黄泉渡し
「ひっく…ひっく…うぅ……」
道端で、少女は泣いていた。歩道の真ん中にしゃがみ込んで、丸くなって泣いていた。歩道を歩く人たちはそんな少女に声をかける事も、気にかける事も無く、素通りしていく。どんなに泣いても、誰も気づかない。誰も聴こえない。
そう、泣いている少女は、既に死んでいるのだから。
「どうしたんだい? お嬢ちゃん」
少女に誰かが声をかけた。見えないのに、聴こえないのに、触れないのに。誰かに声をかけられた。少女は顔をあげ、声の主の顔を見る。目の前にいたのは、無精ひげを生やしたおじさんだた。
「おじさん、誰?」
少女は訊ねた。無精ひげを生やし、ワだらけのチェック柄のシャツを着て、煙草をくわえたおじさんに。
「おじさんはね、君みたいな子の願いを少しだけ叶える人だよ」
おじさんは朗らかに、だけど冷たく笑った。ニヒルな笑いだ。
「願いを、叶えてくれるの?」
少女は涙を拭い、真っ直ぐにおじさんを見る。
「本当さ。でも、完全に生き返らせられるのは無理だけどね」
完全に。少女はその言葉の裏に隠されたものが何なのか気になった。
「じゃあ、私のお願い聞いてくれる?」
少女は最後の希望を素性の知れない謎のおじさんに託す。それ以外、方法がないから。
「何だい? 言ってごらん?」
おじさんはしゃがんで少女の話を聞く。
「私、この前交通事故で死んじゃったの。それで、お父さんとお母さんが毎日私の仏壇の前で泣いてるの。だから、伝えたいの。もう、泣かないでって」
おじさんは茶化す事も、相槌を打つことも無く、ただ聞き続けた。
「おじさん、私の代わりに伝えてくれる?」
そこでようやくおじさんは立ち上がり、答えた。
「それは無理だね。たとえ僕が伝えても、君の両親は信じちゃくれないさ。そう言うことは自分で伝えないと」
突き放すような言葉。少女はがっくりと項垂れ、目に涙をため始める。
「何度も、何度も言った。伝えようとした。でも、伝わらなかったの。聴こえてなかったの。私にはもう、どうにも出来ないの」
止めどなく溢れ、ぽろぽろと流れた涙が、路面を濡らすことなく消える。勿論、少女の目の前にいるおじさん以外には見えない。
「……だから、僕がいるんじゃないか。それに、僕は言ったよ。君の願いを少しだけ叶えるって」
「…えっ?」
少女には、おじさんの言っている事が分からなかった。少女はおじさんの目を見た。どこまでも心を見透かすような、どこまでも未来を見通すような、真っ直ぐな目を。
「まぁ、その時が来れば分かるって。で、お嬢ちゃん。名前は?」
「……和泉、叶」
「叶ちゃんか、いい名前だね。僕は沖野って言うんだ」
沖野はにっこり笑って言った。そして、スクッと立ち上がり、踵を返して一言。
「じゃあ、叶ちゃん。僕を君の家まで案内してくれるかな。 それと僕はまだ二十五歳なんだ」
叶は、沖野の最後の台詞に妙な寒気を感じた気がした。
「う、うん。…じゃあ、ついて来て」
叶はとりあえず沖野を先導し、道案内をする。何度も通った道。友達と、家族と通った道。叶は自分でも気付かない内に泣いていた。
「叶ちゃん。やっぱりもっと生きたかったかい?」
見透かしたように沖野は言う。そう聞かれた瞬間、叶の双眸からは涙が一気に溢れる。
「……うん。もっと、生きたかった。生きて、みんなと一緒に楽しく過ごしたかった。友達と、一緒に頑張って、楽しい事して、勉強して、もっと友達を作って、恋をして、大人になって、夢を、叶えたかったよ……」
そんな誰にとって当たり前のような日常が、叶にとってはもう、叶わぬ夢だった。叶の口からは、そんな些細で暖かな日常への憧れと、嘆きが語られた。
「そうかい。でも、僕には君をどうする事も出来ないんだ。ごめんよ。でも、少しなら力を貸せる。僕はその為にいるんだから」
それから、叶から様々な話を聞いている内に、いつの間にか叶の家の前に着いていた。沖野は馴れ馴れしくインターホンを押す。しばらくして、出てきたのはやつれた男性だった。すぐに叶の父親だと分かった。
「どちらさまでしょうか?」
疑うような目つきで沖野を見て一言、そう訊ねた。
「どうも、僕はあなたのお嬢ちゃんが伝えたかったことを伝えに来た沖野です」
