【破】
「数学がお得意なわりにお分かりになっていらっしゃらないようですので、これまで貴方様にかかった費用についてお教えいたしますね。
まず、奥方様がご懐妊されてからの医師の健診費用が約20万リオン。
ご妊婦様用のお支度品が約10万リオン。
出産準備にかかる費用が――」
「ちょっと待て! 懐妊だの出産だのということに、私の責任は関係ないだろう!」
「関係あるに決まっているでしょう。貴方、赤子がどうやって産まれるか、ご存じないのですか? まさか木の股から誕生したとでも?」
「う……」
「ご納得いただけてなによりです。まあ、ちょっと健診費用が通常よりかさんでいるのは認めます。貴方様を身ごもられた奥方様は、魔力の違いか大変な悪阻に悩まされ、何度か流産しかけたそうですから」
友人として付き添っていた薬師の母の証言である。ご当主様も当時を思い出されたのか、感慨深くうなずいていらっしゃる。この茶番、止める気ないんですね。
「では続けますね。おむつや洋服、子ども部屋の支度などの出産準備費用が30万リオン。
出産と育児のために特別に雇った看護師資格のあるメイドが二名ですので、この雇用費が月額30万×12ヶ月×三年間で1,080万。
出産費用が思ったより軽くて50万ほど。
洗礼用の服一式が10万。
神殿へのお布施が100万。
初お披露目のパーティー費用が300万。
遠方からの出産祝いの返礼品が全部で約50万リオンといったところですか」
まだまだいきますよー、とうきうきしていたら、お坊ちゃまが顔色悪いのを通り越して、私を魔物でも見るような目つきで見てきた。
失礼な。雇われるならどういう相手に仕えるのか、軽く帳簿をひっくり返して確認した内容を覚えているだけだというのに。
それに、奥方様が悪阻のときに食べられるものがなくて、パニックになったご当主様の命令で従者たちが極東や極北まで駆り出され、貴重食材を強引に輸入した費用は盛り込んでいないのだから、これでも控えめな計上なのだ。
私ってば、良心的。
「長くなりそうなのでさくさく進めましょう。ジェラルド様は白華公家のご長子様でいらっしゃいますので、服・おもちゃなどの生活用品が特注品で発注されまして、年間およそ80万~100万リオン。それに誕生日パーティーが毎回100万程度かかっています。加えて、誕生日プレゼントの平均額がおよそ50万リオン。これが十七年間ですので、最低でも230×17=3,910……ああ、十二歳のときは成人パーティーでしたので、それを祝い品込みで300万として通算4,060万リオン。
あとは六歳から十四歳まで九年間つけられておりました、武道、魔術、教養、学問の四名の家庭教師の費用と――こちらから解雇したものは退職金を支払っていますのでそれも含めまして――学院の受験料に入学費用、授業料、寮費、教材費。三年間の生活費。学院から請求された備品の修理代というのもありますね。
それらすべて計算しまして、これまで貴方様にかかった費用は――約2億5千万リオン、ですね」
笑顔で言い切れば、視界の片隅で当のお坊ちゃまが、直立したまま真っ白に燃え尽きていた。うん、精神的に張り倒せたから満足しよう。
息子とは対照的に、面白そうな表情を浮かべたご当主様が、にやりと唇を持ち上げた。
「2億5千万……そんなものか」
「基本的な生命維持にかかわる食費・医療費、および側付きの従者や専属メイドの雇用費は削りましたからね。それを含めたら3億はくだらないでしょう」
「だろうな」
「この費用をジェラルド様に請求するつもりはありませんし、お支払いいただけるとも考えておりません。ただ、今この場に在るために、これだけの金額が費やされたことは肝に銘じていただきたいのです。そして――貴方ご自身の手で、それらを無駄にしたという事実も」
真実、無駄にされたのは、お金だけではない。華公爵家の嗣子一人を育てるためにどれだけの人間が関わり、心を砕き、時間を費やしてきたか。そこを理解してもらわなければ、この精神的タコ殴りに意味はないのだ。
「3億が無駄か」
