【首輪の事情と、そしてそれから*12】
12.首輪の事情と、そしてこれから(続)
「いったい、どういうつもりですの?」
「舌を噛むから少し黙って」
問い詰めようとする私を制し、ジェラルドは力強いリードで人の波を縫ってホール中央を抜け、これまでいた場所から対角線上の端まで連れて来ます。
背が伸びて筋肉がついたというのは本当のようで、肩の位置がこれまでより高く、胸の厚みも増して、ホールドする腕にも余裕があって包み込まれるようです。
滑るようになめらかな動きは記憶にあるとおりですが、これだけ強引なリードのわりに引っ張り回されたという感覚はなく、本当に風に乗っているようでした。
「このあたりで大丈夫だろう」
「ジェラルド様、どういうことですの?」
「彼らから離すためだよ。ひとりは君を見初めた職場の先輩で公爵家三男、ひとりは学院の頃から君に付きまとっている見習い騎士の侯爵家嫡男。いくらメイアン伯爵が交渉事が上手でも、収めきれないだろう。
それとも、君をめぐる男同士のいざこざの中にいたかった?」
「……あんまり納得できませんけれど、助かりましたわ」
大げさに言っているとは思いますが、ジェラルドの言うことが正しいとは分かります。パートナーや家族であれば、家格が低かろうとダンスを申し込む相手に多少の意見を言えますが、私のパートナーは現在お役目放棄中です。親友の兄であるブレンダンが庇ってくれると、今度は立場的にこじれ、彼に迷惑がかかってしまいます。
――社交界では、ダンスパートナーを選ぶだけでも、いろいろと面倒なのですね。
これまでは婚約者がいるからと、私も周りも自然と節度を守っていたのでしょう。これからは、いろいろな思惑でやって来る男性たちと会話し、ダンスをして、お互いの相性を探っていかないといけないのです。
……なんだか憂鬱になってきました。恋愛は、一体どこですればいいのでしょう?
「そんなに憂鬱そうな顔をしないで。私とダンスは嫌だったか?」
「ジェラルド様こそ良いのですか? 令嬢がたが順番待ちをしていらしたようですけれど」
「全員の相手をしていたら、きりがないだろう。だいたいの用事は済んだ」
《聖誕祭》の夜会という特別な日のダンスだというのに、ジェラルドにとっては用事扱いなのですね。外見は誰もが夢見るような貴公子なのに、中身は相変わらずロマンスを欠片も解さない朴念仁で、がっかりです。
「それに、エスコートの約束は守れなかったから、ダンスだけでもと思って」
「約束? ダンスのですか?」
「憶えていないのか? 婚約したときに、君が言ったんだよ。『成人で婚約をして、学院の卒業式でプロポーズ。社交界デビューで結婚を承諾して、みんなの前でファーストダンスを踊るのが夢です』――って」
「……私、そんなことを言いました?」
「言ったよ。憶えているよ。女の子の夢って壮大なんだなあって驚いたから」
言った……の、でしょうか。内容的にはだいたい合っているので、口にしたかもしれませんが、まさかベアトリスたちだけでなくジェラルド本人にまで語ったとは――しかも婚約したときだなんて――幼いころの私は、いったい何を考えていたのでしょう。
顔から火を噴いて地面を掘って埋まりたいというのは、まさにこのことだと思います。
顔を背けて、くくくっと肩を揺らすジェラルドをじとりと睨みます。
「……お忘れください。子どもの戯言ですわ」
「かわいらしい夢じゃないか。期待されているほうはプレッシャーだったけど……嬉しかったよ。きちんと私との将来を描いてくれているんだと思って」
「ただの勝手な妄想です」
「うん。でも、可愛かったよ。今みたいに顔を真っ赤にして、一生懸命そう言ってくれるナタリアが、すごく可愛らしかったんだ」
ずるいと思います。これまで褒め言葉なんて挨拶程度にしか言ってくれなかったのに、婚約破棄をした今になってそんなことを言うなんて――もう、なんだか泣きそうです。
気づかれないように視線を逸らして、平静を装います。
「……昔のことですわ」
「確かに今は〝可愛い〟って感じではないな。……うん、綺麗になったよ」
もう本当に、何なのでしょう、この人。
私たち、婚約破棄をしましたよね? しかも、自分から言い出しましたよね?
