【首輪の事情と、そしてそれから*2】
2.ドレスの事情と《聖誕祭》
椅子から立ち上がり、再びトルソーに歩み寄ります。かけられたドレスの白薔薇に爪を立てれば、マチ針に引っかかり、びり、と嫌な音がしてオーガンジーが裂けました。
「……このドレスも、もう着られませんね」
「惜しいですわね。デザインも、貴女によく似合っていましたのに。代わりはありますの?」
無言で首を横に振れば、傍に来たベアトリスが、ふうとため息をつきました。
「今から新しいドレスを仕立てるなんて、100万リオンでは足りませんわよ?」
「実は、婚約解消の慰謝料をいただいたのです。……1,000万リオンほど」
「い……っ!」
ベアトリスが驚くのも無理はありません。婚約解消の慰謝料は、通常婚約にかかった費用の返金が主で、それに家格に応じた上乗せ分がある程度と聞きます。
私の場合、婚約披露パーティーはジェラルドの成人披露と重なったので向こう持ちですし、誕生日プレゼントはお互いそれほど高価なものを贈ってはいませんが、パートナーとして盛装するときは必ず宝飾品をいただいていたので、むしろこちらが返さないといけないものばかりなのです。
ですがアルバ華公家は、返品は不要だとして、婚約解消の手続きをすべて手配してくださったうえ、デビュタントの支度も進んでいるだろうからと破格の慰謝料までくださったのです。
さらに白華公夫人からは、私のために頼んでしまっていたからと、精緻なフラワーレースまでいただいてしまいました。
「まあ! なんですの、この繊細な模様は……。これはまさか」
「ええ、レティシア様のご実家のモス渓谷で作られた〝妖精のレース〟ですわ。とても美しいでしょう?」
「まるで蜘蛛の糸を紡いだような見事さですわね。――そうですわ、これを使いましょうよ!」
「何にです?」
「決まっているではありませんか。貴女のデビュタントドレスですわ!」
他の仕立て道具と一緒にテーブルに置かれていたレースを手に取り、葡萄色の瞳をきらめかせるベアトリスに、私はため息で応えました。
「いくらお金やレースがあっても、職人が足りませんわ。腕の良い皇都の仕立屋は、今頃みな追い込みで手が離せないでしょうし」
「専属はまだ確保したままなのでしょう? でしたら、なんとかなりますわ」
「けれど布が、もう一着縫えるほど余裕がないのです」
社交界における夜会衣裳は、貴族の見栄の極みです。さらにデビューとなれば最初の印象を決めますから、良縁を引き寄せるため、令嬢のいる家は支度金のもらえる結婚式よりも一族一丸となって心血を注ぐと言われています。
ゆえに、どこまで時間と費用を注ぎ込むかが評価の分かれどころなのですが、それがあからさまなのも下品だと見下され、控え目で、それでいて家格のもてる最上級の身だしなみを整えるのは、とても神経を使うところなのです。
特に衣裳で一番大きな面積を占める布地は、御用商人から仕入れるだけでなく、余裕のある家は綿産地と直接契約したり、数年単位で生糸商人に買い付けを命じるなどして最上の糸を手に入れ、さらに吟味した染め物職人、機織職人の手を経て仕上げます。
かくいう私のドレスのシルクタフタも、極東群島の絹糸にこだわったので、思い通りの生地が出来上がるまでに三年という年月が必要でした。合わせるオーガンジーも刺繍糸も、そこまでではありませんがこだわりぬいたもので、ボタンやリボン、手袋、靴、小物入れから髪飾りに至るまで、すべて主役のシルクタフタを基準に厳選されています。
そのことをよく知っているはずの伯爵令嬢であるベアトリスは、レースを丁寧にたたんでテーブルに戻すと、トルソーに掛けられたドレスのマチ針を慣れた手つきで引き抜いていきます。
刺繍の配置を見るために仮止めしていたオーガンジーが、はらりと床に落ちました。
「オーガンジーなら余っているのではなくて? 足りなければ、私の分をお譲りしますわ。感じは少し違いますけれど、品質には自信がありますの」
「貴女のドレスは良いのですか?」
「白は着ないことにしたのです。似合わないのですもの」
ベアトリスは平然と言い、茶目っ気たっぷりに肩を竦めます。