沖野はおどけた様に言って見せる。
「ふふふ………。そうやって、あんたも俺達を騙す気だろ? そうなんだろ?」
父親は自嘲するように不吉に笑って沖野を見る。そんな父親の態度の原因を沖野は知っていた。叶の両親は以前、詐欺師に騙され大金を騙し取られた。負い目に祟り目を受けた両親は心中をしようとしていたと、叶から聞かされた。
「まぁ、信じろと言っても無理でしょう。なら、一回その目にご覧入れましょう。とりあえず、僕を家に上げてくれませんか?」
道化師のような、怪しい言動で話し続ける沖野に対する父親の不信感は募るが、逆に怪しすぎて、怪しく見えなくなってきていた。父親は「少し待ってください」と言って、家の中に入っていった。恐らく、母親と相談しているのだろう。
しばらくして、再びドアが開く。
「どうぞ、上がってください」
両親の了承を得た沖野は、早速家に上がる。今の隣の和室には、叶の仏壇が置かれていた。黒い額に入った写真に映る叶は、輝くように笑っていた。両親にとって、光であり、生きる理由であっただろう《たった一人の愛娘》と言う存在。呆気なく命を散らせてしまった一人娘の遺影が、閑散とした空気の中に居座っている。
「あなた二人と叶ちゃんの状況は聞いています。では、早速準備に取り掛かるので隣の和室をお借りします」
沖野があれこれ言っている間、両親は心ここにあらずという次元ではない程、やつれて虚ろな表情で聞いていた。否、聞いていたのかどうかさえ怪しい。しかし、両親はどうぞと返答を寄越したので聞いていたのだろう。沖野は隣の和室に入り、襖を閉める。
「……沖野さん」
不安そうに見つめる叶の目には、涙が溜まっていた。恐らく、家族への心配の涙だろう。
「じゃあ叶ちゃん。目を閉じて強く願うんだ。伝えたいことを…」
叶は、言われた通り目を閉じ、強く願った。両親に、生きて欲しいと。自分の分まで生きて欲しいと。沖野は叶の額を、人差し指で突いた。
「もう、開けていいよ」
叶はゆっくりと目を開ける。特に自分の体に変化はないように見えた。
「じゃあ、襖を開けて両親のところへ行ってごらん」
沖野は優しく一言残し、一歩下がる。叶は恐る恐る襖に手を伸ばす。そして、その手が襖の取手に触れた。どうしても触れなかった取手が。叶はそのまま襖の扉を開ける。襖の向こうにいた両親は、叶を見た途端目を見開く。
「叶、ちゃん……?」
「叶、なのか?」
両親とも、信じられないと言うように声を漏らす。
「お父さん、お母さん…」
叶は駆け出し、母の胸に飛び込んだ。今度はすり抜けたりはしない。叶は、しっかりと母に抱きとめられ、抱きしめられた。
「叶、叶……!」
母親は力一杯、叶を抱きしめる。もう、二度と失いたくないと。父親も叶の頭を愛おしそうに撫でる。叶は、懐かしくて愛おしい両親の温もりに泣いた。温か過ぎて泣けた。優しすぎて泣けた。強すぎて泣けた。
「お母さん、お父さん。死んじゃやだよ」
それを聞いた両親は我にかえったような表情をする。
「二人とも死んじゃったって…私、幸せになれないよ」
「叶ちゃん……」
涙でくしゃくしゃになった顔を向かい合わせ、見つめ合う。
「おかあさん、おとうさん。わがままかもしれないけど、お願いがあるの…」
生きる目的と理由を失った両親に、もう一度生きる理由を与える為の最後のお願い。
「何? 叶ちゃん…」
「何でも叶えてやる。言ってみろ」
両親は力強く答える。さっきまでのやつれた感じはどこにもない。二人の眼にはしっかりと命の灯が燃えていた。
「私に、時々でいいからいろいろお話してほしいの。何でもいいよ。下らない話なんかでも。あと、風景の写真とか見せて欲しいの。桜とか、花火とか、綺麗な風景がたくさん見たいな」
叶は、とっておきの笑顔でそう言った。お願いした。両親にもう一度、生きる理由を与える為、両親の止まった時間を再び動かす為に。
「わかったわ。これからたくさんお話ししてあげる……」
「お前の好きそうな写真も一杯撮って見せてやる……」
両親も叶も、涙が止まらない。そして、叶の体が透けてきた。
「か、叶ちゃん?」
「もう、時間みたいなの。ありがとう。最後にお話しできて、嬉しかったよ」