なぜそんな相手に、今さら口説き文句のようなことを言うのでしょう。
……だんだん腹が立ってきました。
私の顔の熱も動揺も、今目の前でダンスを踊っている人のせいなのだと思うと、すごく口惜しくて腹立たしくてなりません。足を踏んでしまおうかと思うのですが、絶妙にリードされ、上手くタイミングが合わないことも、さらに腹が立ちます。
でもその代わり、怒ったおかげで、涙は奥に引っ込んだようです。
今なら――言えるかもしれません。
「ジェラルド様」
「うん?」
「どうして……私では、ダメ、だったのですか……?」
最後まで口にすることはできましたが、声は震えてしまいました。
ジェラルドがはっと目を見開き、ようやく私の様子に気づいたように、後悔の色を浮かべました。声を落としてささやきます。
「少しあちらで話そう。いいか?」
「……ええ」
曲に合わせて移動しつつ、さり気なく柱の陰に入ります。ジェラルドが給仕を呼び止めている間に、私はドレスが潰れない程度に、そっと柱に寄りかかります。
結局、最後まで踊れなかったな、という、どうしようもない後悔が胸をよぎりました。
「なにがいい?」
「では……シャンパンを」
ジェラルドが、私に琥珀色の発泡酒のグラスを渡して、自分は前と同じ泡のたつ透明な飲み物を手に取って、給仕を下がらせます。
私の視線に気づいたのか、ジェラルドはグラスを上げて「炭酸水だよ」と教えてくれました。
「お酒かと思いました」
「今日は飲みたくないんだけど、雰囲気は壊したくないから」
さらりと返され、私は冷水を浴びせられた気分になります。そういえば、私と違い、彼は仕事でここに来ているのでした。
「ごめんなさい、ジェラルド様。わたし……変なことを言ってしまって」
「いいんだ。ナタリアとは一度きちんと話したかったから」
「でも……」
「気にしないでくれ。私が悪いんだ。さっき休憩室で普通に話してくれたから、勝手に君とは友人に戻れたのだと思ってしまった。無理に誘ってすまない。軽率だった」
どうやら彼は、褒め言葉のことではなく、婚約破棄をした相手をダンスに誘ったことに私が怒っていると思っているようです。嘘ではないので、そこは訂正しませんでした。
グラスを持ったまま軽く腕を組み、ジェラルドが考えるように視線を床に落とします。
「なぜ、という話だったよね。説明は……難しいな。どう答えても嘘になりそうだし……もう一度君を傷つけてしまうかもしれない」
「かまいませんわ」
私は、気合いを入れるように、シャンパンをぐいっと飲みました。冷たくほろ苦い液体の中に弾ける泡が、喉を刺激します。
「聞かせてくださいませ」
「わかった。最初に言っておくけど……ダメだったのは君ではないよ? ダメなのは、私のほうなんだ」
「どういう意味ですか?」
「勘違いだったら申し訳ないが、その、君は私に、好意を持っていてくれただろう?」
これまではっきりと口にしたことはありませんが、どうやら筒抜けだったようです。私は、素直にうなずきました。
「ありがとう」と小さく告げ、目元をピンクに染めたジェラルドが、それを隠すように片手で額を覆います。
「なんだか……あらためて確認すると照れるな」
「学院の頃はさんざん告白されていらしたでしょう?」
「あんな度胸試しみたいな告白をされて喜ぶやつがどこにいる? 見学者が山のようにいるんだぞ。見世物になるなんてごめんだ」
本当に嫌な思い出しかなかったのでしょう、ばっさりと切り捨てます。
「でも、噂もいろいろ聞きましたわよ?」
「勘弁してくれ。やけに派手なドレスが目につくと思っていたら、翌日にはどこそかのご令嬢と親密だっていう噂が流れるんだぞ。デコレーションケーキみたいな服が視界をうろうろしていれば、どうしても見るだろう?」
