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ゴシゴシ、キュッキュッ
ゴシゴシ、キュッキュッ
ゴシゴシ……はー、疲れた。
見渡す限り泡、泡、泡だった廊下は、今じゃ幾分かマシになっている。二時間やってこんだけか……流石大きい家は違うな。と、感慨耽っていると廊下先にある脱衣所辺から聞こえるガシャーンと何かを落としたような音。………またか。
遡ること二時間前。手伝え、と言った彼は私の返事も待たずに、私の腕を掴みぐいぐいと私を脱衣所に連れてった。途中、泡に足をとられ転びそうになったが、彼は歩幅も、スピードも変えることはなかった。
脱衣所を埋め尽くして居たのは、やっぱりというかなんというか、大量の泡。流石の私でもここまで来れば嫌という程わかる。
「洗濯、失敗したんですか」
「……」
「洗剤の量が多かったんですねー」
「……」
「…あ、うちと同じ洗濯機のメーカー」
視線は合ってる筈なのに、会話は成立しない。せめて頷くとかぐらいはしてほしいものだ。独り言みたいで、恥ずかしい。
「えっと、じゃあまず雑巾とバケツお借りしますね」
返事はないだろうと思い、そう発した。勝手知ったる家の中、もちろん掃除用具の場所だって把握済だ。用具を取りに動こうとすれば、腕を強く掴まれた。
「……どうしました?」
「やはり、良い」
「はい?」
「手伝いはいらん。帰れ」
「……」
「帰れ」
なら、どうして手を離さないのだろう。それに、先程よりも更に強い力で掴んでくる。……変な人。
「…えーと、お邪魔でなければ手伝わせてください」
そう伝えても、返事は返ってこない。まあいいや、とそのまま続ける。
「一人じゃ大変だと思うし、私なんかでよければ使ってください」
「……」
「田中のおばちゃんが帰ってくるまでに、終わらせちゃいましょ?」
これでも帰れと言われれば、即座に帰ろう。そうまでして残る意味も義理も、私にはない。さあ、どうするんだ?という目を彼に向ければ、目を見開き、溜息、そして一言。
「……よろしく頼む」
それからは浸すら泡と戦った。雑巾で磨いては絞り、磨いては絞りを繰り返し、今では床はピカピカだ。うん、頑張った甲斐がある。……脱衣所はどうなったんだろ。
「……」
「……」
「…あの、大丈夫ですか……?」
ひっくり返った籠、散乱してる歯ブラシやタオル、雑巾片手に立ち尽くしている彼。というか、この人雑巾持ってるの激しく似合わないな。
…泡、は綺麗になくなってる。いやまあなくなってなかったら困るけど。だってこの人、脱衣所しか掃除してないし。でも、まあ、なんというか、片付けるの苦手なんだろうな。
「ついでなんで、洗濯の回し方覚えましょうか」
「……」
「落ちたタオル、使いますね?」
「……」
無言。でも疑問符には一応、頷いて応えてくれたので良しとする。…ちゃんと手招きしたら近付いてくれたしね。
「あ、服はちゃんとネットに入れてるんですね!」
「……それぐらいはできる」
返事!してくれた!どうしよう、答えてくれた、それだけのことが物凄くうれしい。意外と堪えてたんだな私……。意思疎通ができる内に、と思い洗濯機の使い方を説明する。これ、新型のだから意外と難しいんだよね。慣れれば楽なんだけど。私の説明には、頷いたり「ほう」と洩らしたりという反応を戴いた。有難き幸せ、なんて。
洗濯を、無事に回せ一息着こうと台所に向かえばそこは腐海だった。いや、冗談でも過剰な言い方でもない。本当に腐海なのだ。
カップ麺、レトルト、コンビニ弁当のゴミ。もちろん、空き缶や瓶もそこかしこに転がっている。
「…これ、」
「余り得意ではない」
なにが、なんて訊かなくてもわかる。―――この人、家事がからっきし駄目なんだ。
「茶くらい出す。座れ」そう言って、台所から続く居間に誘導された。あ、ここはまだ綺麗だ。座った瞬間、無言で差し出されたのはペットボトルのお茶。ですよね、自分でお茶とか淹れないですよね、台所使えませんもんね。なんてことは御首にも出さず、お礼を告げた。
その後は、お互い無言。秒針の音がよく響く。秒針が一周したら帰ろう、なんて思っていれば目の前に座る彼からお声がかかった。
「名は」
「はい?」
「名はなんと言う」
あ、そういや自己紹介もしてなかったや。
「葛城華と言います」
「……」
「……」
……会話が、続かない。名前を告げても眼前の彼は、無表情、無反応、無言。玄関前で出会った時同様、彼の眉間には深い皺が刻まれている。その顔がデフォなんだろう、多分。だとすれば実に勿体無い。彼の顔の造りは、芸術品かと思わせるぐらい整っている。白皙の肌、形のいい唇に高い鼻、そして極めつけは物憂げ漂う切れ長の双眼。……これは目の保養になるな。少し怖いけど。
「ひ、」
「?」
「久しぶりに…掃除をした」
目線を落としたかと思えば口早にそう告げた彼。尚も目線は机へと一身に注がれている。
「おまえのお蔭で……助かっ、た………」
消えいるような小さな声。だけど彼なりの精一杯のその謝辞は、きちんと私へと届いた。二時間も床と泡に対面した甲斐があった、なんて。
「…田中のおばちゃんにも、怒られずにすみそうですね」と笑って返してみると、弾けたように彼は顔を勢いよく上げた。……あ、そう言えば名前聞いてないや。少し慌てた様子を見せる彼に構わず、名前を聞いてみると、またもや視線は机へ一直線。うーん、難しい。
「……」
「……」
「……」
「……」
無言のまま、根気よく待つこと一分弱。よっぽと教えたくないのか、口にするのが恥ずかしいのか……。前者だろうな間違いなく。少しは心を開いてきたと思ったがまだまだのようだ。
「〜っ!」
「……?」
「そ、その様な空気を出すな!」
その様な空気とは、どんな空気だろうか。特にこれといったことはしてないと思うんだけどな。でも一応謝っておいた。これぞ大人の対応。
「わかれば良い」
「有難き幸せ〜」
「?…うむ」
ノリで返してみれば、不思議そうにしながらも、頷いて応えてくれた。この人、意外と優しいな。
「久遠」
「?」
「…私の名だ。久遠白夜」
不意打ちだったこともあり「か、格好いいお名前ですね」と何故か拍手付きで賛辞してしまった恥ずかしい。だけどそんな私の拍手を受け彼は「そ、そうか」と満更ではないような様子で照れていた。もちろん眉間に皺を寄せたまま。
……可愛いなこの人。