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かくてメイドは今宵も踊る。  作者: 鴇合コウ
蛇足編:彼と彼女と首輪の事情。
17/25

【首輪の事情と、そしてそれから*6】

 

6.彼らの事情と後悔



「楽しそうに何を話しているんだ?」


 声をかけ、ドアから顔を出したのはジェラルドです。

 手には、三つのグラスと食べものらしき小皿の載った銀の盆を捧げています。

 立ち上がったエマが、ジェラルドの手から盆を受け取ろうとして、動作を止めました。数歩下がって淑女の礼をとる彼女の前に、もう一人、別の人物が姿を現わします。

 はっと私たちも立ち上がります。


「ルーファス殿下」

「よい。今宵は祭りゆえ、無礼講だ」


 殿下は、白と金がまぶしい縦襟の古典的なジュストコールで、刺繍で埋め尽くされた揃いのジレにキュロット。絹の靴下にバックルのついた黒い靴まで、完璧な皇子の装いです。

 それなのに、左手はジェラルドと同じように銀の盆を指先で支え、不似合いなことこの上ありません。

 セレスティナ様が笑顔で進み出て、「私たちの飲みものをお持ちいただいて、ありがとうございます」と盆を受け取ります。

 

「好みが分からぬので、食べものは適当に取ったぞ?」

「お心遣いをしていただいただけで充分ですわ」


 ベアトリスがさらにそれを受け取って、手早く給仕します。ルーファス殿下とセレスティナ様がシャンパン、ベアトリスとアイヴァンが葡萄酒のようです。

 私の分はジェラルドが持ってきてくれたらしく、エマが空いた水のグラスを交換してくれます。殿下の後ろからは、さらにイヴォンヌとザカリアスまでやってきて、休憩室が一気に狭くなったように感じられました。

 間のソファの両端に、セレスティナ様とルーファス殿下。手前のソファにはイヴォンヌ、ザカリアス、ジェラルドが座ります。

 盆と空のグラスを洗面台のほうに避けたエマが、椅子を出して来ようとするのをジェラルドが止め、ソファに彼女を座らせて、自分は肘掛に軽く腰を預けました。


「お行儀がよくありませんわよ?」

「ソファが低すぎるんだ。ザックを見たら分かるだろう?」


 背丈も身幅もあるザカリアスは、折りたたんだ長い脚が、今にもテーブルを蹴飛ばしそうに見えます。

 ジェラルドは、こだわりなくソファの背もたれに肘をついて、泡の立つ透明な飲みものを口に運びます。


「それで、何を話していたんだ? ずいぶん盛り上がっていたみたいだけど」

「学院のお話をお聞きしておりました」


 エマの答えに、私たちの頬がまたも笑いに引きつり、反対にルーファス殿下とザカリアスの目が厳しさを帯びます。ジェラルドが肩をすくめました。


「なんだ、もうバラしたのか」

「話のなりゆきですわ。許可もいただいておりますので、問題ありませんでしょう?」

「……なんの話だ?」


 隣から眼光鋭く問われ、エマが戸惑うように蜂蜜色の瞳をまたたかせます。代わりにジェラルドが、グラスを持っていない手を振りました。


「彼女なら大丈夫だ。問題ない――というより、すべて知っている」

「イヴ、聞いてくださいませ。あの手紙の主がエマだったのですよ……!」


 ベアトリスが我慢できないという表情で、扇を口元にあて、ザカリアスの右隣に向けて声を発します。内緒話のような仕草ですが、当然、全員の耳に入ります。

 イヴォンヌが大きな目を丸くして、巨体の向こうのエマを覗き見ました。


「手紙というと……あの暗号の? 本当ですの?」

「はい、[夏姫]様」

「嫌ですわ、イヴとお呼びくださいませ」

「呼ばせるな。第一こいつは平民だろう!」

「平民だろうと、私たちの協力者だったのですから、仲間ですわ」

「暗号とはなんだ。私は聞いていないぞ、エマ」


 いつものイヴとザックの言い合いが始まり、さらにはジェラルドにまで詰め寄られて、渦中となったエマは、困ったようにおっとりと微笑みます。


「では間をとって、イヴォンヌ様とお呼びさせていただいてもよろしいでしょうか? 先ほど皆さまから、お名前でお呼びするお許しをいただきましたので」

「構いませんわ」

「……いいだろう」

「それから、ジェラルド様。暗号というのは、秘密を保持するために用いることに意味があるのです。苦情がおありでしたら、情報を機密扱いにするよう命じられたご当主様におっしゃってくださいませ」