「色つきと二着準備していたのですけれど、ヴァンにいくらお願いしても相談に乗ってくれませんの。仕方ありませんから、もう自分の好きなものを着ることにしました」
「……ビー」
ベアトリスの婚約相手であるダマスク華公家は、格上であると同時に姻戚にあたる主従の関係でもあります。嫡子であるアイヴァンが幼少時より一番心を許したのがベアトリスで、望まれた分、彼女のほうから断りにくい状況でもありました。
私とジェラルドの婚約と似ていますが、大きく違う点があります。それはダマスク華公家が歴代の魔術師長を輩出する一族で、自他ともに認める魔術狂だということです。
当主は誰よりも優れた魔術の才のみを望まれ、研究のためなら婚姻も相続も自由。下手をすれば勅命を無視したり、全財産を研究に注ぎ込みかねない香華公一家を支えるのが、ベアトリスたち側近一族の役割なのです。
魔術に長けたダマスク華公家に心酔する彼らは、領地を経営し、各地から素材や人材を集め、研究費を捻出し、成果を社会に還元し、必要な場に香華公を引きずり出すという多岐にわたる仕事をこなしているのです。国の機関であるはずの魔術塔は、彼らの活躍なしには存続しないのではないかとの、もっぱらの噂です。
そのせいか商売と駆け引きに強いものが多く、ベアトリスの兄メイアン伯爵も優秀な文官だと、父がよく褒めておりました。
ですので、アイヴァンの社交下手は重々承知しているのですが、それでも公式な場でエスコートをするということは、二人の衣裳をきちんと合わせ、お互いが遜色ない相手であることを周囲に知らしめる必要があります。特にベアトリスは伯爵家ですから、次期香華公夫人にふさわしい品格を見せなければなりません。
私にはレティシア様のご助言がありましたが、独身の香華公と女性慣れしていないアイヴァンとでは、そういった気遣いに欠けてしまうのでしょう。
私は、ふうと息を吐いて、額に指先を当てます。
「私から、それとなくアイヴァン様にお話してみましょうか? あまり関連のないアイスバーグから手紙がいけば、さすがに香華公閣下の御目にも留まるでしょうし」
「無駄ですわ。イヴも同じことを申し出てくれましたけれど、お断りしましたの。公は、陛下の勅命書ですら一週間放置した方ですのよ? 諦めました。
構いませんの。ドレス自体はとても気に入っておりますし、あの偏屈な香華公家に嫁入りするのですから、変わっていて当然と思われるくらいですわ」
当日を楽しみにしていてくださいませ、と笑うベアトリスに、それ以上言うことはできません。代わりに、話に出たもう一人の親友を話題にあげました。
「イヴの様子はどうでした? 手紙の様子がとても落ち込んでいたので、気になっていたのです。随分ご両親が反対されているのでしょう?」
「ええ。イヴは姉妹の姉で、建前上はフェティダ侯爵を継ぐ立場ですから、女性がらみの問題を起こした華公家の三男など婿にふさわしくないと大反対で……。イヴ自身は、妹に家督を譲って近衛騎士の妻でいいなどと嘯いておりましたけれど、ルーファス殿下が廃太子となった今では、その道も危ういでしょう? 彼女すっかり弱ってしまって」
「まあ……」
気が強く、威圧的なザカリアスにも堂々と意見するイヴォンヌが弱ったという話に、私は自分の薄情さを恥じました。
イヴォンヌからの手紙は五日も前に届いていたというのに、婚約解消で気の抜けたようになっていた私は、目を通すこともせず、ただぼんやりと日々を過ごしていたのです。
そうして昨日、ベアトリスから面会依頼の伝話鳥が届いたことで、ようやく手紙を開ける気力が戻り、彼女の置かれた状況を知ったのでした。
「イヴを大事に思うからこそなのでしょうけれど、一族のほぼ全員から婚約解消を求められて、孤立無援のようですわ。ザカリアス様にもご相談したかったみたいなのですけれど、例の件で赤華公が大層お怒りで、彼をルゴサ砂漠へ修行に出してしまわれたそうなのです」
「ルゴサ砂漠……確か、グルーテンドルストの向こうの、東国との間に広がる岩の荒野でしたわね?」
「ええ。そこの荒地の民の騎馬術と刀術を会得するまで帰ってくるなと命じられたのですって。さすがに伝話鳥も通じませんわ」
