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短編小説

作者: 広越 遼

「ただいま。今戻ったぞー」

 豪の身勝手さにももう慣れた。それでも文句の一つは言ってやらなければいけない。

 俺は製作中のレポートから顔を上げ、玄関で靴を脱いでいる豪を見た。

「三週間も家空けるんなら言ってけよな」

 豪は剃り込みの入った厳つい頭になっていた。三週間前は金髪のロン毛だったのに、節操がない。

「おー。了解了解」

 いつも通りのことだけど、反省の色はない。まあ、期待していたわけでもないけど。

 豪は大きな背中に背負っていたギーターケースを床に転がす。そんでその上にどかっと座った。

「いいのかよ。仮にも音楽やってんだったら、楽器は大事にしろよ」

「ばーか。ギーターケースは楽器じゃねーよ」

 どうでも良さそうに豪は言う。

「あ、剛、飯ある?」

 豪はふとそんなことを聞いてきた。俺は逡巡して、いつか買ったカップ麺を思い出した。二個買って、あまりおいしくないから食べないでいたのだ。丁度いい。

「キッチンにカップ麺はあっぞ。お湯は知らねーけど」

「へいよ」

 そう言った豪は、だけど座ったまま俺を見て、動こうとしない。

 なんかあったかと思ったが、俺のヘアースタイルはいつも変わらない。赤縁眼鏡も定番だ。自慢じゃないが三週間や数年見てなくったって珍しいものはない。

 あ、そうか。つまり俺に作れってことかよ。

 俺は立ち上がってキッチンに向かう。大学のレポート提出が明日だから、忙しいのに。

 だけどそれは俺の邪推だったようで、ポットに水を入れると、豪は意外そうに礼を言ってきた。

「お、まじで? わざわざ悪い」

 豪が礼を言うなんて珍しい。

「なんだよ。気持ち悪いな」

 なんかいつもと違うような気がする。しをらしいというか、萎れているというか、無頓着で我が儘な豪らしくない。

 俺はカップ麺にお湯を入れて、豪の前に置いた。

「ありがたく食えよ。味は保障しないが」

「まあ、病院食よりゃマシだろ」

 病院?

 また豪には似合わない発言だ。

「何で病院なんだ?」

 俺はまさかと思って訊いてみる。

「お前まさか、この三週間入院してたのか?」

「まあな」

 豪はなぜか誇らしげに言った。不健康自慢なんて歳でもないのに。

「結構やばいみたいでさ。次の発作で命はないってさ」

 不自然なほど軽く、重たい発言が放たれた。俺はだからそのときは、それをただの冗談だと思った。

「この家も広くなるな」

 俺はそんな風に冗談で返した。

 豪はそれにげらげらと笑った。

 三分経って、カップ麺の蓋を剥がした豪は、本当においしそうに麺をすすり始めた。


 豪と剛。

 俺らは字こそ違うが、同じ「ごう」と言う名前だった。その共通点がなければ、決して仲良くはならなかっただろう。

 小学三年生の時、俺が転校してきたクラスに豪はいた。

 目立つ奴だった。体育が大好きで、声がでかくて、いつもリーダーシップを取っていた。

 対して俺は、その頃から黒髪の赤縁眼鏡で、言わば普通の子供だった。

「おい剛。お前俺と同じ名前なんだな。記念に今日お前の歓迎会で船乗せてやるぞ」

 放課後、豪は一切人見知りをしないでそう声をかけてきた。転校初日でがちがちになってた俺は、正直その誘いが嬉しかった。それに、船に乗せてやると言うのにとても興味を惹かれた。

 豪は間違いなく悪ガキだった。自転車をこいで一時間。新しいクラスメイト五人で行ったのは、山の中にある湖だった。湖には木でできた手漕ぎのボートが浮いている。森林に囲まれた湖で、そのボートは忘れ去られたようだった。