「もう機密ではないのだから、教えてくれても良いではないか」

「暗号にご興味がおありでしたら、作成者ではなく、お解きになられました姫君がたに伺ったほうがよろしいかと存じます」

「そうだな、私も知りたい。そもそも、どういう経緯でこの者が関わったのだ?」


 ルーファス殿下のうながしに、セレスティナ様とベアトリスが中心になって、ときどき私も口を挟みながら、当時の様子が語られます。

 状況をよく知っているイヴォンヌは目をきらきらさせながら身を乗り出し、ルーファス殿下は肘掛についた手で頬を支えて苦笑し、ザカリアスは渋面を作って聞いています。


「まったく恐ろしいな、白華公は。ジェラルド、おまえはどこまで知っていたのだ?」

「なにも。知ったのは、すべて卒業式の式典の後だ。エマが両親の命を受けていたことも、そのとき知った」

「本当か?」

「あの父が、わが子だからと身びいきをするような人だと思うか?」

「それは思わないが……」

 

 ザカリアスが、納得できない顔で口ごもります。

 学院での学生生活に保護者が口を出すことは厳禁とされていますが、重大な問題が生じたときは判断を仰ぐことを許されています。側近や使用人は、一定数であれば大人を入れることが可能ですので、メイドだったエマから情報をもらったというのは、ぎりぎり許容範囲内というところなのです。

 セレスティナ様が最後の最後まで学院に情報を伏せていたのは、やはり特別な手段で手に入れたという気持ちが大きかったためもあるのでしょう。


 それでもエマがくれたのは、情報を集めるための基礎となる情報であったり、手段であったり――それが一番重要とも言いますが――私たちが努力しなければ手に入れられないものばかりでした。暗号というハードルも、私たちの成長をうながす意味もあったのかもしれません。

 対して彼らには、私たちのように助けはなかったようです。あの状況から抜け出す努力も情報を求めることもしなかったのですから、当然ではありますが、理不尽な気持ちになるのは分かる気がします。

 

「それで、その優秀な間諜が、今はおまえのところにいるというわけか。ジェラルド」

「ああ。世話をかけっぱなしだよ」


 率直なジェラルドの言葉に皆が驚けば、青い目に冷ややかな光を宿したザカリアスが、気に食わなさそうに、ふんと鼻を鳴らします。


「平民に混じって贖罪の修行をすると聞けば、どれほどのものかと思うが……ずいぶんと楽しそうだな」

「そうだな、充実はしているよ。朝は、日の出前に起きて二時間の筋トレとランニングとストレッチ。シャワーを浴びて朝食を摂って、午前中はギルドの受付の手伝い。お昼を食べて、午後からは資料整理をして軽く休憩をとって、夕方は受付の締めを手伝って片づけをして二時間の魔術訓練。そのあと夕飯を食べて、今度は三時間くらい筋トレと体術の訓練、ランニングとストレッチをしてシャワーを浴びて寝るって感じかな。夜は自由時間なんだけど、もたなくて寝てしまうんだよね」


 立て板に水のごとく語られたスケジュールの過密さに、皆が一瞬絶句します。


「おまえ、それ騎士並みだぞ?」

「うん。だから、恵まれていると思っているよ?」

「騎士は魔術訓練しないけどね。驚いたな、僕よりハードかも」

「おまえは日がな魔術三昧でも苦にならなそうだが?」

「自分の好きなものを開発するのなら構わないんだけどね。誰が作ったかも分からない結界とか古い魔道具の修理と改良が山積みなんだ。課題が出て、計画書を出して、そこで何回かダメ出しがあって、認められたら修理、製作、提出してダメ出しで作り直し。で、また出してOKが出たら、すぐ次の課題。もう無限ループだよ」