私は吹き出し、グラスを持っていない手で口元を覆いました。デコレーションケーキそっくりのフリルのドレスは、あのご令嬢ですね。今日も絶好調の盛り具合でした。
「学院でナタリアを避けていたのは、何が起こるか分からないと思ったからだ。ルーファスの件でぴりぴりしていたのもあるが……良い態度じゃなかったのは認める。すまなかった」
「もう過去のことですわ」
「ありがとう。君はやさしいし、忍耐強いし、頭もいいし趣味も合う。もちろんドレスの趣味もいいし……なにより、私を理解しようと努力してくれる。得難い女性だと思う」
「……」
「だけど、私はこれまでそれを、得難いとは感じていなかった。漠然と、知らない相手が婚約者でなくて良かった、と――その君が、たとえ私に好意を寄せてくれていても、ゆっくりその想いに近づいていければいいかと――そう思っていた。
でも私は、恋を……してしまった。君ではない人に」
ずきりと胸に痛みが走ります。ですが、その痛みは、こちらを見下ろす紫の瞳に浮かぶ深い苦悩の色に、ゆっくりと薄まってゆきました。
「正直、なぜ彼女でなければならなかったのか、未だに分からないんだ。私はたくさんいる相手のひとりにすぎなかったし、彼女は打算やいろんな感情で、結局ルーファスを選んだわけだし……嘘も山ほどついていた。それでも、あのときの私の心の拠り所は、彼女といる時間だった」
苦悩を昇華しようとしているのでしょうか、語る口調は意外なほど穏やかです。
「君は嘘をつかないし、彼女など比べものにならないほど素晴らしい女性なのは分かっている。だが、感情は、理屈ではどうしようもない。
いつか私も、君が私にくれただけの感情を返せるときがくるかもしれない。だが、そのとき君が私に愛想を尽かしていないという保証など、どこにもないんだ」
「私は――」
「責めるわけじゃない。君はおそらく、真面目に一途に尽くしてくれるだろう。何年先でも想いが重ならないかもしれない相手に、真摯に向き合ってくれる。そういうひとだ。
だけど、私はそこまでしてもらえる価値のある人間ではないんだ、ナタリア」
「貴方は、まだ彼女のことを忘れる気にならないのですか……?」
「彼女のことは関係ない。いや、関係なくはないが……私は初めて、恋という感情を識った。そして同時に、その感情が報われない、灼けつくような痛みも識ってしまった。やっと――君がこれまで抱え続けてきただろう傷みに、思いをめぐらせることができたんだ。
ナタリア。本当に……長い間、辛い想いをさせてすまなかった」
「……今さら遅いですわ」
「本当に、今さらだな。私が、君の想いをすべて受け止められるだけの男であったなら、あのときの決断も違っていたのだと思う。だが……私は卑怯で、弱い。それだけの男だったのだと、呆れてくれて構わない。むしろ、呆れてくれたほうがいいかもしれないな。
私は君に――私という重荷を捨てて、新しい人生を歩んでほしい。そう願っている」
捨てられるものなら、とっくに捨てています。
心の中でそうつぶやいたつもりが、口にしてしまったようです。
ジェラルドがほろ苦い表情で、「ごめん」と謝りました。私は気を落ちつけようと、またシャンパンを数口飲みます。
「では、ジェラルド様は、真実愛する相手と結ばれたいと願っていらっしゃるということですか?」
「……は?」
「だって、私を好きになれないから、私をお捨てになるのでしょう? 学院でも、『貴族の体面や誇りよりも真実の愛を選ぶ』とおっしゃっていたではありませんか」
「……いろいろ誤解があるようだ。まずその台詞は、いろんなところで吹聴されているが、前後が抜けているのだからな?
