【彼の事情*1】
お坊ちゃまとメイド(元)が二人で話すとこんな感じ、という回。
卒業式翌日。
私は早朝より行われた審問を済ませると、父の命令で、皇都官邸に住まう母に会いに行くこととなった。
学院の玄関に向かえば、車寄せに白薔薇と狼の紋章のついた二人乗りの箱型馬車が待っていたので乗り込む。すると対面の席に、すでに水色のドレスを着た女が座っており、思わず固まった私を振り向いて、にこりと笑った。
「おはようございます、ジェラルド様」
「……おはようという時間でもないが。なぜおまえがここにいる?」
「奥方様とのお約束がございまして」
てっきり父の意向だと思ったが違うらしい。そういえば、本来の雇用主は母だと言っていた。
昨夜までメイドとして仕えていたこの女だが、ギルド職員だと名乗るわ父と容赦ない意見を交わすわで、実のところ私にとって、かなり正体不明な存在なのである。
「報告書を送ったのだろう?」
「直接お会いしてお伝えしたほうが伝わりやすいこともございます。いらぬ誤解も防げますし……きっと、山のように質問を抱えてお待ちになっていらっしゃるでしょうから」
斜め向かいに腰を下ろした私は、後半の一言に、そのままうずくまりたい気分になった。
昨夜何年ぶりかで父の前で泣き、語り尽くしたことでほとんど済んだような気になっていたが、この女は確か『一部始終を事細かく』報告すると言っていたのだった。
一体、どのような報告書だったのか。考えるだけで恐ろしい。
眼差しだけでこっそり窺えば、呆れたような視線が返り、ぱちりと開いた白い扇の向こうに消えた。
……なんだろう。すごく、馬鹿にされた気がする。
がたりと馬車が動きはじめた。
同じ皇都といっても、外れに位置する学院から皇城近くの官邸までは、馬車で三十分前後かかる。扇で口元を隠したまま反対側の窓を向く女を視界に確認し、私は座席に深く座り直した。
扇に隠れているなら構わないだろうと、不躾に目の前の女を眺める。どのみち狭い馬車内の対面にいるのだ。他に見るものはない。
メイドのときは三つ編みにして下ろしていた濃紺の髪は、今は複雑に編まれて、うなじのあたりでまとめられている。ピンで止められた小さな帽子とドレスは、同じサックスブルー。張りのあるサテン生地が淡い配色を大人びさせ、白と金のレースに彩られた装いは、ちょうど今の初秋の青空を思わせた。
横を向いているせいで、黒いリボンのかかる首元の白が、やけにまぶしい。ふわふわと踊る後れ毛が濃紺なので、余計にそう見えるのかもしれない。
凝視して、年上の女性だったことを思い出し、慌てて目を逸らす。
動じたせいか左肘を座席に強打してしまい、声もなく腕を抱えた。
「だ、大丈夫でございますか?」
「……問題ない」
むっつりと答えれば、こちらを向いていた女が、またもぱっと扇に顔を隠した。
そんなに笑いたければ、隠さずとも笑え。
そう思って睨んでいたら、扇の向こうから再び覗いた女が、申し訳なさそうにそれを下ろした。
「申し訳ありません。ご不快でしたよね」
「……べつに」
「笑っていたわけではないのですよ? いえまあ……多少、微笑ましいなーとは思いましたが」
微笑ましいと思うのと笑うとのは、ほぼ同義だと思うがな!
