【首輪の事情と、そしてそれから*4】
4.休憩室の内緒話
深い臙脂色でまとめられた休憩室は、学院のサロンくらいの広さで、長方形のテーブルを中心に大きめのカウチソファが三脚、コの字を描いて並んでいます。壁際にはキャビネットがいくつかと一人掛けの椅子が数脚あり、茶会にも会議にも使える仕様となっているようです。
一番奥のソファには私、左隣にベアトリス、アイヴァンと座り、間のソファにセレスティナ様。手前のソファには、ジェラルドとあの女性が隣り合って座ります。
「それで、さっきのは一体なんだい? ジェド」
「ああ。最近夜会で、若い女性に薬の入った酒を勧めて連れ出す事件が頻発していたらしくてね。騎士団の仕事を奪わない程度に目を配れと、父から言われていたんだ。まさか《聖誕祭》では起こらないだろうと思っていたが、案外犯人は愚か者だったようだ」
「では、給仕になにか渡していらしたのは?」
「騎士団へのメモだよ。状況を簡単に教えておいた」
私の問いに、事も無げにジェラルドが答えます。あの短時間で、いつメモをする余裕があったのでしょうか。
「入れられていたのは、毒物ではなかったみたいだけど?」
「薬といっても、特殊なものではないのです。ある種の鎮痛剤が、お酒と混ぜると急激な酩酊状態を引き起こす作用をもたらしまして、それを悪用したものと思われます」
まるで事務官のように端的な説明が、ジェラルドの隣の女性の口から告げられ、質問をしたアイヴァンのほうが妙な顔になります。くっとジェラルドが、拳の陰で笑いました。
「紹介が遅れたな。彼女はエマ。鑑定士で、今の私の監督役だ」
「このような形でのご挨拶となり、みなさまには失礼をお許しくださいませ」
「なるほどね。では君は、鑑定士として事件に協力を?」
「いえ、先ほどのことは協力というほどのものではございません。まさかアイスバーグ侯爵ご令嬢が標的になるとは思いもせず、焦って少し先走りすぎてしまいました」
「ナタリアで構いませんわ。貴女のおかげで助かりました。もう事件のほうは大丈夫なのですか?」
礼を言えば、彼女――エマは、にっこりと蜂蜜色の瞳を細めます。
「私のことは、エマとお呼び捨てくださいませ、ナタリア様。間に合ってようございました。彼が給仕に連れ出されるのを見て、動揺している者が数名おりましたので、あとは芋づる式に捕まるのを待つだけですわ」
「それを聞いて安心しました。あまり愉快な経験ではありませんもの。他の方が被害に遭わければよいと思うのです。せっかくの夜会ですもの」
「〝愉快でない〟どころではありませんわよ、ネティ。一歩間違えれば、貴女の身が危なかったのですのよ?」
ベアトリスが眉をきっと逆立てて怒りますが、どうも腑に落ちません。
男性が女性を酔わせて悪戯しよう企んだことは想像がつきます。けれど、ネックレスとピアスには護りの魔法陣を仕込んでいますし、私のような貧相な小娘など、酔わせたところでどうという気も起きない気もいたします。
「勧められた飲みものは最初から口にする気はありませんでしたし、もう少し待てばケヴィンが来たでしょうから、それほど危なくはなかったと思うのですけれど?」
「また、そんな呑気なことを言って! 貴女がどれだけ男性にとって魅力的か、まだお分かりになりませんの?」
「それにあの男、パートナーから君を隠すように移動していた。君がいないことに気づいても、彼はすぐに探し出せなかったと思うよ?」
「それにグラスを持てば、飲ませるほうに誘導することはわりと簡単ですのよ? やり方も巧妙でした。警備が警戒するぎりぎりの誘い方に見えましたわ」
「おそらく夜会に不慣れな女性ばかりを狙っていたのだろう。どんな理由であれ、君はパートナーから離れるべきではなかったね、ナタリア」
次々に皆から叱られ、私はしょんぼりと俯きます。やはり認識が甘い、頼りない娘に見られるのでしょうか。
