さよなら
目覚めて、右手で頬を触ると死人のように冷たかった。吐く息も白い。布団に入っているというのにこの体温の低さは何だろう。さっきまで暑い暑いと言いながら、だらしのない格好で、扇風機に当たり、だらだらと汗を流しつつアイスをたべていたことが嘘のようだ。隣には織人が居た。
普通、人はそれを夢と呼ぶのだろう。真冬にたまたま真夏の夢を見た、と。でも、私にはそれは夢ではない。向こうもまた現実だ。きっと、より正しい現実。
私は、こちらとあちらを選ばなければならなかった。私の誕生日までに。そしてそれはもう一週間を切っている。
きっと私が何を言っているか理解できないだろう。自分で言うのは哀しいけれど、私は完全におかしいのだと思う。
どうしよう。何から話したらいいのだろう。
私の話からしよう。私はあっちでもこっちでも私だから。私の根本的な精神が変わることはないし、私を取り巻く環境も、あることを除いて大きく変わることはない。
私の名前は高橋のぞみ。平凡な名前だと思う。十四歳、中学三年。後五日で十五歳。髪はそんなに長くない。肩ぐらいまでの長さで、目はパッチリしている方だと思う。小さい頃はよくお人形さんみたいだと言われた。まあそれが、日本人形かフランス人形かでも印象はがらりと変わってくると思うけど。小さい頃は確かに可愛かったのかもしれない。でも、今は自分で可愛いとは間違っても思えない。
頭は普通かな、と思う。とりたてていいわけでもないし、だからといってエスカレーター式の学校で進級できないほど悪くもない。父母、そして、姉が一人居る。歳が離れているので姉はもう就職している。仲はいいほうだと思う。平凡な家族構成。
ただ、家族は本当の私を知らない。
言っても理解は出来ないだろう。あっち(こっち)の世界のことなんて、「夢」の一言で片付けられるだろう。
あっちの世界は、こっちにしてみれば夢に違いないのだろうけど、あっちでもきちんと生活している私にとっては、こっちの世界だってあっちの夢ということになる。ただ、あっちの時間はこっちより少し早く進む。色々考えてみたけれど、帳尻が合うのは、時間の流れが違うからだと思われる。私の睡眠時間は約七時間。七時間しかあっちには居られないはずなのに、あっちの活動時間もちゃんとこっちと同じように十七時間ある。そして、あっちでの睡眠時間はやっぱり七時間(実際は当然十七時間)。季節は何故か真逆で、こちらが冬ならあちらは夏。秋なら春。とても寒ければとても暑く、暦はこのままなのに本日一月四日は、向こうでは真夏だ。
いつからそんな二重生活を(これを二重生活と呼ぶのかは分からないけど)しているのかと言えば、ずっとだ。物心ついたときから、もうずっと。
生活環境は変わらずとも、あっちとこっちの違いは大きくある。あっちには私を理解してくれる幼馴染が居て、こっちには私が深く愛している人が居る。何故か不思議なことに二人は片方ずつにしか存在しない。
私はまだ、布団から出ていなかった。尤も冬休みだからいつまでこうしていても構わないのだが、そろそろお腹もすいてきたので起きることにする。時計を見ると、九時を回ったところ。
やることは何もないけれど、私は今日もたくさん考えなければならない。あっちとこっちとどちらの世界に留まるか、今はただそれのみだ。選択したら、片方の世界は消える。何度も言うが、時間がない。
十五歳の誕生日に、どちらか片方の世界が消えることを私は一体誰に聞いたのだろう。何故、そんなことを知っているのだろう。近頃そのこともよくよく考えてみるけれど、分からない。ただ、最初から知っていた。これは絶対的な決まりごと。野生動物のように本能的に体が知っていたという感覚に近いだろう。
私は顔を洗って食卓についた。また、朝から餅を食べさせられなければいいなと思いながら。
それから、汐見くんに会いたいと思う。私が愛して止まない汐見くんに。
案の定、朝から餅を食べることになった。あべかわ餅ときなこ餅と食べた。母は無類の餅好きだ。まあ、そんなことはどうでも良く、世界のことを真剣に考えなくてはいけない。
私はとりあえず学校に行ってみることにした。一目でもいいからどうしても汐見くんに会いたかった。あっちを選べば汐見くんを見ることすら出来なくなる。それを考えると、胸が苦しくなる。
家から学校まで歩いて十分。とても近い。寒いので、当然コートにマフラー、手袋、耳宛、マスク(ちょっと怪しい)、フル装備だ。校庭を突っ切り、私は体育館に真っ直ぐに向かう。今日から汐見くんが所属するバスケット部の練習が再開しているはずだ。
