【首輪の事情と、そしてそれから*3】
3.謎の女性とさまざまな思惑
――シラーとは、どこの家名だったかしら?
主だった貴族の中に心当たりはありませんが、どこかで聞いた気がします。
私が記憶を探っているうちに、謎のパートナーと共にジェラルドが会場に姿を現わしました。好奇心に満ちていたざわめきが、ふいに張り詰めたどよめきに変わります。
上位貴族として奥まった位置で整列していた私の前に、落ち着いた足取りで男女が近づいてきました。
幾何学模様を織り込んだ濃紺のテールコートに白のズボン、黒の長靴。二列のボタンをきっちり留め、体のラインに添って仕立てられたそれらは、しばらくぶりに見る彼のスタイルの良さを余すところなく引き立てています。磨き上げられた靴も真っ白なシャツも、シンプルなのに品が良く、さすが白華公家と言ってよい完璧さです。
傍らに従うのは見知らぬ小柄な若い女性で、髪を上げきらず、うなじの辺りで結っているので未婚なのでしょう。ですが、同じ濃紺の生地で仕立てたドレスを着ているため、デビュタントでもないようです。
女性の魅力を最大限に生かしたハートカットネックのベアトップドレスは、途中で大きなドレープを描いてリボンを作り、その下から純白のスカートが広がるという大胆な組み合わせとなっています。
「あの娘は誰だ」と其処此処でさざめきが走りますが、答えるものはいません。それに、明らかにジェラルドと揃いの衣裳であることや対のコサージュの存在に、おおよその見当がつくというものです。
大輪の純白の薔薇――それを身に着けるということは、アルバ華公家を背負うということ、そのものなのですから。
ですが、あれほど恐れていた白薔薇を目にしても、さほど私は衝撃を感じませんでした。
なぜなら、それ以上の驚きがあったからです。
きっちりと仕立てられた、ジェラルドの濃紺の上着。その硬質さを和らげるように、首元には繊細な――私がいただいた花模様とは違う複雑なアラベスク柄の――妖精のレースがクラバットとして結ばれているのですが、なんと、そのレースと首の隙間に、あの黒革の首輪が顔を覗かせ、青い魔石のついた銀の南京錠が、まるで装飾品のように輝いて主張しているのです。
目敏いものたちが見つけ、あれはなんだと囁き合う声が次第に大きくなります。
――いったい、何を考えているのでしょう?
あの首輪は、一年経たないと外せないと聞きました。であれば、高い襟の下に隠したり、クラバットを上目に巻けばいくらでもごまかせるはずです。なぜ、よりにもよってこの《聖誕祭》の夜会で、首輪をつけた姿を衆目に晒す必要があるというのでしょうか。
しかも、パートナーの女性の首元にも、同じ銀色の輝きを放つ小さな鍵が黒いリボンで結ばれています。こちらは大きくデコルテを露わにしているため、地肌の白さに映えて余計に目立ちます。
白華公に命じられて晒し者になったのかと案じ、伏せていた視線をちらりと上げれば、まっすぐに前を向いて歩くジェラルドの横顔が目に入りました。
どきん、と胸が高鳴ります。
少し痩せたでしょうか。プラチナの短髪を長めの前髪ごと後ろへ撫でつけているため、露わになった顔立ちは、記憶にあるよりも顎のラインがシャープな気がします。
けれど、学院で見られたあの張り詰めた雰囲気は微塵もなく、口元に微笑を浮かべて悠然と歩む姿は、むしろ昔の彼がそのまま育てば斯くあるだろうと思わせる麗しさでした。
女性たちの悲鳴のようなため息が、あちらこちらで漏れるのが分かります。
「ふん、道化じみたことをしてでも注目が浴びたいらしいな。四華公家もたかが知れている。婚約を解消しておいて良かったな、ネティ」
隣でケヴィンがぶつぶつ言っていますが、無視します。
ですが彼だけでなく、居合わせた人は皆、ジェラルドの謎のパートナーに奇抜な首輪、そして見事な貴公子ぶりに、すっかり意識を奪われたようでした。
