姫君◇一 後の世へ 異なる世へ
ああ、なんと醜いの。
わが涙がはらりと落ちて、水の面へ映ったわらわの白い顔は歪んでおります。
いいえ、わらわの顔は歪まなくとも、初めから醜いのでした。
わらわの元へ、夜に通ってまいった男どもの誰も彼もが、月夜の薄明かりでわらわの顔を見ると、もののけを見たかのように叫び、逃げてしもうたのです。
わらわが醜いという評判はあちこちに流れました。
まるで、木の葉がほろほろと風に散るように、誰もわらわの元へは通わなくなり、わらわを妻にしたい者などおりませぬ。年の齢は、三十二。すでに老いてしまいました。
ああ、父君。なぜ、わらわを残して黄泉へと旅立ってしまったのですか。父君のいのちを奪った流行り病を恨みます。
今は、わらわには頼りとする人もないのです。
暮らしを立てる銭も尽きてしまいました。
紅葉の錦が一夜にして散ってしまうように、わらわの世話をしてくれる者は去ってしまい、今は誰もおりませぬ。わが館に、ただ冷たい風が吹くばかりです。
わらわも父君の元へ、黄泉の国へと参ります。
今より、沼へ入り、わがいのちを棄てるのです。
――姫君――
誰かが、わらわを呼んでおります。
いいえ、この声はまぼろし。
死ぬるのが恐ろしいゆえに、わらわの心は、まぼろしの声を聞いておるのです。
――姫君、死ぬるのはお待ちくだされ――
わらわの前へ、男が立ちました。
白き衣を着て、ひらりと踊るように舞い降りてきたのです。
男の衣には、藤の花の丸い紋が散りばめられ、月明かりに透けておりまする。
わらわは見入ってしまいました。
不思議でございますな。わらわの前には、深い沼があるのですよ。人が水の面に立つなど、あるはずがございません。
――死なずとも、違う世へ行ければよいのでございましょう?――
男は、わらわに問うた。
――姫のお顔は、大きなる目に小さきお顔。恐らくは、今のこの世においては美しくはございませぬが、後の世では違いますぞ――
――今の世では、細き目に、ぽってりとふくよかな頬が美しいと言われております。それは、後の世でも同じとは限りませぬぞ――
――後の世には、姫のような小さきお顔が美しいのです――
「醜いわらわが美しいと言われる世など、あるものですか」
わらわは、信じませぬぞ。
生まれてより今まで、父君にすら、美しいなどと言われたことはないのです。
――わが言の葉が信じられぬとあれば……死ぬる前に、行ってみられるがよい、異なる世、後の世へ――
「その世で、悪いことが起きませぬか?」
まったく知らぬ異なる世、後の世へひとりで行くなど、恐ろしくてふるえてしまいます。
――今の世で悪いことが、後の世でも、同じように悪いことなのでございましょうか――
男は、わらわに問うた。
――今の世では悪いことが、後の世では、よいことになるのかもしれませぬぞ――
――後の世は、今の世とは、異なる世にございます――
――占いにて、今日の日が、旅立ちによい時なのです――
男は、わらわに説いた。
「占い、とな?」
男は、占いを? ならば、この男は陰陽師なのですね。
――今宵は、後の世で『はろゐん』と呼ばれておりましてな。はろゐんには、時が歪み、異なる世がたやすく交じるのでございます――
はろゐんなる言の葉、わらわは初めて聞きましたぞ。
陰陽師は、占いのほかにも広く物事に通じておりますもの。陰陽師は、不思議なる術を使って、わらわの運命をあらかじめ知っていたのでしょう。
――姫が死ぬるつもりで沼へお出でになると、占いでわかっておりました――
――後の世には、姫と結ばれる運命の男が、きっと見つかりましょうぞ――
陰陽師がそこまで言ふのであれば、それは誤りなきことでしょう。
――姫君、お忘れなきように――
――運命の男を、待つのみではいけませぬ――
「それは、なぜです」
わらわは、陰陽師に問うた。
――後の世では、男は草を食む馬のごとく優しきもの。女が誘い、綱を引いて導かねば、自ら動かぬものなのです――
――それゆえ、後の世では、『婚活』というものが流行っておるのでございます――
「『とんかつ』、とな? それは、旨いものでありまするか?」
おもしろき言の葉でございますこと。
『とんかつ』とは何のことやらわかりませぬが、旨いもののような響きがいたします。
――『とんかつ』ではございませぬ。『婚活』ですぞ――
――とにかく姫君、呼び名は何でもよいのです。これぞといふ男に会いましたら、その男から離れてはなりませんぞ――
――では、旅立たれませ、異なる世へ!――
陰陽師の手が、印を結ぶ。
――願ひ、叶へたまえ、急急如律令! 婚活!――
陰陽師が呪文を唱えるやいなや、わらわの身は、まばゆい光に包まれたのです。