 アイヴァンがため息とともに言葉を吐き出します。魔術塔に軟禁というのは、傍から思うよりも大変なようです。


「だが、ヴァンの作業は確実に何かの役には立っているだろう? 私はギルドの手伝いといっても本当に雑用だけだし、ほとんどが自分のための訓練なんだ。少しもどかしいよ」

「でも、なんだか魔力制御が楽になってる気がする。魔力増えた?」

「魔力が増えた実感はないけど、鍛え方を変えて動かしやすくはなったよ。体も丈夫になったし」

「痩せたのかと思ったが、おまえ背が伸びたのだな?」

「伸びた。5センチくらいかな。体重も増えているんだよ、これでも」


 言いつつ、ジェラルドが隣のエマに視線を移します。小皿に取り分けたオードブルを食べていたエマが、口の中のものをこくりと飲み込んで答えました。


「最初に比べ、身長は5.5センチ増です。体重は4.8キロ増ですが、体脂肪率が3.3%ダウンしましたので、筋肉量が増加したと考えています」

「ジェラルドの管理はおまえが?」

「はい。できれば衣食住の管理はご自分でしていただきたいのですが、一年間を有効に使うことを考えますと、私が管理を行い、ジェラルド様はご自身の能力を最大限に引き出すことに没頭していただくのが一番との結論に達しました。

 今のところは順調です。できれば持久力をつけるために、もう少し体脂肪率を増やしていただきたいのですけれど」

「体脂肪率って……[鑑定]って、そんなところまでわかるんですの?」

「企業秘密ですわ、ベアトリス様」


 うふふと悪戯っぽく笑ってごまかすエマに、的を射ているのだと皆が確信します。あ、と声をあげ、アイヴァンが両手を打ちました。


「あれって、君のことかな? 昔、白華公の紹介で鑑定士の能力測定をしたら、神眼レベルだったから是非うちにくれって言ったのに、何度頼んでも承知してもらえないって」

「……そのような質問をされて肯定する者はいないと存じますが?」

「やっぱり君かー。ジェドの管理なんて辞めて、うちにおいでよ? 優秀な鑑定士が地方で埋もれるなんて、もったいないよ」

「だめだ」


 即答で拒否したのはジェラルドです。さっきまでの穏やかな表情が消え、学院の頃のような硬質な表情を面上に纏っています。


「埋もれるかどうかは第三者の勝手な見解にすぎない。本人と、彼女を必要としている者がどういう評価を下すのかが重要だろう。彼女を余所へやる気はない」

「だけど一年間だけなんでしょ?」

「……少なくとも、アルバ華公家の外に出すことは絶対にない。両親が許さない」


 ジェラルドの明確な答えに、残念そうな吐息をついたのはセレスティナ様でした。


「まあ、惜しいこと。ジェラルド様との契約が終わったら、エマに私のところに来ていただこうと思っていましたのに」

「本気か?」

「ええ。後宮に入る私には今、ひとりでも力強い味方が必要なのですもの。メイドとしても働け、かつ侍女として振る舞っても遜色がなく、間諜もできる鑑定士なんて、そう手に入る人材ではありませんわ」

「残念だけど諦めてくれ、セレスティナ。うちも弟妹たちと争奪戦なんだ」

「まあ!」


 目を丸くするセレスティナ様に、エマはつつましく「遊び相手として望まれているだけですわ」と答えていますが、ジェラルドの年の離れた妹君と弟君には、私も数度しか会ったことがありません。

 立場が違うので比較にはならないとは頭で思いつつも、エマが取り合いをされるほど家族ぐるみで仲が良いのだと思うと、胸の奥がずしりと重く感じます。


「使い勝手のいいメイドにかしずかれて訓練三昧の日々か……俺と変わってほしいくらいだな」


 まるで私の心中を酌んだような苦々しい声でそう言ったのは、ザカリアスです。

 

「ジェラルド、本当に鍛えたいのならルゴサ砂漠に行け。行って、なにも無い中で、その甘ったれた根性を叩き直して来い」

「それは君の課題だろう? 荒地の民の騎馬術と刀術を学ぶなら、君には最適じゃないか」

「……学べるものならな」

「どういう意味だ?」


 ジェラルドの問いに、ザカリアスは渋い面持ちのまま、口元を歪めます。それはとても皮肉気で――同時に、酷く苦しげに見えました。


「あいつら――ワルド族というんだが――最初に俺に砂漠馬を一頭と水を一袋くれたきり、それだけだ。学ぶもなにもあったものじゃない。何もないんだ。毎日荒地をさまよって、水と食料の確保で精一杯さ」