「すげーだろ。俺が見つけたんだぜ」

 豪は鼻高々で言う。他の三人は口々にすげーを連発している。

 俺もやっぱりすごいと思ったが、乗って良いものなのか、危なくないのかを考えた。

「何だよ転校生。お前感動が少ないんじゃねー?」

 一人がそう言ってきたから、俺は思ったまんまを言ってみた。そうしたらやけにしらけた空気になったから、こいつらがそんなに気の合わない奴らなんだと気が付いた。

 そんな中、豪は唯一賛同してくれた。

「そうだな。乗ってる間に沈んじまったらこえーな。俺ちょっとまず一人で乗ってくるわ。お前ら待ってろ」

 お前一人でも危ないことは変わらないだろ。と反論しようと思ったのに、言うが早いか、豪はボートをつなぐ縄を外して、一人で乗り込んでしまった。寝かせてあったオールを拾って、水を掻く。右側を掻いたので、ボートは左に回転した。

「なんだよこれ」

 豪は何かに驚いたようで、そう言った。

 何に驚いたのか俺は分からなかったが、他の奴らは分かったらしい。

「なんだ、壊れてんのか?」

 一人が豪にそう声を掛けた。

「よくわかんねー。そもそもボートってどうやって進むんだ?」

 豪が言ったのに、俺は声を上げて笑った。みんな笑うだろうと思った。しかし、みんなは顔をしかめて俺を睨んだ。

「おい転校生、馬鹿にしてんのか?」

「そうだぞ。さっきも今も、馬鹿にしてんだろ」

 俺は驚いた。だって、片側だけ漕いで、前に進むはずがないじゃないか。

 剣呑な空気になってきたので、言うよりも行動した方がいいと思った。

 ボートの方に歩いていって、豪の隣に乗り込んだ。

「俺が左側を漕ぐから、いっせえのせでそっち漕げよ」

 豪は怪訝そうな顔をしていたけど、頷いた。

「いっせえのーせ」

 間抜けな掛け声で二人で漕ぐと、ボートは前進し始めた。

 豪が歓声を上げた。俺もなんか嬉しかった。

 ただ実際小学三年生にボートの操作は難しかった。ただ進むだけならなんとかなったが、元の位置に戻すのは一苦労だった。

 汗だくになって戻ってくると、さっきの剣呑な空気はなくなっていた。

「お前すげーな。今日からお前、俺たちのサンボーな」

 豪が言った。

「サンボーってなんだ?」

「知らねーの? 作戦とか考える奴のことだ」

 豪は顔の左半分だけでにっと笑った。

 そのときは分からなかったが、後から思えば多分あれは参謀のことだったのだろう。


 それから俺のあだ名はサンボーになった。豪と剛で紛らわしかったためだ。変なあだ名をつけられてしまったと思った。最初はあいつらだけでの呼び名だったが、次第にクラス中に広まって行った。

 その中で唯一紛らわしくなく呼べる人物、豪だけが、俺のことを剛と呼んだ。

 俺の残りの小学校生活は、なし崩し的に豪たちと一緒になった。気が合わない気が合わないと思いつつも、小学生の間はそれなりにまあ楽しかった。なんでか俺はあいつらの中で二番手扱いになっていたからかもしれない。

「まあ、サンボーが言うなら間違いねーな」

 誰かがそう言うと、みんなうんうん頷くのだ。悪い気はしなかった。

 中学生になると、俺はあいつらとはほとんど絡まなくなった。みんな悪ガキから不良になったためだ。

 不良と言っても時々他校生と喧嘩をしたり、授業をサボるくらいで、可愛いものだったのだと思う。だけど俺は高校受験もしっかり見据えていたし、付き合いきれなかった。

 中学校時代は特に感慨はない。たぶん楽しくなかった。かといってあいつらのことを懐かしむわけでもないから、あいつらの状況はそんなによく知らない。

 ただ中学を卒業する頃には、スポーツだとか、受験戦争だとか、いろんな理由であいつらも不良じゃなくなったようだった。気にしてはいなかったはずなのに、それを知ったときにはなんとなく嬉しかった。でも、豪だけはどんどん荒んでいった。