次に、貴族階級の最上位としてセンティフォーリア華公爵のセレスティナ様が入場しましたが、注意を払う者はほとんどいません。セレスティナ様は会場の雰囲気に一瞬驚いた様子を見せ、すぐに歩みはじめました。
純白のドレスは、小さな袖のついたプリンセスライン。無数のクリスタルガラス・ビーズを散りばめた、ぴったりした胴部分の下から繊細なチュールを重ねたスカートがふわりと広がり、まるで降りしきる雪景色のような美麗さです。
銀色の巻き毛は額をしっかり出してハーフアップに結い、手首には大きなペールピンクの百重薔薇が重そうに揺れています。
パートナーは見知らぬ年上の男性ですが、センティフォーリアらしい銀髪の持ち主ですので、外洋をしていたという外交官の叔父様ではないでしょうか。外交官にふさわしい物腰で、落ち着かない空気の中をエレガントに素早くエスコートしていきます。
セレスティナ様たちが指定の位置につく頃には、浮ついていた雰囲気もやや鎮静しました。
正面に向き直り、皇族の入場を待ちます。
ファンファーレとともに、皆が一斉に軽く膝を折って頭を下げます。上座として設けられた舞台に、衣擦れをさせて数人が上がる音がして、やがて静まり返りました。
「面をあげよ。皆、楽にするがよい」
荘厳な声が響き、顔を上げれば、壇上とその周辺には皇族を含めた国の重鎮たちが居並んでいました。
舞台の中央、玉座の前に立つのは皇帝陛下です。豊かな黄金の髪に宝冠を戴き、芳醇な魔力を乗せた声で今年一年の労りを述べる御姿は、[黎明の金獅子]にふさわしい勇壮さです。
向かって左手後方には現在唯一の妃であるテレサ妃。トリスタン皇子、ルーファス皇子と続きます。白と金を基調とした衣裳に赤のマント。統治を示す複数種の薔薇で作られた花環のコサージュがまさしく華を添え、まばゆい限りです。
皇太后陛下と、問題を起こしたとされる皇弟殿下の姿がありませんでしたが、他の皇族はすべて脇に整列しています。反対側には金緑の御衣裳の最高神祇官夫妻に続き、宰相である白華公がめずらしくレティシア様を伴って控えています。その隣に真紅の軍服を着た軍最高司令官と青銀のローブを纏う魔術師長が並んでおり、きらびやかな一団の中で、宰相の黒衣が一層沈んで見えました。
まるで影法師のような佇まいに、ふと父が言っていた言葉を思い起こします。
『白華公ほど、おのれの立場を弁えてらっしゃる方はおらぬ。常に陰に身を置いて周囲に目を凝らし、悪評までも味方につけるのだ。そのうち失敗すら策謀の内なのではないかと、敵対する相手が疑心暗鬼に陥るほどよ。見事なものだ』
『……少し、恐ろしいですわね。宰相としてはご立派なのでしょうけれど』
『貴族社会のやり方に慣れきっている者にとっては恐ろしかろうが、実は至極シンプルな方なのだよ。陛下に忠誠を誓い、この国の益となるならば立場や身分の隔たりなく重用せよという陛下の方針を忠実に遂行しているにすぎぬのだ。
あまりにシンプルなゆえに、疑心暗鬼になった者どもが裏を読みすぎて自ら罠に嵌っておるのさ。見ているほうは痛快だが、公は表に出られぬゆえ大っぴらに味方することもできぬので、そこが少し歯がゆくはあるがな』
お酒が入っていたせいもあるのでしょう。滅多に仕事のことを口にしない父が饒舌に褒めるので、当時まだ婚約者だったジェラルドの父君への評価に、誇らしさと同時にプレッシャーを感じたことを覚えています。
――父の言葉が本当であれば、今日のジェラルド様の行動も、計算の内なのでしょうか。
もし、彼が普通の衣裳で、一人もしくはすぐに親族と分かる女性と登場したなら――注目はされるでしょうが、すぐに逸れ、次に入場するセレスティナ様や廃太子となったルーファス殿下にもっと関心が注がれたでしょう。なにより私自身も、もっと多くの好奇の視線を向けられていたはずです。