ぱちり、と音がして目を上げれば、エマが口元で扇を広げ、やんわりと微笑を隠していました。
「なんだかこちらには、ナタリア様の保護者様が勢ぞろいされておりますのね? お羨ましいことですこと」
「……ええ。そうですね」
「ならば今回の件は、保護者様の監督不行き届きということで、皆さまにもご一緒にお父君のお叱りを受けていただけるのではありません?」
エマのおどけた言い方に、こわばっていた私の頬から、わずかに緊張が解けます。
気づいたジェラルドが、詫びるように眉尻を下げました。
「すまない、ナタリア。被害に遭ったのは君なのに、責めるような言い方をしてしまった」
「いえ、私も隙があったのですわ。パートナーから離れるべきではなかったのは、その通りですもの」
「いいえ、ナタリア様。貴女のパートナーが貴女から離れるべきではなかったのです。貴女様がしなければならなかったのは、主導権を握り、愚かなパートナーから目を離さないようにすることでした」
明快なエマの断言に、私ははっと胸を突かれました。確かにそのとおりです。彼の主家の娘である私が、上手くケヴィンをあしらわねばならなかったのです。
「ですがデビュタントでは、そんなにうまく全てをこなせませんものね? これから気をつければ良いことです」
「パートナーと離れて困ったら、給仕か護衛に合図をするといい。今回の捜査関係者は赤いタイが目印だが、そうでない者も不測の事態に対処できるよう訓練されている。彼らを頼れ」
「他にも、知っている顔を見つけたら、話したことがなくともそちらへ行くと良いですわ。そうすれば、心配性の保護者の皆さまが救出に向かいやすくなります」
現にこうして皆さま集まってくださっていますものね?と付け加えられ、私は守られている事実に胸が熱くなるのを感じました。潤む目をごまかすように俯けば、ベアトリスがそっと片手を握ってきます。
その仕草に、私は自分の手が思っていたよりも冷たく、震えていることに気づきました。
「――ジェラルド様。私、お腹が空いてしまいました。あの美味しそうなお料理を食べ損ねたのです。持ってきてくださいませ」
唐突にエマが子どものようにねだり、ジェラルドが軽く眉を寄せました。
「ここで、か?」
「もちろんです。私、宮廷料理がいただけると聞いて夜会に参加したのですよ。いただかずに帰るなんて、もったいないことはできません。お腹が空いて限界です」
「だから城へ来る前に、少し食べておけと言っただろう」
「あら。では次の夜会では、ジェラルド様にコルセットをつけてお化粧をしてドレスを着て髪を結っていただくよう手配いたしましょう。よくお似合いになるのでしょうね?」
「……わかった。取りに行けば良いのだろう」
しぶしぶ立ち上がるジェラルドに、エマは「デザートと飲みものも忘れずにお願いいたしますね」と悪びれない笑顔で付け加えます。
私も欲しいものはあるかと聞かれましたので、水のお代わりをお願いします。他の三人の注文も聞き、ジェラルドが部屋を出て行きます。
華公爵令息を給仕代わりに使うなど非礼極まりないのですが、取り乱しかけた私に気を遣ったことが分かったのか、咎めるものはいませんでした。
私はテーブルの上に置いていたグラスに手を伸ばし、残りの水を飲みきります。
「……ありがとうございます、エマ」
「いえ。女心の機微が分からぬ主人で申し訳ありません。少し落ち着かれまして?」
「ええ。……いけませんわね。社交界デビューもしたのですから、しっかりしたいと思うのですけれど」
「あの場で動揺をお見せにならなかっただけでも充分ですわ。でも……そうですわね。よい機会ですから、年長者からひとつ申し上げましょう」
あまり年上には見えないエマがそう言い、穏やかな笑みを消して、口元の扇を閉じます。
「これは他の姫君がたにも、もちろんダマスク華公爵ご令息にも心してお聞きしていただきたいのですが――ただ、お聞きになった後は、必ず速やかにお忘れくださいませ」