体育館を覗くと、彼は小休憩中なのか、もうすでに沢山の女の子に囲まれている。
はっきり言って汐見くんは格好がいい。バスケ部のエースだし、頭だってトップクラスで何より見目麗しい容姿をしている。汐見くんを見ると私はいつでもうっとりとしてしまう。
それから、とてもやさしい。汐見くんは忘れていると思うけれど、私は何度も汐見くんに助けられた。一人移動教室の場所がわからなかったとき、忘れ物をして他のクラスの人に声をかけられず、どうしていいかわからなかったとき、当番のプリントをすべて落としてしまったとき。
私は助けられるたびに当然お礼を言ったが、汐見くんは誰に対しても親切だから、気にも留めていない様子だった。
とても寄っては行けない。この距離は私と汐見くんが親しい間柄ではないということを表している。私たちは単なるクラスメートで、たまに簡単な会話(会話と言うより挨拶)を交わす程度だ。私の完全な片想い。
彼を見ることができただけで満足して、早足で家に帰った。
「決めたの?」
織人は言った。勿論言わずとも「どちらの世界を選択するか」が頭についた質問だ。蝉が煩く鳴いている。
夜になり、眠ることで私はいつものようにこっちからあっちにやってきた。今居るところがこっちなのだが、ややこしいので、こっちが汐見くんの居る世界、あっちがこの織人が居る世界ということで私は勝手に呼び分けることにしている。
織人というのが私の幼馴染の名前だ。彼は、こっちもあっちも全て理解してくれて、信じてくれていると思う。
「まだ、決めてない」
私は返した。夏休みなので、連日織人の家に遊びに来ていた。織人の家の廊下は風が入って涼しいので、今日は廊下で庭を眺めながら話をしている。真上に透き通った水色の風鈴が吊るしてあって、時折綺麗な音色を響かせる。織人の側はとても落ち着く。
昨日蚊に刺されたところがとても痒い。私はTシャツを少しずらして、肩を思いっきり掻いた。
織人は私から視線をそらした。今日は色の濃いTシャツだけど、例えば薄手の白いシャツだったりしたら、織人は最初から絶対に私の方を見ようとはしない。普通にブラが透けていたりするのが気になるらしい。そんなことはいつものことで、私は全く気にしないというのに。
紳士的で、ちょっと可愛くて、私は織人のそういうところを好ましく思う。誠実な、信頼できる幼馴染だ。
「‥‥‥向こうで汐見くんに会ってきた」
私はぽつりと言った。
「会ってきたというより、見てきた、じゃないの?まだ、勇気出せない?気持ちは分かるけど、話も出来なきゃ何も始まらないよ?」
立て続けに痛いところを突く。全く以ってその通りだ。私はそのことには返事をせず、話題を変える。気になってはいたけれど、確信したくなかったことだ。
「考えたんだけど、消えた世界はどうなるんだろう。私が選択しなかった世界は、勿論私を除いた世界としてずっと存在し続けるんでしょう?私からは世界が消滅したように見えたとしても、その世界は何も変わらずに存在し続けるんだよね?」
「‥‥‥どうかな。もしそうでなければ、例えば選ばれなければ俺も消えるってことだよね」
「‥‥やめてよ。恐いよ。まさか、私の長い夢として、織人が消えてしまうことがあるわけないでしょう?」
「さあ。のぞみが選択した後、確かめるすべもないしね」
私は沈黙する。
「もし、そうだとしても、のぞみが気に病むことじゃないよ。そんなのどうしようもないことだもの」
織人は何でもないことのように笑って言う。
「気に病むよ。気に病むどころじゃない。‥‥すごく、恐いことじゃない。余計選べない」
私は泣きそうになる。
「麦茶でも持ってくるよ」
織人は立ち上がる。
風鈴が鳴った。消滅するなら、この綺麗な風鈴の音色も色彩もこんなにはっきりとしているのに、どこへ消えてしまうというのだろう。
“あっち”の世界の夜が来て、私は眠った。
今日も寒さが身に沁みる。私の体は眠ることのない生活を続けているというのに、疲れを全く知らない。きっと(憶測ばかり)肉体は十分に休まっていて、精神だけがあっちとこっちを行き来しているのだ。
ぼーっと、天井を眺めて切なくなる。
結局、織人と話していても結論は出なかった。分からないことを考えていたって仕方が無い。ただ、祈るしか出来ないのだ。私が消えた後の世界の存続を。私が、織人や汐見くんを消すことがないことを。