それはルーファスの態度について追及されたときのもので、『最近殿下はくだらない感情にかまけて、貴族としての誇りを忘れておられる』と皮肉られたから、『貴族としての体面や誇りよりも、愛のような真実の感情を尊ぶべき場合もある。貴殿の下賤な頭では、そのような感情の機微など分かるまいがな』と言ってやったんだ」
なるほど、やっとそれですっきりしました。ジェラルドがそんなロマンティックなことを言うはずがありませんから。
でも学院時代の鉄面皮から『愛のような真実の感情』なんて台詞が出れば、噂も誇張されるのも分かる気がします。
「それから、君を好きになれないというのも間違いだ。恋愛感情が持てないというだけで、嫌いなわけではない。君は昔から……大事な妹のような存在なんだ」
妹のようだと言われたのは、今日二度目です。私、弟がいるので、本当はお姉さんなのですが。
「誰が君に妹だと言ったんだ?」
ブレンダンです。彼とは五つも離れているので仕方ありませんけれど、ジェラルドは生まれ月も同じなので、妹というのはちょっと納得できません――――あれ?
「完全に心の声が口に出ているぞ、ナタリア。君は酒に弱いんだな」
苦笑してジェラルドが、私の頭の上あたりで片手を舞わせます。きらりと魔力の光が目の端に見え、[治癒]の魔術が掛けられたことが分かりました。
ふわふわしていた感覚がなくなり、腫れぼったかった目元が軽くなります。はっきりした視界で見れば、少しずつ飲んでいたつもりのシャンパングラスが、すっかり空になっていました。
「……ありがとうございます、ジェラルド様」
「次はナタリアにも炭酸水を渡そう」
「今度からそうしますわ」
微笑んで答えれば、ジェラルドも安心したように表情を緩めました。
「なんだか立派な魔術師ですわね」
「まだまだだよ」
「だけど、昔『おとうさまのような、まじゅつしになりたい』って言っていたでしょう?」
「そんなこと君に言ったかな? ああ……でも確かに、昔は父を魔術師だと信じていたからね」
「今でも冒険者なのですから、あながち間違いないのではありませんの?」
「それもそうだ」
目と目を見合わせ、二人で小さく笑いを漏らします。
……そうです。私、今みたいに、小さいころと同じように彼と過ごしたかったのです。
婚約破棄をした後のほうが親密になれるなんて、なんて皮肉なのでしょう。
「少しは気持ちが晴れたかな?」
「少しは、ですわ」
「じゃあ、友だちに戻れそうかな……?」
上から見下ろしているはずなのに、なぜか上目遣いのようにこちらを窺うジェラルドに、私は笑い出しそうになるのを堪えました。
「幼なじみなら、いいですわ。でも、友だちはダメです」
「厳しいな」
「未婚の男女ですもの。当然ですわ」
「わかった。幼なじみで我慢する」
神妙な顔でうなずき、ジェラルドが自分のグラスを傾けます。その視線が一瞬、なにかを探すように、私の向こうの人混みに向けられました。
「――ジェラルドは、エマが好きなのですか?」
「……ごふっ!」
盛大に噎せた彼の姿に、一矢報いた気分になります。
「な、なんで……」
「二人を見ていて、なんとなくそうではないかと思っただけですわ」
ハンカチで飛沫を拭い、やや萎れた様子のジェラルドが、動揺を取り繕おうともせず問いかけます。
「……やっぱり、軽薄なやつだと思うか?」
「感情が止められないことは、知っていますもの」
私がそう言えば、ジェラルドは驚いたように目を見開き、ふわりと相好を崩して笑いました。
「ネティは本当にやさしいな。たぶん私は、そんな君のやさしさに、いつも甘やかされていたんだな」
「今さら褒めても遅いですわ」