真実を見極めるように、斜め前に立つ紺色の後姿を見つめます。
私ができることを模索したように、彼も自分の為すべきことを探したのでしょうか。
婚約破棄のことなど関係なく、彼自身と話したいという気持ちが、胸の奥からせり上がってきます。ドレスの前で軽く組んだ指先を強く握って心を静めました。
思いを巡らせているうちに、ルーファス殿下が皇太子位を返上し、モスカータ公爵となられたこと。そしてトリスタン殿下の皇太子ご就任とセレスティナ様とのご婚約が発表されます。
御前に呼ばれたセレスティナ様は、側近によって百重薔薇を手首から外され、トリスタン殿下の手で皇家の花環を嵌められて、傍らに寄り添います。
「今年一年の感謝を神に捧げ、新たな年が生まれ出ずるこの時を祝おう。神聖なる梢の下に集った皆に喜びと安らぎがあらんことを!」
喝采があがり、宴がはじまります。両脇の衝立が一斉に退けられると、前方には楽団が姿を現わし、中央から後ろにはずらりと並んだテーブルの上に色とりどりの食事が供されています。壇上の周辺にも小さなテーブルが出て、配膳と飲み物の給仕がはじまりました。
デビュタントである私は、皆とともに整列して、陛下へのご挨拶を待ちます。
最初に挨拶をするのは、最高神祇官夫妻に伴われたセレスティナ様です。
「運命の葉の導きにより、気高きロザリオンの君主の御前にまみえるこの日を迎えました。ロザリオンの子として名乗る栄誉をお与えください」
「許そう」
「センティフォーリア華公爵ファラモンド・フォルトゥナが娘、セレスティナと申します。どうぞお願いいたします」
「ロザリオンの子として、喜んでそなたを迎え入れよう。トリスタンの婚約者となったそなたは、もはやわが娘も同然だ。こちらこそ頼むぞ」
「もったいないお言葉にございます」
次に進み出たのは、宰相夫妻とパートナーを伴ったジェラルドです。跪き、定型の挨拶を口にして、名乗りの許しを得ます。
「アルバ華公爵ヴィクター・ヴァレリウスが子、ジェラルドと申します。よろしくお願いいたします」
「……顔を上げよ」
壇上より返されたのは、祝福の言葉ではなく、ため息交じりの一言でした。神経を尖らせて様子を伺っていた周囲が、はっと緊張を帯びるのが分かります。
ジェラルドがゆっくりと頭を起こせば、玉座に座る陛下が、肘掛けについた手に頬を預けて苦笑するのが見えました。
「ずいぶんと面白いものをつけているな。……ヴィクター。これは何の酔狂だ?」
「酔狂ではありませぬ。一年もの間下町で学ぶ愚息にふさわしい守りをと考えた結果が、このような形となっただけでございます」
「確かに、いろいろな意味で強力な守りではあるが、な。美意識的にどうなのだ?」
「はて。わが息子にはよく似合っておると自画自賛しておるのですが」
「はい。私も気に入ってございます。今では体の一部のようなものです」
ジェラルドが言葉を添えれば、「見た目は母に瓜二つなのに、中身は父譲りか」と陛下の呟きが漏れます。心なしか残念な響きに、私も心の中で同意しました。
「そちらが例の娘か」
「はい。エマ・シラーと申します。今宵はともに御前に預かる光栄に浴していただき、感謝いたします」
「ふむ。……ようやくまみえたな、[猛虎]の娘」
「御目にかかりまして光栄でございます、陛下」
ジェラルドの紹介に、深々と膝を折り、頭を下げたまま、謎の女性が声を発します。陛下の直接のお声掛けと素性をご承知の様子に、またも周囲がざわめきました。
「[猛虎]の娘だと? ならばあれは平民ではないのか?」
「平民?」
苦々しくつぶやいたケヴィンに聞き返せば、吐き捨てるように教えられます。
「この国で[猛虎]の二つ名を持つものといえば、Sクラス冒険者のザントゥスだ。奴は、アルバの冒険者ギルド[蒼虎]のギルド長。家名はあるが、生粋の平民だぞ」