「汐見くん‥‥‥」
私は無意識のうちに呟いていた。
体育館をそっと覗くと、汐見くんが目の前に居た。どうやら、こぼれたボールを追って入り口の近いところまで来たようだ。視線が合う。私はびっくりして、固まった。
「高橋、昨日も来てたね」
汐見くんが、にっこり笑いながら話しかけてきた。私は慌てて頷く。
「バスケに興味があるなら、中に入って見学しなよ」
汐見くんが私の腕を掴んで引っ張る。どきどきと胸が高鳴る。汐見くんがコートに戻った後も、体育館の片隅で動くことも考えることも出来ずに、ただ彼だけを呆然と見つめていた。
いつの間にか、部活は終了していたらしい。気付けば、体育館には誰の姿もなくなっていた。
「高橋」
声を掛けられて、ふと前を見ると汐見くんが立っていた。
夢みたいな日だと思った。夢なんて見たことはないけれど、一般的にきっとこういう時に夢みたいって使うのだろう。
「家、どっち?一緒に帰らない?」
汐見くんは、軽く聞く。
「一緒に帰ります」
私が言うと、彼は吹き出した。
「何で敬語なんだよ」
「ごめんなさい。じゃなくて、ごめん」
「別にいいけど。高橋ってなんか面白いな」
私の顔は一瞬で赤くなる。体温は上昇、今なら手袋もマフラーも何も要らない。
「自転車、取ってくる」
汐見くんは、自転車置き場に向かう。
「どっち?」
校門を出て、左右どちらの方向か汐見くんが聞いてきた。
「こっち」
私は左の方向を指差す。汐見くんが右の方向に曲がることを知っていたけれど、嘘をつくことはできない。
「俺の家はこっちの方向だから。でも、CD買って帰ろうかな。途中まで一緒に行っていい?」
勿論いいに決まっている。
「うん。僕もCD屋さんによって帰ろうかな」
私は言った。
こっちで、私は自分のことを“僕”と言わなければいけない。私のこっちでの肉体的性別は『男』だから。
認めたくはない。“僕”と言うのはとても哀しいことだ。あっちでは当然のように女の肉体を持っているのに。
こっちとあっちの絶対的な、残酷な、どうしようもない違い。
それから汐見くんと好きな音楽のジャンルの話から、趣味が同じなことが分かり、話はとても盛り上がった。彼と別れた後も、私は幸せな気持ちで、寒さなど微塵も感じることなく家に着いた。
「汐見くんといっぱい話せたの。織人、こんな日が来るなんて信じられないよ」
私は興奮して、今日(昨日?)あった“こっち”での出来事を織人に話す。
「よかったね」
織人は穏やかに聞いてくれている。
「あのさ、突然だけど海に行かない?」
織人は真剣な顔をして、本当に唐突にそう言った。
「いいけど、どうしたの?」
織人は表情を崩して、照れたように笑った。
「何?」
「なんでもないよ。気分転換だよ。天気もいいし、行こう」
「‥‥うん」
織人が織人らしくないような気がして、釈然としなかったけれど、私たちは海に向かった。
「あっついねー。泳がないんじゃ、ただ暑いだけだよ」
目の前は海だ。私は手で顔を軽く仰ぎながら、そう言った。織人が水着は要らないと言うから、電車とバスを乗り継いで、着の身着のまま手ぶらでここまでやってくることとなってしまった。
「はい、どうぞ」
私は織人からカキ氷を受け取る。シロップは勿論いちご。今更、どのシロップにするか確認されることはない。
私たちは日陰の防波堤に座り、海を眺めながらカキ氷を食べる。海水浴に来ている人は沢山居て、本当に夏なのだと実感する。太陽が眩しい上に、パラソルや水着がカラフルすぎて、見ていると目がちかちかしてきてしまう。
この防波堤の日陰は隔離されていて、なんだか世界が違う気がする。
「あのさ」
織人が不意に言った。
「俺は、男ののぞみなんて想像できないけどさ、のぞみが男だとしても、きっと好きだと思うよ」
「ありがとう」
私は、返す。
「最後にこんなこと言うのは卑怯かもしれないけど、最後になるかもしれないから言わせて欲しい。俺はずっとのぞみが好きだよ。これからもずっと。だから、俺を選んで欲しい。向こうの世界を選んでも、のぞみが辛いだけだと思うから」
織人の目は優しかった。
「そうだね」
私は俯いてため息をつく。織人は同情で言ってくれているのかもしれない。
でも、本当に、そう思う。
本当に。
“こっち”で汐見くんにさよならすることができれば私は幸せになれるのだろう。
今の私が正しい私。本当の私。本来あるべき私。よく、分かっている。