「君に新しい婚約者ができる前に、これまで褒めていなかった分、たくさん褒めておこうと思って」
「そんな努力はいりません! 惑わすようなことを言わないでくださいませ。私、もうジェラルド様への想いは、箱に封印して鍵をかけて土に埋めておくことにいたしましたから」
「土に埋める……?」
「ジェラルド様を、ではありませんわよ?」
「……ネティ。エマの悪い影響が出すぎだ……」
額に手を当てて、ジェラルドが呻きます。
こんなに感情豊かなジェラルドは子どもの頃以来で、きっとエマの影響なのだと思えば、封印を決めた箱の蓋も揺れますが、それ以上に生き生きとした彼の表情や態度に、なんだか肩の荷が下りたようにも思います。
彼との過去を捨てて、未来を生きる――。
聞こえは立派ですが、物を捨てるのが苦手な私には、なかなか難しそうな課題です。むしろこれからも、きっとこの想いは引きずってしまうのでしょう。
いつか――もっと穏やかに、思い出として語れるその日まで。
「ジェラルド様」
私は、ひとつの決意を胸に彼に呼びかけます。
「私、貴方の幸せはお祈りいたしません」
菫色の瞳が、諦念の光と、少しの悲哀を湛えてこちらを見つめます。その彼に向かい、私は言葉をつづけました。
「絶対に……絶対に、私のほうが先に幸せになってみせます。貴方の何倍も素敵なひとを見つけて、これまでの何倍も素敵な恋愛をして、今度こそ両想いになって結ばれてみせますわ。ですから――」
ぎこちないとは分かっても、できるだけの笑顔を作って。
「私より先に、絶対に幸せにならないでくださいませ。私、たった今、そう呪いをかけましたから」
そう宣言した私に、ジェラルドは困ったように、それでもなぜかとても嬉しそうに微笑んで、「分かった、心しておく」とうなずきました。
*
なんとなくわだかまりも解け、最近読んだ本などの雑談をジェラルドとしていると、私たちに近づいてくる人物がいました。
「……殿下」
「ルーファス」
「ジェド、おまえの飼い主がひと暴れしそうだ。番犬の役目を果たして来い」
一瞬にして鋭さを取り戻した紫の瞳が会場を一瞥し、若い数人の男性に取り囲まれている小柄な女性を認めます。
「行ってくる」
「ああ」
飲み残したグラスを第二皇子に預け、ジェラルドが人波に飛び込みます。するすると男性たちの背後から近づき、腕を曲げたり、指先で突いたりすれば、一気に二、三人がその場から追い払われました。
ぱっと見には、話しかけるために肩を叩く素振りや、握手のふりを装った仕草だっただけに、周囲の人はもちろん、何かするはずだと知っていた私の目にも、何が起こったのだかよく分かりません。
「ほう、関節技か。妙なものを身に着けたな、あいつ」
ジェラルドの残した炭酸水に口をつけつつ、ルーファス殿下がつぶやきます。
「殿下はお分かりですか?」
「ネティ。ここは二人だけだ、名前で呼べ」
「ルーファス様」
「……」
「……ルー」
「それでいい」
私の愛称呼びに満足そうにうなずいた後、殿下は関節技の説明をしてくれました。
どうやら関節技とは、その名の通り、体のあらゆる関節に対し、曲げてはならない方向に強引に押したりひねったりと力を加えることで、相手にダメージを与える技のようです。殴る蹴るの打撃攻撃と違って地味ですが、完璧に技を決められると、指一本だけでもその場で崩れ落ちるほどの激痛に見舞われるそうです。
「ネティを泣かせていたなら、殴りに来ようかと思っていたが、アレを使うなら危なかったな」
「……どうしてルーがそんなことを?」
「別れたはずの婚約者同士が、こそこそ話をしているのだ。皆、興味を持つさ」
言われてあらためて周囲を見回し、ここがわりと皇族の壇上に近い場所にあることに気づきました。