 中学の卒業式にもあいつは来なかった。高校に受かったという話も聞かない。

 帰り道のゲームセンターで、中学時代仲の良かったグループでプリクラを撮ろうという話になった。仲が良いと言っても、俺にとっては取りあえず居場所になればいいくらいで付き合ってた、つまらない連中だ。みんなまじめだったし、少なくとも勉強の邪魔にならない。今ではひどい考え方だと思うが、都合がよい連中だったのだ。

 プリクラから出ると、俺はゲームセンターの隅の方で、煙草を吸いながらスロットを回している豪を見つけた。

「悪い、俺抜けるわ」

 卒業式の後の別れの言葉で、それはないだろうが、俺の歩いてく先にいる豪に気付いたのだろう。誰も何も言ってこなかった。その頃には豪は有名な不良だったので、関わりたくなかったのだろう。

 俺が近くに行くと、負けが込んでいたのか、豪はスロット台をバンと叩きつけて立ち上がった。

 俺はそんな豪に後ろから声を掛けた。

「物にあたんなよ」

「アァ?」

 凄みを利かせて豪が振り向く。俺にはそれが滑稽に思えて、思わずにやけてしまった。後にして知った話だが、それが結果的に良かったのだ。

「お、剛じゃねーか」

「久しぶり。卒業式サボって何やってんだよ」

「あ? 今日卒式だったのかよ」

「この筒が目に入んねーのか?」

 豪は友好的に話してきたので、俺も冗談を言って返した。久しぶりに話をしたが、思ていたより話しやすい。

「おー、卒業おめっとさん。剛が高校生かよ。想像できねー」

「近所のじじいかよ」

 俺は笑った。妙に気分が高揚して楽しかった。中学校の三年間で、こんな楽しかったことはないと思った。

「豪はこれからどうすんだ? 高校行かないんだろ?」

 その言葉には豪は少しむっとしたようだった。いつも誰かしらに言われ続けていたことなんだろう。

「あー、どーすっかな。何も決めてねー。取りあえずバイト探さなきゃな」

 この頃には豪も、いちいちそれに反発するのに飽きていたのだろう。真面目にそう返してくる。

 バイトなんて考えてもいなかった。高校に入ったら大学受験の準備をしなければならない。しかし中学を卒業したのだから、もう自分でお金を稼ぐことができるのだ。そう言った意味では、豪に少し先を行かれた気がした。

「バイトか。すげーな。俺はまた三年間勉強の日々だよ。あ、お前携帯持ってるよな? 教えろよ」

 嫌みではなく、純粋にそう思った。だから豪も打ち解けてくれたのだろう。

 それからは、また豪との交流が戻った。

 高校では俺も少し不真面目になって、豪から誘いの電話が来ると、勉強をほったらかして家を出た。豪といるのは、他の誰といるより対等でいられた。まあ、正直に言うと楽しかったのだ。

 ただ、豪は悪いと思っていたようだった。俺の勉強の邪魔してるんじゃないかと。会う度に、

「遊びたくなかったら断れよ」

 と言っていた。

 俺は豪からの誘いを断らなかった。それなのに、俺から誘ったことが一度もなかったせいもあるんだろう。そう言うときの豪は気を遣っているというよりは、本当に不安そうだった。

 ちなみに俺が豪を誘わなかったのは、わざわざ俺から誘う必要もないくらいにつるんでいたからだ。

「そう言う割にはしょっちゅう声掛けんのな」

 俺はその度そうからかった。

 豪と会うのは大抵は夜だ。豪は昼間バイトをして、特に何も目的なく、稼いだ金で遊んでいた。バイトも頻繁に変えていた。まあ、いい加減な奴だった。

 豪は喧嘩っ早くて、街で誰かとぶつかったりするとしょっちゅう喧嘩をし出した。俺と一緒の時は俺に止められるって、何度やっても覚えない。

 まあ、俺もその場が凌げれば良いくらいで、本気で止めさせようと努力をしていたわけではない。だからそれが祟ったのだ。

 その日は運が悪かった。人通りのない夜道、すれ違った人の持っていたカバンが豪にぶつかった。ちょうど二人でゲームセンターに入って、メダルゲームで大敗を喫していた。豪の機嫌は最悪だった。