現在ジェラルドはアルバ領に居を移し、白華公の信頼する平民と共に修練に励んでいるはずです。
ならば隣領で働くケヴィンの発言も、あながち外れてはいないのでしょう。ギルド[蒼虎]は、貴族階級にすらその名を響かせるほどの実力なのですから。
シラーの名に聞き覚えがあったのは、そのせいかもしれません。
それでも[猛虎]と聞いてピンときたのは一部の武闘派だけのようで、「それは誰だ」とざわめきが波のように後方に広がっていきます。
「このような場に平民を連れてくるなど、どうかしている。まさか宰相殿の隠し子ではあるまいな」
「陛下もご承知なのだから、白華公にはそれなりのお考えがあるに決まっているでしょう。少しは口を慎みなさい」――と、ケヴィンに言えたらどんなにいいでしょう。
組んだ指先を握り、私はぐっと心を抑えます。好奇心に満ちた噂話はまだ我慢できますが、悪意を振り撒かれるのは本当に嫌なのです。私自身が噂に苦しめられましたから。
周囲の好奇の視線を浴びつつも、陛下は気軽に謎の女性に顔を上げさせ、なおも語りかけています。ぴんと伸びた背すじは平民と信じられないほど美しく、陛下を前にしてもまったく揺らぎません。むしろ、白華公のほうから対話を打ち切ったようでした。
四人が下がり、代わりにイヴォンヌとザカリアス、彼らの両親が進み出ます。
目の端で、白華公夫妻が、ジェラルドたちを祝福するように軽い抱擁を交わしているのが見えます。和やかに談笑する様子は、余人の入ることのできない家族の情景そのものでした。
現実の遠さに、私は指先を見つめて、ほうと息をつきました。なんだか幼い頃より夢描いていた夜会の華々しさが、まるで霞んで見えます。
父とともに陛下に拝謁し、上位家の皆様のご挨拶に回っても、まだ私は興奮とは程遠い灰色の夢の中にいるようでした。
「ダンスだ!」
陛下の一声で、デビュタントのコントルダンスが始まりました。男女別に向かい合わせに整列し、四名が一組となって相手を変えながら踊る、古典的なダンスです。
夜会の最初のダンスでもあるため、皇帝陛下とテレサ妃、セレスティナ様のお相手として皇太子となられたトリスタン殿下、そしてもちろんルーファス殿下も参加して、かなり豪華な顔ぶれです。さすがに一列には収まらず二列となって、メヌエットに乗せてステップを踏みます。
私たちの組は、家格の近いノアゼット侯爵家とのペアでした。栗色の髪に眼鏡をかけた令息が同級生で、今は皇城で下級官吏をしていると聞きます。淡い灰色の礼服が、おとなしい彼によく似合っています。
パートナーであるひとつ上の姉の令嬢は、黒い巻き毛のつんとした美貌の持ち主です。濃いピンクのベルラインドレスで、段になった派手なフリルが目を惹きます。コサージュの薔薇は薄紅色でかわいらしいのですが、私には到底着こなせない衣裳だと感じました。
学院では、かなりしつこくジェラルドに迫っており、私もさんざん目の敵にされましたが、婚約解消したのですからもう関係ないはずです。それなのに私を見る目が冷ややかに思えるのは、私が狭量なせいなのでしょう。パートナーのケヴィンは、コルセットに押し上げられた令嬢の胸元に釘付けのようですから。
手をつなぎ、ほどいてはステップを踏んで回り、また手をつないで回ってステップを踏んで。十回近く繰り返したところで、ようやく曲が終わりました。皆で拍手をして、一度下がります。
喉が渇いたのですが、一気に全員が食事のテーブルに向かうと、押し分けることも給仕を捕まえるのも難しくなります。ケヴィンに取ってもらおうと振り向けば、彼はノアゼット侯爵令嬢の手をとって、にこやかに笑い合っているところでした。
――ケヴィンは男爵家なのですけれど、あのご令嬢は良いのかしら?
