ずっと好きだった。
ずっと好きだった人。
入社してからずっと。新入社員の私に教育係としてついてくれたときから。
こいつは女癖悪いから気をつけろよ、って主任に言われても、もう手遅れだった。
一目惚れって要するに顔だけど。
顔が好き。声も好き。笑い方も、ペンをくるくる回す癖も、猫舌なところも全部好き。
二人きりのときの優しさ、甘い囁き、キスの仕方、それから……全部全部好き。
ただ一つだけ。
主任から忠告されたこと。女癖の悪さ。
それだけが嫌い。大嫌い。
今日もまた違う香水の匂いをさせている。
だけど問い詰めたりしたら、面倒くさいって思われるから。
私が彼にとって一番ならそれでいい。
最後に私のところに帰ってきてくれるなら。
「――同期入社の経理部の子、今度結婚するんだって」
「で?」
「え?」
「だから何? 俺が知ってるやつ?」
「いや……どうかな? 顔を見ればわかるかもだけど……」
あなたの好みの子じゃないから、眼中にないと思う。
そういうことは言えなかった。
彼が今、スマホでマッチングアプリを見ていても何も言えないのと同じように。
初めて部屋に泊まってくれた夜、嬉しくて嬉しくて眠れなかった。
二回目に泊まってくれた朝、この部屋の合鍵を渡すと、私の大好きな顔で笑ってくれたよね。
最初の半年は毎日のように使ってくれた。
だけど三年を過ぎた今は、ひと月以上使われないときもある。
それは寂しくて、会社でも問い詰めたくなって、それでも鬱陶しく思われたくなくて、何でもないふりをするしかない。
だって、そのうちまた頻繁に使ってくれるようになるもの。
そのときは浮気相手と別れたとき。
ほら、やっぱり私のところに戻ってきてくれた、ってほっとする。
だから、もうそろそろ結婚を考えてくれてもいいんじゃないかな?
こんなに理解ある彼女は他にいないと思うよ?
もう十分遊んだでしょう?
もうすぐあなたも30歳になるんだから、家庭を持つのもいいと思うの。
そんなことを考えたりしないのかな。
「そういや、俺の同期も結婚するって言ってたな」
「え? 誰? 私の知ってる人?」
「さあ、知ってたらお前の耳にも入るだろ。知らねえってことは知らねえんだろ」
「……そっか」
「にしても、馬鹿だよな」
「何が?」
「まだ俺たち29だぜ? もっと遊べるのに、何でわざわざ結婚なんかするかなあ」
「……子供ができたとか?」
「そんなのどうとでもなるだろ? 何でそんなことで自由を奪われないといけないんだよ。俺、束縛が一番無理だから」
肝が冷えた。
妊娠について「どうとでもなる」なんて、どういう意味か確かめることも怖かった。
「だから俺はお前が一番好きなんだよ。俺を束縛したりしないからな。好きだよ」
「うん……」
「愛してる。お前は?」
「私も……愛してる」
ああ、ダメだ。また流されてる。
私が一番でも、二番は誰? 三番は?