「てめぇ、ぶつかっといて侘びもねぇのかよ」

 ぶつかった瞬間にいう言葉ではない。俺は言おうとしたが、相手の方も今回は普通ではなかった。虫の居所が悪かったのかもしれない。

 突然有無もいわさず俺の腹に重い痛みが走った。一発入れられたのだと、痛みにうずくまりながら思った。

 表情を見ていた訳ではないが、豪は恐らくかなりショックだったんだと思う。豪のせいで俺が巻き込まれたと思ったんだろう。まあ、間違いとも言えないが。とにかく、その時の豪の怒り方は尋常ではなかった。

 本格的な喧嘩になった。

 止めようと思えるまで痛みが和らいだ頃には、もうどう止めていいのか分からなかった。

 相手の人が口から血を流している。片目も頭からの血で開けられないようだ。ぞっとした。だけど豪はもっと重傷だった。

 口からも血を出しているし、左肩は脱臼したのか、だらりとぶら下がっている。それでもなお怒り冷めやらないようで、なお相手に向かっていく。

 相手もそれで引けなかったのだろうか。相手の人が豪の頭をつかんで、顔面に膝を打ち付けた。

 豪はそのままドサッと倒れ込んだ。相手は驚愕している俺に一瞥をくれると、カバンを拾って去っていった。

「豪!」

 俺は倒れた豪に駆け寄った。気を失っているようで、三回呼びかけてようやく目を覚ました。

「豪、救急車呼ぶか?」

 豪は俺のことを手で制した。

 しばらく待つと喋れるくらいに落ち着いたようだ。

「剛、すまねえ」

 俺は一声が恨みの言葉ではないのに驚いた。こんなにされて、俺の心配なんかしてる場合かよ。

 言わなかったが、本気で思った。

「救急車呼ばなくていいのか?」

 俺は訊いたが、呼んだ方が良いと思っていた。顔を上げた豪の鼻が折れている。

「バカやろう。呼ぶなよ」

 豪は言う。不良の矜持でもあるのだろうか?

「お前が学校居づらくなるかもしれねーだろ」

 豪がこんな怪我をしていなかったら、一発こづいてやりたかった。正直かなり腹が立った。

 俺は立ち上がって携帯を取り出した。


 病院に着いて分かったのは、豪より俺の方が重傷だったことだ。

 内臓破裂。

 まじで笑えねえ。

 病院に着いたときかなり具合が悪くなっていた俺は、緊急手術を受けたらしい。

 目が覚めたのは、謝罪に来たらしい豪と豪の父親に、俺の母親が浴びせる罵声がうるさかったからだ。

「ふざけんじゃないわよ。あなたんとこの出来損ないにうちの子まで巻き込むんじゃないわよ」

 思いっきり否定したかったが、舌が思うように動かなくて、異様にだるくて、そのまま、また眠ってしまった。

 次に目が覚めたのは、手術を受けて三日目だった。豪が来ていたのはどのくらいの時だったのだろう。

「剛! 良かった」

 起きたときにそばにいたのは母親だけだった。あの怒りようなら豪がいないのはまあ当然だろう。

「母ちゃん、悪いな。心配かけたか?」

 その時は何でこんなに取り乱して泣くんだろうとか、大袈裟だなとか思っていたけど、今にして思えば、このまま目覚めなかったらどうしようとか、いろんなことを想像したのだろう。

