不合格になった時のことを思い返した。
確かに、現役の夏から勉強を始めて受かるほど簡単な大学ではないことはわかっていたが、俺は県内でも一番の進学校を通っていたのだから、地頭が他人よりも優れていると自負していたし、賢二は高校があるが、日中をひとり家で過ごしている自分にとっては、時間など腐るほどあって、教材や参考書もすべて家にあるのだ。そのため直前期の詰込みでの短期記憶でも、少なからず戦えるはずだと思っていたのだ。
けれど蓋を開けてみれば、宏太も賢二も不合格者の中では、下から数えた方が早い位置に属していたから、彼らはこのまま家で勉強していても成長はできないと感じて、しぶしぶここ天筑予備校に春から入校したのである。
「もっと他の予備校を探してみるべきだったなぁ」
宏太は机に息を吐きかけて、月謝だけで予備校を決めたことに深い後悔を感じた。
宏太が目を瞑ってから十五分ほど経ったころ、後ろの扉が開く音がした。
宏太は先ほどの講師がやってきたのだなと思った。平日の午前中の講義は浪人限定のもので、現役生は今の時間帯に学校に行っているはずだったから、宏太は講義を独断で抜け出した自分を咎めるべく、女講師がここにやってきたのだろうと思って、彼は女講師が何か行動を起こすまで、こうして机に突っ伏して白を切っていようと考えた。
けれど彼の予想に反して、扉の開いてからら五分経っても、物音一つしなかった。宏太は自習室に入ってきたのが講師ではないとその時思ったが、それならば誰が部屋に入ってきたのだろうと、そいつの顔を見てみたいという衝動にかられた。
ドアを開けてから物音一つしなかったから、多分、そいつは入り口近くの席に腰を下ろしているのだろうと、宏太は机から額を離し席を立つと、いかにもトイレに向かおうという心持ちで振り返った。
そこには、えんじ色のカシミヤのセーターを着た女が、ドアの右横の席に腰を下ろして、じっと宏太を見つめていた。
「こんにちは」
透き通った彼女の瞳を見つめながら、宏太は思わずそう口にしていた。
「こんにちは」
見た目よりも少し幼い金声で、宏太に返事した彼女は、綺麗に揃った前髪を右手で弄びながらも、彼への視線を逸らさなかった。
「珍しいな、こんな時間に自習室に来るなんて」
宏太のその言葉を無視して、彼女は
「あなた、今授業中でしょう?こんなところで寝ているなんて、親が見たらなんていうかしら」
とぶっきらぼうに言って口を結んだ。
宏太は何か言葉を続けようと思ったが、なぜか彼女の瞳を見続けていると、生気を吸い取られていくような、眩暈に襲われそうな気がして咄嗟に扉を開けて廊下に出た。
階段へと続く廊下は静かで、三階から講義をしている女講師の微小な声と、一階から吹いてきた心地よいビル風が流れていた。
廊下をゆっくりと歩きながら、宏太は憤まんな気持ちが胸に込み上げてきた。何だあの女は、人の顔を不思議そうな表情で見つめてきて。それに初対面の人間にあの態度はいささか失礼ではないか。俺は自習室で眠っていただけで、お前には何一つ迷惑なんぞかけてはいないぞ。宏太は今しがたカシミヤの女に言われた言葉を思いだし、頭がカッとなってすぐにでも部屋に戻って言い返してやろうと思ったが、いやまて、今の俺は気を乱している。もっと思考が明瞭で、人の多い時に彼女へ仕返しをしてやろうと、彼はそのまま男子トイレのある廊下奥へと進んだ。
個室の鍵を閉め便座に座ると、宏太は目の前の薄水色の扉をじっと眺めた。
男子トイレの洋式便所は入って左に二つあり、宏太は奥の、自分の目線ほどの高さに設置された格子戸の窓がある個室に入った。
普段、授業が退屈になった時や頭がスッキリとしない日は、彼は個室のトイレに腰掛けて、腕組をしながら目を瞑ることを習慣としていた。自習室で居眠りをするのは、人のいない平日の午前中に限定したことで、生徒数の増える午後や土日は、頻繁に講師が見回りに来るので、宏太は眠くなると必ずトイレに行って、軽い仮眠を取るのだった。
普段使っている三階の男子トイレは、建物の北側についていて、そこは私鉄の通る鉄橋と近いことから、窓を閉めていても用を足すときはレールの金属音が嫌でも耳につく。反対にに自習室のあるこの、二階の踊り場横に設置された男子トイレは、商業ビルが立ち並ぶエリアに面していたから、週末は騒がしいが昼間は至って普通の喧騒が流れていて、考え事をするのにはちょうどいいのだった。
格子戸の窓からは、時おり横浜港へ繋がる帷子川からの川風が狭い個室に立ち込めて、用を足す者たちに清涼で禅定な、何とも言えない心の落ち着きを与えてくれる。そのため宏太は勉強に行き詰まったりすると、教室のある三階トイレではなく、秘かにこの自習室横の男子トイレの個室で気を休めるのだった。
宏太はこの場所が好きだった。それは閉鎖されて圧迫した空間が彼に、何か予想だにしない事を導き出してくれる気がして、眠たくないのに目を瞑ってみたり、催してもいないのに力んでみたりするのだった。
けれど今日は違った。彼はなんど目を瞑り、風に当たって放心してみても、心の落ち着きを取り戻すことができなかった。頭に浮かぶのは、つい三十分ほど前の、女講師の闊達とした口調に反論する自分の勇姿と、先ほど自習室で起こった、あのカシミヤの女の魔力とでも言えよう、一種蠱惑的で精悍な目つきだったのである。
宏太は何が自分の内部を脅かしているのだと、この怫然とした気持ちの原因を探ろうと頭を凝らしてみるのだが、やはり浮かび上がるものは、静謐な教室に響き渡る自分自身の声と、カシミヤ女のあの、年頃よりも発育の良いえんじ色の膨らんだ胸元なのである。
そうしていると、彼は自分自身の「欲」の部分が、限りなく自己の内面を脅かしていることに気が付いたのだ。彼は思った。そうだ、今まで俺がやってきたことは間違ってなどいないのだ。鬱病で進学校を辞めたことも、賢二と一橋を目指したことも、ついさっき女講師に反論して、講義をブッチしたことも、全てが正しいのだ。それなのに、あの女講師もカシミヤ女も、醜悪を含んだ蔑みの目で見つめてきて……
そこまで口にして、彼は膨張した自分のそれをパンツから出すと、徐に左手で掴み、有無を言わさず弄り回した。
そして講義終了のチャイムと共に、彼は果てた。