橋渡しのお茶会
彼岸花が赤くゆらゆらと咲いている。
ここは路地裏。彼岸花が咲くにしてはコンクリートに囲まれた殺風景な空間で、変わっていた。地面だけが辛うじて土。柔らかく、僕の土足がそこを踏み散らかすけれど、花は強い。毎年、自分の運命を知ったように咲く。秋とは名ばかりの暑い時期に。
コンクリートに囲まれた閉塞感のある路地裏。けれどコンクリートの片面が常に影を作ってくれて、案外と夏は快適だ。今だって、表の道端より体感温度は低いはず。
そんな地面ばかりが柔らかい奇妙な空間に僕と彼女はいた。
彼女といっても、そこに深い意味はない。ただそこにいるのが女の人というだけ。女性を指す三人称が"彼女"だから使っている。深い意味があるとしたら、とんだ年の差恋愛だ。十九歳の僕といるのは御年九十一歳の老女である。その差なんと六回り。言っていて思ったが、年の差を表すときの"〜回り"は単位扱いでいいのだろうか。
どうでもいいか。
さて、では何故僕は老女とこんな場所にいるのだろうか。
振り返ってみよう、と僕は近くに広げられた簡易テーブルと折り畳みの椅子に目をやる。
水筒と、屋外にあまりにも不似合いな凝った装飾のティーセット。薔薇の造花が添えられた菓子皿にはスフレタイプのチーズケーキ。二つ置かれた椅子の片方には臙脂色の服を来た老女。見た目でなんとなく、"老女"だと感じ取れるが、九十一というその年齢まで正確に計れる人物はそういないだろう。さりげなくその臙脂の服は市松模様だったり、皺はあるものの肌の手入れがきちんとされているのが見て取れたりして、お洒落で年齢より若々しい。だが、辺りの洋風な雰囲気とはミスマッチだ。
この人は──そういえば、名前を知らない。知り合って十年近いのに、まだお互いに名乗っていなかった。初めて会ったときが小学生だったので、その頃からずっと"おばあちゃん"としか呼んでいない。
……よく考えなくてもわかるが、そう、僕とこの"おばあちゃん"の関係は奇妙なものだ。
僕が小学何年生だったかは明確には思い出せないが、小学生の頃にこのおばあちゃんと出会った。影を作る両側のコンクリート壁の片方が僕の家なのだが、たまたま一人冒険ごっこをしていたときに見かけたのだ。あの日も彼岸花が咲いていた。
このおばあちゃんは毎年彼岸花の咲く季節になると決まってここに来る。そして奇妙なことに手作りの洋菓子を携えて、一人でお茶会を開いているのだ。出会ってからは僕もこのようにご相伴に与っている。
持ってくるお菓子はケーキにクッキー、マフィン、スコーンなんてこともあったか。決まって洋菓子なんだ。
何故こんなところで毎年お茶会なんて開くのかはわからない。彼岸花が咲いているくらいで、コンクリートに挟まれた風情の欠片もない空間。何が楽しいかは全くわからないが、おばあちゃんは笑っている。いつも近所のご婦人なんかが浮かべているようなよく見る笑顔。普遍的な笑顔。
冒険ごっこをしていた僕はちょうどお腹がすいていて、おばあちゃんのお菓子に目が行ってしまった。おばあちゃんはにこにこ笑って、僕を手招きし、そのとき持っていたクッキーを何枚か分けてくれた。お茶までくれた。
いい人だ、と思った。その思いは今も変わらない。
ただやはり、おばあちゃんの素性は一切わからない。あれから毎年同じ時期に来ることがわかって、僕はクッキーのお礼に何かしたいと思って毎年会うようになった。けれど、ミイラ盗りがミイラに、というか、会うたびにお礼を言いながら、またお菓子とお茶をもらって……と繰り返す。本当にミイラだ。
僕は何年か前、ようやくおばあちゃんに言った。「いつもお菓子やお茶をくれるおばあちゃんにお礼がしたいんだ。何か僕にできることはないかな?」と。
するとおばあちゃんはにこにこと「いてくれるだけで嬉しいけ」と僕にお茶を差し出した。「でも、んだねぇ。としょりの話し相手になってけせ」と。