「まったくすべてが無駄になるかどうかは、これから次第ではないでしょうか。それより私は、この騒動のせいで御用達品の価値が下がらないか、というほうが心配ですよ」
商売は評判が命だからね。困ったものだ。
白華公家御用達品である紋章の入った魔道具や魔法薬は、魔物の豊富さを逆手にとったうちの領地の名産品で、ギルドの主要な収入源のひとつでもある。
実はそのほとんどが若き日のご当主様の発案によるものなので、華公爵家の財産を抜きにしたヴィクター様の個人資産は、3億リオンが即金で支払える額となっている。十代の頃からSランクとして魔獣狩りしてらしたそうだからな(父親談)。
面倒だからと、ぽーんと全額ギルドに預けていただいているのだが、経理を担当している私が見るのが怖いレベルというのは、口外無用である。ほんとにダメ、絶対。
「3億を無駄にしないためにも、彼を下町で育ててみるというのはどうかな? エマ」
「放逐のご判断が変わらないのであれば、どんな扱いでもいいのですよね? せっかくの美貌と魔力ですから、若さ溢れる今のうちに隷属の首輪をつけて、貴族のおじさまおばさま方にお売りしてはいかがですか? ほら、神聖王国の巫女姫様が動物好きというではないですか。新たなペットということで、3億で売り込んでみてはどうでしょう?」
「3億なんて出すかなー。あの魔女、退屈しのぎに他人の私生活覗き見ることに生きがいを感じてるらしくて、どうやら今回の騒動も筒抜けっぽいんだよ。買いたたかれそうだ」
どうりて今日はやけにいろんな遠隔魔術が襲来してると思ったんだ。術式がおかしいのは神聖王国からだったのか。
「では、国の防衛魔術が手薄気味なのですから、結界用の魔石に繋いで発電機代わりにするのはいかがでしょう? あるいは魔術牢にでも軟禁して、ご当主様の万が一のときの代替臓器用に飼い殺すとか。対人用の魔術開発の実験台にするとか。
ちょっと奥方様への言い訳には困りますが、なにもすぐに殺されそうな下町に置かなくとも、用途を選ばなければ使い道はいろいろとあると存じますが?」
「うーん。そういうのは、さすがに親として気が引けるんだよねえ」
「……今さらどの口でそれをおっしゃいますか……」
本当に、この方は息子に甘い。
プリスタイン伯爵家を潰す餌にしたのは白華公としての裁量だろうが、成人したての幼い子どもを手元から離して領地に置いたのは、元々、我が子を守りたいという親心からだ。
現皇帝の即位と同時に二十代で宰相に就任したご当主様は、才気煥発と評判な分、敵が多い。奥方様に似て線が細く病気がちだったジェラルド様は、殺伐とした宮廷よりも気候のよいアルバのほうが良いと判断されたのだ。
実際、暗殺や密殺や謀殺が昼夜を問わず跳梁しており、本当は奥方様も一緒に移る予定だったが、ちょうどユリアン様をご懐妊中だったため、まだ三歳のアシリア様とともに仕方なしに皇都に残ったと聞く。
当時すでにギルドの仕事を手伝っていた私は、アルバと皇都を何十往復もする両親と兄たちの連絡係と世話と愚痴にほぼ毎日付き合わされていたので、よーく記憶している。何度もぶちギレそうになったが、おかげで白華公ご夫妻と忌憚ない意見を交わせる立場を頂戴できたので、とんとん、といったところだ。
それはともかく。
このご当主様の気遣いは、まったくもって、ものの見事に玉砕した。子ども可愛さに宮廷でのメイドの毒殺も護衛の撲殺もいやがらせも全部きっちり隠し通し、気候がいいからという説明だけで無理やり納得させて、ジェラルド様を一人領地へ向かわせたのだ。
真綿にくるむように育てられた十二の子に、親の深謀遠慮など量れるはずもない。当然、家族に見離されたと感じたのだろう、領地に行ってからジェラルド様は荒れに荒れた。
たぶん――あくまで私の推測だが――つけられた側近も家庭教師もすべて解雇したのは、自分を捨てた(捨ててないけど)父親への当てつけだったのだろう。
だが、ヴィクター様はそれを一切咎めなかった。息子一人を領地に押し込める形になった罪悪感と、息子ならわかってくれるという甘えと、反抗期だから仕方なしという安易な思い込みからだ。
そしてジェラルド様は、そのことでさらに見捨てられたと絶望し、父子の亀裂が決定的になってしまったのだ。