その質問は口には出せない。
そうよ。一番なんだからいいじゃない。
一番彼のことをわかっている私のことが、彼は一番好き。
愛してる。の言葉もくれる。
重ねた肌のぬくもりが大好き。
甘いキス、愛の言葉、強く抱きしめてくれる腕。
全部大好き。
確かに彼も私もまだ若いもの。
そう思ってた。
私も責任ある仕事を任され始めたところで、仕事が楽しかったのもある。
最近は出張も増えて、それも独身の身軽さだから。
「――予定と違って一泊しなくてすんだのは助かったが、遅くなりすぎたな」
「それでも明日朝ゆっくり眠れるほうがいいですから。それよりもわざわざ送ってくださらなくても大丈夫ですよ、課長」
「いや、こんな遅い時間に一人では帰せないだろう? タクシーが捕まればよかったんだが、駅が一緒でよかったよ。気付かず一人で歩いて帰すところだった」
「課長は心配性ですね」
笑って答えながらも、こうして優しくされるのは嬉しい。
新入社員の頃、彼のことを忠告してくれた主任は今はもう課長になっている。
それで彼はようやく主任になれて……って、同期なのに一歩先を進んでいる課長のことが彼は嫌いみたい。
だから今回の出張もいい顔をしていなかったな。
こうして送ってくれているって知ったら怒りそうだけど、一泊しなかったことは喜んでくれそう。
住んでいるマンションの前で課長にお礼を言って、部屋へと帰る。
帰ったらまず彼に連絡して、それからお風呂を溜めてゆっくり浸かろう。
それと課長に何かお礼がしたいから、何がいいか考えよう。
とにかく早く彼に連絡したい。
明日は約束していないけど、彼に会えるかもしれないな。
そんなことを考えながら部屋に入ると、電気が点いていることで彼が来ているんだとわかった。
ひょっとして私に早く会いたくて、来てくれた?
私が恋しかった?
その期待は、彼が私のベッドで他の女といることろを目にして、全部壊れた。
全部全部。
本当に私は馬鹿だ。
「何だよ、お前! 帰ってくるのは明日じゃなかったのかよ!」
「あ、うん。早く帰れることになって……」
「それなら連絡くらいしろよ!」
「ごめん……」
いや、私なんで謝ってるの?
何してるの?
どうして私が部屋から飛び出しているの?
気がついたら荷物全部――彼へのお土産まで持っていることにおかしくなった。
喉が渇いたからコンビニでお水でも買おうと入る。
とりあえずもう少し落ち着いたら、家に帰って――。
「あれ? 何してんだ?」
「……課長? あ、えっと、私……喉が渇いて……」
「家に何もなかったのか? それでもこんな遅い時間に一人で出歩くなよ。それにコンビニならもっと近くにもあっただろ?」
「そ、そうでしたっけ……?」
何も考えずに入ったコンビニは駅近くにあるお店で、今さら驚いてしまった。
いつの間にこんなところまで歩いてきていたんだろう。
課長の持ったカゴの中にはお弁当が入っていて、晩御飯は新幹線の中で食べたのになって、どうでもいいことを考えてしまってる。
「腹減ったんだよ……」
どうやら課長は私がじっとお弁当を見ていたことに気付いたみたいで、言い訳するように呟いた。
私にわざわざ説明する必要なんてないのに。
悪戯が見つかった子どものような課長が可愛くて、ふふって笑いが漏れる。
しまった。失礼だったよね。
「君は腹減ってないか?」
「え? いえ、私は大丈夫です」
「そうか。それならその水だけでいいんだな?」
「は、はい――え?」
課長は私の手に持ったペットボトルを取り上げるとカゴに入れて、さっさとレジへ向かう。
お会計を一緒にしてくれるらしいと気付いて、慌てて私は鞄の中の財布を探った。
「課長、お支払いします」
「水一本くらいいいよ。それより、その荷物貸して」
「はい?」
「今日は俺ん家に泊まれよ。すぐそこだから」
「いえ、そんな――」
「家に帰りたくない何かがあったんだろ? 荷物持ったまま……部屋から出てきてしまうようなことが。そんな部下を放っておけるはずがないだろ。ちょうど一泊の準備はしているんだから、気にするな。俺はソファででも寝るから」
「ダメです! 課長に甘えるわけにはいきません!」
「甘えろよ、馬鹿。ほんと、君は馬鹿だよな」
「そんな言い方……」
「だから、あの男はやめておけって忠告しただろ?」
ああ、全部見透かされているんだ。
本当に課長の言う通り、私は馬鹿だよね。