「よく今日戻って来られたな」

「あいつら、鷹で文書のやりとりをするらしい。それに、魔力も持たぬ平民だというのに土地勘がすごくてな。あっという間に、荒野で野垂れ死にしかけている俺を見つけて、グルーテンドルストの麓まで連れて来られたってわけだ。

 親父が何を企んだのかは知らんが、修業とは名ばかりの軽い国外追放さ」


 ザカリアスは乱暴に言って、冷たい青の瞳をちらりと隣の女性へ向けます。

 不躾な視線に、私は眉をひそめました。昔から態度や言葉遣いが荒いところがある方でしたが、ルゴサ砂漠の厳しさがそうさせたのか、今日ばかりは少し目に余るように感じます。


「俺もアルバで修業が良かったぜ。ジェラルド、代われよ」

「そんなわけ――」

「あら。では、貴方様もアルバにいらっしゃいますか?」


 ジェラルドの言葉を遮って、エマが明るく声をあげました。


「ガリカの若君ならば大歓迎ですわ。私、誠心誠意お世話させていただきます」

「ほう?」

「私は鑑定士をしておりますので、ときおり迷宮で見つかった古代遺物アーティファクトや製作者不明の魔道具などをギルドで管理しているのですが、中にはどうにも手に余るものがございまして」

「手に余る?」


 何を言い出すのかという表情で、ザカリアスが眉根を寄せます。私もはらはらしながら固唾を飲みました。


「はい。禁忌の呪具と呼ばれるものです。普段は厳重に封印をして倉庫にしまってあるのですが、場所もとるので困っているのです。それに、かなり高度でめずらしい術式が詰め込まれているものばかりですので、なんとか有効活用をしたいと常々考えていたのですわ」

「……つまり、おまえは俺に、その呪具を試させるつもりか?」

「はい。魔力耐性のすぐれたガリカ直系の貴方様ならば、最適ですもの」

「貴様、無礼だぞ!」


 声を荒げるザカリアスをイヴォンヌが止め、ジェラルドが腰を浮かせます。が、すっと閉じた扇が紺色の胸の前に差し出され、動きを制止しました。

 蜂蜜色の瞳が、倍も体格の違って見える男性を恐ろしいほどの冷やかさで見据えます。


「無礼とは、おかしなことをおっしゃいますのね? 残念ながら、[皇家の盾]としての役目も果たさず、贖罪のための修業も嫌だと駄々をこねる幼稚な相手に向ける礼など、私は持ち合わせておりません」

「な……っ。貴様なにを言っている?!」

「反論がございますか? [皇家の盾]として用を成さぬガリカの三男など、呪具の実験体でなければ、あとはみじん切りにして迷宮の魔物の餌にするくらいにしか使えませんもの。妥当な提案だと思ったので――きゃっ」


 小さくエマの悲鳴があがったのは、言葉の途中から立ち上がったジェラルドが、彼女を両腕に抱え上げたためです。

 「なにをなさるのですか!」と騒ぐ彼女を抱えたまま、ジェラルドがソファに座り直します。

 当然、エマは彼の膝の上です。


「下ろしてください、ジェド」

「だめだ。暴走しすぎだ、エマ」

「暴走ではありません。これは正当な意趣返しなのです!」


 意趣返しに正当や不当があるのかは疑問ですが、エマはきっぱりと言い切ります。


「私、この方のおかげで酷い目にあったのです。……ジェラルド様も文句をおっしゃって良いのですよ? 学院で死に掛けたのは、この方のせいなのですから」

「……薬の件か」


 大きくため息を吐いて、ジェラルドが片手を額にあててうなだれます。

 見れば、ザカリアスもルーファス殿下も、アイヴァンまでが視線を逸らして気まずそうな顔になっていました。

 ジェラルドの膝に乗ったまま、まだ不機嫌そうな顔をしたエマが、ぱちりと口元で扇を広げます。


「ええ。あのとき私、ジェラルド様の息が止まりかけましたので、周りの馬鹿側近たちをごまかしつつ、薬の種類を分析し解毒法を探して、できる範囲の処置をしながら緊急通信で薬師を呼び出し、手持ちの材料でなんとか解毒薬を作って飲ませて、やっと明け方回復させた直後に、ご当主様から『今すぐその女の首を獲ってこい』と命じられたのです。文句のひとつでも言わねば、割に合わないと思われませんか?」


