異世界草原ツアー前編
「はーい。皆さん、おはよーございます!」
鮮やかすぎる緑の髪が広がり、日本人離れした白い肌の添乗員が微笑む。どこか間延びしたイントネーションが間抜けな印象を与えるが、その整った顔や大きく開かれた瞳は見蕩れるほど美しかった。
「本日はイカイ観光をご利用頂きありがとうございまーす。私は添乗員を務めます水谷マリエッタ、と申します。皆さんは気さくにマリーちゃんと呼んでくださいねー」
バスの中では数人のおじさんたちが「よっ、マリーちゃん!」とか「マリーちゃん可愛い!」と叫んでいる。となりでは奥さんだろう中年女性が少し不満げな顔をしている。俺ももう少し年を取ってデリカシーが薄れていくとああなるに違いないが、いまはそうでないことに安心した。
「今日は見事な小春日和、絶好の異世界観光日和でーす。ゴブリンやオーク以外にもスライム、一角獣。もしかしたらドラゴンにも会えるかもしれませんよー」
俺は今、異世界観光に向かっている。どうしてこんなことになったか、と言えば魔が差したのだ。ちょうど半年がかりだった開発フェーズが完了し、システムがリリースしたため思わぬ連休が生まれたのだった。同僚のシステムエンジニアの中には久々の連休を惰眠についやすや家族サービスに使うという者もいたが、俺は無為に惰眠で過ごす気にもなれず。かと言って独身彼女なしの俺はサービスする相手もいない。
結果として休日を持て余していた俺の目に飛び込んできたのは、雑誌の隅に書かれた小さな広告だった。
『ほかでは味わえない特別な観光をあなたに~異世界観光ならイカイ観光~』
本当に異世界に行ける、と思わなかった。せいぜい、観光地でゆっくり温泉にでも入れればくらいの思惑だった。だが、広告の電話番号に連絡をいれると「お客さんは運がいい。最後のひと座席空いてますよ」、と人の良さそうな男性の声が言った。
「異世界に行くんですか? 本当に」
「ええ、当社は日本で唯一の異世界旅行社ですからね。本物のゴーストが彷徨く古城ツアーや魔王城に宿泊する一日魔族体験。変わり種では伝説の剣を鍛える鍛冶屋体験なんかがあります。あっ、鍛えた伝説の剣はお持ち帰れますから家で飾るなり、魚を捌くのにも使えますよ」
胡散臭さは天井知らず。断りを入れようかと思ったが、どうせ持て余している休日だ。騙されてもいいのではないか、そんな気持ちになった俺はすぐにツアーに申し込んだ。
『異世界草原サファリツアー』
それが俺の選んだツアーだった。後日、イカイ観光から送られてきた振込口座に五万円を振り込むと、詳しい日程と集合場所が記載された書類が送られてきた。
『四月八日。九時。四之山駅前ロータリー集合。※キャンセルの場合、代金の返金はできません』
怪しさはここに来てゲージを振り切っていた。異世界に行くのにロータリー集合とはいかに? もしかしてバスなのか。電車や飛行機なら百歩譲ってもいい。だがバスで異世界に行くというのはなにか認められない。認めたくない。
とはいえ、払ってしまった五万円は惜しい。
こうして俺はこのバスに乗っているワケである。
「皆さんはー、ちゃんと生命保険にはいりましたかー? 異世界旅行はすごぉーく危険ですから生命保険に入ってないと何かあったときにご家族が困りますよー。地獄の沙汰も金しだい、お金は大事ですよー」
マリーは両手の拳を胸もとできゅと握ってみせる。可愛らしいポーズなのだが言っていることが生臭すぎてキュンともこない。それでも中年女性たちにはウケたらしく「ドラゴンが出たら旦那を餌にして逃げるわ」なんていう笑うに笑えない言葉が飛び出ていた。
おじさんたちは半ば凍りついた笑顔で奥さんの顔を見つめながら「本気じゃないよな?」、と尋ねていたが返答はなかった。ここで俺の中にある種の疑惑が浮かぶ。
もしかしてこれは集団自殺ツアーではないのだろうか。彼らが異世界とか言っているのは単なるあの世ではないか。