どうも恋愛の駆け引きというより、似た者同士が優位性の誇示をし合っているようにしか見えないのは、目の錯覚でしょうか。
同級生の姿はなく、すでにあの混雑の中にまぎれてしまったようです。あきらめて自分で給仕を呼ぼうと黒服を探せば、ふいに目の前にグラスが差し出されます。
「花の女神に恵みの水をどうぞ?」
琥珀色の発泡酒の入った背の高いグラスを掲げるのは、二十代前半の見知らぬ男性でした。褐色の巻き毛を顎のラインで切り揃え、三角に整えた顎髭。まるで見覚えがありませんので、学院で一緒になったことのない方なのでしょう。
私は会釈を返し、「パートナーを待っておりますので」とお断りします。
「お連れの方は、別の御用でお忙しいようですよ?」
「私、待つことは嫌いではありませんの。こうしておりますと、たくさんの美しい花々が目に入りますものね?」
遠回しに他の女性を探すよう言ってみますが、相手は笑みを深めて、さらに半歩間を詰めてきました。
「なかなか手厳しくていらっしゃる。貴女は今宵デビュタントのようですが、それだけしっかりしていらっしゃると、お父上もさぞご安心でしょう」
「ありがとう存じます」
「ですが社交界デビューをした以上、新しい出会いも必要とは思われませんか? ……冒険も」
片目をつむって、両手に持ったうちの片方のグラスを、すい、と突き付けます。
「どうか貴女のデビューを、私にもお祝いさせてください」
「でも……」
「社交界の新しいお友だちとして、ですよ。それくらいはいいでしょう?」
知らない相手から差し出された飲み物など、口をつける気にはなれません。ちらりとケヴィンをうかがいますが、あちらはあちらで口説くのに必死らしく、こちらを振り向きもしません。逆にノアゼット侯爵令嬢に、勝ち誇った眼差しを向けられる始末です。
紺のフロックコート姿の男性は、いわゆる美丈夫といった雰囲気の持ち主ですが、あまり特徴がなく、騎士にも魔術師にも見えません。デビュタントの付き添いの中にもいませんでしたし、上位貴族の中に近い容姿の者はいません。突破口を探るように頭の中で貴族年鑑をめくり、子爵か男爵の末子に数名合致するものがいると気づきました。
身分で差別するつもりはありませんが、身分がものをいうのが貴族社会です。試しに名前を尋ねれば、適当にごまかされましたので、ますます怪しさが募ります
ですが、いつの間にか話しながら移動していたらしく、周りは人に囲まれ、テーブルもあって身動きがうまくとれません。時間を稼ぐつもりで、胸の前に押し付けられるように出されたグラスを仕方なく受け取ります。
「きゃっ!」
突然、女性の悲鳴が響いたかと思うと、私のグラスを持つ手が揺れ、シャンパンが目の前の男性の胸にかかりました。
「まあ、なんて粗相を! 申し訳ございません。スカートを引っかけてしまって」
背後から小柄な女性が、私と男性の間に身を滑らせるように現われます。慌ただしくハンカチで相手の濡れた上着を拭って、謝罪の言葉を重ねます。
「本当に失礼をして申し訳ありません。すぐにお召替えをしませんと」
「いや、気にしなくていい」
「そんなわけにはまいりません。礼装は殿方の品格の証でございましょう? 汚してしまうなんて、私、申し訳が立ちませんわ」
身を屈め、豊艶な胸元をちらつかせてそう告げる女性は、紺と白のドレスを着たあのジェラルドのパートナーでした。彼女が人波に視線を移せば、ちょうど背の高い影がこちらへとやってきます。