父や友人たちのように、気の利いた台詞で返してやりたいのだが、何も浮かばない。
すると女が扇を閉じ、それを膝に置いてまっすぐにこちらを見た。
「ジェラルド様。思っていることはきちんと口にしていただかないと困ります、と申したはずです」
「……わかっている」
だが、どうやったらうまく喋れるか、分からぬのだ。
「まあ、昨日の今日で改善されるとは思っておりませんが」
「……」
「ですが、今のは私が悪うございました。失礼をいたしました」
「……なぜ謝る?」
「実は私、昨夜飲みすぎまして」
そういう流れになるとは予想外だったので、思わず聞き返す。
「飲みすぎた、とは?」
「三年間のメイド生活も終わりましたし、もちろん報告書も書き上げましたし。お休みの日に酒場で見つけた十年物の古酒が残っておりましたので、皆とぱーっと飲みましたら……これまた付き合わせた執事が笊で」
「ざる?」
「底無しということでございます」
目の開いた容器に酒を注ぐと、ということか。
今の見た目が淑女風だからか違和感を覚えるが、平民の言い回しというやつだな。
「さらにその上のいく者を〝枠〟と申します」
「……すごいな」
「さすがにそこまでではありませんでしたが、あの執事、飲んでも明るくなるだけで、ちっとも潰れないのですよ。ペースに巻き込まれていたら、いつの間にか夜が明けておりまして焦りました。
あ、ちゃんと歯も磨いて湯も浴びましたよ? ですが、さすがにちょっと寝不足で……お見苦しくて申し訳ありません」
「……いや」
確かにいくぶん目元が腫れぼったいようにも見える。が、平常を良く見ているわけではないので、化粧が違うせいだと言われれば納得してしまう程度だ。
それにしても昨夜といい、三年間メイドとして顔を合わせてきたが、今まで彼女がこんなによく喋るとは思わなかった。しかも、使用人としてあるまじき事情をぺらぺらと。
――ああ。もう、彼女は使用人ではないのだな。
そう納得して、これから先の関係を表す適当な言葉が見つからずに戸惑う。
「どうかなさいました?」
「いや、その……使用人同士、わりと仲がいいのだと思って」
「そうですね。交替でしたが、みんなで食事したり飲んだりはわりとしていましたよ。仕事上、意志の疎通は大事ですしね。さすがに側近の方と飲んだのは今回が初めてですが」
使用人は平民、側近は貴族と明確な身分差がある。彼女ならそんな格差など気にしなさそうだが、そうでもないらしい。
やはりよくわからぬ女だ、と見れば、逆に蜂蜜色の大きな瞳がじっとこちらを見てきた。
「なんだ?」
「……いえ。思ったより落ち着いていらっしゃるので」
どうやら両親の情報係として雇われていたらしい彼女は、めずらしい[鑑定]能力の持ち主である。会った人間の魔力の属性や強さ、特殊能力が見抜けるだけでなく、体力や経験値なども数値化してわかるという、恐ろしい隠し玉なのだという。
私のようなひよっこなど、手玉にとるのはわけないのだろう。
悔しまぎれに、肘をついた手に顎を乗せて、ふんと横顔を向ける。
「いろいろなことがありすぎて、いちいち動揺するのが馬鹿らしくなっただけだ」
「それは……その、ご愁傷様です」
裏で散々画策していたはずの目の前の女を、ぎろりと睨む。
「根回ししたのはおまえだろう」
「情報を集めてお渡しし、指示に従っただけです。まさかステファン様の背後にあんな大物がいるなんて、存じませんでしたよ?」
アルバの執政であり大叔父であるプリスタイン伯ステファンは、現皇帝の失脚を狙う皇弟と手を組み、宰相の嫡子である私を傀儡として皇太子殿下の立場を悪化させ、宮廷を混乱させようと目論んだらしい。おかげで大叔父は地下牢に収監、側近たちは軒並み逮捕された。
「だが、ミアのことも調べたのだろう?」
「ブルナー男爵令嬢に関しては、ほとんど報告だけです。貴族の血を引くにしては魔力値が低いのが気になりましたが……本格的に不味いと思ったのは、最終試験後ですから」
「最終試験後?」
「センティフォーリア華公爵ご令嬢の告発文をお読みになってらっしゃらないのですか?」