でも、心に思うのは汐見くんだけ。やっぱり、どんなときでも汐見くんに会いたい。
夜中に降り出したのか、窓から外を眺めると三センチほど雪が積もっていた。息が白い。
さっきまで見つめていた夏が恋しかった。
体育館は閉まっていた。今日は練習が休みらしい。
織人には会いに行く気になれなかった。家に来そうな感じもあって、それが恐くて、私は暑い中、散歩に出かけた。考えようとするけれど、暑さのせいか頭は上手く働かない。途中でラムネを飲んだり、何等なく歌を歌ったりして歩き続けた。私は“あっち”の自分の、このか細い声が好きだ。
夕飯の時間に家に戻った。同じ母だが、さすがに餅を出すことはなく、夏の定番メニュー、冷やし中華が出てきた。
お風呂に入ろうと、脱衣所で服を脱いだら何だか切なさが胸にこみ上げてきた。
完璧な女体だ。胸だってそんなに豊満ではないけれど、きちんとある。一度でいいから、この体で汐見くんのところに会いに行きたかった。
湯船で泣きながら、私は両腕で包み込むように私の体を抱きしめた。
カーテン越しから光が漏れている。今日は天気がいいようだ。雪もきっと溶けるだろう。
バスケット部の練習が終わるまで、外で待った。
待ち伏せのようにしている私を、汐見くんは気味が悪いと思ったかもしれない。
「汐見くんは、好きな人居るの?」
その上、突然こんな質問して、嫌がられるかとも思ったけれど、どうしても今知りたかった。
「‥‥うん、居るよ。他の学校の子なんだけど、まだ告白はしてない」
汐見くんは、驚いた様子も無く、あっさりと答える。
「汐見くんならきっと大丈夫だよ」
一瞬、聞くんじゃなかったと思ったけど、遅かれ早かれ知ることだ。哀しみは、意外となかった。今、汐見くんに彼女が居ないことだって、考えてみたら不思議なことだから。
好きな人が居る汐見くん。私の気持ちなんてこれっぽっちも気付かないで、彼女と並んで歩く日も近いだろう。
それでも私は、盲目的に、崇拝的に、自分でもよくわからないくらい、汐見くんが好きだ。
ノースリーブで外に出る。今日も、いい天気だ。空の青が眩しい。
今日で最後だ。明日、私は十五歳になる。
もう迷わない。織人に会わなければいけない。
織人は廊下に居た。相変わらず、水色の風鈴が時折響く。
「織人、昨日私に会いに来た?」
「行かないよ。このままもう会えないかな、とも思ってた」
「それでいいの?」
「だって、別れは哀しいでしょ?」
「織人、分かってるの?」
「・・・伊達に長い間一緒に居ない」
「ごめんね」
「謝る必要なんてないよ」
また、風鈴が鳴った。しばらく無言で、空を見上げる。とても眩しい、真夏の光。
夕暮れがやってきて、急に涼しくなった。
おばさんが持って来てくれた、オレンジジュースを飲む。果汁は30%か、もしくは20%。いつも飲んでいたジュースなのに、懐かしくて、なんだか胸が痛い。
「織人、私がここを選べば、織人を幸せにしてあげられるかもしれないね。そして、いつか私も幸せになれるだろうね」
織人は何も言わず、優しく私を見つめる。
私は言葉を続ける。
「でも、幸せになれなくてもやっぱり私は汐見くんの側に居たい。汐見くんが私を選ぶことなんて一生無いのだろうけど、どんなに辛くても汐見くんと同じ世界で生きていきたい。いつか‥‥‥近いうちにかな?汐見くんの隣には可愛い女の子が並ぶでしょう。分かってる。けど、今度は幸せな汐見くんを近くで見ていようと思う」
織人は力なく何度も頷く。
「織人、幸せにしてあげられなくてごめんね」
織人は首を振って、勢いよく私を抱きしめた。そうやって、熱で“私”を覚えていて欲しい。
風鈴の音を聞きながら、私は夏に別れを告げた。次にこの音を聞けるのは、約半年後だろう。
私は、抱きしめられた織人の体温を思い出して、泣いてしまうかもしれない。でも、織人はどこかできっと元気にしていると信じたい。
一つだけ、楽しみなことがある。私はこれから夢を見ることができるかもしれない。そこで織人に会えたらいいなと思う。例え幻の織人でも‥‥‥。
そして、汐見くんも出てきて、私は織人に汐見くんを紹介したい。「この人が私が愛して止まない人です。素敵でしょう」って。
お読みいただき、ありがとうございました。
若干ですが、祭り参加時より改訂しました。
彼女(彼)の選択には、賛否両論あると思いますが、馬鹿だと言われようと真っ直ぐ感情に突き進む形にしました。
何かしら思ってもらえたら、幸いです。