[竜の背]と呼ばれる嶮峻なグルーテンドルスト山脈を越えると、国境に阻まれ、国内の魔道具はほとんど使用できなくなります。ルゴサ砂漠は国という位置付けにはありませんが、自由民である騎馬部族が連合を作っており、過去には戦を交えたこともありましたが、東と北との交易ルートでもあるため、今はほどよい関係を維持しています。
勇猛果敢で名高い彼らは警戒心が強いことでも知られますので、いくらガリカ華公爵の御顔が広くとも、教えを乞うのは簡単ではないでしょう。
それは同時にザカリアスの修行の厳しさを物語り、赤華公の御考えは分かりませんが、同じようにイヴォンヌにとっても厳しい状況を作り出してしまったようです。
……あまり大きな声では言えませんけれど、殿方というのは、なんて独り善がりなのでしょう。
ジェラルドにもアイヴァンにもザカリアスにも――失望や哀しみよりもむしろ、呆れと怒りがふつふつと胸の奥から湧き上がってきます。
「どの方々も本当に、反省という言葉の意味を取り違えてらっしゃるのではないかしら?」
「ええ。私たちも貴女のことを聞かされたとき、同じことを思いましたわ」
どうやら、ベアトリスがフェティダ侯爵家官邸を訪れている最中に、アルバ華公爵・アイスバーグ侯爵連名の婚約解消通知が届いたようです。
婚約解消というのは外聞がよくないので自ら公表することはあまりないのですが、正式に皇帝陛下の承認を得、お披露目もしてお祝いをいただいたこともあり、自分より上位――今回は白華公のお気遣いで、アイスバーグより上位家格である皇族、公爵、侯爵――にお知らせすることになりました。
残念ながらベアトリスは伯爵家ですので、婚約解消通知が上位家に届いた頃を見計らって、個人的に手紙で知らせていました。
手紙を出した翌朝に伝話鳥が来ましたので、やけに行動が早いと思っていたのですが、そんな事情があるのなら納得です。
「私よりも、イヴの怒りがすごくて大変でしたのよ? 見せてさしあげたかったですわ」
「まあ」
「でも、こういう言い方はおかしいのですけれど、貴女の婚約解消の話をお聞きして、イヴも私も心が決まったのです」
「どういうことですか?」
問えば、ベアトリスが葡萄色の瞳に翳を落として、じっと自分の指先を見つめます。
「だって……私たちの中で一番、絶対に結ばれるだろうと思っていたネティとジェラルド様が婚約解消したのですもの。すごくショックで……同時に、私たち考えたのです。これは私たちにも起こりうる未来なのだろうって」
「そんな……」
「ネティを責めているのではないんですのよ? むしろあの冷血男ならいくらでも責めたててやりますけれど、本当は、誰かを悪者にして解決するような問題でないことはよく分かっているのです」
モーヴ色のスカートの上で、ベアトリスの指先がぎゅっと握られます。
「卒業前は、単純にあの娘から引き離せば元通りになると考えておりました。けれど、年月は容易に人の心を変えますわ。変わっていないつもりでいても、きっと、私たちもそうなのです」
「……ビー」
「感情や子どもの頃の思い出に囚われていては、いつまでも前に進めません。現実を正しく見つめるべき時が来たのです。お互いにとって何が一番良いのか、ゼロから考え直す必要があると、私たちは話し合いました」
翳りを含んだ葡萄色の瞳が、ゆっくりと私を見ました。
「手始めにイヴは、情報収集からやり直すことにしたようです。四華公家だからと遠慮して、一般的な情報やこれまで見聞きした以上のことを知ろうとしていなかったので、他の婿候補との比較も兼ねて、徹底的に調べあげるそうですわ。必要ならばルゴサ砂漠に乗り込むと、張り切っておりました」
ふふっと笑みを洩らすベアトリスは、どこかすっきりした表情をしています。
私も、ドレス姿で砂漠に乗り込むイヴォンヌを想像して、口元を緩めました。
「私も、家の仕事を手伝うことにしました。私の場合、婚約がどうなろうとダマスクから完全に離れることは難しいと思うのです。自分のできることや、やりたいことを少しずつ増やしていって、少しでも私自身の価値を磨きたいのです」
