劇8
魔女は瞬く空を、それがここからはどこかは分かりもしないだろうが、南十字星の方角を眺めながら岩の天井に静かに呟くだろう。
『よきおのこよ。地獄では、過去を追うな』
『突然、何を言う。魔女よ』
男の信じるものはあくまで一つだ。決然と舞台下を見下ろす男。
『愛など苦痛の前ではただの幻想に過ぎぬ』
『それは永遠だ』
『くれぐれも死者を苦しめてやるな』
『死者は何も感じない』
『ならば、地獄になど向かうべきではなかったな』
不気味な叫び声。いくつもの呪わしい手が舞台そでより伸びては空を掴む。男は一歩下がってたたらを踏んで、踏みとどまると魔女に向かって口を開く。
『魔女よ。早く案内を』
『愛は盲目』
『道を知るものは愚かにもなれぬ』
『地獄までの旅路は約束し、それは果たした』
『煉獄は抜けたのか』
『長い旅路だったな。よきおのこよ』
『では、卵を、書を、花を、衣を、そして式を。在り処を教えよ』
『よきおのこよ』
『よき魔女よ』
『煉獄でこそ、そは尋ねるべきであったな』
『どういう意味だ』
『地獄では過去は追えぬ』
一際不気味な声、魔女が一度震える。
『自らの進むように進むといい。私はもう知らぬ』
『魔女よ。何を言う』
『ここから先は案内人が変わるべきだろう』
『魔女よ。魔女ヴィリオよ。私を見捨てるのか』
再びの不気味な声。魔女は二度震える。
『おお。恐ろしい』
『空洞に響くただの風音に過ぎぬ』
『汝は何も知らぬのだ』
『望みの品はどこにある』
『望みはここでは全て捨てねばならぬ』
『では、なぜ連れてきた』
『よきおのこよ。賭けだ』
『卵は』
『鳥も通わぬ地に住まう鳥の卵よ。そは地の底にある』
『書は』
『巨人ダニエルは地獄そのものであり、その書は万巻の書物に匹敵し、そこに刻まれた知は全てを伝えるだろう。そは地の底そのもの』
『花は』
『優曇華の花は三千年に一度しか咲かぬ。その球根は地中深くにありて、芽を出すのを待っている。そは地の底の典雅なり』
『衣は』
『火ネズミの衣は、燃ゆるとも、燃ゆるとも、融け去ることは無い伝説の衣。その衣は溢れ出る巨人ダニエルの血潮の中に含まれるミスリルを熱で温め溶かし、その溶解液を巨人ダニエルの涙に含まれるユーミルに引き延ばして混ぜることによって作られる。そは地の底の優美なる織物なり』
『式は』
『そは煉獄でこそ聞くべきものであった。人の知を持って解決すべきものだ。だが、地の底にはその足跡もあろう。問を置換せよ。巡回せよ。群は恒等置換と順列の比ではある。全てのことは自然が成すままに。そは地の底を含む自然が残した問であるのだから』
『では、全ての望みは地獄という地の底にあると』
『いかようにも』
三度の不気味な声。魔女は二度足を踏み鳴らして男に言う。
『だが、結局のところ過去は追えぬ。人は未来を生きるしかない。過去が迫る。未来は早い。時が無い。地獄では賭けねばならぬ。そは余りに狭き門故』
『では私は賭けよう』
『では。さよならだ。さらば。よきおのこよ。また会えることを願って』
魔女は再び二度足を踏み鳴らして、舞台そでへと走り去る。一人残された男は不気味な手のうごめきと不気味な声に縛られたように動きを止めて独白する。
『私は賭けよう。真実の愛こそ地獄に置いて不滅なものであろうことに』
男がそう叫ぶとともに一際不気味な叫び声が大きく響く。そうして男が叫びながら走りだし、舞台そでに消えると幕。