「え、ええ。分かりました」
「あの男たちの真の目的は、恐喝です。彼らは何も知らないご令嬢を騙し、汚し、あるいは汚したように見せかけて親や婚約者から金を搾り取ろうとする、骨の髄まで腐った輩です」
全身から血の気が引いていくのが分かりました。私は常日頃、アイスバーグ侯爵家を背負っていると心身に刻み込んでいたつもりでした。それでもまだ、いえ、まったく用心が足りていなかったのです。
もしあの時どこかへ連れ込まれていたら――たとえなにも起こらずとも、親しげに話すだけでも、噂を振り撒いて恐喝のネタにするなど、犯罪者には容易なことだったでしょう。
「まさか、このようなところで、そこまで」
「恐喝などという卑劣な真似を貴族がするはずないと? 犯罪の引き金となるのは、金、愛、プライド、怨恨、嫉妬、僻み……この宮廷には満ち溢れているではありませんか? 犯罪に手を染めるか否かは大きな差ではありますが、人はそんなに強くはございません。貴賎の別などないのです。ですが、彼らに同情は不要です」
強い眼差しでこちらを見つめ、エマが言葉を続けます。
「犯罪者を許してはなりません。おのれの事情を棚に上げて、欲と懐とくだらないプライドを満たそうとした、卑劣な者たちが起こした卑劣な犯罪です。誰になにを言われようが、貴女様は被害者です。
今日のことはお忘れくださいませ。ですが、お心に留めていただきたいのです。笑顔で近づく隣人が、単なる悪意の持ち主だけでなく、狡猾な犯罪者である可能性があることを」
「忘れられる……でしょうか」
「簡単ではないでしょう。ですが、せっかくの社交界デビューを下らない男のせいで汚されたくはございませんでしょう? 取るに足らない相手を記憶に留めるなど、ましてやそれに煩わされるなど、腹立たしいではありませんか?」
「……エマは強いのですね」
「犯罪者が嫌いなのです。あのような男など、もいで毟って裸にして逆さ磔にすれば良いと提案したのですが、ジェラルド様に止められてしまいました」
乱暴な表現に、一瞬何の事だかわからず、私は目をまたたかせます。
毟る、というのは毛髪のことでしょうか。では〝もぐ〟というのは……裸、罰、男性と考えて、ようやく思い至りました。大胆な内容に、かっと頬が熱くなります。他の皆はすぐに分かったらしく、横を向いて笑いを堪えているのが見えました。
ベアトリスが「淑女らしくないと言われても、全面的にその案に賛成いたしますわ」とつぶやいて、セレスティナ様に軽く睨まれています。
この場で唯一男性であるアイヴァンも、くすりと笑い、めずらしく人嫌いを返上して話しかけます。
「君は本当に平民? まるで優秀な侍女みたいだ」
「まぎれもなく平民ですわ。そのようにお思いいただけますのは、奥方様の教育の賜物でございます」
「白華公夫人の?」
「はい」
アルバ華公爵夫人レティシア様は、宰相夫人という立場ながら滅多に社交界に現われないことで知られている方です。
それはご結婚前も同じで、百年戦争の最中だったこともあって学院にも通われず、モス辺境伯の掌中の珠として、社交界デビューまで隠匿されていたと聞きます。ですので、アルバ華公爵がモスの精霊姫としてその美しさを謳われた幻の令嬢を射止めたときは、社交界中が引っくり返るような騒ぎとなったというのは有名な話です。
レティシア様は、ジェラルドと同じプラチナの髪に菫色の双眸、繊細な面差しや容姿すべて、ため息が出るほど美しいのですが、本当の素晴らしさはその振る舞いだと言われています。
指先ひとつ、瞬きひとつがとても優美で、一緒にいると、同じ空気で呼吸をしているのにまるで自分とは違う世界の住人のような気がしてしまうのです。
それなのにお話しするととても気さくで親しみやすく、男性にはもちろん女性にも絶大な人気があるのです。私はジェラルドの元婚約者ということで、他の方より少しは親しくさせていただいていますが、礼儀作法を教えていただく機会などありませんでした。