「素敵ですわ、ビー」
「でしょう? 私、服飾が好きですから、それを生かせないかと思うのですわ。今、メイアン特産の葡萄の絞り滓を使って、染め物に挑戦中なのです。淡いきれいな紫色になりますのよ?」
「出来上がったら、ぜひ見せてくださいませ」
「もちろんですわ」
まだ完全に明るさを取り戻したわけではない、それでも前を向こうとする友人の笑顔に、なんだかこちらまで元気をもらうようです。
ベアトリスが、作業机に置いてある色見本の刺繍糸をもち、トルソーのドレスに当てて首を傾げます。
「貴女も自分の好きなことをすれば良いのですわ。これまで服も、ジェラルド様の好みに合わせて選んでいたでしょう? 私、傍で見ていて、とても歯がゆかったのです」
「……そんなに似合っていなかったかしら?」
「だって貴女が選ぶ服ときたら、柄も飾りもないシンプルな形ばかりで、色もベージュに菫色、マリンブルー。たまに明るい色を着たと思ったら、年寄りのような渋いサーモンピンクで、似合っていないわけではありませんけれど……いえ、やはり似合っていませんわね。貴女には、もっとふんわりとした可愛らしいものが似合うのです!」
ぐっと拳を握って、ベアトリスが力説します。
私も本当は可愛らしい花柄やレースが大好きなのですが、ジェラルドの隣に立つことを考えると、自然、そういったものを避けるようになってしまいました。色は……濃いものや派手なものが似合わないので、無難なものばかり選んでいましたが、そんなに年寄りめいて見えたのでしょうか。
ぐるぐると思い悩む私を余所に、ベアトリスは侍女を呼び寄せ、様々な柄の布や糸をドレスに当てていきます。
「やっぱりこの刺繍は、もっと色を入れたほうがいいですわね。金色の小花にはこの明るい黄色を重ねて、紫の小花には銀糸のステッチを差しましょう。華やかさが出ますし、印象が変わりますものね。合間には、この赤とピンクの二色の小花を入れて……」
雪解けを待つ野原のように清楚な印象のドレスが、どんどん変えられていきます。
先ほどのオーガンジーの裾に入った薔薇の刺繍を切り落とすと、二枚に分け、もう一度シルクタフタの上からふわりと巻きつけます。
胸に丸みを出すように細かく襞をつめた下でリボンを結び、短くなった裾にあの妖精のレースを仮止めすれば、ゆるやかな両開きとなったレースの合間から色とりどりの花たちが顔を覗かせる、春のドレスがそこにありました。
「いかがかしら? 私が今、貴女に着てほしいドレスはこちらなのだけど」
悪戯っぽく、そして得意げに目を輝かせるベアトリスの傍らで、侍女たちも満足そうに微笑んでします。
私は両手を口元に当てて大きく頷き――やっと、哀しみではない涙を一粒、零しました。
友人というものは、なんてありがたいものでしょう。
そのことを噛みしめつつ、私は、ベアトリスが訪れたその日の夜にイヴォンヌに向けて伝話鳥を飛ばし、お互いを励ましあった後、同じく手紙をくれていたセレスティナ様に返事を書きました。
ルーファス殿下と婚約破棄をしたセレスティナ様は、まだお妃教育継続中とのことで、皇城と官邸を行ったり来たり、忙しい生活を送っているそうです。この調子では、彼女の初恋の君と結ばれるのも時間の問題のようだと、嬉しいような切ないような予感がよぎります。
手紙には近況のほかに、婚約を解消した私への気遣いと、できればこの先女官として傍にいて欲しいという言葉が並んでいました。
おそらくセレスティナ様は、皇太子妃になられるでしょう。同年の侯爵令嬢であれば、良き友また腹心として、後宮では重宝される女官となれるはずです。
ですが――その申し出に、私の心は動きませんでした。
侯爵令嬢としてあるまじきこととは分かっているのですが、私は元より引っ込み思案な性格で、学院でもしっかりもののセレスティナ様や口の立つイヴォンヌ、明るいベアトリスの陰に隠れてばかりで、けして社交は得意ではありません。後宮の陰謀詭計を潜り抜けられる器ではないのです。
心配りへの御礼と女官の誘いをお断りする内容をしたため、ふと考え込みます。
――私のできることは何でしょう?