「なあ母ちゃん、夢だったのかな。豪と豪の父ちゃんにすげえキレてなかった?」

「そうよ。当然でしょ。剛をこんな目に遭わせて」

 俺はどうしようかと考えた。このままじゃ豪に会うなとか言われてしまう。俺はそんなの気にしないが、豪は絶対に気にする。豪と気まずくなるのはつまらない。

「実はさ、今回の件、結構俺が悪いんだ」

 俺は少し嘘を付くことにした。

 うまい具合に舌が回って、母親は俺の言うことを信じた。少なくともそうだったのかもしれないとは、思わせられたようだ。

 母親はその日の帰りに、豪の家に謝りに行ってくれた。わざわざパートを休んで付きっきりで見舞ってくれていたのに、少し申し訳なく思った。だけど、そうしてくれると言われて、すごい気が楽になった。

 しかし豪はいなかった。

 次の日母に聞くと、バイトもやめて、今どこにいるのか連絡もないらしい。普段ならいつものことだが、今回はさすがに父親も心配していたそうだ。豪の怪我だって三日や四日で治るものじゃない。俺も心配だった。

 携帯も置いて出てったらしい。俺が退院してもまだ行方知れずだった。結局、二ヶ月間豪からの連絡はなかった。

 二ヵ月後、高校の昼休みでパンの袋を開けたときだった。携帯が震えた。

 俺はすぐさま携帯を取り出した。豪からだった。悔しいが、泣きたいくらいに安心した。

 メールで、たった一言。

「悪かった」

 午後の授業はほっぽり出して、俺は久しぶりに豪の家に向かった。

 メールの返信はしていない。絶対直接俺の口から、不満をぶちまけてやりたかった。

 道中はありとあらゆる罵りが頭に浮かんだ。どれから言ってやったら効果的か、順番まで組み立てた。

 インターホンを鳴らした。

 しばらく豪は出てこなかった。その間に、もう一つ最高の罵倒を思い付いた。

 我ながらもったいないことをしたと思う。

「豪……」

 ドアを開けて出てきた豪に、俺は名前を呼ぶだけしかできなかった。

「剛……」

 対する豪も、それだけしか言わない。もし傍で聞いてる人がいたら、どんな状況かと思うだろう。

 しばらく沈黙して、二人同時にたぶん同じことを思ったんだろう。大爆笑した。

 豪が音楽を始めたのはそれからすぐだった。豪の新しいバイト先で、先輩に誘われて始めたらしい。最初はボーカルで、すぐにギターも始めた。俺もそのバイトの先輩とは知り合いになったが、豪には才能があると言っていた。本当かどうか分からなかったが、豪は音楽にのめり込んだ。