エマの話は、少し……いえ、かなり羨ましい話です。
「レティシア様に礼儀作法を習うだなんて、随分と可愛がっていただいていますのね?」
「大変ありがたいことに、目をかけていただいております。素地のない平民相手に、さぞご面倒だったと思われるのですけれど、仕事には必要なことでしたから」
ベアトリスの問いにそう応え、エマが、小鳥のように首をかしげてこちらを窺います。
「私のようなものが突然現われて、ナタリア様はご不快ではありませんでしたか? 私、ずっと気になっておりましたの」
「私が口を挟むことではありませんし……それに、今日のことは白華公閣下のお考えなのでしょう? かの方がご自身のお立場を弁えないことなどないと、父より聞いておりますから」
「……ナタリア様は本当にお優しい方ですのね」
エマが、どこか懐かしいような、やわらかな笑みを浮かべます。それがふいに、悪戯っぽいものに変わりました。
「ですが、少しくらい怒ってみられても良いのではありませんか? この泥棒猫!とか、今ならジェラルド様も居りませんので、罵りたい放題ですのよ?」
「まあ、そんな」
「確かにネティはもう少し怒っても良いと思いますけれど、そのようなことを本当におっしゃる方がいますかしら?」
「あら、貴族では敵対する女性を貶める一般的な常套句ではありませんの? 私、宮中のドロドロ愛憎劇物語が大好きなのですけれど」
まるで経験できるのを期待していました、とでも言いたげな眼差しに、私は怒るよりも先に吹き出してしまいます。
エマの言う宮中ドロドロ愛憎劇物語とは、田舎出身の中位貴族の女性が結婚を機に宮廷にやってきて、様々な困難を乗り越えていく大人気シリーズです。その中には〝泥棒猫〟のように、主人公を虐める宮廷夫人たちから繰り出される印象的な罵倒がたくさん載っており、その凄まじさは読む側が身悶えるほどで、それがまた人気の秘密でもあります。
私も毎回どきどきしながら読み、次作を待ちかねている状態なのです。
愛読者であるベアトリスとセレスティナ様も、扇を取り出して、隠しきれない笑いを堪えています。
「まさか、その物語は華公夫人のレッスンには入っていませんわよね?」
「当然入っております。宮廷の雰囲気を知るのにちょうど良い教材だと、全十巻を貸し出してくださいました」
「まあ! では、レティシア様もお読みになっていらっしゃるのかしら?」
「ええ。……と申しますより、作者様と親しいご関係とおうかがいしております」
内緒ですけれど、とエマが付け加えますが、こんな大きな声の内緒話はありません。
ベアトリスの葡萄色の瞳が、そこをもう少し詳しく!と輝きます。
「噂では、あの物語の主人公にモデルがいると聞きますけれど?」
「どのあたりがとは申せませんが、真実6割、誇張3割、嘘1割とお聞きしております」
「まあ! ……もしや、レティシア様自身がご経験されたことではありませんわよね?」
「読む方が読めば、だいたい誰がどの方のモデルかは分かるはず、とは教えていただきました。これ以上は詳しく申せませんが、発売された時期を考えますと、おおよそのことはお分かりになられますかと」
[宮廷物語]が発売されたのは、五年前。私たちが成人を迎えてまもなくのことです。
その頃の宮中は、ルーファス殿下の皇太子就任が決まったことで、保守派のロザムンド皇太后が革新派であるテレサ妃を押し退けて勢力を強めており、まるで戦時中を彷彿とさせるようなギスギスした雰囲気だったと聞いています。
ルーファス殿下の実母であるレイチェル皇后は、産後の肥立ちが悪く、殿下が一歳になる前に身罷られました。魔力の強い女性は、胎の子の魔力との相性によって、心身を削られることが間々あるのです。