以来、僕は話し相手として毎年ここに来る。高校や大学はここから遠いけれど、なんとなく、自分の中の欠かせない年中行事の気がして、この時期だけはどうにか予定を空けておく。
話すのは他愛のない世間話。今日も天気がいいねだとか、彼岸花が綺麗だとか。時折「年の功だ」と語って様々な蘊蓄を教えてくれることもある。蘊蓄というか、雑学だろうか。主に、花に関することだ。
「さて、今年も綺麗に咲いたねぇ、彼岸花」
おばあちゃんの声が回想に浸っていた僕を呼び戻す。僕は彼岸花をじっと眺めていたらしい。はっとして椅子に戻ろうと動いたら、赤い花びらがちょん、と揺れた。
「彼岸花の他の呼び方、知っとるかえ?」
僕の仕草をきっかけに、おばあちゃんは話題を切り出した。
記憶を辿る。おばあちゃんの話は花の話であることが多いから、花関連の本を時折学校で読み漁っていた。彼岸花というのは結構どんな本にも載っていて、確かに色々な名称があった気がする。
「ええと、曼珠沙華、ですかね」
大抵の花の紹介本では"彼岸花"か"曼珠沙華"の二択だ。
「うん、それもだねぇ」
おや、この言い様だと、求めている答えとは違ったようだ。
だとすると、あちらの方だろうか。少々物騒なので、あまり口にしたくないのだが。
「死人花、ですか?」
寺や墓など、死人に関わりのある場所によく咲いているからとか、幽霊だの呪いだのというおどろおどろしい理由からとか、様々な説があるらしいが、彼岸花の別称というと、あとはこれくらいだろう。
しかし、おばあちゃんの表情は冴えない。またしても外れたらしい。
先程がファイナルアンサーのつもりだったので、僕はお手上げポーズを取った。
「降参です」
「うーん、残念だねぇ。答えは"ハミズハナミズ"だよ」
それは聞いたことがない。
僕が首を傾げると、おばあちゃんは解説した。
「彼岸花はねぇ、葉っぱが出るより先に花が咲くんだよ。見ぃ、そこに咲いてんのも、葉っぱねぇっちゃ?」
どれどれ、と僕は彼岸花を見る。……確かに真っ直ぐで綺麗な茎には葉の姿はなく、辺りの地面に散った様子もない。
「彼岸花の葉っぱはねぇ、花が散った後に出てくるの。だから花は葉を見ることなく散り、葉も花を見ることができない。だから"葉見ず花見ず"なんねぇ」
あまり気にしたことはなかったが、確かに彼岸花の葉というのは見たことがない。豆知識だ。
しかし──考えすぎかもしれないが、今の説明が何かの比喩のような気がした。入れ違い、すれ違い。会うことのない、葉と花。
そんなことを思うのも、僅かに彼岸花を見つめるおばあちゃんの顔が翳ったからだ。笑みを絶やしたところなんて、見たことはなかったのに、ほんの一瞬とはいえ、悲しそうで。
勝手な思い込みかもしれないが、気になった。なんとなく、このお茶会の意味にも繋がる気がして、僕は満を辞してその問いを口にした。
「おばあちゃんはどうしていつもこの時期にここに来るの?」
おばあちゃんは質問に、まあ! と驚いた。口元に手を当てる仕草が品を漂わせている。
驚きはしたが、隠すつもりはないらしく、すぐにいつもの笑みを戻したおばあちゃんが語り始めた。
「実はねぇ、わたしより前に、ここでこんな感じのお茶会やってた方がいらしたのよ。もう、随分昔のことだけどねぇ……」
懐かしむように、おばあちゃんは目元を綻ばせる。
「その人とはねぇ、あんだと似たような場面で出会ったったねぇ。ふふ、わたしも、お腹をすかせた子どもだったんだ」
出会いを思い出し、少々恥ずかしくなる。思い出してお腹が鳴ったらなんてよくわからない警戒をしてしまった。
誤魔化すように俯き、椅子を引いて腰掛けた。続くおばあちゃんの声に耳を傾ける。