手紙を書く手を止め、考えながら書棚に目を向ければ、幼いころから書き溜めてきた日記が並んでいます。
自分の得意なこと不得意なことをひとつひとつ思い返し、数日後、私は父の紹介で、皇国図書館の司書見習いとして働きはじめることになりました。
*
およそ2ヶ月半後。ついに《聖誕祭》の日が訪れました。
これまで忙しさにかまけて直視せずにいた事実とも、とうとう向き合わねばなりません。
卒業した同級生たちが皇城内で働きはじめ、いろいろなサロンに参加するせいか、卒業式での騒ぎはすっかり皇都中で話題となっているようです。もちろん私とジェラルドの婚約破棄も、面白おかしな見解を交えて、ともに格好のお茶請けを提供していました。
幸い、勤め先の図書館は、皇国の智慧と探求の徒が集まる学術院の敷地内にあるだけに、私自身が好奇心や噂にさらされることは少なく、胸を撫で下ろしています。
ですが、皇国内の主だった貴族が集結する《聖誕祭》では、これらを避けて通ることはできません。
イヴォンヌによれば、ザカリアスも、このためだけにわざわざ修行を中断してルゴサ砂漠から帰ってくるようです。魔術塔に軟禁中のアイヴァンも姿を見せるようですし、おそらくトリスタン皇子の立太子の儀が合わせて行なわれるはずですので、ルーファス殿下も参加されるでしょう。
ジェラルドについては耳にしませんが、この流れで彼一人社交界デビューを遅らせるということはないだろうと噂されています。私もそう思います。
ですが、そうであれば、必ず夜会の席で顔を合わせることになるでしょう。アルバ華公爵家令息である彼に挨拶をしないなどという無礼は、有り得ないのですから。
――そのとき私は、どんな顔をすればいいのでしょう?
うまく笑えるでしょうか。声が震えたりしないでしょうか。
泣いたりは……しないでしょうか。
たくさんの心無い噂に晒されるよりも、私はたった一人からの視線が怖くてたまらないのです。
不安を消すように、まだ日の高いうちから湯に浸かり、マッサージをして、念入りに支度を整えていきます。私はアイスバーグ侯爵の娘。父や亡き母、そして二年後社交界に出る弟のために、淑女にふさわしい品格をもって振る舞わねばなりません。
大丈夫。きっと、大丈夫です。
呪文のように心の内で唱え、マナーの先生のおっしゃっていたことを思い返すうちに、だんだんと心が落ち着いて、支度が終わるころにはすっかり覚悟が決まっていました。
ドレスは結局、ベアトリスの意見がそのまま採用され、色とりどりの花と緑の蔓の刺繍をしたシルクタフタの上からオーガンジーとレースを重ね、さらにオーガンジーで作った小さな花を散らすようにして留めた、とても可憐なものとなりました。
若草色の髪はゆるく巻いてボリュームを出し、あの妖精のレースのリボンと一緒に編み込んで片側へ流します。ベッドドレスは大きなものを避け、ドレスにつけたものと同じオーガンジーの小花をいくつか散らすだけ。アクセサリーも、母の形見の二連の真珠のネックレスと対のピアスにして、自然と花のドレスに目が向かうよう仕上げました。
最後に、アイスバーグの花である小ぶりな白薔薇と緑葉のブーケを手首に嵌めます。
「なんと素晴らしい! 春の女神だな。私の自慢の娘だよ」
「ありがとうございます、お父様」
華美すぎると怒られるかと思っていましたが、父もネイサンも、掛け値なしで私のドレスを褒めてくれました。考案してくれたベアトリスに感謝しなくてはなりません。
「では、行こうか」
エスコートは父にお願いしたかったのですが、《聖誕祭》の夜会は若い貴族たちのお見合いの場でもあるため、ダンスの頭数を揃える意味でも未婚の同世代のパートナーが望まれるのです。まあ、デビュタントが親にエスコートをされると婚期が遅れる、という迷信のようなジンクスがあるにはあるのですが。
父が選んだのは、従兄にあたるケヴィンです。アイスバーグ領の管理を任せているモントラヴェル男爵の嫡男で、今は父親の仕事を手伝っています。文官向きでそれなりに優秀な人なのですが、昔から少し他人を見下すところがあり、それが今まで婚約者がいない原因だと、私は思っています。