「……それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
「おう、そうしろ」
「それでも、ソファには私が寝ます」
「……そこは要相談だな」
ここで折れないところが課長だなと思う。
普段は優しいけれど、厳しく叱られるときもあって、それでもあとでちゃんとフォローもしてくれる。
後輩たちも憧れている子が多くて――。
「課長! やっぱりダメです! 彼女さんに悪いですから!」
「それは誰の彼女だ? 俺は今は残念ながらフリーだよ」
「あ、そうなんですね……」
納得の言葉を口にしながらも疑ってしまうのは仕方ないよね。
だって、後輩たちが噂しているのを最近聞いたばかりだもん。
課長に告白した子が振られた理由が「結婚を考えている彼女がいるから」だって。
でもどうでもいい。
課長が彼女とケンカしようと、私には関係ない。
「――ここだったんですね、課長のお家」
「俺の絶対譲れない条件が駅近だからな」
「ここって分譲だと思ってました」
「分譲だよ。俺は今、ローン地獄真っ只中だ」
そう言って課長は笑うけど、分譲マンションを買うなんて、やっぱり結婚を考えてるからじゃない。
きっと彼女は課長がこんなに気安く女性をマンションに泊めるなんて知らないんだ。
私だったら、理由はどうあれあまりいい気はしないし、せめて一言ほしいもん。
まあ、一言どころか勝手に私の部屋のベッドで浮気されてたんだけど。
「もし彼女が――将来の彼女がこのマンションは嫌だって言ったらどうするんですか?」
「その時は売るよ。ここの立地なら価値も大して下がらないし、賃貸に住んでるようなもんだろ」
「……なるほど」
今度は本当に納得。
私ではこの物件はローンさえ組めないだろうけど、そういう考え方もあるんだ。
まあ、私ならここで十分どころか満足しちゃうけどな。
私が奮発して借りたマンションは徒歩20分でちょっと遠いけど、ここの駅は会社まで一本だし、駅周辺も開発が進んでてすごく便利だから。
羨ましいな、彼女。――って、ダメダメ。
いくら部下が困っていたとはいえ、こんなに気安く部屋に泊めるような人なんだから。……気安く泊まる私もどうかと思うけど。
「って、最上階ですか!?」
「一番上は暑くなるって思ってたんだけどさ、屋上が緑地になってて、散歩もできるようになっているんだよ。バーベキューもできるらしいけど、夜の10時以降は立入禁止だからそれほど騒音も気にならないだろ? 自家発電機もあるらしくて、非常時にエレベーターや水が止まることもないらしい。それが購入の決め手になったんだ」
「そ、そうなんですね……」
もう凄すぎてよくわからない。
エレベーターだってカードをかざしてから動き始めるし、お部屋はまさかの指紋認証とか。
ここ、本当にいくらするんだろう。
駅前の広告をちらりと見て「すごい高いな」と思っただけで、興味を持っていなかったから。
「はい、どうぞ」
「……お邪魔します」
「荷物は適当にその辺置いて、部屋はあるんだけど家具がないからさ。客用寝室でもちゃんと用意しとけばよかったよ」
「いえいえ、そんな……本当に家具がないですね」
マンションとは思えない広い玄関を抜けてリビングに入って出た感想。
広いリビングには二人用のソファと小さなテーブル、テレビだけ。
「バスルームとトイレは廊下の左側だけど、キッチンからも行けるから。とりあえず風呂いってこいよ。あ、湯は貯めたほうがいいか?」
「いえ、シャワーだけで」
「だよな。タオルはちゃんと洗ってるのが棚にあるから、適当に使って洗濯機の中突っ込んどいて。俺、その間に飯食ってるよ」
「……お言葉に甘えてお先に失礼します」
キッチンから通り抜けられるとは聞いたけれど、一度廊下に出て当たりをつけて扉を開けた。
バスルームはリビングと違って生活感があってほっとする。
通りすがりにさり気なく見たキッチンも道具が揃っていて、自炊しているんだなってわかった。
彼はいっさいお料理をしなくて、手作りのご飯が食べたくなったら私のところに来ていたんだよね。
それを嬉しく思う私もどうかしていたよ。ホント大馬鹿。
課長がここに住んでどれくらいになるのかわからないけれど、バスルームも清潔感があって片づけられていることに驚く。
忙しくて毎日私より遅く帰っているよね?