さああ、と血の気が引きます。
「大丈夫だ。防音の結界はかけておいた」
「でも、ルーは盗み聞きをしていたのでしょう?」
「大事な友人を守るためだ」
澄ました顔で言う殿下を軽く睨めば、緋金の瞳は真面目そのもので、本当に心配をしてくれていたのだと分かりました。
「……ルー。私、失恋してしまいました」
「ああ」
「私、失恋したら絶対に泣くと思っていたのですけれど、泣きませんでしたし、怒鳴りもしませんでした」
「聞いていた。あの呪いは傑作だった」
「……ルー。私、がんばりましたよ、ね……?」
「ああ、よく頑張った。偉かったな、ネティ」
やさしくそう言って、殿下が手袋に包まれた手を、ぽふ、と私の頭に乗せます。
子どもをいい子だと褒めるようなその仕草に、これまで抑えていたものが溢れ出しそうになり、私は「髪が崩れてしまいます」と言ってごまかしました。
「泣いてもいいと言ってやりたいが、夜会の最中だからな」
「泣きませんもの」
「そんな顔をしているのにか? 案ずるな。私からもジェラルドに呪いをかけておく」
「……セレスティナ様にかけてはダメですよ?」
「トリスにやり返されるから、やるだけ無駄だ」
トリスタン殿下は、弟君の婚約者だったセレスティナ様に、常に一歩引いた立場をとり続けて来られました。ですが、学院時代の手紙のやりとりで、彼女の苦悩する様子やあの事件のことを知り、支えたいと思うようになったということです。
奇しくも初恋が実る形となったセレスティナ様は、ルーファス殿下の元婚約者という立場を引け目に感じ、逆に離れようとされたらしいのですが、ルーファス殿下のほうから後押しする形で、今回の婚約は結ばれたとお聞きしています。
「これで失恋同盟、結成確定だな」
おどけて殿下が、空のグラス同士を軽く打ち合わせます。
実は私たちはお互い、片想い同士の相手と婚約をした〝片想い同盟〟の仲間だったのです。
同盟といっても二人きりですが、それぞれ片恋をしていると気づいたときから、殿下はお妃教育に忙しいセレスティナ様の、私は遠く離れてしまったジェラルドのことをこっそり語り合う、恋愛相談相手となっていました。
成人をきっかけに、幼なじみたちとはどこか溝ができていたのですが、不思議なことにルーファスと一番親しくなったのは、この時期だった気がします。
同盟の活動は緩く、最初こそ積極的な対策を講じて二人であれこれ試しましたが、どれも空振りに終わり、いつの間にか愚痴と、どうにも振り向いてくれない片恋相手に落ち込むお互いを励まし合い、讃え合い、良いところを褒め合うという形に落ち着きました。子どもでしたから仕方ありません。
もちろん学院入学と同時に、同盟は解散です。
懐かしい話題を持ち出した殿下に、私も両手を添えて、かちんとグラスを打ち返しました。
「まったくジェラルドも、あんな目立つ誘い方をせずとも良いだろうに」
「一応、私を助けようとしてくれたらしいです」
「やり方が悪い」
「ルーは、セレスティナ様とは踊らなかったのですか?」
「婚約を発表したその会で、前の婚約者と踊ったら問題だろう。さっさとトリスに預けてきた」
「……よく考えてみれば、セレスティナ様も片想い同盟だったのですね?」
「ネティはどっちの味方だ?」
緋金の瞳が、むっとこちらを睨みます。普通の貴族であれば震えあがるところでしょうが、殿下の性格をよく知っている身としては、笑うしかありません。
「もちろん、ルーの味方です。でも視点を変えれば、実は、そうだと思い込んでいたものとは違う世界が見えてくるのではないかと思ったのです」
「ジェラルドのせいか?」