驚いて復唱すれば、そう返される。あの式典の宴で、ルーファス殿下の元婚約者であるセレスティナ嬢から、ブルナー男爵令嬢ミア・モーガンの数々の罪状を告発する書類を渡されたのだが、ざっと見ただけで、まだ詳細に目を通せていない。通したくなかったというのもあるが。
「読む暇がなかった」
「では、あとできちんとお読みくださいませ」
「……教えてくれないのか」
「余計なことを口にして、この馬車内の居心地が悪くなるのも嫌ですから」
「私のことなのにか?」
「だからこそ、です」
これ以上喋らないとでもいうように、再び扇が開かれる。それをじっと見ているうちに蜂蜜色の目と合い、それがまた隠れ、ということを数度繰り返して、ようやく扇が少し下りた。
「後悔しないでくださいよ?」
「するかもしれないが、今さらだろう?」
昨日一日だけで、一生分の後悔を背負ったようなものだ。女は、はあとため息を吐くと、目を逸らしたまま話しはじめた。
「最終試験、ジェラルド様は学科で首席をとられましたよね? 剣技はガリカ華公爵ご令息がとられましたが、魔術はダマスク華公爵ご令息と並んで同点一位で、これまでの最高成績だったそうで」
「ああ。総合最優秀はセンティフォーリア華公爵令嬢にとられてしまったが」
「で。ブルナー男爵令嬢からご褒美をいただきましたよね?」
言われた瞬間、かっと顔面に血が昇る。この女なら把握していてもおかしくないが、ミアとの大事な、宝物のような一時を知られていたことに羞恥で叫び出したくなった。
「お、おまえ……っ」
「いいから聞いてください。貴方がどこでどんなふうに大人の階段を上ったかなんて、覗き見ておりませんし、構わないのです。問題はその後です。薔薇園の東屋で密会した後、どうやってお部屋に戻られたか覚えてらっしゃいますか?」
「いや、その……夢心地で、ふらふらと」
「それ、薬のせいです」
断言された瞬間、さあっと高ぶっていた熱が引いていく。
「薬、だと?」
「夜更けにお部屋に戻られたとき、お水をお持ちしたのが私です。そのときに気づきました。ジェラルド様に盛られたのは、いわゆる……媚薬に近いものです」
「薬など飲んでいないぞ?」
「お酒かなにか、飲み物を勧められたでしょう?」
「……シャンパンを飲んだ」
「おそらくそれです。正直、私でなければ気づかないものでした。よほど巧妙に隠したとか、すごく希少だというものではありません。かなり昔に使われていた薬で、たまたま私が下町の人間で、母が薬師だったから知っていたというだけのことです」
「下町……」
「ええ。薬は、下町の娼婦がよく使う媚薬――正確には薬物の一種で、感覚を増幅させる類のものです。それを使うと、最初からいろいろとスムーズになり、快楽が倍増するとか」
心当たりがありすぎて、気まずく口元を片手で覆う。
それとは別の意味だろう、彼女の紺色の眉が不快気にきつく寄せられた。
「お金のない娼婦たちは、以前から自分で薬草を採って調合していたようです。精製されていない分、効果にばらつきがあり、常習性などの副作用もあって、現在国では違法薬物として禁止されていますから、貴族階級に出回ることはほとんどありません。危険性が少なくて似たような効能のものは他にもありますから。
ジェラルド様の場合は、それが効きすぎてしまったのだと思われます。すぐに吐かせようとしましたが、吸収されてしまった後で……その晩は生きた心地がしませんでした」
眉尻を下げてそう告げられれば、こちらも謝るしかない。
「心配させて、すまなかった」
「いいえ。大変だったのは、われわれよりも他の方々のほうです。貴方とダマスク華公爵ご令息は、彼女と接触が少なかったので軽症ですみましたが、問題は皇太子殿下とセンティフォーリアのご令息たちです」
ミアを溺愛していた彼らが、彼女と幾度となく深い仲になっていることは薄々察していたが、他人から事実を突きつけられると、さすがにキツい。だが、薬物が絡んでいたとなると、事は恋愛問題どころではなくなる。
「ザックは……ガリカ華公爵子息はどうなんだ?」
「あそこは家系的に薬物耐性があるのです。それに、ただでさえ、あー……ごにょごにょ……なので、媚薬を盛ると女性側がもたないようで、早々に使用を止めたようですね」