彼の部屋は私がたまに掃除に行って、女を連れ込んだ形跡を発見してはケンカになっていたっけ。
だからいつの間にか彼の部屋には行かなくなって、ただ来てくれるのを待つようになって。
そういえば、ここには女性のものが何もないな。
住んであまり経っていないのかも。
このマンション自体一年ほど前にできたものだし、彼女もあまり来たことないのかも。
だからというわけではないけれど、できるだけ自分の形跡を残さないようにちょっと掃除をして出る。
「……ありがとうございました」
「おう。何飲む? 水は冷蔵庫に入れてるけど、他に酒もあるぞ? ビールに酎ハイ、安物のワインに何なら冷酒も」
「お水で大丈夫です」
「そうか」
課長はお弁当の容器をさっと洗って手を拭くと、冷蔵庫からさっき私が買ったペットボトルを出してくれた。
それからコップも渡されたけれど断る。
洗い物を出したくないし、もともとそんなにお行儀のいい人間じゃないから。
課長は「テレビでも見ていてくれ」と言って、バスルームに向かった。
一人になって身の置き場をなくしそうだったけれど、テレビをつけっぱなしにしてくれているからか、ソファに座ることにそれほど遠慮することはなかった。
これも気遣いかな。
課長は社内でもさり気なくフォローしてくれるんだよね。
たぶん男性陣は気付いていないけれど、女性はそういうの細かく気付いてしまうから。
モテるのも当たり前だ。
それに比べて彼は若い女子社員には優しいけど――いや、考えるのはやめよう。
そう思いながらも鞄の中からスマホを取り出してチェックしてしまう。
だけど着信もメッセージも何もなし。
せめて心配くらいしてよ。
「――ビールでも飲む?」
「え?」
「やけ酒。そういう顔してるから」
「わかりましたか……」
髪の毛が濡れたままの課長は色っぽくてドキリとする。
だけどすぐ現実を思い出して、どうにか「ははっ」て笑ったところまではよかった。
それなのにその後はもう耐えられなくて、涙が止まらなくなってしまった。
情けない。恥ずかしい。
「……すみません」
「謝るなよ」
「でも……」
「いいんだよ。むしろ俺が悪い」
「課長が? そんなこと――」
「あるよ。ずっと下心があったんだから」
「下心?」
ティッシュを差し出してくれる課長は困ったように笑っただけで、下心があるようには見えない。
だって、それなら泣いている私を抱きしめてくれたりとかするもんじゃないのかな?
そんなことを考えている自分のずうずうしさに気付いてまたおかしくなる。
ホント、こんな時に何を考えているんだか。
「課長、本当にありがとうございます。何だか元気が出てきました」
「そこで笑われるのも悲しいんだけど。マジで言ってるから」
「で、でも……その……」
「今すぐ抱きしめてキスをしたいくらいにはマジだよ。それからあいつのことを忘れさせられるようにめちゃくちゃ抱きたい。だからアルコールの力を借りて、それを言い訳にしたかったけど、あいつを想って泣いているのに、つけ込んでいいものか葛藤してる間に失敗したよ」
「……やっぱり課長も彼女を裏切るんですか? 結婚を考えている彼女がいるんですよね?」
「ああ、それ誰からか聞いた? あれは適当に言った嘘。いや、本当は結婚したい相手がいるよ。それが君だって言ったら引く?」
「え……?」
「君が新入社員として入ってきたときから気になって……それからどんな子だろうってついつい目で追って、だから君があいつを好きになってしまったことも、付き合い始めたことも、陰で泣いていることも知ってた。って、ストーカーみたいだな、すまん。あ、でもこのマンションは偶然だからな? 最寄り駅も最近まで知らなかったから」
「ス、ストーカーだなんて思いません! ただちょっと信じられなくて……」
だって課長が……女子社員憧れの課長が私なんかを好きだったなんて、夢か何かだと思っても仕方ないよね。
今、実際この場にいるのが夢みたいでふわふわしてしまう。
お酒も飲んでいないのに、この高揚感は課長に告白されたから?