「それもありますけれど……さっき休憩室で、ルーやザックやアイヴァンの話を聞いたでしょう? その場に一緒にいたはずなのに、同じ状況でもずいぶん見方や感じ方が違うのだと、驚いたのです」
「驚いたのは、あの娘だ。なんだ、あの生きものは。どこに突っ走っていくか分からぬ」
「面白い方でしたわね?」
「ああ、久々に大笑いしたぞ。あんなに笑ったのは何ヶ月ぶりか」
殿下が苦笑し、ふいにすっと真面目な顔に戻ります。
「ナタリア。その、私のしたことだが――」
「殿下。謝罪なら、もうたくさんしていただきましたわ」
「だが、私が余計なことをしなければ、そなたたちは今頃――」
「でももう、してしまったあとでしょう? 起こしたことを反省するのは大事ですけど、いつまでも起こり得た可能性に縋るのは、あまり立派なこととはいえませんわ」
もしも。していたら。しなければ。
後悔をするたびに思い浮かぶ言葉は、時としてとても甘美です。
間違いを先に知っておけば、間違うことはなかったのだと自分を慰める魔法の言葉――でもそれは、踏み台として後に残してゆくもので、歩み続ける先まで持ち運ぶものではありません。
私たちは、きっと、いつまでも視野が狭いままなのです。
私というひとりの存在には、視点はひとつしか持ち得ないのですから。
ですから、視点を広く持ちたいと思えば――友を頼るしかないのです。
「私もルーも、婚約者を失い、恋を失いました。でも家族もいますし、友人もいますでしょう? この痛みや辛さを自分に必要な糧とするためにも……どうか、前に進むことを畏れないでくださいませ」
「そなたは私が、ひとを裁くに値すると思うか?」
「……私には分かりません。ですが罪を犯し、罰を受けたものにしかできないこともあると思います」
「そうか……」
殿下はつぶやくそうにそう言い、しばらくの間黙りこみます。
「ルー?」
「いや、ネティがそう言ってくれて良かった。そなたの言葉は私の心の支えだからな」
「大げさですわ」
「本当だ。セレスティナに言い負かされた私を、いつも慰めてくれた」
「では、今はもう必要ないのでは?」
「必要に決まっているだろう。実は……驚いていたのだ。私も同じようなことを考えていたからな」
「同じようなこと?」
「罪を自覚し、負った者にこそ、できることがあると」
何かを含んだような言い方に、私は黙って次の言葉を待ちます。
「実は――ハロルド・モーガンを引き取った」
「彼女の弟君ですわね?」
「実際は血の繋がりはないがな。……遅くなったが、先日ブルナー男爵家の取り潰しが決まった。今回の件は男爵個人の罪と呼べる範囲であったため、禍根を残さぬために係累の者に爵位を継がせる予定であったが……予想以上に問題が波及してな。[冥府の裁定者]が大鉈をふるった」
大鉈ということは、ブルナー男爵家以外にも取り潰し、もしくはそれに近い形の処罰が下った家が複数あるということでしょうか。まだ公に知らされていない情報に、背すじがぶるりと震えます。
「詳しくは言えぬが、ブルナー男爵は毒を盛られて獄中死。一族のものは、貴族の身分を剥奪され、家も土地も没収された。問題は、嫡男だったハロルド・モーガンと平民上がりの護衛兵士の扱いだ。二人とも罪を罪として加担したわけでもないことと、彼女の処刑がかなり痛手のようでな」
ミア・モーガンの護衛だった兵士のダリルは、自死を試みたものの一命をとりとめたため、快癒を待って二年間の魔鉱山の苦役に就かせることが確定したそうです。
ハロルドは、貴族の身分はもちろん学院の籍も抹消され、神殿で反省させたのち、係累のものに引き取らせようとしましたが、誰も引き取ろうとしなかったそうです。これから平民になって生活していかなければならないのに、余計なものは背負いたくなかったのでしょう。