上目遣いにご当主様を軽く睨めば、困ったようなぬるい微笑が返る。
「だいたい今回の一件も、もとをただせばどなたの責任でしょうね?」
「エマ。そう責めないでくれないか。これでも反省してるんだ」
「反省のお言葉をおっしゃる相手が違います」
領主というだけでなく、アルバにおけるご当主様の人気は絶大だ。百年戦争の終盤、爛熟期とも言われる人魔入り乱れた泥沼戦争の最中に産まれたヴィクター様は、先祖返りと呼ばれる獣人並みの魔力と身体能力を誇り、十代前半で皇都から領地に一人やって来るや、荒くれ冒険者たちに混じり、魔獣を狩って狩って狩りまくって、あっという間にSランク(現在はSSランク)にのし上がった。
今でも仕事が煮詰まるとふらりと現われ、ストレス解消のためだけに新規に出現した小迷宮をひとつ攻略して、しかも昼休憩中に済ませて帰るなどという人外の生物だ。
『子ども時代のあの頃が一番人生で充実していた』
と、遠い目をして語られたところで、残念ながら同意はできない。
加えて言うなら、その喜びを息子にも味あわせてやろうという親心は、まるっきり逆の効果しか産まなかったのだから救いようがない。
なにしろアルバの街を歩けば『ヴィクター様のぼっちゃん』と、大嫌いな父親の名を冠して呼ばれるのだ。どこへいっても付きまとう巨大な父親の影と、家族に見捨てられた(違うけど)という想い。おのれへの劣等感と愛情への飢餓感をこじらせまくり、結果ジェラルド様は、領地での三年間を邸宅に引きこもって過ごすこととなった。
そして――――学院で、運命の出会いを果たすのだ。
うん。仕方ない。
自分を全肯定してくれるかわいい女の子が目の前に現われたら、そりゃ惚れるよね。
わかるわかる。
私も、彼女がジェラルド様だけを見てくれる子だったら、頭おかしくても財産狙いでも身分低くても少々気が多くても、心から応援したよ。
でも。いくらなんでも、逆ハーレムはいただけない。皇太子の正妃におさまって、あとは全部愛人で確保なんて、さすがに産まれる子どもの素性的にまずい。それに今後もどんどこ愛人が増えそうな勢いだったし。いや、十代って怖いわー。
とどめに違法薬物使用の痕跡が出てきたからもう、完全に有罪確定。うちのご当主様も軽くキレかけてた。
こればかりはきっちりけじめをつけねばならぬ、ということで、被害者(一応)たちの実家のうち、もっとも身分の高かった皇帝陛下に裁定をお任せしたのだが、おそらくもう死んでいる。
公的には修道院行きだが、向かう途中で馬車が盗賊に襲われたとか崖から落ちたとかで、彼女は見つからない。ジ・エンドである。
軽い気持ちでイケメンたぶらかしてはべらせたかっただけなの!という弁解は通用しない。こういう頭がお花畑のくせに自意識の強いタイプは、多方面から駒として狙われやすいのだ。後顧の憂いは確実に消してしておくに限る。
そういうご時世だし、そういうお相手だったのだ。
そんなことより。
問題は、う ち の お坊ちゃまだ。
満たされないものを埋めようとして、がむしゃらに突っ走った結果、満たしてくれるはずの相手に裏切られ、おのれの未熟さを見せつけられ、さらに白華公後継という家族との皮一枚の薄い繋がり(思い込みだけど)までも失った。
これで放逐となったら、さんざん貶めた私が言うのもなんだが、ちょっと可哀相すぎると思うのだ。
「どちらがとは申しませんが、反省されていらっしゃるのであれば、旦那様のおっしゃるとおり〝まだ十七〟なのですから、情状酌量ということで皇都の官邸預かりとなさいませ。目も届きやすいでしょう」
「官邸もアルバも、どちらも私にとっては庭同然だよ。私は領地に誇りを持っている。これまできちんと見てこなかった世界を、彼には是非学んでほしいんだが」
「ですから、学ぶ暇もなくヤられるとご忠告申しあげているのです。放逐であれば、護衛も従者もつけないのでしょう?」
殺られるか犯られるのかは微妙なところだ。
奥方様そっくりなので、下町の誰かが手を出すことはないと信じているのだけど、ギルドがあるせいで旅行者も多いので、ギルド長の父と自治兵団にいる長兄に負担がのしかかることになる。
