第零話 - 繰り返される刻
『…………コール、コール』
澄んだ星空を見上げ、立ち並ぶ建物に切り抜かれた儚い自由を思い、その四角い束縛の下で彼は走る。
メインストリートの明るい光は狭い路地に遮られ、空間を我が領域だと言わんばかりに支配する闇。
『現在逃走中のターゲット012号に関する情報』
夜半、等しく世界を闇が覆うその刻。その闇に溶け込むように彼は潜んでいた。
路地裏のゴミ袋に潜り込み、急ぐ足音をやり過ごす。
通り過ぎた三人組は、それなりの警戒状態だったにも関わらず、彼に気付かず通り過ぎた。
まさか汚物の中にダイブしているとは誰も思わないだろう。
それにすこしでも見えていればその場で捕まる。そんなリスクを負うならばさらに逃げるはずだ。
そう考えてだ。
「行ったか……」
彼はゴミの山を崩しながら這い出て、追手とは逆方向に走った。
彼の容姿ではたとえ暗がりの中でも酷く目立つ。
暗闇の中で気配事態を完全に抑圧し、呼吸も抑え気味で足音もなく路地を駆ける彼は、影と言えるのではないだろうか。
身体を突き抜ける冷気で起こる身震いを無理やり抑え、耳をそばだてる。
『現状ターゲット012はメインランド第三交差点前で警備隊の追跡を振り切って逃走、エリアスキャンの結果よりまだ同エリア内にいるものと思われる。オーバー』
寒さで赤くなった耳に声が響く。指の感覚もすでになくなりかけている。
『こちらNR第二、徒歩にて逃走中のターゲットは路地裏に逃げ込んだ。現在追跡中、至急路地の出口を塞ぎ、飛行部隊の支援頼む。オーバー』
『こちらHQ、ターゲットの特徴が回って来ていない。捉えている班は報告を。オーバー』
「…………ふぅぅ」
折角ここまで逃げ出せた、これ以上情報を共有されたならばメインストリートを歩くのも危険になる。
街中に設置された監視システムはすべてネット経由でリンクしているからだ。
「…………」
ぼそりと何かを呟き、指を動かして中空に印を描く。
『ターゲットは長身、十八前後の男で白の―――グパーカー―――シャツ、下は草色のカ―――ンツと荒地―――ーツ。髪は変わらず――――だ、それ――――か―――だ――――れい―――らず―――――――――――――――――――ッ』
描いた印を斬るように指を下ろす。
それに意味があるのかどうかは定かではないが、それに呼応するようにそれだけで通信が遮断された。
とりあえず追跡者たちに完全な特徴を共有されなかっただけでも良しとする。
「厄介だな……これで通常警備隊から魔法哨戒部隊に変わるな」
魔法、そう魔法。
この街には当たり前に魔法が存在し、それが日常生活でも用いられている。
今の通信も魔法によって強化された無線通信だった。
特に盗聴、妨害と言ったものに対して強化され、安定して通信を確立させるものを彼は簡単に封じた。
だがこれでこの場所にいたということは割れてしまう。魔法の不正使用に対する感知システムは通常監視システム以上に厳格で鋭敏。
「逃げ切れるか……?」
髪に張り付いた汚物を払落し、生まれつき色素のない身体をパンパンッと叩く。
白いロングパーカーにはゴミ袋からしみだしていた液体が染み付いて、カーゴパンツも洗濯しても落ちないような汚れが付いている。
「……お気に入りだったのにな。ちょっと仕返すか」
追跡をかいくぐって逃げ続けるのは彼の十八番。
だがそれは確実ではないため、ナポレオンのように辞書に不可能の文字がない訳ではない。しかし、常識的な行動という文字は間違いなく欠けている。
彼も魔法使い。それもこの街では正規登録ではないにしろ、すべてひっくるめれば上位十番以内には確実に入るほどだ。
分類としては、通常の魔法使い――魔法士ではなく、なまら危険な魔術師だが。
「音は無しに、気配は異に」
言の葉一つで世界の理を捻じ曲げ、世界を騙す。
それが彼にとっての一般的な魔法の知識。
乱暴なフォームで走り――それでも音はなく――路地裏の薄汚れたゴミバケツを蹴り倒してゆく。
さすがにこの寒い時期では、夏場のような腐敗臭はない。
路地の出口まで来ると、別の追跡者たちが駆けてくる。
「闇は我に、闇は見えぬ」
ドダバタと三人組が通り過ぎた。ほんの少し、目と鼻の先と言ってもいいくらいの距離にいたにも関わらず、彼に気付かずに通り過ぎて行った。
路地の闇に同化した彼を見つけられるものは、よりレベルの高い魔法士か走査に特化した者だけだ。そして今ここで追跡に当たっている者の中に彼と同程度の者が一人。
そやつに直接目視されない限りはなんとかなる。
一度路地を引きかえし、魔法を使った光子操作で手元に地図を表示させながらとりあえずの安全圏に目星をつけ、ひた走る。
