網の猟犬
この物語は、生体電流でジャンクDNAを強制起動させる「スキル」だけが存在するディストピア世界を描いた読み切り短編です。
チート能力を引いても、国家の組織力と法の前では無力。
「魔法」を完全に科学で再構築し、チート無双に対する明確なカウンターを詰め込んだ世界観です。
主人公はシステムの番犬である保安官。
面倒くさがりながらも、容赦なくルール違反者を狩る男の日常を、ぜひ味わってください。
もし気に入っていただけたら、続き(本編)の執筆を検討します。
夜の路地裏に、吐き気を催すような空気が淀んでいた。
湿ったコンクリートの冷たさと、焦げたタンパク質の甘ったるい異臭。
保安局の保安官、コードネーム「猟犬」は、鼻をひくつかせて長いため息を吐いた。
「ああ、クソ。120Vをやってやがる」
放電臭は三ブロック先からでもはっきり分かった。
安全マージンを超えた違法電気ショックで、ジャンクDNAを無理やりノッキングさせた犯罪の残り香だ。
合法的な80V以内のショックでは絶対に出ない、このオゾン混じりの臭いには、何十回嗅いでも慣れることはない。
(よりによって、有給申請を出したばかりだというのに……。上層部の連中は、残業代の申請書をまともに見る気があるんだろうな)
内心で毒づきながらも、猟犬はコートの襟を立てた。
国家が管理する生体システムを維持するのが彼の役割だ。それが、この腐りきったメガロポリスの底辺で生き延びるための唯一の方法だった。
視界を人工網膜の暗視モードに切り替える。
タペタム眼が微かな電子音を立てて機能し、薄暗い路地が緑がかった鮮明な世界へと姿を変えた。
遠くの影の揺らぎ、ネズミの這う動きさえ捉える動体視力。
猟犬は足音を完全に殺して進む。
人工筋肉のブレーキはまだ解除しない。
彼の固有スキル『猟犬』の力は強力だが、肉体へのバックファイアも大きい。無駄に体力を消耗すれば、後で乳酸が限界まで溜まり、地獄のような疲労が全身を蝕むことになるからだ。
*
臭いの源は、完全に打ち捨てられた廃倉庫街にあった。
錆びついた鉄骨が骸骨のように剥き出しになり、崩れたコンクリート壁が並ぶ、街の死角。
猟犬は壁に背を預け、慎重に中を覗き込んだ。
建物の隙間から、不自然な赤黒い炎の揺らめきが漏れている。熱気と煤の臭いが、さらに強く鼻を突いた。
中にいたのは、二十代前半ほどの若い男だった。
首筋には、かつて違法労働セクターにいたことを示す「元奴隷」のバーコード刺青が薄く残っている。
男のぼろぼろの衣服は煤で黒く染まり、その足元には、高級なスーツを着た貴族家使用人の死体が転がっていた。
男はまだ生々しい血と煤の臭いが充満する中、死体の懐から財布を漁り、中身の電子クレジットカードを引っ張り出している。その顔は異常な興奮で歪み、独り言を繰り返していた。
「へへっ……ハハハ! 俺はもう違うんだ。ゴミ拾いの奴隷じゃない! 炎を操るスキルだぜ! しかも中位だ! これで、これであのクソ貴族どもを全部焼き払ってやる! もう二度と、飼い慣らされた犬みたいに首輪に繋がれて生きねえ!」
男が狂ったように両手を振り上げた瞬間、その掌から猛烈な炎の塊が吹き出した。
ごう、と倉庫内の空気が歪み、離れた場所にいる猟犬の頬を焼くほどの熱風が吹き抜ける。炎は崩れた壁に直撃し、激しい火花を散らして広がっていった。
猟犬は、ため息混じりに腰のホルダーからゆっくりと警棒を抜いた。
保安官御用達の対スキル犯罪用モデル『J-03』。
特殊樹脂製のグリップに仕込まれた超高圧絶縁碍子が、手の平に冷たい感触を伝える。
「残念ながら、お前のスキル発動前駆信号は、三ブロック前の公衆センサーですでに検知済みだ」
男が次の炎を放とうと身構えた刹那、猟犬は鋭く踏み込んだ。
闇を裂いて、容赦なく振り下ろされる黒い金属。
打撃が男の肩口に命中した瞬間、警棒に内蔵された超低周波逆位相パルス――12Hzから45Hzの変調波が炸裂した。
それは、男の脳幹から脊髄へ放たれていた特異な電気信号を、物理的に完全に相殺する機能だ。
「――ッ!?」
男の掌で激しく燃え盛ろうとしていた炎が、まるで作られた幻影だったかのように、一瞬でかき消えた。
男の顔に、圧倒的な驚愕が広がる。
「な……!? 何をしたんだよ!? 俺の、俺の炎が……消えた!?」
「スキルは発動しない。お前の脳が『燃えろ』と信号を送った瞬間に、俺が物理的にミュートした」
猟犬は冷徹に告げ、さらに一歩、男の間合いに踏み込む。
「ジャミング警棒の役目だ。お前みたいな下層の『リセマラ野郎』には、おなじみの道具だろう?」
