1. 始まりは着々と(1)
十七歳を迎えた次の日、天ヶ瀬帝は目尻から流れ伝う感触に目が覚めた。清々しい目覚めとは言えなかった。寧ろ、心臓の辺りに何かが蠢いているような感触だった。
いつもならば無機質に鳴り出す枕元のデジタル時計はAM4:13を表示しており、思わず溜め息が零れ落ちた。時計に起こされるまで、まだ一時間近くもある。しかも、何処か居心地の悪い目覚めに頭も働かない。加えて目覚まし時計よりも先に起きてしまうなんて、どこかしら損をした気分だろう。朝から少し気が滅入っても仕方がない。
本来ならば、ここで二度寝を試みる帝だが、何故かこの日だけはベッドから抜け出し、自室のカーテンを開いた。冬の空はまだ暗く、地上にはちらほらと外灯の明かりがチラついていた。意味もなく眺めていた風景は何処かしら不気味さを感じさせる。窓越しから伝わる冷気に彼は身震いし、腕や背中を少し縮ませてその場から離れた。何を思ったのか、着崩れたスウェットを脱ぎ捨てた。程よく鍛えられた筋肉はきっと評判の良いものだろう。せっせと皺ひとつない制服に腕や脚を通し、首元のネクタイを締める。多少寒くても少し緩く締めているのは、彼なりのファッション意識があるのかもしれない。その上から紺色のコートを羽織り、臙脂色のマフラーを巻いて学校指定の鞄を手に取る。
そして足音を出来る限り立てないように、誰も起こさないように彼は自室のドアを開けて階段を降りて行く。
「…お兄ちゃん?」
一階に降り立った時、上から聞き慣れた声がした。振り返ると、今目が覚めましたと言わんばかりに目を擦りながら声をかけてくる妹の姿があった。
「優姫、こんな朝早くにどうした?」
「それはこっちの台詞。ガサゴソ聞こえて起こされたんだから…。」
まだ眠気のある口調だった。気が強く、はっきり物を言う優姫でも眠気にはなかなか勝てないらしい。
「少し早いんだが、晃と稽古の約束してる。お前も行くか?」
「…行かなーい。」
彼女はそう言うと背中を向けて、『いってらっしゃい』と力なくひらひらと手を振る。帝は妹が自室に戻るのを見届け、靴箱にもたれかかった竹刀袋を手に取り、玄関の扉を開けた。
ひんやりとした空気が頬を突き刺す。痛感ならぬ痛寒とはこの事だろう。吐く息の白さが余計に寒さを感じさせる。帝は身体が温まるように少し駆け足で学校に向かった。
学校へと続く道は窓から見た風景より不気味さを与えた。先程より少しだけ明るくはなったが、薄らと霧が漂っている。縞模様の猫が塀の上で彼をジッと見つめる、いや、睨みつけているといった表現が正しいのかもしれない。
金色の瞳の中の自分自身の姿を覗いてた途端、ポケットにしまっていた携帯が小刻みなバイブレーションを放った。こんな朝早くから誰だろうか、相手の名前を確認すると、今日共に稽古の約束をしていた国持晃からだった。メールならまだしも、電話とは。最初は寝坊でもして遅れてくるとでも言ってくるに違いないと思ったのだが、約束の時間までまだ時間はある。どうしたものかと、帝は歩く早さを少し落とし、携帯に声をかける。
「晃、どうした?」
『うぉっ、電話出た!』
電話越しの相手は、少し慌てている素振りを感じさせた。大事件でも起こったのかと感じさせる。
「出ないと思う相手に電話するのかよ。」
『あ、確かに…いや今はそれどころじゃない。帝、お前大丈夫か!?』
「…取りあえず寝坊はしていないから大丈夫なはずだけど。」
『いやいや、そうじゃなくて!』
帝には、晃が一体何に焦って、何故電話を寄越したのか分からなかった。寝坊ではなければ、何なのか。そして、次の彼の一言で余計に訳がわからない状態に陥ってしまう。
『誰かに襲われてないか!?』
質問の意味が分からなかった。思わず『はぁ?』と声を漏らした。
『変な夢見てさ、お前が殺される夢。眠りが浅すぎて頭が可笑しくなったんだろうって思ったんだが、妙な胸騒ぎがしてさ…取りあえずの生存確認っつーか?』
晃の台詞を聞き終え、頭の中で整理し終えた瞬間、帝は思わず声を出して笑った。元々彼は心配性ではあると認識はしていたが、まさかここまでとは帝も想定外だったらしい。
「お気遣いどーも。つか、襲われてたら電話に出られないだろ。」
『…ああ!そうか、そうだよな!ハハッ』
「それより、朝練遅れるなよ。」
『分かってるさ。すまんな!じゃあ!』
彼らは目に見えぬお互いの姿に別れを告げた。学校でのネタにしよう。帝は先程の会話を思い出し、口元を緩ませた。
いつの間にか先程の金目の縞猫が足元にピタリと張り付いてついて来ていた。目が合うと、そいつはそっぽを向く。『少しぐらいはデレてみてはどうだい?』と心の中で囁いた。
すると相手は『にゃあ』と一声鳴らし立ち止まる。帝も相手にああせて立ち止まり、彼の目線の先に目を向けた。そこは、赤色が少し黒ずんだ鳥居が目立つ『那枷神社』。ここら一体では神社と言えばここを示す程、巷では有名な神社である。今まで気にしなかったが、こんな朝方に見ると何処と無く神秘的で恐れ多く感じ、身構えてしまう。
目を離している隙に、足元にいた猫が鳥居の柱の近くに座り込んでおり、柱の向こうからヌッと白い腕が出て来て猫の顔を弄んだ。思いも寄らない白い腕に驚愕し、変な声を出した。その声に気付いたのか、気持ちよさそうにする猫を弄ぶ手が止まり、白い腕の主がゆっくりと現れた。暗闇よりも漆黒の美しい髪を結っており、余計に肌の白さを際立たせていた。
「貴方の猫ですか?」
あまりにも端正な顔立ちの笑みが向けられて、見とれていた帝は返事に応えるのに少しの間が出来てしまった。
「…いえ。多分、野良猫かと。」
彼女は猫を抱きかかえ、金色の瞳と目を合わせた。
「…そうなんですね。ありがとう。」
猫は喉を少し鳴らすと、彼女の細い腕から抜け出して住宅地の中へと消えて行った。帝と彼女は猫の背中を見送る。そして、彼女は真剣な眼差しで帝を見つめ、『もし…』と声を漏らした。
「もし古えの記憶を見た時は、迷わず私のところに来てください。」
「…どういうことですか?」
帝は彼女に問いかけた。しかし彼女は首を横に振るだけで、にっこりと笑い一言だけ応えた。
「神の御告げです。」
そして彼女は左手首をトントンと右の指で叩いた。帝はハッとし、携帯で時間を確認する。約束には間に合うが、少しギリギリになりそうな時間にまでなっていた。
彼は会釈をして、少し冷え切ってしまった身体を再び温めるように駆け足で学校に向かう。そういえば、どうしてあの人は時間を教えてくれたのだろうか。ふと脳裏に過ぎったものの、彼は時間に追われていため、『まぁいいか』と自己完結した。
彼女は走る彼の背中を見送り、神に願った。
「どうか、貴方で最後になりますように。」