「そこで私が引き取り、近侍として仕込むことにした。幸い、私の側近はだいぶ数を減らしたからな」
皇子の近侍となるのは本来でしたら誉れですが、ルーファス殿下が不祥事を起こしたことは広く知れ渡っています。ジェラルド同様、有能な側近を得るのは、なかなか厳しいようです。
「二年間の苦役が終われば、護衛兵士も引き取ろうと思っている。甘いと言われるかもしれんが、これが私の責任の取り方だ」
「立派ですわ」
「そう言ってくれるのはネティくらいだ」
「教師の、フィルバート先生はどうなったのですか?」
「資格のすべて……教師、医師、貴族の身分を剥奪。極刑か鉱山で終身刑かと揉めたが、薬草学の教師で医師という経歴が使えるかもしれぬと、白華公が嬉々として引き取りを求めてきた」
「それは……」
「実は、例の薬の調達を手伝ったことが判明してな。パトリックには悪いが、自分で招いたことだ。極刑か終身刑のほうがよほどましだという目に合わされようが、もはやどうすることもできぬ」
「お気の毒さまです」
私がそう言えば、殿下が苦笑を漏らします。
「私も甘いと言われるが、ネティのほうがよほど甘いな。学生に手を出した教師だぞ?」
「甘いのとは違うと思います。ルーは……昔から、面倒見がいいのです。なんでもできる分、なんでも抱えてしまおうとするでしょう?」
「そうか?」
「ええ。私は……臆病なのです。人が痛い目や怖い目に合っていると考えるのが嫌なのです。できるだけ目を逸らしたいから……だから、曖昧な言葉でごまかしてしまうのですわ」
「なるほど。この臆病な仔リスを守ってやる者が必要のようだな」
どうも、小さいころからちょこまかと皆の後ろを付きまとっていた私は、殿下の中で〝仔リス〟認定をされているようなのです。せめて〝仔〟をとって欲しいと言うのですが、『大きくなってもリスは小さいからこれでよい』と言って、直してくれないのです。
なんでしょう、私の周りにはポイントのずれた男性が多いのでしょうか。
私がふくれてみせると、殿下はくすり笑って、二人の手からグラスを抜き取り、近くのテーブルに置きます。そしてなぜか、花を飾った私の髪束を一房、指に掬い上げました。
「ナタリア――」
言いかけて、殿下が何かに気付いたように語を止め、会場の一画に鋭く視線を走らせます。
つられて目を向ければ、ジェラルドが数人の男性に囲まれるようにして、会場の外へと出ていくところでした。人が多くて、背の低いエマの姿は見えません。
「ネティはここにいろ」
「わ、私もまいります!」
はっし、とルーファス殿下の袖を掴めば、寸時睨まれ、諦めたように息が吐かれました。
「絶対に私から離れるな」
「はい!」
袖の代わりに手を繋がれ、私たちも別のドアを通って、ジェラルドが向かったと思しき方角へ向かいます。
夜もすっかり更けた回廊は、燭台こそ灯されているものの会場のような明るさはなく、しんと冷えた冬の月光が青々とした世界を作り上げていました。
唐突に、空気が鳴動します。
薄暗がりに目を凝らせば、回廊の太い柱の陰で格闘している数人の男性の姿が見えました。
ジェラルド、と呼びかけようとして――ふいに強く、殿下の腕に抱き込まれます。
何事かと彼を見上げれば、その緋金の瞳は警戒に輝き、暗がりの一点を注視していました。
「何者だ?!」
「……お久しぶりですね、ルーファス殿下」
闇から聞こえるにふさわしい、小さくともよく透る不思議な声が響きます。
「彼女の仇――取らせていただきます」
「……オスカー」
物騒な宣言とともに、薄闇の中を刃物の銀が流星のように煌めいて走りました。