叶は花が咲いたように笑った。朝露のように涙が頬を伝った。
「駄目よ! いかないで叶!」
「叶!」
両親はどんどん見えなくなっていく娘を必死で引きとめようとばかりに叫ぶ。
「お父さん、お母さん。私の分まで生きて。生きて、私が見られなかったものを、見せたり聞かせたりして欲しいな。約束だよ……」
そこで叶の姿は完全に消えた。もう、沖野の目にも見えなくなった。未練が無くなり、叶はこの世を去った。けれど、これからも叶は両親の思い出の中で生き続ける。そして、両親を支え続けるだろう。
両親とも、泣き崩れていた。でも、悲しみの底まで堕ちた人のような泣き方ではなかった。過去の嘆きを、後悔をしっかり受け止め、噛みしめ、再び前へ進む為に泣いているように、沖野には見えた。
「どうでしたか? 叶ちゃんの言葉を、願いを聞いた感想は」
ひと段落ついたところで沖野が両親に声をかける。
「あぁ……あなたには、何とお礼を言ったらいいか」
先に答えたのは父親だった。最初に見たときとは違って、いかにも父親としての引きしまった表情をしていた。
「沖野さん。本当にありがとうございました。事故で死んでしまった娘の、叶の声はもう二度と聞けないと思っていたのに。沖野さんのおかげで私達は救われました。本当にありがとう」
ありがとう。沖野にとっては、とても馴染み深い言葉であり、最も好きな言葉だ。
「僕はただ力を貸しただけですよ。あなた方を救ったのは、叶ちゃんです」
沖野はお決まりの謙遜してはぐらかす。でも、両親は凄く晴れ晴れた表情で、謝礼を繰り返す。
「さてと、僕は仕事が終わったのでもう行きます。お代のほうは、叶ちゃんの親孝行な想いに感銘を受けたので、今回はタダと言うことにします」
沖野はそれだけ言うと立ち上がり、リビングを出ようとする。
「でも、それじゃ――――」
「どうしても、お支払いしたいのなら。まぁ、あなた方から大金を騙し取った詐欺師からでも巻き上げますよ。詐欺師の居場所は、叶ちゃんに教えてもらったので」
沖野はリビングを出て、玄関を出る。玄関まで両親が見送りに来ていた。
「それでは、もう二度とこんな形でお会いしないことを願います」
こんな形。つまり、そう言うことなのだ。沖野の仕事は、死者に直接会わせ、声を聞かせ、死者を成仏させること。同時に、遺族の心も救うこと。
「じゃあ、さようなら。お元気で」
どこか不思議な雰囲気を纏った沖野の言葉は、両親の耳にしばらくの間残ったのだった。
「…またどこかで寿命が延びた人物がいたと思ったら、やはりお前が関わっていたか」
道を歩き続ける沖野に、誰かが声をかけた。周りには誰もいない。すると、空間からにじみ出るように黒い少女が現れる。鈍色に輝く身の丈迫る鎌を携えた少女。
「やぁ、また会ったね。今日はどうしたんだい?」
沖野はいつものようにおどけて、とぼける。
「お前が死者に干渉して誰かの寿命を延ばすのをやめろと言ったはずだ」
冷徹で抑揚のない言葉は、鎌より鋭く、厳しいものだった。
「僕はただ、可愛い女の子に力を貸しただけさ。寿命が延びたのは単なる偶然だよ。それに、可哀想じゃないか。死んでも死にきれなかった女の子が彷徨ってるのを無理矢理成仏させるなんて」
沖野は表情一つ変えない。否、表情は常にへらへらしている。何を考えているか分からない。思惑を探ろうとするとこちらが探られるような雰囲気を醸し出す男。
「憐れみで無意味な事を続けるなら今すぐ辞めろ。迷惑だ」
冷徹な一言は、沖野の言葉を鎌のようにばっさり切り捨てる。
「別に僕としては憐れみでやってるわけじゃないよ。ただ、可哀想って言ったら君も同情するのかなって思ってさ」
沖野の言葉に少女は不機嫌な態度をとる。
「生憎、私の仕事上、死人の事情を憐れんでいる余裕なんてないからな。死者を憐れむなんて私には出来ない」
「そう、それは残念だ」
沖野は残念そうにへらへら笑う。少女にとって、不愉快で仕方ない笑い方だ。
「その笑い方やめろ。虫唾が走る」
少女は、この言葉を何度言ったか分からない。沖野も、何度聞いたか分からない。
「でもねぇ、これが僕の笑い方だからしょうがないんだよ」
少女は不毛な会話を一旦打ち切る為に「で」と話題転換を始める。