「ええっと、あなたはちゃんと生命保険にはいってますかー?」
そんなことを考えている、と真横からふわふわした声が聞こえた。通路を見ればマリーが俺の隣に立っていた。膝下までの紺のスカートからはカモシカのような細い足がスラリと伸びている。同じ色の七分のジャケットはぴったりとしており彼女の体のラインを際立たせている。正直、遠目で見るよりも彼女の胸は大きかった。
「ねぇ、聞いてますー?」
ちょっとすねたような声でマリーが俺の目の前て手をひらひらと上下させる。
「あっ、すいません」
俺は慌てて謝るが、彼女は良かったとでも言うように微笑むともう一度「生命保険はいってますか?」、と尋ねた。
「いえ、独身なんで……。入ってないです」
「もぉー、ダメじゃないですか? ツアーの募集要項にちゃんと書いてあったでしょ! 任意ですけどちゃんとはいってくださいねって」
頬を膨らませると彼女は小動物のように怒った。
「……すいません」
俺はとりあえず頭を下げた。顔を上げるとマリーは年下の子供を叱るような口調で言った。
「イカイ観光は生命保険が絶対条件だよ! 約束だからねっ。今回は危険がないように私も気をつけるけど次はないから」
そういうとマリーは無理やり俺の小指と彼女の小指を繋いで「指切り」、と笑った。
「ええっとあなたは?」
「大津和です。大津和宗二」
俺が名乗るとマリーはほかの乗客に聞こえるように「皆さんも大津和さんが危ないことをしてたら注意してくださいねー」、と言った。
そう言っている間にバスは高速道路に入った。異世界とは一体どこにあるのか。ミステリーツアーにでも参加した気分になってきた俺はスマートフォンを取り出すと地図アプリを開いた。バスはだいたい時速九十キロで南に進んでいる。このまま行けば大きなトンネルを超えると神戸にはいることになる。
案の定、バスは神戸に向かうトンネルに入った。トンネル特有のオレンジの光が点々とバスのそばを流れていく。トンネルを出れば瀬戸内最大の貿易港の姿が見えてくるに違いない。
オレンジの光が途切れ、眩しい太陽の光がバスに注ぎ込まれる。俺は神戸の街並みを見ようと窓の外を見た。だが、そこは神戸の街ではなかった。
見渡すばかりの大草原。高速道路の高架も海辺に立ち並ぶ高層マンション、山手に建ち並ぶ洋館の群れもそこにはなかった。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた、は川端康成の『雪国』で有名ですが、今回は雪国ではありません。異世界です。異世界といっても広いので簡単に申しますと、モルネリア帝国の中央部に広がるアカネア草原ですー」
国名など言われても全くどこかわからなかった。それはツアーに参加する人々共通の思いだったらしく「ほぉー」とか「へぇー」、という声がいたるところで上がっている。正直、俺はといえば驚いて声ひとつ出なかった。手に握り締めたスマートフォンでは電波なしの表示が浮かんでいた。
「右手をご覧下さいー」
マリーが言うと乗客の視線がバスの右手に注がれる。三百メートルとほどさきに何やら水たまりのようなものが見える。バスはゆっくりと減速すると水たまりの百メートルほど手前で止まった。
「あちらに見えますはRPGの定番。スライムでございまーす」
スライムといえばゲームの初期の敵で有名だ。くず餅のようなぷるんぷるんした姿がイメージにあるが目の前にあるのは少し濁った水たまりにしか見えない。
「えー、あれが?」
「嘘でしょ?」
おばさん連中が水たまりを不審げに見ながら声をあげる。
「そうですねー。いまは水たまりに見えますが、もう少し様子を見てみましょう」
マリーはなれているのか乗客の声を上手くいなすとみんなの視線を水たまりに向けさせた。しばらくの沈黙。草原からこちらに近づいてくる生き物が見えた。ピョコンピョコン、と動く姿はまさにカエルそのものであったがその大きさは小学校高学年の子供の背丈ほどあった。