「そん人はねぇ、病弱な人で、車椅子を引いでだっけ。家は、すぐそこだった。でも、家ん中さ居づれくて、時々、ここでひっそり過ごしてたんだと。体が弱いから、色々言わいだんだべねぇ。わたしがお菓子のお礼をしたいと言ったら、その人も"話を聞いてくれ"と色々愚痴をぶちまけていたかしら。
その人はねぇ……ずっと孤独だったんと思うよ。いつもいつも、見かけると嬉しそうで、楽しそうで。わたしもあの人のそんな姿が嬉しくて、ここに来るのが楽しみだった」
そこでおばあちゃんがことりと席を立つ。ゆらり、ゆらりと赤い花に近づいていく。ゆったりとした足取りだが、年齢に反してしっかりしており、腰もさして曲がっていない。しかし、彼岸花を映す瞳は儚げで、簡単に砕けるガラス玉のように見えた。
彼岸花の許に辿り着くと、おばあちゃんは愛しげにその赤に触れる。花びらが少し揺らめいた。
「何十年、前のことかねぇ。あの人はここに来なくなってしまった。代わりにね、ぽつんと、彼岸花が咲いていたよ」
なんとなく、その人がどうなったのかは察せられた。彼岸花と関係があるかは何とも言い様がないが。
おばあちゃんの手は花びらから茎へと滑っていく。花のあるうちは見ることの叶わぬ葉を探すように。
「あの人の名前をわたしは知らない。あの人がいなくなった理由も知らない。あの人はわたしに家族のことを話したけども、頑なに名前はおせでくれねがった。"名前を知らない方が、しがらみを持たなくて済んで、楽でしょう"と。言われたときは、納得しねがったけどもね。今ならわかる気がする」
おばあちゃんはそう言って僕の方に振り向いた。にこりと微笑んで続ける。
「だからね、あんださも、わたしのことはおせねぇで、わたしはいくよ。わたしもあんだのことは深くは聞かねぇでだべ? だから、お互いさま。ただなぁ、やっぱりこの時期には来てほしいなぁ」
「……何故?」
僕の問いは色々な言葉に向けられたものだが、おばあちゃんが答えたのは
「わたしの故郷ではね、盆と中日は大切にするもんなんよ」
あの話をした次の年から、おばあちゃんは来なくなった。
一輪だった彼岸花の隣にもう一輪、赤が増えていた。
なるほどな、と僕は赤い花を眺めて長い回想から立ち返る。ティーバッグで水出しした紅茶を一つ口に含み、手作りプリンをスプーンで掬う。
おばあちゃんがいなくなるのは予想外だったが、次の年からこうして自分で準備するあたり、僕の理解力、もしくは順応性も捨てたもんじゃない。
おばあちゃんは暈して教えてくれなかったけれど、きっとそれは正しかったんだろう。知らない方が楽で済む。想像の余地があるから。
おばあちゃんは死んだのかもしれない。おばあちゃんにお菓子をあげた"あの人"という人物も。二人がそれぞれどうして死んだか、名前を知っていたら調べることができてしまったかもしれない。案外おばあちゃんが存命だったり、幸せな死に様を迎えたかもしれない。けれど、現実がそんなご都合主義になることはそうそうない。
だから、何も知らず、花になったとでも思った方が夢があっていい。
二人は花になって、お茶会に参加しているのかもしれない。そう考えると、おばあちゃんがこの時期にお茶会を開いていたのもわかる。この時期でなければ、彼岸花は咲かないから。
……僕もおばあちゃんのように、誰かと出会い、お茶会を託していくのだろうか。
追憶に耽ったせいか、そんなことを考える。赤く冴える花を眺めてのお茶会も乙なものだが、人と話したら、それはそれで楽しいにちがいない。
お腹をすかせた子どもが来ないだろうか、なんて、何日か余計にお茶会を開いた。
まあ、思ってすぐに現れるようなものではない。気長に待つとしよう。
暑さ寒さは彼岸まで、とは本当によく言ったものだ。かんかん照りの夏空はあっという間に秋風の涼やかさをはらんだものに変わる。
今年はもう帰ろうか。赤い花はいつの間にかなくなり、知らない雑草が、風に揺れていた。