テレサ妃が、貧しい男爵家の妾腹の娘で皇后になれなかったにもかかわらず、陛下の寵愛を受けて先に第一皇子を産んだこともあり、先帝陛下の姪である皇后陛下にはストレスの多い環境だったことも関係していると噂されました。
皇后陛下のご逝去後、皇帝陛下はルーファス殿下の養育を実母のロザムンド皇太后ではなくテレサ妃に託され、二人の皇子は本当に仲良い兄弟として育ちました。ですが長ずるに従い、外見からも皇族の血の濃いルーファス殿下を保守派が担ぎ上げるようになり、調和が乱れたのです。
ルーファス殿下のせいではありませんが、彼の皇太子就任は、保守派を納得させるための政策のひとつでありました。しかしこのことで、ただでさえ保守派上位貴族から当たりの強かったテレサ妃は、さらにお立場が弱くなり、後宮で眠ることができなくなるほど追い込まれたと聞きます。
陛下や腹心の側近の方々は終戦後の国内外の処理に忙しく、宮中にまでなかなか手が回りません。派閥で味方をしたくとも、革新派は下位貴族や振興貴族が多く、また古参のものは保守派との間に挟まれて波風を立てないようにするので精一杯。
――そんなときです、[宮廷物語]が世に出たのは。
「やはり、あれは妃殿下をお救いするための策だったのですね」
「まさかレティシア様が動かれていたなんて……てっきり妃殿下のご実家が中心となって、表に出られない下位中位貴族が動いたものだとばかり思っていましたわ」
「確かレティシア様はご懐妊中か、ご出産後まもなくくらいのことではありませんの?」
驚いて私たちが口々にそう言えば、エマがにっこりと微笑んで肯定します。
「ええ。懐妊と出産を理由に官邸に引きこもっている自分が動くとは誰も思わないだろうからと、思う存分暗躍をしたと笑っていらっしゃいました。奥方様のはかなげなご容姿に皆様ごまかされがちですが、あれでも宰相夫人ですので、胆力は並の男性以上です」
エマの言葉に、セレスティナ様が大きくうなずきます。
「本当、騙されますわね。センティフォーリアは中立が基本ですので、妃殿下の窮状に何も御力になれないことを子ども心にとても悔しく思っていたのです。そのときあの物語を読んで、どれだけ励まされことか。宮廷の闇を憎む者が他にもいるのだと知って、とても胸が熱くなったのを覚えていますわ」
「痛快ですものね。母に勧められて読んだ本で、あんなに感想で盛り上がったのなんてはじめてでしたわ。主人公が最後、悪役に啖呵を切る場面がとにかく素敵なのです。今でも台詞を諳んじれるほどですわ」
「私は叔母から勧められて読みました。なんでも当時、主人公が少しずつ仕返しをしていく様子をそっくり真似された方がいたのですって」
「まあ大胆ですこと! でも、その気持ち分かりますわ!」
きゃあきゃあと盛り上がっていますと、一人傍観していたアイヴァンが「なんだか面白そうだから、僕も読んでみようかなあ」とつぶやきます。
「まあ、ヴァン。男性が好まれるような物語ではありませんのよ?」
「うん。でも、みんな楽しそうに話すから」
「ふふ。読まれましたら、女性を見る目が変わりましてよ?」
「そうなの? 怖いなあ」
「是非お読みになって、いろいろと肝に銘じられるとよろしいですわ。ジェラルド様も『男でよかった』と震えあがっておられましたから」
何気なく付け加えられたエマの一言に、皆の動きが止まります。ベアトリスが扇を口元に当てたまま、内緒話をするようにエマのほうに身を乗り出しました。
「ジェラルド様もアレをお読みに……?」
「はい。今宵の社交界デビューの準備をするにあたって出された、奥方様からの課題本のひとつです。宮廷社会への理解の一助にするようにと、他にもいろいろ……」
エマが指を折りながら挙げていく本の題名は、どれも宮廷を中心とした恋愛物語で、およそ男性が進んで手にとるような内容ではありません。
ジェラルドが、眉を寄せたあの顰め面で、騎士が姫君にささやく長く甘い口説き文句を読んでいるのだと思うと、笑いが込み上げます。慌てて扇で口元を隠しました。