「……濁すな。余計にいやらしい」
「がっつけば女性が悦ぶってものじゃないんですけどねー」
さらりとあけすけな感想が漏れ、こちらのほうが赤くなる。そういえばこの女、真面目な話をしているときに〝バター犬〟などと言い出す、厚顔無恥なところがあるのだった。
「それで、問題とはなんだ?」
「副作用です。御三方には、薬物中毒の傾向が見られます」
「それは、治るのか?」
「どのくらい耽溺していたかにもよりますが、時間はかかるでしょう。……第二皇子殿下の処分はお聞きになっていますか?」
「ああ。廃太子とモスカータ離宮に蟄居だったな。では」
「はい、おそらく治療に専念するのが目的かと。完全に薬を抜くには、少なくとも数ヶ月間二十四時間監視が必要と聞きますので」
「フレドとフランはどうなる?」
「彼らは、薬の影響もそうですが、精神的にかなり不安定になってしまったようで……ローザ=ルテアの神殿で修業をやり直すということですが、かなり厳しいでしょうね」
センティフォーリアの聖双児は、それぞれ過去視と未来視の神眼をもつとされており、将来は上位聖職者として神殿に入ることを期待されていた。
この国では聖職者も妻帯を許されているため男性の純潔はそれほど重要視されないが、箱入りで育てられたひとつ年下の二人は精神的に幼く、心を許した者への依存心が強かった。愛していた令嬢の裏切りと薬の副作用で、心を病み、神眼を失ってしまったと聞かされれば言葉も出ない。
ふう、と重いため息を吐いて腕を組む。
「そう考えると、センティフォーリアが一番被害を被ったのだな。弟君たちは病み、セレスティナ嬢の婚約も破棄とは」
「そうですか? そのうち第一皇子殿下の皇太子任命と同時にご婚約が発表されるでしょう。陛下は妾腹の兄皇子を帝位に就かせる機会を虎視眈々と狙ってらっしゃいましたし、あのご令嬢の資質を皇家がむざむざ捨て置くとは思えません」
「本人の意志はどうなんだ?」
「あの方なら大丈夫ですよ。困難にぶち当たるほど燃える性質だそうですから」
親しげな物言いに、あの告発文にはやはりこの女が絡んでいたのだと察する。ミア一人に惑わされていたのみならず、この女にまで踊らされていたのだと思うと少し腹が立った。
「そこまで把握していたのなら、もう少し内々で片をつけるとかあっただろう」
「私はただの情報係ですよ。根回ししたのは事実ですが、生徒の自主性を育てるとのことで、学院内で保護者の口出しは厳禁。それに貴方はともかく他の方々は、側近や婚約者ご令嬢様方からの忠告がまったくの逆効果だったそうですから。自業自得ですね」
「……はっきり言うな」
「教えろとおっしゃったのはそちらです。それに男爵令嬢の虐めの件も襲われたという事件も、学院にきちんと報告していれば、自作自演に振り回されることもなかったのですよ?」
そう言われては、ぐうの音も出ない。藪蛇というやつだ。
「でも、どうにか卒業取り消しにもならなかったようで、良かったではないですか」
「執行猶予付きだがな」
魔術師長の息子であるアイヴァンは魔術塔に一年間の軟禁、将軍の息子のザックは監視付きで他国へ武者修行と各々罰が下り、その経過は学院にも報告されることになっている。そこでの素行が悪ければ、皇立学院の卒業が取り消され、貴族の地位を剥奪、犯罪者として正式に裁かれるのだ。
教師のパトリックは、懲戒免職のうえ医師および教員免許剥奪。
護衛兵士のダリルと弟のハロルドは、共謀容疑でブルナー男爵とともに逮捕された。
唯一、ルーファス殿下の隠密であったオスカーの処分が伝わってこないが、陛下が裁きを下された以上、軽い処罰では済まないだろう。
ミアのことは――ブルナー男爵令嬢については、なるべく考えないようにしている。修道院行きと聞いたが、したことを考えれば、おそらくそれだけではないはずだ。それでもまだ、記憶の中の彼女と現実の彼女がうまく一致しないのだ。
甘いのは承知している。それでも、裏切られた怒りよりも戸惑い、悲しみよりも自分への失望が先に立って、まだすべてを受け入れられずにいた。