私のエッセイ~第九十三弾:「なんたら塾」~ 第二夜:「刑場のお話」と「おじろく・おばさ制度のお話」。
皆さん、こんばんは! お元気ですか・・・?
今宵の「なんたら塾」では、二つのエピソードをお届けします。
正直言いまして・・・どちらも、アレな内容で、アレレレ?な感じは、しますですよ、ハイ。
じゃあ、楽しんでちょんまげ❤️
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【刑場についての小噺】
今宵は、ちょっと趣向を変えて、ちょっぴりグロいお話。
皆さんは、「刑場」というものをご存知かと思いますが、今宵はこのお話。
いわゆる「処刑場」のことであります。
今の日本の処刑法は「絞首刑」ですが、江戸時代には「打ち首・獄門」といって、首を斬られたあと、「さらし首」にされる刑罰がありました。
・・・見せしめですわな。
今はその面影すらありませんが、当時は有名な街道沿いなどのあちこちに刑場が設置されておりました。
有名なのは、東京の「小塚原刑場」と「鈴が森刑場」。
特に後者は、火あぶりのための柱を立てる石などの当時のものが残っている貴重なもので、東京都史跡にも指定されています。
鈴が森で処刑された人で有名なのが、あの「八百屋お七」。大火事を引き起こした犯人と言われています。
写真が残っている刑場もありますね。興味のある方は、「ベアト 戸部刑場」で画像検索してみてください。
ここは、横浜にあった「くらやみ坂刑場(戸部刑場)」といって、外国人のベアト氏が撮影した「さらし首」や「磔」の衝撃的な写真が残っています。
場所は、はっきりとは分かりません。
山の上とか高台にあったのは間違いないんですが、「ここだ!」といえる決定的な場所は不明なんです。
(※) 当時の様子を知る、或る老婆の証言によりますと、ここは、昼なお薄暗い林に囲まれた「三角地」にあり、普段は、めったに人が近づかない・・・このような内容でしたね。
晒し首で有名なのが、1874年(明治7年)2月に江藤新平が起こした「佐賀の乱」の鎮圧後の、江藤氏の晒し首の写真。
グーグルの画像検索で、「江藤新平 梟首」と入れると、左端に二つ、首の写真が出てきます。
また、「ファイル:磔になっている壮吉.jpg」で、磔の写真も一発で出ますね。
この「壮吉」という男はですね・・・自分の家に強盗を手引きして、恩義ある主人を殺害させた・・・その罪で、磔になった、ということらしいですね。
こうした「裏史実」なんかも、調べるとけっこう面白いものですよ。興味があったら、どうぞ。
なお、東京のJR板橋駅近くには、あの新撰組局長、近藤勇が斬首・晒し首にされた刑場もあったそうです。
局長の首は、いったんその刑場に晒されたあと、「火酒漬け」にされ、京都まで運ばれたのち、三条河原に晒されました。
目撃証言によれば、その首は、まるで生きているような状態だった、ということです。
以下は、ネットの「参考文献」です。
古くから死罪や晒し首の舞台となっていた処刑場「三条河原」に散った侍たち【前編】
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【おじろく・おばさ制度】
その昔、長野県のある寒村に、奇妙な風習・・・いや、「悪習」がありました。
それが、20世紀まで存在したという「おじろく・おばさ制度」。
ご存知のように、昔の貧しい村社会では、長男が非常に大事にされました。
長野県のこの村では、貧しさゆえに長男以外をまともに養う余裕がなく、次男以下の子供は、一生、長男のために、無償で奴隷のように働かされて、死んでいった・・・
そういう立場に置かれた男を「おじろく」、女を「おばさ」と呼んでいたそうです。
結婚も、村人との交際も許されず、家にこもって、ひたすら働くだけの毎日。村祭りなどの娯楽にも参加できず、ほとんどの者が、一生、童貞や処女のまま人生を終えたそうです。
そればかりか、戸籍簿には「厄介」などと書き込まれていたということです。
現代ですと、間違いなく人権侵害で裁判を起こすところでしょうが、あの「八ツ墓村」を何となく連想させる、忌まわしい風習、いや奇習といえましょう。
詳しい内容は、ネットで調べてみてください。いろいろ情報が出ていますので。
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みなたま・・・でわぁ、おやしゅみなされ。
今宵も、良い夢を・・・。
あたいと、寝る前のチュウしまひょ。
ちゅっ❤️