「がふっ……!?」
壁際に追い詰められた男の腹へ、警棒の先端を躊躇なく突き刺す。
硬い金属が肋骨にめり込み、鈍い音が不気味に響いた。
男は苦痛に顔を歪めながらも、床を転がりながら必死に両手を突き出す。
だが、再び呼び起こそうとする火は、ライターの火のように小さくちらつくばかりで、形を保つことすらできなかった。
「待て! 待てよ! 俺は強くなったんだ! やっと手に入れたんだよ! 国家のルールなんか知るか! 俺はもう奴隷じゃねえ! この炎で全部、全部焼き尽くしてやるんだ!」
「関係ある」
猟犬の声は、どこまでも平坦で、機械のようだった。
「生体安全管理法第4条違反。80V超過照射によるゲノム書き換え、及び無許可スキル行使。加えて、そこに転がっている使用人への第一級殺人。全部、一発で強制労働刑の重罪だ」
男の目が血走る。
追い詰められた獣のように、男の掌が再び赤く輝き、行き場を失った熱量が周囲のコンクリートを爆ぜさせた。炎の渦がゆっくりと、しかし確実に男を中心にして形成され始める。
「お前みたいなのが一番厄介なんだよ。チートもどきを引いた途端に全能感に酔って、すぐに放電臭を撒き散らす。警察のプロファイリングAIにとっては、これ以上ない格好の標的だ」
猟犬は警棒を構え直し、男の懐へ滑り込むと、近接ジャミングを連続で叩き込んだ。
ガツッ、ガツン、と肉と骨を激しく打つ音が倉庫に響く。
特異パルスが遮断され、スキル回路が強制的に初期化されるたび、男の体がビクンと激しく痙攣した。
生体電流が無理やり逆流し、炎は形を成す前に小さく散って消え、男の四肢の動きが一瞬ごとに目に見えて鈍くなっていく。
「う……あ……! くそっ、動け……! なぜだ、なぜ俺のスキルが……!」
男は苦痛に喘ぎ、口から血の泡を吹きながらも、倉庫のさらに奥、暗闇へと逃げ込もうとした。積み上げられた産業廃棄物の木箱を蹴散らし、体から制御不能になった炎の残滓を撒き散らしながら。
「――筋肉ブレーキ、一時解除」
猟犬の低い呟きとともに、彼の体内でミオスタチン(筋肉成長抑制因子)の機能が一時的に完全シャットダウンされた。
リミッターを外された人工筋肉に、爆発的な瞬発力が駆け巡る。
心拍数が一気に200を超え、網膜の警告インジケータが赤く点滅した。血管が焼き切れるような熱を持つが――今は我慢するしかない。
ドン、と頑丈なブーツがコンクリートを爆ぜさせる。
人間の限界を超えた速度で一瞬にして距離を詰め、猟犬は逃げる男の背中に、全体重を乗せた警棒を叩きつけた。
「がはあッ!?」
男はラグドール(人形)のように前方に吹き飛び、積み上がった廃材の山に派手に突っ込んだ。木箱が粉々に砕け散り、激しい煤煙と埃が舞い上がる。
「逃げられると思うな。俺の固有スキルは、追跡と固定に特化してる。一度そのジャンクDNAの臭いを覚えたら、地球の裏まで逃げても無駄だ」
男は廃材の中から血塗れの手で這い上がり、狂乱状態で両手から炎を連発した。
倉庫内が爆発的な赤色の光に染まり、網膜が焼けつくような炎の壁が、津波となって猟犬に迫る。
しかし、猟犬の研ぎ澄まされた動体視力は、その炎の「密度が薄い隙間」をすべて正確に『視て』いた。
物理法則を無視したかのような軽やかなステップで熱線を紙一重で回避し、ジャミング警棒を大きく振るう。パルス波が空間を切り裂くたび、迫る炎はエネルギーを失い、ただの無害な煙へと還っていった。
「はあ……はあ……! 俺は……俺はついに運を掴んだんだ! SSS級のチートじゃなくたって、この中位の炎があれば十分だったんだ! 国家のシステムなんか、俺には関係ねえんだよ!」
「運を掴んだ? 笑わせるな」
猟犬は冷たく鼻で笑い、無様に息を切らす男を見下ろした。
「120Vの過電流リセマラで脳の海馬を焼き、染色体をボロボロにした挙句に、手に入れたのがその程度の火力か。公認データによると、お前の海馬の細胞生存率はすでに82%低下してる。その頭で、よくここまでまともな言葉が喋れたな」
男の動きが、目に見えて狂い始めた。
レトロトランスポゾン(動く遺伝子)のランダムな跳躍がもたらした違法スキルは、確かに強力だが、安全弁のない欠陥品だ。制御を失った炎が、ついに男自身の服へと燃え移り、男は肉が焼ける激痛に無様な悲鳴を上げた。
ここで単独で処理を完了することも可能だった。
だが、違法ゲノム書き換えのスキル持ちは、死亡時に予期せぬ生体爆発を起こすリスクがある。ただでさえ有給が潰れたのだ、これ以上、処理報告書の文字数を増やす気は毛頭ない。
猟犬は、コートの襟元にある暗号化無線をオンにした。