ついさっきまで彼のことで泣いていたのに、私ってそんなに軽い女だったの?
でもすごく喜んでいるのは私の本音。
「驚かせて、ごめん。だけど本当に、ずっと好きだった。――って、こんなこと聞いたら気まずいよな? 俺は駅前のネカフェにでも――」
「待ってください。あの……下心はまだありますか?」
「それはもちろん……って、言ってる意味わかってるか?」
「課長こそ、わかってますか? 私は課長を利用しようとしているんですよ?」
「――じゃあ、俺はそれを利用させてもらうよ」
「はぃっ――!?」
急に抱き上げられてびっくりして課長に抱きつく。
憧れのお姫様抱っこはちょっと怖い。
それともこの気持ちはこれから起こることに対してかな。
わからない。わからないから、とにかく課長に強く抱きつく。
すべてを――この感情のすべてを忘れたい。そして安心がほしい。
「――本当にいいのか? やめるなら今のうちだぞ?」
「課長こそ後悔しませんか? 私が責任を取ってほしいと言ったらどうするんですか?」
「大歓迎だけど?」
優しい課長の問いかけに、挑戦的に質問を返せば楽しそうな声で答えが返ってきた。
どうしよう。
本当に私は軽い女なのかもしれない。
こんなに嬉しいなんて。こんなに気持ちいいなんて。
「目を閉じればいいよ」
「どうしてですか?」
「顔を見なくてすむだろ?」
「でも、全て違います。キスも、声も、指も、……ぜんぶ」
「嫌か?」
「全然」
「でも悲しそうな顔をしてる」
「嫌じゃないから……嬉しいから、悲しいんです」
こんなに抱き合うことが幸せなことだったなんて忘れてた。
それが悲しい。でも嬉しくて、でも悲しい。
すごく失礼なことを言ったのに、課長は私を優しく抱きしめてくれる。
「――好きだよ」
耳元で囁かれる言葉。
彼からも何度も同じ言葉を聞いた。
だけどこんなにも違う。
あれは強く抱きしめてくれていたんじゃない。乱暴に抱かれていたんだ。
ああ、どうしよう。
セックスがこんなに気持ちいいことだって忘れていた。
どうしよう。
こんなに幸せを感じてしまってる。
どうしよう。
私は今、彼を忘れたくてこの人を利用しているのに。
優しく囁く声も、気遣うように私に触れる指も、私を抱きしめる大きな身体も、すべてに愛を感じてしまう。
ずっと好きだった。
彼へのそんな気持ちさえ忘れてしまいそうで、嘘になりそうで怖い。
課長を利用しているはずなのに、本気になってしまいそうで怖い。
「苦しい?」
「……え?」
「もし罪悪感で苦しいなら、俺のせいにすればいい。俺がそそのかしたんだから俺が悪い。君を追い詰めたあいつが悪い。だから君は何も悪くない」
「苦しいんじゃありません。怖いんです。でもそれは今が幸せだからで、この幸せが終わることが怖いんです」
「じゃあ、安心しろ。終わらせないから」
その言葉が何に対してなのかわからないくらいに一晩中情熱的に抱き合って、気付いたときにはお昼を回っていた。
正確には夕方に近かったと思う。
はっきりしないのは、それからまた抱き合って眠ってしまったから。
さすがにお腹がすいて、はっきり目を覚ました頃にはもう夜になっていた。
「何か適当に作るよ。嫌いなものあるか?」
「いえ、特には……あの、私が作りましょうか? それとも食べに……というか、そろそろ私は――」
「ダメ。帰したくないから、外には出ない。というわけで、君は監禁されてるわけだ」
「監禁……」
「そう。だから、食事の支度は俺がする。君はただ座ってればいいよ」
「甘い監禁生活ですね」
「そう思ってくれるならやりがいがあるな」
「監禁にやりがい?」
