母親と姉と僕
scene1
唯一僕の知っている身内である母親が、僕に浴びせる言葉はいつも二つだけある。
「貴方が居なかったら...」と「姉のように逞しく生きてみなさい」と。
僕自身、或いは僕達にとってはそれが当たり前で、他所の家庭というモノもきっとそうであるのだと思っていた。
いや、『いた』と言うよりも、『いる』が正しい。それほどまでに、母親の躾は僕の隅々にまで浸透していたし、今もそうである。
泣き声を上げれば頬を叩かれるし、微笑を繕えば蔑んだ視線を浴びる。それを僕は、苦痛に感じていた時期もあったが、いつしかそれを『日常』の風景くらいに取り入れていた。その方が、精神的な負担も少ないものだと、幼いながらそう信じ込んでいたからだ。
しかし、齢十四になったばかりの僕には、そういう風に全てを納得することも、諦めることも、許容することもできてはいなかった。
母親の体罰は日に日に量と質を増していった。それをいつも横目に見ている姉に腹が立った。
「あんたが悪いのよ」
僕の姉はこれが口癖だ。いつもいつも、僕の体罰を止めようとすることなく、傍観するだけだ。仕方ないことなのだろう。有り余るくらいに才能を持つ姉にのみ許された特権だ。僕もきっと、姉になればそうしていることだろう。父親が居ない、女二人と男一人の少し歪な家庭で、歪んだ感情を持ち合わせてしまった僕達はこれはこれで一生懸命に生きているのだろう。
そう、僕達にはおよそ父親と呼べる人が存在しない。存命しているかさえ、僕を含めた三人の誰もしらないのである。もっと言ってしまえば、所在どころか居たことさえ僕は知らなかったのである。
父親というワードを、一度だけこの家庭で聞いたことがあった。母親ではなく、姉から発せられた
「私たちのお父さんってなにしてるの?」
という言葉だった。僕達がまだ、生まれて十も年を重ねていない時の事だった筈だ。その言葉に、僕の母親は笑顔で...
いいや、笑顔でなんかじゃなかった。もっと醜く、恐ろしく、今にも人を殺めそうな口調でこう答えた。
「なにそれ」
幼かった僕達にですら、『父親』というワードの危険さを充分に感じさせるような、冷たく尖った一言だった。母親の父親に対する敵意を感じさせる...そんな一言だったのだ。
それ以降、父親に関する話題をこの家庭で聞いたことは無かった。それ以前に、元々会話のない僕達はより一層仲にヒビが入ることになってしまった。
しかし、そんな事が理由で母親からの躾が始まった訳ではなく、事の始まりはもっと前の話である。
それは、僕がまだ小学三年生になりたての頃だった。その日まで、僕には躾なんて概念は無かったし、姉による侮蔑の目を受けることもなかった。所謂、普通の家庭であった筈だ。家に帰れば美味しいおやつを食べながら宿題をしていたし、宿題を終えて外で友達と遊ぶこともできていた。どれだけ服を汚しても、どれだけ悪戯をしても、少し怒られるくらいのものだった。
scene2
が、その日は違った。いや、正確には、その日「だけ」は違った。
いつも通り、友達と複数で帰宅した後、靴を玄関に放り、笑顔でリビングへと繋ぐ扉を勢いよくあけた。優しい笑顔で「おかえりなさい」という一言をもらうために、元気よくリビングに入ると、そこには見知らない男と、姉、母親が対面して座っていた。
「おや、息子さんですか?お帰りなさい。そして、お邪魔しております」
「あ、えっと、こんにちわ」
息子の帰宅に、目を向けたのは見知らぬ男だけであった。母親と姉は、二つのソファに挟まれて置かれたテーブルから視線を離さなかった。もっと言えば、そんな代わり映えのないガラス細工のテーブルの上にある、白い紙に目を奪われていた。
この場合、白い紙という言い方は間違えてはなく、文字も何も、絵や写真ですらなにも記載されていない、『白紙』に目を奪われていたのだ。
「おやおや、息子さん。なにやらこちらの紙にご興味がございますか?」
と、男がそう言ったところで、母親はその白紙を破り捨てた。
「帰ってください、もう大丈夫です」
「それは、それは。なんとも、まぁ光栄です」
A4サイズの白紙をちりばめた母親は、目を虚ろにさせたままその男を追いやるかのように玄関へと送り出してしまった。
僕は、状況の理解ができず、白紙を破り捨てられても尚、テーブルから視線を一切ずらさない姉を眺めていた。その目は母親と同じように虚ろで、まるでとり憑かれたかのようにも思えた。
数分後、母親は玄関から戻ってきた。まだ「おかえり」という一言をもらってない事を密かに僕は気にしていた。なにせ、その日僕はテストで百点満点を取ることに成功していたのだから。初めではないものの、やはり誉めてほしいという感情がこの頃の僕にはあったのだろう。
しかし、母親はそんな期待した一言ですら言わず、むしろ全く別で。僕の事を今ままで見たこともないような目付きで、頭に手を起きながらこう言ったのだった。
「消えて」
scene3
と、そこで僕の懐かしい思い出は途切れている。余りにも受けがたいショックのためだろう。その数日のことは本当に何もおもいだせないでいたし、思い出したくもなかった。
そんなことを僕は、自室のベッドで思い返していた。学校から帰宅し、部活動へ入ることも許されていない僕は、毎日のように学校と家を往復するだけの日々を送っている。そんなこともあってか、友人も片手で数えられるほどの人数である。
それでも、学校にいる間は母親と姉を忘れることはできていたし、僕にとって、唯一休める場とは学校くらいのものだった。
でも、それも今日で終わりだ。
手元にある携帯電話を確認する。携帯電話を僕が持たされているのは、母親が、僕に逃げないようにするための鎖的な意味合いをしめしている。そう、何処へいっても直ぐに分かるように、僕は携帯電話を持たされている。今時珍しいガラケーと呼ばれる、言わばガラパゴス携帯で、ネットへのアクセスはシャットアウトされてあり、挙げ句の果てには連絡先には誰一人も名前がなかった。これは、母親と姉も含めてである。
母親曰く、連絡することはあっても連絡してくることは許さないとの事だ。これを聞いたときはさすがの僕も唖然としていた。僕はペットかなにかと勘違いしているんではないのかと。
まぁしかし、実にその通りなのだ。気が向けば餌を与え、躾し、可愛がることはなく、ただただ弱っていく僕を弄んでいるのだから。
話が逸れたが、しかし、そんな腹立たしい理由で持たされた携帯で僕は、メモというアプリケーションを開く。
『母親殺人計画』
『姉殺人計画』
その2つの項目を眺めつつ、僕はまるでよく見る陽気なピエロのように...
ーーーー微笑んだ