逃げ切れば自由の身。仲間たちに合流してそのまま姿をくらませればいい。だが捕まれば……。
「…………嫌だな」
すっと悠々とした足取りでメインストリートに一歩を踏み出す。
ロングパーカーのフードを深く被り、白い髪と赤い瞳を隠す。それに合わせて体に付いた見た目上の汚れを隠し、通りすがりに見た感じでは魔法系の職に就いている一般人そのものに扮する。
「後はこのまま……」
そう思ったところで、帰宅する民間人がいる場で爆音が轟いた。闇夜の空に飛び回る無数の影。
足を止めて引き返そうとすれば路地の奥から足音が響く。
空には無人威力偵察機、後ろには追跡者たち。
もちろん偵察機の名を語っていてもしっかりと武装は施されている。
一般常識の範疇では――未だに魔法士は兵器には敵わない、だが彼は戦いなれた魔法使い。
詠唱に集中できない状況下でも冷静に魔法を行使することができる。
「なんで見つかる……!」
突然の軍用機の飛来に慌てふためく一般人の流れの中で、不自然に止まっている少女がいた。
たい焼きを口にくわえて、のんびりと空を眺めていた。まるでそれが日常であるかのように。
「むぅ?」
少女が彼を視界に捉えた瞬間、場の空気が変わった。
ピリピリとした殺気のような、非現実的な成分が入り混じっている。
「なんでこんなところに」
「ふぇぇっ!?」
「いいから来い」
彼は少女の手を取って走る。
衝撃で持っていたたい焼きが袋ごと落とされ、不機嫌な瞳を向けてくる。
少女の背中には大きな翼と尻尾。人の姿をした人ならざる者。
「リナ、なんでこんなところに来てる」
「なんでって、当番制の哨戒ですから」
そう言って見せつけるのは、両肩についた桜の花弁をあしらったエンブレム。
桜都学園――魔法を専門に教える学科も備える学園――の生徒の証でもあり、そこを卒業して魔法士となった者の証でもある。
「……あぁ」
額に手を当てながら言う声には、しまった……という感情が多分に含まれている。
「ちょっと手助けしてくれないか?」
「嫌です。逃走の手助けをして一緒に営倉行きとか御免ですよ」
「そこをなんとか――」
頼む、と言おうとした刹那。
「ここから先は一方通行だ」
一人の男がそこに立ち、腕を振ると白炎が道を塞いだ。その炎は民間人には見えていない、そして何の影響も及ぼさないが故、民間人だけを通す。
魔法とはそういう柔軟性も持ち合わせた詐欺。
「もう逃げられはせんぞ」
ゆっくりと腕が下ろされると、白い壁はより大きくなり、逃走を阻む線としてそこに定着した。
魔法は発動してから一定時間以内ならば世界への影響が弱く、すぐに打ち消すことができるが、定着した後ならば難しくもなる。
そして後方からも追跡者たちが。
「大人しく投降せよ。これ以上の抵抗は――」
手を掴まれていた少女が一歩前に。
「熱波の幻影よ」
その言の葉と共に、冷めた路面が加熱され、蜃気楼のように幾重にも偽の姿を創りだす。
それに驚いた追跡者たちは一斉に構えた。
武術のように統一化された構えは、効率的に魔法を運用するための訓練で身に染みついたもの。
だがそれは個人の魔法の発動しやすさを無理やりに抑え込んだものでもある。
「たい焼きは今度でいいから買ってください。これは”貸し”です」
「はは、分かった。ありがとう」
少女と彼は別々に動き、合わせて幻影が乱雑に動き回る。
創りだされた幻影は本物そっくり。少女はそんな幻影に紛れて包囲を抜け出して、背中の翼を大きく広げて夜の空へと消えていく。
そして彼も再び路地の暗がりへと姿をくらませてゆく。
のだが。
「そこまでだ」
「……………………」
もっとも目視されてはいけない者に見つかってしまった。
服装は追跡者たちとは違って、白一色で腰にはクリスヴェクターによく似た白い魔装銃――魔法の力で弾丸を撃ち出す銃――を下げている。
さらに間をおかずに後ろからも似たような恰好の者が退路を塞ぎにかかり、
「こうなれば」
壁を登坂しようとしたところで路地の空に網が投げられた。
しかも重低音が響いているところから、かなりの高圧電流が流れているものと思われる。
「降参しろ」
「…………分かった、騎士団長」
こうして、白い髪の青年は今日も捕まった。
刻は幾度となく繰り返された。
『0x100』
刻は幾度となく繰り返される。
奴隷としての日々から抜け出す今日、今のこの瞬間ですらも数えきれない繰り返しの中の一場面。
確定した歴史は変わらない。
確定した事象は変わらない。
確定した過去は変えられない。
それでも彼は、彼らはいつまでも記憶を引き継いで足掻き続ける。
「誰が変わらないって? 俺は、俺たちは変えて見せたぞ。だから次は――――」
再びここまで来た。
だからまた始めよう。
変わり始めた時代を。