首筋
バレンタインからちょうど一ヶ月。今日は世間で言うところのホワイトデーなのだけれど。
バレンタインさんの命日にはまだ納得がいく。けれどなぜその対になっているはずの日が白い日なのか、未だ納得がいかない。商魂逞しいお菓子業界が勝手に作った日だと言えば、それまでかもしれない。
なんてことを考えながら、携帯電話でメールのチェックをする。予想していたとはいえ一通も届いていないメールボックスを見ると、溜息の一つも零れるというものだ。
「薄情ものー」
バレンタインにはちゃんとプレゼントを渡したのに、お返しはないらしい。もちろんそれが目当てだったわけではないけれど、期待していなかったと言えば嘘になる。
ベッドの上に携帯電話を投げ捨て、ごろりと寝転んだ。なんだか片思い中の女の子が、本命チョコの返事を待っているような気分になってしまう。
いつの間にかうとうとしていた私は、ふとインターホンが来訪を告げる音に気付いた。
「お母さん! 誰か来たよー!」
声を張り上げてみるけれど、家の中で人の動く気配は感じられない。少しの間様子を窺っていたら、またインターホンが鳴った。
「お母さん、いないのー?」
リビングを覗いたけれど、そこにあるはずの母の姿がない。買い物にでも出かけたのだろうか。
三回目の音に、しつこいなあと愚痴りながら玄関に向かう。適当に父のつっかけを履いてから開錠してドアを開けると、いきなりピンクのガーベラの花が目の前にあった。
半歩体を引くと、それが花束だったのだと気付く。
「鍵は相手を確認してから開けろと、親に言われないのか?」
呆然としていると、花束越しに聞き覚えのある声が掛けられた。
「何でここにいるの」
「驚かせてやろうと思った」
にやりと口角を上げて立つその人は、私がバレンタインチョコを渡した相手。
「十分、驚いた」
「そうか」
私の言葉に満足したらしく、嬉しげにその目が細められた。
「いらないのか?」
それが花束のことだと気付き、慌てて両手で受け止める。花が嫌いな女の子がいるはずがない。
「うわー。すっごい量の花。高かったでしょ」
両手のひらに収まらないほどの花の束。一体いくらかかったのかと思ったけれど、想像がつかなかった。
「安かったとは言わんが、社会人だからな。高校生よりは懐に余裕がある」
いつものようにたいしたことじゃないと言わんばかりの口調が、なんだかやけに憎たらしくてかっこいい。
うっかり見惚れてしまった照れ隠しに、花束に顔を埋める。予想もしなかった突然のプレゼントに感動してしまい、不覚にも視界が歪むのを隠すためでもあったのだけれど。
「あれ? 何か光った?」
視界の端に引っかかった、微かな光。その正体を見極めようと、花束を落とさないように左腕に抱えてから、右手で中を探る。
「え。これ?」
手に引っかかったものを引き上げると、そこには細いチェーンがあった。
「花のついでだ」
「ついでって、これ、プラチナ? 本物、だよね?」
右手に握った鎖の先には、五つ並んだラインストーンが輝いているペンダントトップ。ガラスとは明らかに違うその輝きに、瞬時ぽかんと開いた口を閉じるのを忘れて見入った。
値段なんて花束以上に見当がつかないけれど、少なくとも高校生のお小遣いでどうにかなるような金額じゃないことだけは確かだった。
「ここのところ忙しさにかまけてろくに会えなかったからな。罪滅ぼしだと思って受け取っておけ」
受け取っておけと言われても、素直にそうですかと言えるほど神経が図太くはない。
どうしたもんだと思案していたら、大きな手が私の手からネックレスをひったくって行った。
「返品はきかんと言われているからな。受け取らないのなら捨てるしかない」
そんなもったいないこと、できるはずがない。慌てて首を横に振ると、なぜだか楽しそうに笑われた。
どうやら手ずからつけてくれるつもりらしく、首筋に伸びてきた手を呆然と見詰める。ひやりと冷たい感触に思わず首を竦めた。
「あきらめて、俺に縛られろ」
耳元で囁かれた言葉の意味を理解するよりも前に。寄せられた唇が触れた首筋に、ちくりと小さな痛みを感じた。
そして翌朝母に指摘されるまで私は、首筋につけられたその跡に気付かなかった。