 憤然とまくしたてられた主張に、さすがに私たちも言葉を失います。どうやらジェラルドが死に掛けたというのは、誇張でもなんでもないようです。


「父が立腹するのも無理はないが、首など獲れば……」

「もちろん『そのような娘を野放しにする学院など、存在する価値はない。潰してよいので好きにやれ。責任はすべてとる』と、まったくもって嬉しくない後押しをいただきました。当然、私はお断りすることなどできません」

「では……」

「ですから、皇帝陛下のお手を煩わせることになったのです。奥方様でも止めようがないご様子でしたので、妃殿下のほうからお話を回していただきました。このことがなければ、殿下方の起こした一件が、これほどの騒ぎとなることはございませんでした」

「私たちのほうに、そのような連絡はありませんでしたが?」

「姫君がたに詳細をお教えできるはずがございませんでしょう。身分詐称をしていた平民の娘が、四華公家の嫡男を殺しかけたのです。故意でなくとも公になれば、その時点ですべて終わりです」


 「公にせずとも終わりでしたけれど」とつぶやくエマの横顔は、どこか苦い表情です。

 ふいに、私は思い出しました。

 ベランダに投げ込まれた薔薇に括られていた急ぎ文の暗号――『状況悪化。薔薇たちを撤収させよ。薬に注意』――は、このときのものに違いありません。

 ジェラルドたちの様子にそれほど変わったところがなかったため、私たちは単純に、情報をくれる間諜の身になにかあったのではと考えていましたが、そこから転げ落ちるように彼らの態度が頑なとなり、関係は悪化の一途を辿ったのでした。

 そこに薬の影響があったのだとしたら――〝彼女〟はなんということをしでかしてくれたのでしょうか。


「あのとき私の体調が崩れたのは誰も予想できないことだったし、そもそも私自身の注意が足りなかったのだから、ザックのせいではないだろう?」

「確かに、貴方様も殿下も聖双児のお二方も、ご自身の判断で薬を口にされました。ですが、その報いは十二分に受けておいででしょう」


 イヴォンヌが恐る恐る疑問を口にします。


「その……薬というのは、男爵令嬢が持ち込んだという、平民の間で使われていた媚薬のことですわよね? それはそんなに危険なものでしたの?」

「あの薬は、媚薬としてはそれほど強くなく、すぐに常習性が問題になる類のものではありませんが、それでも現在、禁止薬物に指定されているものです。問題の重要性を加味され、当時は薬の詳しい情報は伏せるよう申し付かっておりました」


 これまで存在は知っていたものの、軽く考えていた媚薬の恐ろしさに、背すじを冷たいものが走ります。

 合わせて、当時明らかにおかしかった殿下の様子や神眼を失ったというフレデリクとフランシスの体調不良が脳裏の中で噛み合い、私はぎゅっと手の中の扇を握りしめました。


「では、[皇家の盾]とはなんですの?」

「……[皇家の盾]とは、ガリカ華公家の異名だ。彼らは皇帝のため皇家のために、身辺に関わるすべてのものを検閲し検分し、物理的な盾となることが責務とされている」


 ベアトリスの問いに答えたのは、ルーファス殿下でした。淡々と語られた内容に、部屋の空気が凍りつくのがわかります。まるで、急に戸外の冷気が入り込んできたようです。

 身辺に関わるすべてのものを検閲、という言葉に、私は学院でのザカリアスの様子を思い返しました。

 ルーファス殿下と常に行動を共にしていたのは、通常の護衛ではなく、食事の毒見や危険物、危険人物の排除まで行なうためだったのでしょう。そういえば、彼が浮名を流した女性たちは、どれも殿下の周りでうろついていた顔ぶればかりだったと気づいて、胃の底がぐっと重たくなります。

 そっとイヴォンヌを伺えば、強張った顔をしているものの驚いた様子はなく、[盾]の役目を知っていたのだと分かりました。

 エマが厳しい眼差しを崩すことなく、ザカリアスを詰問します。


「確かにあの薬は貴族にはあまり知られていないものでした。ですが、種類の特定が難しかったとはいえ警戒することは可能だったはずです。なぜあのような状況になるまで放置したのです?

