彼女の世界
いきなりの美女来店と、美女による美青年への餌やり。
僕の年齢では見てはいけないものを、僕は目の当たりにしてしまった。
しかも彼女は――帰らない、と言い切っている。
僕らはこんな生活を続けているけど、帰りたくないのかと言われれば、そうじゃないと堪えると思う。帰りたい、だけど方法は今のところない。その方法を探すだけの力もない。
お腹は空くし、眠る場所は欲しい。
生きていくには、こうして働かなきゃいけない。
それに――死ぬのは、あまりいい気分じゃないものだと、僕は知っている。世界が遠ざかって何もわからなくなって、このまま暗い場所から出られなかったらと、それが恐ろしくて。
たった一回だけでいいと思う、あんなものは。
そんなこんなで、僕は最初からこの状況をどうにかするということは考えなかった。きっと僕がそれなりにゲームをやりこんでいても、自分からそれをすることはなかったと思う。
流されるまま、属する集団――この場合はギルドだけど、それに合わせていた。
それが、本来の僕。
彼女はそれとも違うらしい。
戻ろうとするわけではなくそれを断念したわけでもなく、ただ、最初から『帰る』ということを考えていない、というか……むしろ、この状況を心から喜んでいる、というか。
もしかして彼女が、なんてことを考えてしまう。
そう言われても今なら、やっぱり、と僕は思って納得するだろう。
「これ、とてもいいお肉ね。レギオンも嬉しそう」
女性はにこにことご機嫌そうだ。嬉しそう、と言われても僕から見たレギオンさんは、無表情そのもの。感情があるんだろうかとすら思う。こういう時、代わりに感情表現されるというのが定番の毛長い耳や尻尾は、しかしそれぞれぴくりとも動くことはないし。
……僕と彼女、見ているものが同じなのだろうか。
「うっわ……」
と、背後の厨房からガーネットの声。
レインさんにこの場を任せてそっちに戻ると、何かの画面を開いた彼が驚いた様子で口元を抑えている。それは誰かのステータス画面のようで、表示されていた名前は『寧々子』。
寧々子、ねねこ……あ、ひょっとしてあの女性だろうか。
データ類中心で、見た目の画像が出ないページだからわからないけれど、確か彼女は自分のことを『ネネ』と呼んでいたし。寧々子だからネネ、普通に有り得ることだ。
だけど、それのどこに驚くことがあるのか。
僕はそっと後ろから覗き込み、言葉を失った。
表示されているのは、上限まであと少しという高レベル。さらにスキルも料理や調合などを中心にそれなりに鍛えられていて、特に際立っているのは『召喚』にかんするスキルだ。
名前の下に表記されているメイン職業、それは『召喚術師』。
僕と、同じなのだ。
それでこのレベルで、それでこのスキルの鍛え具合。
あまりの困難さにステータスの底上げぐらいにしか使われていない、とさえ言われていたという『召喚術師』を、寧々子というらしい彼女はかなり極めているようだ。
だけど僕が調べた感じでは、そんなプレイヤーはいなかったはず。過去にいて、今はログインしていないとしても、存在ぐらいは伝えられているはずだ。それにあの様子、ゲームに相当のめり込んでいたというか、楽しんでいただろうから飽きていたようには思えないし。
「すごい、ね……」
ウルリーケがどこか感動した様子を見せる。
うん、これはすごい。すごすぎて、何をどうしたのかわからない。かなり初期からやっていてそれなりにプレイ時間を重ねたというブルーも、ここまでのステータスにはなっていない。
そもそも、一年かそこらで極められたら、運営としても困るだろうし。
だけど目の前にはすさまじいステータスが表示され、本人はなんだかすごい人をしもべとして従えているわけで。そして、そんな人の口からは帰る気がない言葉が飛び出していて。
ハヤイが拾って帰ったドラゴンのこと、うっかり忘れそうになるほど衝撃的だ。
念のため、僕はさっとチャット画面を開いて。