 その分俺と会う回数は少し減った。おかげで大学受験には成功することになるのだが、当時俺はあまりおもしろくなかった。

 なによりも、おもしろくないと思ってしまうことがおもしろくない。

 だから俺は、豪が再三ライブに誘ってくるのも、一度も行かなかった。

 大学は第一志望に見事受かった。自慢じゃないが、名のある国立大学だ。

「そんな大学知らねー」

 豪がそう言ったのには蹴飛ばしてやりたくなった。

 そう、あれは確か合格報告をするので、珍しくも俺が豪を呼び出したときだった。駅前のファミレスに入って、二人でドリンクバーを頼んだ。

「東京の大学なんて東大くらいしか知らねーよ」

「東大じゃなくて悪かったな。そんなに出来よかないんだよ」

 東大に入れるほどには俺の成績はよくない。正直国立に受かっただけで褒めてほしいくらいだ。

 しかし豪はそれには応えず、コーラを飲み干してから言った。

「剛が大学生かよ。 想像できねー」

「近所のじじいかよ」

 いつかと同じやり取りだ。二人でそれに気付いてくつくつと笑った。

「なんかな、あん時はマジびびったわ。まさかあん時の俺に笑って話しかけて来る奴なんかいなかったからよ」

「あ? そうなんだ。お前そんなに恐れられてたのか?」

「まあ、あん時はガキだったのよ」

 曖昧に苦笑いをして、豪は席を立った。

「俺のも。コーヒー」

 俺はコップの中身を飲み干して、豪に差し出す。

「合格祝いな」

 俺は呆れたようにそれに笑った。

 そういえば、ここ最近豪は喧嘩をしなくなった。それはあの事件以降だろう。

 豪のいない間、俺はそんなことを考えていた。

 音楽を始めてから、バイトも変えなくなった。ライブやスタジオにお金がかかるとかで、遊ぶお金も節約するようになった。

 俺はそのとき初めて、豪がもう不良ではないことに気が付いた。

「はいよ、スペシャルコーヒー」

 不吉な名前のコーヒーを持って、豪が戻ってきた。

 そう言えば、東京の大学に行くってことは、こいつと会うことも少なくなるんだろうな。

 そんなことを考えながら豪を見ていると、だ。

 あれは今思っても不覚だった。豪との付き合いの中で一番の汚点だ。

「俺も東京出るわ。そんでプロのミュージシャン目指す。だから、んな顔すんなよ」

 見透かされた。顔面から炎が噴き出るようだった。

 しかも最悪なことに、あいつがそれを真顔で言ってきたのだ。弁解の機会もない。

 実際あの時俺は、ほんの少しノスタルジックになっただけだった。決して無茶苦茶寂しいとか、ましてや付いてきてほしいなんて微塵も思っていなかった。豪の言い方はあまりに大げさだったのだ。

 最初十秒くらいは恥ずかしさのせいで何も言えなかった。そのあと十秒くらいは、豪の真剣さにたじろいだ。

「お前本気でプロ目指すのか?」

 俺が訊くと、豪は顔の左半分だけで器用に笑って言った。

「バカだろ。目指すだけなら出来んだよ、どんなバカでもよ。俺は目指すんじゃなくて、本気でプロになんだよ」

 何が違うのかいまいち俺には分からなかったが、確固たる口調で豪はそう言った。


 目指すんじゃなくて、本気でなる、か。

 あれを気負わないで言うところは、今なら本当に尊敬する。


 大学に入ると、俺も気持ち的に少し余裕が出来ていて、豪のライブにも毎度行くようになった。

 意外や意外、豪の歌やギターは繊細だった。

『剃刀よりも繊細。

 一音一音を、一文字一文字を、一言一言を、本当に心を込めて演奏する。だから彼らのライブでは、誰もが微かな物音も立てずにいる。』

 何かの雑誌で取り上げられた小さな記事に、そんなことが書いてあった。

 豪は作詞作曲もやっていて、常にとても深く曲の中に入っていた。豪が自分の歌に込めた気持ちを、毎回毎回丁寧になぞるのだ。

 豪の悲しみや怒り、喜びが、豪の歌から伝播してくる。心打たれるが、その度に聴いててとても疲れる。

 だから剃刀というのは言い得て妙な表現だった。

 豪の歌で俺が一番好きなのは、「Aiko」という曲だ。

 俺自身、この歌の出来上がるのを見てきたからだと思う。

 豪は不良なんてやっていた割りに、純粋な奴だった。情に厚いというのだろうか。そんな豪だから、あの曲はあったと言える。

「剛、ちょっと来いよ」

 豪は東京に出てきたが、自分でアパートは借りなかった。当然のように俺のところに転がり込んできた。俺もあんまりそれを不自然に思わなかった。

 豪は綺麗好きで、たまに料理なんかもしてくれた。俺もバイトを始めたから、帰って夕飯があるのはありがたかった。

 ただ豪の身勝手加減には最初は呆れた。俺がニュースを見てると容赦なくチャンネルを変えるし、俺が寒いと言っても冷房の温度を変えないし、俺がレポートに集中してるのに退屈すると話しかけてくるし。