「ああ、これは私の連れがとんだ失礼を。お詫びいたします」
「い……いえ、そんな」
「――君、この方を休憩室にお連れしてくれ。くれぐれも丁重に頼む」
ジェラルドが指をはじくと、すぐに黒服に赤いボウタイをした給仕が駆けつけました。宰相令息の登場に呆然とする男性の手からグラスを取り上げ、彼をうながします。去り際、ジェラルドが、小さく畳んだ紙のようなものを給仕に手渡していたのが見えました。
いきなり去った危難に、私はほっと息をついて、何気なく手に残っていたグラスを口元に運びます。寸前、紺色の手袋に包まれた手が、私の腕を押し止めました。
「――飲んではいけません。薬が入っています」
小さく囁いたのは、あの女性でした。驚いて、猫のように大きな蜂蜜色の瞳に圧されるようにグラスを渡せば、彼女は濡れたハンカチと一緒に別の給仕にそれを預けました。
「ここを出ましょう。少し外の空気を吸ったほうがよろしいですわ。――ジェド、水を一杯お願いします」
「わかった」
私の腕をつかんだまま、彼女は人の隙間を縫うように足早に歩きはじめました。やや遅れ、新しいグラスをもったジェラルドが私の斜め後ろにつきます。
二人に挟まれるようにして進むと、あれほど身動きが取れないと思っていた人混みに自然と道が開け、苦も無く会場の外に出ることができました。
通路の冷えた空気に胸を押さえて息を吐けば、ジェラルドがグラスを差し出します。
「水だよ。心配なら、走査魔術で確かめてもいいけど」
「……いただきますわ」
薬を盛られかけたという事実に少し指が震えますが、ジェラルドを信じてグラスの中身を飲みます。一口、二口、澄んだ水が喉を滑り降りる感覚に、ようやく落ち着きが戻りました。
「ありがとうございます」
「落ち着いたのならよかった」
彼に先ほどのことを聞こうとしたとき、慌ただしくこちらへやって来る者がいました。ベアトリスとアイヴァンです。
「ああ、よかった。ネティ、何事もないようですわね?」
「ええ。大丈夫ですわ、ビー。でも、どうして?」
「……知らないやつが、ネティに変なグラスを渡そうとしていたから」
答えたのはアイヴァンです。さすが魔術師長の後継といったところでしょうか。
「止めたかったのですけど、人が多くてなかなか近づけなくて」
「ジェドが連れ出すのが見えたから、こっちに来てみた」
「そうでしたの」
心配をかけてごめんなさいと続けようとすれば、別のドアから出てきた銀色の影が、足早にこちらに向かってきます。
「ナタリア、大丈夫ですの?!」
「セレスティナ様」
どうやら壇上近くにいらしたせいで、会場の様子がよく見渡せたそうです。私が強引に迫られているのを見て、慌てて周囲に断りを入れて抜け出してきたと聞きました。
「ご心配をおかけしました」
「いいえ、構いませんわ。どのみち、ゆっくりお話がしたいと思っていましたの」
「休憩室に移動しよう。ここではゆっくりできない」
ジェラルドにうながされ、皆がぞろぞろと移動をはじめます。
休憩室と聞いて一瞬足を動かすのをためらう私に、あの紺色の女性が、またも近づいて囁きました。
「大丈夫です。あの男はすでに騎士団に引き渡されておりますから」
「そ、そうなのですか?」
「ええ。今回、給仕の半分に騎士団の若手を入れております。ご心配なさるようなことはございません」
「詳しいことは中で話そう」
およそ3ヶ月ぶりに目にする菫色の瞳を見上げ、私はうなずきました。