おかしくて、ふふって笑ったとき、テーブルに置いたままだったスマホが震えた。
友達からかもしれない。ただの広告かもしれない。
それなのになぜか彼からだとわかった。
微妙な沈黙の中、スマホを手に取ってロック解除する。
やっぱりメッセージは彼からだった。
―――今、どこにいるんだ? 拗ねてないで帰ってこいよ。
思わず課長を見たけれど、冷蔵庫の中を見ながら何を作ろうかと考えているみたい。
それから振り返って私を見て微笑む。
「ろくなもんがないから、やっぱり何か買ってくるよ」
ああ、きっと課長は気付いているんだ。
今、彼から連絡がきたことを。
監禁するなんて言いながら、私に考える時間をくれようとしている。
「――その間に私が逃げ出したらどうするんですか?」
「そうしたら追いかけるよ。言っただろ? 終わらせないって」
「……本当ですね」
「うん?」
「安心できます」
課長の言葉には安心できる。信じられる。
だから、きちんとしないといけない。
「私、やっぱり帰ります」
「あいつのところに戻るのか?」
「いいえ。――いえ、彼が家で待っているのは確かですけど、だからこそ帰って話をしてきます。課長とこんなことになって何を言っているんだって思われるかもしれませんが……彼ときちんと別れないと、前には進めませんから」
「そうか……。じゃあ、俺とのことはそれから?」
「すみません……」
「謝る必要はないよ。つけ込んだのは俺なんだから。ただ前進してくれるだけで俺は嬉しい。しかもそこに俺はいるかもしれないんだろ?」
「――はい」
一日中抱き合っておきながら、課長のことが好きかどうかまだわからないなんて、自分でも呆れる。
ただ雰囲気に流されているんじゃないかって、課長のことは信じられても、自分のことはまだ信用できない。
課長とは真剣に向き合いたいから。
「じゃあ、俺も一緒に行くよ」
「いえ、それは――」
「俺はあいつと同期で、どんなやつかはある程度知っているつもりだよ。だから一人で別れ話をさせるつもりはない。もし傍にいないほうがいいなら、鍵は開けたまま、スマホも通話中のままでいてくれ。近くで待ってるから」
「……わかりました。ありがとうございます」
今まで彼に殴られたことはないけれど、怒鳴られたことは何度もある。
だから課長の言葉は心強くて、でも情けなくて恥ずかしくて。
それでも甘えてよかったと後になって強く思った。
別れ話を切り出したら本当に彼は逆上して、殴られてしまったから。
すぐに課長が駆けつけてくれたから、顔を庇った腕に大きな痣が一つできただけですんだ。
彼は課長が現れたことでもっと怒ったけれど、威嚇だけで結局は捨て台詞を吐いて逃げていった。
その後、課長は私の腕を見てすごく後悔していたみたい。
悪いのは彼で、私の判断の甘さが招いたことなのに。
休み明けから社内では陰湿な噂を流されたりもした。
だけど課長と彼とでは社内での信頼度も全然違って、私もそれほど嫌な思いをすることはなかった。
そのうち噂も消えて、彼が女性問題で事実上左遷されて、色々と落ち着いた頃。
私と課長は結婚した。
本当はあの夜にはもう課長のことを好きになっていたのは言うまでもないよね。
ただいい子ぶって自分に嘘を吐いていただけ。
前に進めないなんて言いながら、とっくに走り出していたのに。
あの夜から、ずっと好きだった。
こんな優柔不断の私のどこを好きになってくれたのかはわからないけれど、終わらない幸せを約束してくれたように、私も約束したい。
「私も……」
「うん?」
「私も、この幸せを終わらせたりなんてしませんからね」