 少なくとも貴方様には、[皇家の盾]として友人を含めた殿下の側近たちに薬の存在を知らせ、警告する義務があったはずです」

「……効果も毒性も低かったからだ。平民が扱う類のものだ。危険は少ないと判断した」

「その根拠はどこからきたのです? 素人が扱う粗悪な素材だからこそ、薬効以外の効果や本来より強い毒性が発現するとは考えなかったのですか?」


 畳み掛けられる問いに、ザカリアスは膝の上に乗せた両拳をぐっと握りしめます。エマの視線から逃れるように横を向いてうつむく顔は、硬く強張っています。

 堪りかねたように、ルーファス殿下がまたも口を開きました。


「[猛虎]の娘。おまえが怒るのも分かるが、その件はすべて私の責任だ。ザックは薬について報告を怠っていたわけでも、見過ごしていたわけでもない。私が捨て置けと命じた。彼はそれに従っただけだ」

「殿下。貴方様の責任の是非につきましては、陛下のご裁量ですので、私の口を出すところではございません――ですが」


 エマは、ザカリアスに対してと同じ強い眼差しで、ひたと殿下を見つめ返します。


「[皇家の盾]がそのような存在ではないことは、殿下もよくご存じでございましょう。なぜ四華公家フォー・ローゼズが貴族の最上位として迎えられているか、お忘れですか?

 国の最高権力者である皇帝陛下、皇族の方々が万が一ご政道を誤ったとき、それを正すことができる存在――それこそが四華公家でございます。

 おのれの責務を果たすためならば、勅命にも否と答えることが許される立場にありながら、腑に落ちぬ命令に粛々と従ったことは、怠慢と責められこそすれ、従順と評価されるようなことではございません。

 本当にご友人を大切にお思いになるのであれば、下手に庇い立てするのではなく、ご自身に起きた症状を余すところなく語って差しあげてはいかがです?」


 症状という言葉に、思わずルーファス殿下を注視します。卒業式の頃より顔色は良いようですが、いつも覇気に輝いていた緋金の瞳は底知れぬ翳を湛えていて、髪を短くしたせいかと思っていましたが、一人だけふたつみっつ先に年を重ねたように見えます。

 エマが、視線をザカリアスに戻しました。


「なぜ種類も特定できていない薬に対して、捨て置けという命に従ったのです? たとえ明らかに危険が少ないと考えられるものでも、最低限の調査はすべきでしょう?」

「俺は幼い頃から、百種類以上の毒を口にしてきた。その中に当てはまるものがなかった。おまえには[鑑定]があるかもしれないが――」

「毒ならば私も百二十まで味の区別がつきますし、薬師の母は三百種類以上の毒と薬をおのれの舌と鼻で特定できます。これは、能力ではなく経験の問題です。

 私が理解できないのは、学院という最適な環境にいながら、誰かに相談することも調査を委ねることもされなかったことです。持ち込んだのが平民だから油断した、という言い訳は、もはや聞きたくありません」


 次々と退路を塞ぐように、容赦のない舌鋒が続けられます。


「薬草学の基礎で、素人が薬を扱う危険性は習ったはずです。計量も調合も保管も杜撰な相手が処方したものを、なぜ最初の毒見だけで危険が少ないと判断できるのですか。

 保管状態が悪ければ品質は劣化するだけでなく、物によっては変質します。さらに素人の腕では、薬の粒度も適当で、調合も均一にはなりません。成分が偏っていようと、粉になってしまえば素人目には判断がつかないのです。加えて、調合した本人はすでに常用者で、飲んだところで濃度など分からない状態。その相手から、偏った成分の薬を飲まされたほうは、一体どうなるとお考えだったのですか」


 あの薬草学の専門書を持っていたことから分かるように、エマは平民ながら、薬草学をきちんと学んでいるのでしょう。だからこそ出た厳しすぎる苦言の正しさに、誰も抗弁の声をあげることはできません。