「こちら猟犬。対象の無力化を完了。――『網』の展開を願う」
三十秒後。
倉庫の崩れた出入り口の影から、二人の保安官が無言で現れた。猟犬と同じ、漆黒の防刃コートを纏ったプロフェッショナルだ。
彼らは視線だけで意思を交わし、猟犬を含めた三人が、男を取り囲むように瞬時に正三角形のポジションを取る。
対特異能力者用クロス・ジャミング陣形――『網』。
三人が持つ警棒の周波数が完全に同期し、空間一帯へ、肉眼には見えない生体電流の中和高周波電界が張り巡らされた。
男の体が、ビクンと大きく上空へ跳ね上がった。
行き場を失い、体内で暴走していた膨大な熱エネルギーが、男自身の神経系へと完全に逆流していく。
「やめ……! 頼む、やめてくれ……! これは……熱い……頭が、俺の頭が沸騰する……ッ!」
オームの法則は、いつだって残酷だ。
安全なバイパスを通さない強力なスキルを持てば持つほど、中和電界に干渉された電流によって、自らの脳が内側からショートし、融解し始める。
男の目は完全に血走り、鼻と耳からどす黒い生血がボタボタとコンクリートへ滴り落ちた。体は激しく痙攣を繰り返し、掌の炎の残光が、死にかけの電球のように断続的に明滅している。
猟犬は警棒をパチンとホルダーに戻し、それを冷淡に見下ろした。
「ほら、言ったろ。放電臭で丸わかりなんだから、システムから逃げようったって無駄なんだ」
やがて男は完全に白目を剥いて崩れ落ち、ピクピクと指先を震わせながら地面に倒れ伏した。
脳の主要領域は半分近く焼き切れているだろうが、まだ微かに心音はある。生体管理局のルール上、死刑執行の手続きが終わるまでは生きてもらわないと、こちらの手間が増える。
同僚の一人が、手際よく男の首に重厚な金属製の『臨時拘束チョーカー』を装着した。
チョーカーのセンサーがピピッと電子音を立て、男の脳波パターンの常時監視を開始する。これで反意を少しでも検知すれば、即座に頸椎へ高圧電流が流れ、完全麻痺に陥る。逃亡も反抗も、もう二度と不可能だ。
「今日も一件落着か。猟犬、お前は相変わらず効率がいいな。あの手合いを三分で片付けるとは」
「効率じゃねえよ。ただ面倒くさいだけだ。それより、俺の有給を消化扱いにしたデスクの奴らに、この残業の山をどう説明するかの方が問題だ」
猟犬は、いまだに焼け焦げた空気を吸い込み、親指で鼻を拭った。
放電臭は、まだ街の闇に薄く残っている。
いや、この男の臭いだけではない。遥か遠く、下層セクターの別の場所からも、同じ「焦げたタンパク質」の臭いが風に乗って漂ってきている気がした。
こいつ以外にも、どこかで、今この瞬間も『120V』のギャンブルをやっている者がいるのだ。
この巨大な階級社会の底辺では、毎日どこかで無許可の「遺伝子リセマラ」が行われ、一瞬の夢と、圧倒的な絶望が繰り返されている。
噂によれば、帝国の頂点に立つ国家元首の脳内記憶容量は、一般人の約4倍に拡張されているという。だが、そんな超人類であっても、彼ら下級保安官たちが毎日処理している、この泥臭い路地裏の日常までは把握しきれまい。
完璧に見える管理システムの網の目には、必ず処理しきれない隙間が存在する。
その隙間から溢れ出るバグを、猟犬は今日も、合法という名の手錠で塞いでいく。
特権を貪る腐敗した貴族。利権に群がる省庁の大臣たち。そして、それに絶望して身を焼き尽くす奴隷たち。
――そのすべてを、ただの「日常業務」として消費しながら。
「帰って報告書を書かなきゃな。……明日の朝まで残業確定だ」
夜の冷たい街に、猟犬の小さな愚痴が溶けていった。
遠くのビル群の合間で、別の治安維持サイレンが鳴り響く。
それはまるで、この都市の終わりなき歪みを証明する、次の事件へのプレリュードのように響き渡っていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
この短編は「チートを引いても国家の前では無力」というテーマを、読み切りとして凝縮してみました。
保安官「猟犬」の面倒くさがりながらも容赦ない仕事ぶりと、世界観の冷徹さをメインに据えています。
反応が良ければ、本編として
・猟犬の過去や慢性的な後遺症
・腐敗した上層部との対立
・奴隷首輪の抜け道を探る反体制派
などを深掘りした長編に展開する予定です。
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特に「世界観もっと読みたい」「次の事件が見たい」などの声があれば、すぐに続きを書きます。
それでは、また次の話でお会いできれば幸いです