『ハヤイ、しばらく帰ってこなくていいよ、ちょっと面倒なことになってる』
と彼へのメッセージを送信する。
ギルドメンバーと離れ離れだったりフレンドがいれば使う機能なんだろうけど、僕はあまり使わない。だいたいメッセージを送る相手とは直に話せるし、フレンドはハヤイだけだし。
しばらくすると、ハヤイの方から返信。
『ヤベー客きた? マジでオレ帰らなくていーわけ?』
『帰ってくるとややこしいから、もう少しぶらぶらしてて』
『わかった。ところでこのチビの名前どーする?』
『それは後で考えるよ』
返信しつつ、名前、とつぶやく。
あのドラゴン、飼えることになるのはいいとして、名前がないと確かに不便だ。ここは見つけてきたハヤイがつけるべきなんだろうけど、なんだろう……本人が聞くと怒ると思うけどすごく安直な名前がつきそうだ。ドラ子とか、ドラ男とか。本人の名前も、うん。
名前はみんなで考えよう、これはギルマス命令だ。
「っていうか、こんなステぜったい普通じゃ無理ですって」
「そう、だよね……」
よくテレビで、生活の大半をネトゲに使っている、といういろいろとすごい人が特集されてたけど、彼女もそういうたぐいなんだろうかと、そんなことを思う。
この半年、それなりに頑張ったつもりの僕のステータスなんて、足元にも及ばない。
「お金使った、のかな……課金、できる、から」
「あー、そっか。取得経験値アップするアイテムの範囲って、スキルの方もあるから。あれじゃんじゃん使えばこれくらいは余裕だし。……ってうっわ、契約相手の数も上限がんがんに上げてますよこれ。コレ以上はたぶん上がんないんじゃないかなって感じに、うわぁ」
驚きなのか、もはやそれを通り越して引いてすらいるのか、一人賑やかなガーネット。
ゲームの浅い僕にはよくわからないけど、とにかくすごいらしい。
だとしたら、なおさら彼女の存在が表に出ていない理由がわからない。これだけのステータスを持つプレイヤーなら、それこそ引っ張りだこなんじゃないか。
難しいクエストなどの手伝いに来てください、とか言われてるんじゃないか。
学校でも、違う部活でも運動神経がいいような子は、球技大会とかであっちこっちに助っ人に駆りだされていたのを見ていたし。そういうのがゲームにない、というのはおかしい。
「あなたは、特に何も注文はないのかな」
「寧々子っていうの、ネネの名前」
「……では寧々子、君自身が口にする注文はないのだろうか」
「じゃあ、いただくわ。何があるの?」
「この時間はよくあるカフェのメニューを。コーヒー、紅茶、あと簡単な軽食かな」
「ふぅん……じゃあ紅茶。ストレートが好きだから、何もいらないの」
「承った」
小さく一礼し、レインさんが戻ってくる。一方、肉はすでに皿になかった。話している合間にせっせと食べさせていたらしい。トレイを持ちっぱなしだったのもあり、僕が取りに行く。
失礼します、とお皿をトレイに載せる僕を、寧々子さんが笑顔で見ている。
「それにしても、こうして人とお話するのって結構楽しいのね」
「……そう、ですか?」
「えぇ、今までネネはそういうのしなかったの。レギオン以外どうでもよかったし。だけどどうせならステータスを下方修正して見せる方向で、あれこれしてもらうほうが良かったかもしれないわ。レーネには何度か来たけど、誰もいなかったから少し寂しい街だったもの」
「誰も……いなかった?」
そう、いなかったの、と寧々子さんは言う。
そして彼女が語るのは、課金というよりもはや『投資』といっていい、恐ろしい額のお金の使い方だ。彼女の存在を外が知らないのは当たり前、そりゃ専用サーバーなんかあったら、わかるわけがないですよね……。ご冗談を、と言わせないのがその輝かしいステータスだ。
金を湯水のごとく注ぎ、煩わしさ撤去のために専用の世界を用意。
そこまでして求めたのが、そこにいる彼の『実装』で。それが最高に叶ってしまったからもう帰れなくてもいい、なんて。あまりのスケールの違いに、僕はめまいすら感じていた。