 仕舞いに俺が怒ると、奴はそれをげらげら笑うのだ。

 あの日は暑い夏の日だった。

 帰る早々、豪は俺を呼んだ。玄関に目を向けると、豪は大事そうにリンゴのダンボールを抱えていた。

 悪い予感がした。

「捨ててきなさい」

 俺は子供を叱る母親のようにそう言った。断固とした口調だった。

 豪は顔の左半分だけで困ったように笑った。

「こいつ、二匹捨てられてたうちの一匹なんだけどよ、もう一匹は死んじまってたんだ。少し大きくなるまで、だめか? 俺が全部面倒見るからよ」

 見ると、豪が抱えていたのは一匹の子猫だった。まだ生まれたばかりなのだろう。確かに親なしで、野良で生きていけそうではない。

 子猫はミルク色のやせっぽちで、か細い声でみゃーと鳴いた。

 アパートはペット禁止だったし、俺も豪も付きっ切りでいられるほど暇じゃない。トイレの始末とか、餌とかゲージなんかも必要なんじゃないだろうか。とにかく絶対手が掛かることは分かりきっていた。

 分かりきっていたのだ。

 常識的じゃないと笑いたければ笑えばいいと思う。あの姿で、俺が見た瞬間にすがるように鳴くのだ。たとえ俺じゃなくても、絶対誰でも抗えなかったはずだ。

 まあ、元々俺は猫に目がないのだけど。

 豪はその子猫にアイコという名前を付けた。なんでアイコなのか訊いたら、女の名前だよと笑って言った。想像でしかないけど、それは豪の母親の名前だったんじゃないかと思っている。

 アイコの餌や、トイレセットや、ゲージなんかは俺が買ってきた。少ないバイト代をはたいたが、少しも惜しいと感じなかった。

 豪も俺も、それからしばらくの間、アイコのことしか話していなかった気がする。弱々しくじゃれついてきたり、豪がフォークを落とした音に飛び跳ねて驚いたり、短い間だったけど、それまでの人生分くらいは笑ったと思う。

 アイコを飼い始めてから一ヶ月ちょうどの日。俺はちょっと高い猫のおやつを買って帰った。バイト帰りだったので、夜の八時くらいだ。電気がついていないから、豪はいないんだと思った。だけど鍵が開いていたので、首を傾げながら部屋に入ると、豪が真っ暗な部屋でうつむいていた。