「あれはこの草原に住む人食い大ガマガエルです。家畜や子供を襲うので気をつけてくださいねー」
ガマガエルは数度跳ねるとこちらのバスなど意にかえさぬ様子で水たまりに近づいた。どうやら、水が飲みたいらしい。ガマガエルは真っ赤な舌をペロペロと伸ばすと水たまりが動いた。水たまりは一瞬、きゅと中央に集まったかと思うと次の瞬間には飛んでガマガエルに襲いかかっていた。
真上から水たまりに襲われたガマガエルは慌てて泳ごうとしたが、水たまりは強い酸性なのかジューと音を立ててガマカエルを溶かしていった。あんなに巨大だったガマガエルはものの数分で消化された。水たまりは何事もなかったように静かな水面を浮かべている。
「ねぇ、スライムだったでしょー。スライムは自身を水たまりに擬態させて水を飲みに来た生き物を捕食します。みなさんも街角で水たまりをみても安易に近づいちゃダメですよー」
俺の知る水たまりはそんな危険なものはない、と思いながら俺はいま自分が本当に異世界にいるのだと感じた。
「マリーちゃん、スライムってやつはどういう構造になってるんだい?」
白髪の乗客が尋ねる。
「そーですねぇ。これは言うよりも見てもらったほうがいいですねー」
そう言うとマリーはバスから降りた。手にはツアー客を誘導するための旗のついた棒を握っている。ゆっくりとスライムに近づくと彼女は準備運動をするようにぴょんぴょんと小さく跳ねた。そして、彼女が腕を伸ばせばスライムに届くという位置に来たとき、スライムは彼女を次の餌と定めたらしく、ガマガエルに襲いかかったように身体を収縮させた瞬間には飛び上がっていた。
スライムが粘度のある水音を立てて地面に降りたとき、そこにマリーの姿はなかった。彼女は長い手足をまるでバネのように伸ばして華麗なバク転を決めてスライムから身をかわしていた。おばさんたちは「すごいわ!」、「みた? いまの。すごいわねー」と叫んでいる。
男性陣はといえば、スライムよりも彼女がとんだときに大きく揺れた胸に注意が移っている者が多かったらしく、大きく口を開けたまま固まっている人が多かった。
「はーい。皆さんいいですよー。降りてきてください」
俺たちは恐る恐るスライムに近づくと、スライムの真ん中に彼女の持っていた旗が突き刺さっているのが見えた。スライムはそれが杭となって動けないのか、ブルブルと小刻みに震えていた。
「スライムは基本的にアメーバと一緒で基本的には仮足と呼ばれる部位を伸び縮みさせることで前進後退をします。ですが、捕食するときには相手を消化器官である食胞に包み込まなければならないため跳ねるように飛び上がりまーす。でも、スライムの中には仮足を複数もつものと一つしかもたいないものが言います。この草原にいるスライムはヒトアシスライムと言い、仮足を一つしかもちません。だから、こうやって仮足に異物をいれると上手く動けなくなりまーす」
マリーは草原に落ちていた小石を掴むとスライムに投げつけた。小石は水を入れたビニール袋にあったように鈍い音を立てて弾かれた。
「ちなみに食胞以外の部位は薄い膜で囲まれています。長い時間触ってたりすると膜が破れて中の細胞質が出てきて食胞や新しい細胞膜を形成するので、スライムを触るのはおすすめしませんよー」
乗客たちは感嘆を口にしながら手を叩く。マリーは照れたように頭を掻いていたが、俺は彼女の運動神経の良さとスライムの仕組みにすっかり驚いていた。
「では、次にいきますよー。バスに乗り込んでください」
彼女に促されるように乗り込むと、バスは再び草原を走り出した。外の風景は俺の知っている世界とは少し違うらしく、大人くらいの巨大なカラスや二つの頭をもった犬が死肉を巡って争っている姿をみた。サバンナとは全く違う弱肉強食がここでは繰り広げられているらしい。
・引用:川端康成 『雪国』(改訂版) 新潮文庫 1987年5月。