私と先輩
部室には今日も賦星先輩が先に来ている。時々遅れることがあるみたいだけど、賦星先輩はいつも部室に一番乗りだ。
「『秘密のノート第二条。秘密はフルネーム記述者だけのもの』」
窓を開け広げたまま、風に巻き上げさせるに任せた髪と制服はそよそよと揺れて衣擦れの音があがる。
私と先輩の秘密のノートの秘密のルール。
「わかっているのならもう読み上げないで下さいよ。先輩」
「いや。よく書いたものだって思って。つい」
「『秘密のノート第十条。秘密の漏えい者には』」
「そうそう。その感じ。要。お前一人でよく書けるな」
「いえ、それは」
一人で書かなきゃどう書くって言うんだろう。
「豊と少し似ているな」
「今河先輩と、ですか」
「ああ。始めの合図さえあれば後は一人でどうにでもしてしまう。一人で突っ走って行ってスタートもゴールも知らずにそのまんま。それでよしって感じかな」
そうなのだろうか。今河先輩はそんな風には見えないけれど。秘密のノートを片手で丸めたまま髪をかきあげる賦星先輩にはそう見えているのだろうか。
「そうそう。要。ノートには私の秘密を追加しといてやったぞ」
「あ。え、そうですか」
秘密のノートを手渡されて。私はどうしたものか悩んでしまう。私のルールで先輩が書く。そんなのって予想してなきゃいけないのに予想の範囲外だ。
慌てながらめくってみる。
『賦星真知子に不可能は無い』
「先輩。またこの手の話ですか」
少しだけげんなりする。
「何だ。嫌か」
「先輩。不可能は無いって言うのなら私に見せてくださいよ」
「何だ。見たいのか。要も性懲りもない奴だな」
何が性懲りもないのか思いもつかない。
「そう、だな。先輩。例えば、私が読んでいる本の結末は」
「それはあれだ。ハッピーエンドだな」
「うわ。大まか」
「そういうことだ」
「何がそういうことなんですか」
笑いながらそう言ってロッカーの中を漁る賦星先輩を見ていると私も笑いながら何がなんだか分からなくなってしまう。
「他になんかないのか。要」
「それじゃあ。私」
それじゃあ、そうだ。私何がやりたかったのだろう。それじゃあ、私、私。いったい何がしたかったのだろう。それで結局、どうしてあんな言葉を口にしてしまったのかよく分からないんだ。私にも分からない。
「私、部活がやりたかったんです」
「何だ。それ」
「多分、一回やれば十分だからやらなかったんでしょうけど」
「他の部活がよかったってことか?」
先輩が深刻そうな顔で覗き込んでくるのを、私は失望を胸に迎えることにする。失言と失望とを胸に抱いて。
「そういう意味でもない、いや、あるのかな」
返事は無茶苦茶。無意識に口にしたよく分からない望みとよく分からない答え。大体、先輩がいけない。不可能は無いんだったら、その位予想していてほしい。私は少し膨れながら、先輩の深刻そうな顔から斜め四十五度反らしてそうつぶやいていた。
「他の部活か。私もそういうときがあるよ。だけど、要はそれで一体どうして欲しい」
「不可能は無いんでしょ。賦星真知子さん」
「それはそうだ。島世要」
フルネームでお互いに呼び合うと、それから賦星先輩は急に分かったような顔になって頷いてそれから言った。
「それじゃ見に行こう他の部活を」
賦星先輩は私の手を取るとそれから言ったんだ。
「賦星真知子には不可能は無い!」
「あるな」
今河先輩の声。
「時間だ。準備するんだな」
鞄から分厚い用紙の束を取り出して、真新しい携帯端末を取り出して。無造作に椅子を掴む今河先輩はそう口にした後は、まるで私たちのことを気にも止めない。携帯端末を眺めながら、合間に用紙の束の最後の方をめくって真剣な目つき。
「豊」
賦星先輩と今河先輩。少しだけ目線を交わすと目と目でコンタクト。賦星先輩の弱ったように半開きの瞳と、今河先輩のあきれたような、見透かしたかのような瞳が交差して、それから先輩たちにしか分からない理由で賦星先輩がパイプ椅子を手にくるりと回して座り込むと談判に。ここで争われるのは何なのか。
私はどこか無関係になってしまったようで、秘密のノートを片手に視線を固くして二人のことを見ていた。
「な、な、豊。ちょっといいだろ。今日はさ、体動かしにさ」
「何を言っているんだ。あれだけ早く書き上げろと口にしていたのは君じゃないか。大体、この厚さになるまでその調子だと言っておいて、それで、どうするつもりだ。練習から逃げようというのか」
「私の方にも事情があるんだよ。豊」
「話にならない」
「頼むよ。豊」
「な。頼むだって。君が、頼むだって」
「」「」……。
どうしてだろう。私は二人の会話中もっと違ったことを想像してしまっていた。不可能は無い賦星先輩と私。そして秘密のノート。
そうだ。突然私は入学当時に、卒業後に、それぞれ分かれるように時計の針を進めてそれからもう一度、始めから、新しい生活を始めるのだ。そこでの私は運動部に所属して、そこでの私は全てが完璧で、洋子たちと中学のころのように、どこかで見たような先輩たちと、楽しく厳しい、楽しく騒がしい、生活を始めるのだ。
そうして不可能は無い賦星先輩が現れて、私の一生懸命な生活に、私の完璧な生活に様々な騒動を引き起こすのだ。
そうして、そう。
それは胡蝶の夢。
賦星先輩が現れて全てが夢のように変わってしまう。
「もう」
私は、それで、結局は演劇部の一員のままで、それで、それで、先輩の不可能は無い力で様々なことを見るのだ。それで、体験するのだ。
「もう。いいですってば賦星先輩」
私は不思議を旅するのだ。
「何を口走っているんだ。要」
賦星先輩のどこか心外そうな表情を見るとなんだか、どうだっていいような気がして笑ってしまう。
「今河先輩。私にも一部下さい」
「もちろんだ」
本の結末はハッピーエンドなのだろうか。私は少しだけ賦星先輩の不可能の無さに気をかけながら、今河先輩のかなり薄くなった用紙の束を受け取ると、それから、みんなが揃うまで真剣に読みふけることにした。