「大丈夫だ。それに、リスクがなければ試練にならないだろう?」
ご当主様は呑気におっしゃられるが、五年前にそれで失敗して今この結果なんですけど?と言いたい。不毛なことは分かってるけど、とっても言いたい。
ため息をこらえ、私とご当主様の間に立つお坊ちゃまに軽く視線を向ければ、いろいろ言い過ぎたせいか真っ黒な本音がだだ漏れていたのか、半分涙目になって、ぴるぴる震えている。
――……やだなに、この生き物。
アルバに来た頃は線の細い美人さんだったのに、ぐんぐん背が伸びてやわらかさが削ぎ落とされて、わーもったいないわーと思っていたけれど。紅く染まった唇を噛んで、一生懸命拳を握って足を踏ん張って、震えをごまかそうと無駄な努力をしている、これってもしや――産まれたての小鹿? いや違うな。
もっと毛並みがよくて、立ち姿が綺麗で。
アレだ。北方の垂れ耳長毛大型ワンコ。足も鼻面も長い、俊足の狩猟犬。
の、仔犬だ。
脳内で両手を打てば、なにかを察したお坊ちゃまが、びっくぅっ!となった。
いじってくれと言わんばかりの反応に思わず微笑を洩らすと、正面から殺気が走る。
あら、ご当主様。背後の側近たちと一緒に大事なご子息も怯えてるから、ダメですよー?
まあでも、言いたいことは分かるし、こちらも言いたいことは言った。
一番心配だったのは、〝放逐〟という言質を理由に、ご当主様が本当にジェラルド様の人生から手を引いてしまうのではないかということ。
ぶっちゃけこれまでの経験から、ご当主様のほうから関わりを断つことは絶対にないと断言できるのだけれど、この方キレ者すぎて、ご自身の痕跡を完璧に消してしまわれるから、見つけるのにどんな諜報のプロかという技術と伝手がいるのだ。照れ隠しにもほどがある。
おかげで私は、ただの情報係だというのに、こんな茶番までうってしまった。
床に両膝をついて踵にお尻を預けた半お辞儀姿勢という、インナーマッスル大活躍の体勢から、音もなく立ち上がる。
よれていたエプロンを直し、ご当主様に軽く頭を下げて、そのまま告げた。
「わかりました。旦那様のご意志が固いようですので、私からはもう何も申しあげることはございません。これにてお暇させていただきます。貴重なお時間をいただきまして、ありがとうございました」
「すまないね、エマ」
「いえ。その代わり、ひとつだけお願いがございます」
「お願い?」
「良い機会ですので、これより旦那様はジェラルド様とお話し合いくださいませ」
そう告げれば、私が来る前にすでに話し合いがもたれていたのだろう、二人に微妙な空気が漂う。
「いや、話といっても――」
「大事な、お話が、ございますよね?」
そろそろ根性入れて腹割って話せよゴラァ。
と笑顔を向ければ、さすがにご当主様の顔がひきつり、傍らで息を飲む音が聞こえた。
「ジェラルド様も、本日はこれ以上ないほどの生き恥を曝されたのですから、今さらひとつやふたつ恥が増えたところで同じことでしょう。これまでの鬱憤をめいっぱいぶちまけておやりなさいませ」
「だが……」
「大丈夫ですよ。旦那様はそれしきのことで動じられる方ではありません。それに、万が一なにかございましても、そこにいる側近たちが取り押さえますよ。皆、優秀ですから」
人外レベルのご当主様に仕え続けてウン十年のベテランばかりだ。攻撃も逃走経路も読み切っている。
ついでに、このヘタレ父子のこじれ具合についても承知済みだ。皆、心はひとつである。
大丈夫。
このご当主様は、しなければならないことは、どんな不可能なことでも成し遂げる方だから。
そして、その血と魂を引くご長子様も、それが分からないほど愚かではないはずだから。
「では、失礼いたしました」
きっと。
大丈夫。
――――――-ま。
しつけの悪い駄犬の責任は、飼い主にとってもらわないと!っていうのが本音だけどね!!
領民200万人の場合、3億を均等払いすると、一人あたり150リオンになってしまうという悲しさ…。
お金の単位は適当なので、円でもドルでもポンドでも、お好きな通貨でお考えくださいませ。
2020/1/4:通貨単位変更。