「このまま、続ける気なのか?このままではお前あ―――」
そこまで少女が言ったところで、沖野は手を突き出して遮る。
「その先は十分理解してるよ。でも、勿論続ける気だよ。だから、説得は無駄」
沖野が一瞬、ギラリと少女を睨んだ気がした。
「そうか。では、私からの忠告は以上だ」
それだけ言い残し、少女は、空間に溶けるように消えた。
「扨、だいぶ時間食っちゃったけど、大丈夫かな? 僕にも生活があるからね。急がなきゃ」
沖野は、傍から見れば特に急いでるようには見えない速度で歩き始める。
先日、ある家族から大量に金を騙し取った詐欺師は、誰も住まず、誰も寄り付かない廃墟を根城にしていた。詐欺師は、自分の口座に振り込まれた大金を下ろし、次の街へと移動する準備をするために帰ってきた。
「やぁ、遅かったね。大金貢いでくれて御苦労様です」
詐欺師は咄嗟に声のする方を見た。人影が詐欺師を見ていた。人影は歩み寄り、光の下に出る。現れたのは中年の男らしき人物。飄々とした沖野の態度は詐欺師の防衛本能に危機感を働きかける。
「……誰だ」
詐欺師は沖野を睨み、低い声で訊ねる。
「僕は沖野。旅する霊媒師さ。今日は君から今回の仕事の報酬金を受け取りに来たんだ」
それを聞いた詐欺師は、札束の入ったカバンを抱え、一目散に逃げ出した。
「おっと、君はもう逃げることはできないよ」
どんな仕掛けを施したのか、出口である扉はびくとも動かず、唯一の逃げ道である非常階段は沖野の後ろだ。
「うおおおおっ!」
詐欺師は正面突破しかないと見たのか、猛然と沖野目がけ突進してきた。
「あらぁ、困ったねぇ。ホントに………」
沖野は突進してきた詐欺師をあえて紙一重で避ける。詐欺師は当然止まろうとはしない。だが、そこに沖野が足を引っ掛けてきたのだから避けられる筈もなく、
「ぐあああああああっ!!」
と詐欺師は悲鳴をあげながら、顔面をコンクリートに思い切り擦りつける。余りの激痛に呻いている詐欺師の頭を、沖野は踏みつける。
「困るんだよね。君みたいなのがいると、僕の信用ガタ落ちなんだよ。僕は信頼で商売してるからね」
にこやかに聞こえる声と共に沖野の足に力がこもる。詐欺師からは表情は見えないが、声の裏に潜むものに対する恐怖で詐欺師は声が出なかった。
「信用がないとね、沢山の人を救えないんだよ。だからさ、僕は君を警察に突き出そうと思うんだよ。でもね、君が足を洗って、かつ今回叶ちゃんの家族から騙し取った金額の九割を僕にくれたら見逃さないわけでもないけどね」
にこやかで、飄々とした口調の裏に潜む感情に詐欺師は恐怖し、懇願するように言う。
「わ、分かった。金は全部渡す。だから、頼む。見逃してくれ!!」
沖野は一瞬だけ、表情を歪ませ詐欺師を見下ろす。
「そこまで言われちゃしょうがない。見逃してあげるよ」
沖野は足をどけ、近くに落ちていた鞄を拾い上げる。そんな中、サイレンの音が近づいてきた。そして、その音は廃墟の前で止まった。
「お前、警察に突き出さないんじゃないのか!?」
詐欺師が取り乱して言うと、沖野は照れ笑いにも似た表情で、
「僕は君を通報してないよ。通報したのは、君がお金を騙し取った叶ちゃんの家族さ」
そう、沖野は叶の家族に一枚の紙切れをこっそりテーブルの上に置いておいた。
『叶ちゃんの両親へ
僕はこれから詐欺師のところへ行くので、一時間位経ったら警察に電話しておいてください。場所は町はずれの廃墟ビルです』
「とまぁ、とにかく僕は通報してないから」
と、嬉しそうに笑う沖野。詐欺師は愕然としたまま一言もしゃべらない。
「あ、そうそう。僕は本物の霊媒師をやりながらもう一つ職業を受け持ってるんだよ」
くるりと踵を返し、非常階段へ歩きだす忍野は「それはね――」と嬉しそうに一言こう言った。
「詐欺師を騙す詐欺師さ」
本作品を読んで下さり、ありがとうございます。
その昔、少女が交通事故で亡くなったというニュースを見て思いついた作品です。不謹慎ですね…。まぁ、読んで下さった皆さんが何かを感じ取って頂ければそれでいいと思います。
良ければ感想などを書いて下さると僕は調子に乗っていろいろ載せ始めます。
こんな僕ですが、これからもよろしくお願いします。