ちらりとテーブルの向こうを窺えば、セレスティナ様も笑っているのが分かりました。
「困りましたわ。レティシア様への見方が変わってしまいそうです」
「あら、構わないのではありませんか? 人は一様ではありませんもの。変化を恐れていては、なにも手に入りませんわ」
淑女の装いをした平民のエマが言うと、妙に説得力のある言葉に聞こえます。
「あの物語は、水中に投じたひとつの小石のようなものです。波紋を引き起こすことはできますが、それ以上のことは起こせません。起きた波紋をどう見てどう感じ、何を心に描いたかは、きっと皆さま違うはずです。もしもその後、宮廷に変化が生じたのであれば、それは物語のせいではなく、皆さま自身が望まれた結果でありましょう」
[宮廷物語]は、革新派の心を勇気づけただけではありません。エマの『読む方が読めば、だいたいモデルが分かる』という言葉を信じれば、保守派の理不尽な虐めの事実が公になったということでもあります。それは気位の高い保守派上位貴族にとって、心理的にも立場的にも大きな痛手となったことでしょう。
そしてこの小さな変化をきっかけに、離宮にひきこもりがちだったテレサ妃が積極的に公務に関わるようになり、市井にも頻繁に姿を見せて、国民から絶大な支持を得る現在に繋がることになるのです。
「エマ。貴女、他に何を知っているのです?」
「これ以上は秘密でございます」
「まあ、意地悪ですのね。ここまで話しておいて」
「ここで私がこのお話をいたしましたのは、奥方様のお許しをいただいていたからにございます。今宵デビューを迎え、これからの宮廷を支える新しい柱となるご令嬢方に――ひとときの余興を、と」
ぱちりと開いた扇の向こうで微笑む瞳は、謎めいて、それでもどこまでも温かに見えます。
今宵あらためて皇太子婚約者となられたセレスティナ様が、ふっと膝に置かれた扇に視線を落としました。
「それでは私、心強い味方を得たと思ってよいのでしょうか……?」
「できましたら、奥方様に直接、物語の感想をお伝えいただければ嬉しいとのことですわ」
セレスティナ様の灰緑色の双眸が、大きく見開かれます。
私たちも驚きました。それはつまり、これまで身を潜めていらしたレティシア様が、表舞台に出られるということなのですから。
「ではレティシア様は、公に物語の制作を……?」
「ええ。今、新しい企画が持ち上がっているのです。実は私、そのことでナタリア様にお声掛けしようと思っていたのですわ」
「私、ですか?」
首をかしげれば、エマが嬉しそうに、満面の笑みでうなずきます。
「はい。ナタリア様、是非[学院物語]をお書きになりませんか?」
「学院物語……ですか?」
「そうです。あのお馬鹿な元婚約者様方が引き起こしたお馬鹿な一部始終を、積年の怒りとともに紙に叩きつけるのです。ナタリア様は本がお好きで文章もお得意ですから、きっと良い物語になると思うのですわ。私、とっておきの情報を提供いたします!」
きらきらとした笑顔で告げられた内容に、私は一瞬、思考が凍りつきます。
お馬鹿な一部始終――いえ、言わんとするところは分かります。主家の令息を〝お馬鹿〟呼ばわりするのはいかがと思いますが、分かりすぎるぐらいに分かります。
ですが、いくらレティシア様の教育を受けたとはいえ、平民のエマがなぜそこまで知っているのでしょう?
困惑する私は、こちらを見上げるエマの蜂蜜色の瞳に、またも既視感を覚えました。
「まあ――貴女でしたのね? エマ」
声をあげたのはセレスティナ様でした。ようやく思いついたというように、羽扇を手のひらに打ちます。
「貴女があの、アルバ華公爵家の謎の間諜でしたのね?」
「――大変ご挨拶が遅れまして申し訳ございません。[冬姫]様」
学院時代の異名を呼んで頭を下げるエマは、どこからどう見ても平民どころではなく、立派な淑女そのものでした。