「なんだ。いたのか?」

 俺は電気をつけて、あぐらを掻いて下を見ている豪に声をかけた。

 豪は腕でアイコを抱いていた。目を閉じて動かないアイコを、豪は瞬きもせずに見つめていた。その目が俺の方に向けられる。

「おう、戻ったか」

 静かな声で豪は言った。全てを察した俺は、何も言葉を返せなかった。

 本当に短い間だった。白くて、大きくはなれなかった体を、豪と二人でアパートの庭に埋めた。

 その間中、俺らは一言も会話しなかった。

 盛り上がった地面に、豪が手を合わせ、ぽつりと、

「また、いつかな」

 と言ったのが、やけに記憶に焼き付いている。

 深夜、それぞれの布団に入って、俺らは言葉を交わした。少ないけど濃密なアイコの思い出。死について。生きていることについて。それから命について。

 いつの間に眠ったのか、次の日起きると豪がいなかった。俺は寝間着を着替えて外に出た。豪がいる場所は分かっていた。近くの河川敷の陸橋の下。豪のお気に入りの場所だ。

 豪はそこでギターを鳴らしていた。口ずさんでいるのは、聴いたことのないメロディーライン。

 俺は河川敷を降りていく。

「曲作ってた」

 俺に目線を向けると同時に、豪はそう言った。

「どんな曲だ?」

「命について考えて作った。タイトルはまだ決まってねー。悩んでんだ。お前付けるか?」

「珍しいな。お前が俺に相談するなんて。じゃあ、そうだな。どんな曲か聴いてやるよ」

 豪は顔の左半分だけで笑った。

『小さな白い体に、温もりがある』

 そんな歌い出しだった。それだけで俺はこみ上げるものを堪えられなかった。

 豪もだ。

 二人でその曲の間中、ばかばかしい光景を作った。一体通りがかりの人が見たら何事かと思うだろう。

『命は見えない。光り輝かない。いつか気付くと消えている。それでいい。それでも誰かが気付いてくれる。それだけでいい』

 曲の中に、そんな歌詞がある。それが豪の感じた命についてだったのだろう。

『ある日、小さな白い体に翼が生えた。温もりが、腕の中から零れ出ていく』

 曲の最後では、それから何度も、猫は寝たというフレーズを繰り返した。

 その一つ一つに、万感の思いが込められていた。

「Aiko」というタイトルは、自然に決まった。

 その曲は豪のバンドのメンバーにも、数少ない彼らのファンにも好評だった。

 彼らが初めてにして、最後にレコーディングしたのもその曲だ。一枚五百円の自主制作CDだったが、ライブをする度完売した。

 ある日のライブで、俺は豪の父親が来ているのを見かけた。豪の演奏が終わると、何も言わずに帰ってしまった。よく知らないが、豪は父親とあまり上手くいっていないと言っていた。豪が音楽の道に進むのに、やっぱり反対だったんだろうか。

 豪の歌が父親にどう届いたのか気になった。

 豪はたぶん父親が来ていたのは知らなかっただろう。俺も特にそのことは教えなかった。豪の父親がわざわざ遠くからお忍びで来たのだ。俺から言うのは筋じゃないと思ったのだ。今ではそれを後悔している。

 豪が亡くなったのは、それから半年後のことだ。その間一度も、父親と連絡はしていなかっただろう。

「今さら合わせる顔もねーよ」

 それとなく訊いてみたとき、そう言っていた。

 豪の発作はあっけなく起こり、医者の予言通り、豪はそのまま眠ってしまった。

 とどめることも、巻き戻すこともできなかった。

 豪の葬儀は地元で行われた。その日、俺は豪の父親と話をした。

「生前は豪がお世話になりました」

 父親がそう話しかけてきたのだ。

 なんと言っていいか分からなかった俺は、不器用に沈黙した。

「君が豪の最期を看取ってくれたんだってね。何から何までありがとう」

「いえ」

「豪は、その、なんと言うのか、私のことを何か言っていたかな?」

 親として、自分の知らない豪を少しでも知っておきたいのだろう。

「豪は、合わせる顔がないって言っていました。きっともっと大きくなってから会いたかったんだと思います。豪は、」

 不器用だったからと続けようと思って、遺族に対する言葉として相応しいのか分からず、また黙った。

「そうか。君には本当に迷惑をかけたね。お腹はもう大丈夫なのかい?」

 こんな時にも気を遣おうとするのが、大人の常識なのかもしれないが、俺にはそれがすごい嫌だった。本気で豪を悪く言っているわけではと分かってたけど、迷惑なんて言葉は聞きたくなかった。

 俺が沈黙しているのをどう解釈したのか、豪の父親は顔の左半分をピクリと動かして、微かに笑った。

 その日、俺は無理をして東京まで帰ってきた。

 当たり前と分かっているが、あえて言うと、アパートに豪はいなかった。

 豪はよく泊まりがけで戻らなかった。豪がアパートに帰ってもいないのは、珍しい事じゃなかった。だけど、いつものいないのとは確かに何かが違った。

 ふと豪の私物に気付いて、その事を父親に話しておくべきだったと思った。今から電話をかけようか。そう思うのに、連絡をする気になれなかった。

 今は、このまま眠ってしまいたかった。


 命について意識するとき、俺は豪とアイコを思い出す。

『命は見えない。光り輝かない。いつか気付くと消えている。それでいい。それでも誰かが気付いてくれる。それだけでいい』

 豪のその言葉が、豪の本心だったなら、いや、あいつの場合歌で嘘はつけなかっただろうから、たぶん本心なはずだ。豪の命は、多くの人が気付いていただろう。少なくとも俺はしっかりと気付いていた。だから豪は、それで良かったのだろう。

 と、残された人間の勝手な感傷だ。

 今でも時々、無性に豪と話したくなる。それが叶うときは、何十年も土産話に付き合わせてやろう。

 それまでは精一杯生きるから、しびれを切らして待ってるといい。


 じゃあそんなところだ。

 また、いつかな。

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