正直言って好きにはなれない人なのですが、文句は言えません。それでも、なぜか私が彼を好きなのだという幻想を抱いて絡んでくるのをやり過ごしたり、田舎貴族丸出しの彼の振る舞いをチェックするのに神経を遣って、緊張する暇もなかったのは助かりました。
父とケヴィンと共に、特別に仕立てた馬車で皇城の会場に向かい、控えの間で名前が呼ばれるのを待ちます。混雑する周囲を見回しましたが、ベアトリスたちの姿は見えません。名を呼ばれるのは下位の家からなので、最上位貴族のお相手がいる彼女たちは、もう少し遅れての登場なのでしょう。
名を呼ばれ、長く引かれた緋色の絨毯を歩いて会場に入れば、正義と情熱を現わす国の赤と、復活と再生を現わす神樹の若木の色である緑。そして皇家を示す白と金を基調とした豪華な装飾が目に飛び込んできます。それらは燭台ではなく、やわらかな光の珠となって浮かぶ幾つもの光魔術の魔道具に照らし出されて、幻想的ですらありました。
レッドカーペットの両脇には先に入場した中位・下位貴族たちが整列しています。絨毯の先には玉座をいただいた舞台が設えられ、傍らには、白銀と金で作られた神樹を模した大きなツリーがまばゆく輝いています。
その美しさを充分に堪能しながら、私はケヴィンとともに指定の場所で絨毯を降り、列の端に加わりました。
私たちの数組のちに、ベアトリスとアイヴァンが入場します。すでにほとんどの貴族たちが集まっている会場に、わずかにどよめきが走りました。噂のせいもあるのでしょうが、デビュタントであるはずのベアトリスの衣裳も関係するのでしょう。
私はレッドカーペットの方を向き、淑女らしく姿勢を正したまま、できるだけの視界を駆使して様子を伺います。
こちらへやってくるドレスの色は、以前本人が言っていた通り、白ではなく金茶色。しかも私のドレスと似たAラインを描きながら、胸の下あたりからグラデーションを作って深い紫色へと変わっていきます。シフォンを幾枚も重ね、一番上には金糸ともうひとつ不思議な光沢をもった糸で刺繍を施しているようで、動くと光の軌跡がきらめく美しいドレスです。
紅茶色の巻き毛は、金の編み紐を絡めて複雑に結っています。胸元には大粒のスターガーネット。全体的に落ち着いた色味の装いで、手首につけた濃いピンクの薔薇のコサージュが少し浮いて見えました。
パートナーらしく同じ薔薇を胸元につけたアイヴァンは、上品な黒の礼服に身を固め、長い深緑の髪を首の後ろでくくっています。いつもは前髪で隠している顔を晒しているせいか、色白の顔がより蒼褪めて見えました。
二人に続いて、イヴォンヌとザカリアスが呼ばれます。背の高いイヴォンヌは腰を絞ったマーメイドラインのドレスで、スタイルの良さが引き立ちます。マーメイドといっても太腿の上辺りから生地が広がり、それが波打って金糸を織り込んだ複雑な地模様を浮かび上がらせています。
オレンジがかったまっすぐな金髪は一部を結って片側に流し、白い羽根のついた髪飾りがひとつ。他のアクセサリーは金のロングピアスだけで、手首の真紅の薔薇のコサージュが映えます。私の位置からは、お化粧をしていることもあり顔色まではわかりませんが、それでも極端に痩せたりやつれたようではない友人の様子に、ほっと息をつきました。
エスコートをするザカリアスは、こういった華やかな場を得意としているわりに渋い顔で、以前よりあきらかに頬が削げ、体の心配をするならむしろ彼のほうです。それでも、鍛えられた長身を包む目の覚めるようなマリンブルーに金ボタンが並ぶフロックコートは、燃えるような彼の赤毛や胸のコサージュの赤と相俟って一層華やかで、さすがと呼べる風格を見せつけています。
――二人とも、無事に仲直りできていればいいのですけど。
そんなことを思いながら様子を見つめていた私の耳に、次の入場者の名を読み上げる声が飛び込みます。
「アルバ華公爵ご令息ジェラルド・ヴァレリウス様、エマ・シラー様。ご入場――」
ドレスの下で、どきん、と心臓の跳ねる音がしました。
衣裳のイメージは現代と18~19世紀の適当な混ぜこぜです。
貴族だったらコレ着てほしいよね、という願望。
2020/1/4:通貨単位変更。