 凍りつく空気をものともせず、エマは手の中の扇を軽く口元に添えて、小さく息をこぼします。


「まあ、何も考えていないからこの結果なのでしょうけれど」

「エマ」

「不敬などと興醒めのことをおっしゃらないでくださいませ、ジェラルド様? こういう方は、はっきり申し上げないと分からないのです。どうせ赤華公閣下のお叱りの言葉も修行のご命令も、貴族的言い回しの裏を読む努力などなさってらっしゃらないようですもの」

「裏……?」


 聞き返したジェラルドに反応したのは、ザカリアスでした。


「言い回しの裏を読むのが苦手なのはその通りだが、その件については一応、納得はしている。その、ジェラルドの症状がそれほど重かったとは考えていなかったが……俺の不手際については理解しているつもりだ。

 修行の件も、おそらく俺が東方騎士団に入りたいと希望したから、なのだと思う」

「東方騎士団?!」


 イヴォンヌが驚きの声をあげます。

 ガリカ領は国の南東部に位置しますが、赤華公家は代々中央の防衛に従事することとなっており、地方の守りは地方貴族が一丸となってあたるのが通常です。

 東方騎士団は、モス辺境伯を中心としてまとまり、主にグルーテンドルスト周辺の守りを行なっています。国の東部に位置するイヴォンヌのフェティダ領も当然その一翼を担っており――もしや、という期待が胸をよぎります。


「前から考えていたことだ。イヴが将来女侯爵となって領地に戻るのであれば、俺もそれについていくべきだろうと。ただ……文官としてはまったく役に立たないからな。俺の腕を生かせる場であれば、騎士しかないと思っていた。侯爵家の一員となるなら、自領のことだけを考えれば良いという立場でもないからな」

「正気ですの? 赤華公家の貴方が、地方貴族や平民に混じるなんて、そんな――」

「それについては、父上も兄上たちも承知している。ルーファスの近衛となるなら、ある程度後進が育つまでは皇都を離れることはできないと思っていたが、モスカータ公を叙爵された今、近衛は必要ないからな。動けるなら、顔を馴染ませる意味でも早いほうが良い」

「トリスタン殿下の近衛はどうされるのです?」

「次兄がそのまま継ぐだろう。今は共に飛竜隊にいるが、すでに主従契約を結んでいると聞いている」


 トリスタン殿下は学院をご卒業後、皇族の慣例に従って皇国軍に入隊され、飛竜隊の騎士としてご活躍されています。ザカリアスの次兄は殿下よりひとつ年下ですが、学院の頃よりお傍にいたようで、飛竜隊入隊も自ら強く希望して配属されたと聞きます。


「皇国騎士には優秀なものが大勢いるし、俺の下にも弟たちが控えている。[皇家の盾]は皇族の身近にいずとも、地方で支えることでお役目を果たすことも出来るはずだと、父上には言っていただけた。

 だが……ガリカの俺が地方にいけば、越権行為だと必ず反発を招くはずだ。ただの一兵卒として迎えられれば僥倖だが、フェティダの顔を立てれば将校として向かうことになる。中央が権力を強める気かと、いらぬ疑いを招く可能性もあるだろう」

「なるほど、そこで荒地の民の存在が必要になるわけか」


 ジェラルドが得心したように声をあげます。


「そうだ。俺も……今日のために一度帰ってくるまで気づかなかったが……[竜の背]は思ったよりも守りとして甘い。嶮峻だし、背後には砂漠が控えているので一見強固な防壁に思えるが、あんなもの荒地の民であれば馬ごと容易に越えられる。集団ではさすがに厳しいが、個々であればまったく問題がないレベルだ。さすがに俺も、昔からモス辺境領をはじめとした東方騎士団が防衛の要として重視されてきた理由を思い知ったよ。

 だからこそ、東方騎士団を望む俺が、荒地の民とコネクションを作ることは、俺自身の付加価値を高めるために不可欠なのだと理解している――が」


 ザカリアスは熱く一気に語り、またも暗い視線を膝に落としました。


「そこからが分からん。ワルド族は本当に、砂に向かって剣を突き立てるような相手なのだ。どうやったらあれらから騎馬術や刀術を学べるというのか……愚かな貴族だと、おまえは嗤うのだろうがな」

「嗤いはいたしませんわ。愚かだとは思いますけれど」


 きっぱりと答えたエマに、ザカリアスは紺青の目を見開きました。



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