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悪役令嬢ツェツィーリエの世界で一番新しい朝

作者: 佐久矢この
掲載日:2026/02/25

目が覚めると、悪役令嬢になっていた。


どこまでも続く暗闇の中、ふかふかの寝台に横たわりながら、ツェツィーリエは瞬きをした。

一度目を閉じ、まぶたの裏に残る暗い揺らぎを振り払おうとして、後頭部に走る鈍い痛みに息をのむ。


そうだ、階段から落ちて、頭を打ったのだった。


磨き上げられた大理石の冷たさ、視界が傾き、天井の装飾がくるりと反転したあの瞬間。

落ちる直前、手すりをつかみ損ねた自分の白い指先が、やけに鮮明に思い出される。


「ツェリちゃん!」と叫んで手を伸ばした必死な幼馴染の顔を覚えているが、ツェツィーリエの婚約者はその後ろでただ突っ立っていた。

ツェツィーリエは、なぜあの婚約者に大事にされたかったのだろうか。


ゆっくりと起き上がろうとすると、視界の奥で、別の光景が重なる。


ビルの高層階のやけに大きなガラス張りの窓。

信じられないような笠高の夜景が宝石のように散らばり、足元にはわざわざペルシャまで赴き購入した美しい柄物の絨毯。

革張りの椅子に深く腰をかけ、足を組み、無造作に財布を投げ出す女がいる。


前世を思い出した。

ずばずばと物を言う女だった。


言葉は刃物のように鋭く、相手の表情が曇るのを楽しむような、どこか歪んだ余裕をまとっていた。

所謂、すごく嫌なお金持ち。

愛で満たされたことはない。


人がよく使うのとは桁の違う数字を、ただの記号のように扱い、困っている人間に気まぐれで金を渡す。

そのくせ、受け取る側の卑屈さを見抜いては、薄く笑う。

「お金のない奴はだめね」と言う時、彼女はいつも諦めを抱えていた。


夜のバルコニーでワインを傾け、街の光を見下ろしながら、にやりと笑う。


そんな女が、夜景を背に、最後に読んでいた小説。

愛人の子のはずの健気な主人公が、恋をして、仕事をして、最終的には侯爵家の当主となる物語の題名は、「執着の侯爵子息と朝を迎える少女」。


その物語には、悪役令嬢が存在する。

物語の中心に立つわけでもなく、物語を動かすわけでもない。ただ、主人公の過去に影を落とすためだけに存在する人物。


主人公のフロレンツィアとヒーローが愛し合う前、フロレンツィアの悲しい過去として出てくる話の一部なのだ。


この部分はフロレンツィアの過去として、1ページだけ出てくる。

たった1ページ。


フロレンツィアの姉のツェツィーリエは、とんでもなく人に対して強く当たる悪女で、誰にも愛されず、人に愛される妹をねたんで毒を盛り、満月の夜、謎の男に殺されるのだ。


それはフロレンツィアに懸想していたツェツィーリエの婚約者のベルノルトの刺客だったと語られるが、いままでのツェツィーリエの悪行が世にさらされ、情状酌量となる。


月光の下で倒れる姉の姿は、感情のない文章で簡潔に綴られ、その血の色も、叫び声も、ほとんど描写されない。

ただ「悪役令嬢の最期」として処理される。


フロレンツィアは姉の死を悲しむが、その後、侯爵家を盛り立てていくことを決意し、そこから猛勉強。

最終的に周囲には冷たいと噂だが、一途に主人公だけを思う婿をもらう。


姉の死は、ただの踏み台。


現実の寝台の上で、ツェツィーリエはゆっくりと息を吐く。


指先が、シーツを強く握りしめていることに気づく。

爪が白くなるほど力を込めながら、視線だけを窓へ向ける。


昨夜の雨で濡れた石畳が、半分の月に照らされてまだ光っている。


満月の夜。

その言葉が、静かに胸の奥に沈む。

確か、姉が階段から落ちた日の、その次の満月がその日だった。


ツェツィーリエは、あの1ページの中で死ぬはずの女。


けれど、いまはまだ息をしている。

後頭部に残る微かな痛みを確かめるように、ゆっくりと状況を飲み込む。


たった1ページで終わる人生を、そのままなぞるほど、ツェツィーリエは従順ではない。

街頭もなにもない夜の闇が、カーテンをさらに押し広げる。

暗闇を照らすのはあの半分の月だけなのに、あの月が丸く膨れ上がった頃、ツェツィーリエは死ぬ運命なのだ。


「ばっかばかしい」


物語は、まだ始まっていない。


身体の奥に残る鈍い痛みが、ここが夢ではないと告げる。

ゆっくりと起き上がると、ツェツィーリエは鏡台の前に座った。


鏡には、ふんわりとした白い髪と赤い瞳の気の強そうな女が写っている。

月明かりに照らされて、温度を感じられないほど白い肌がさらに白く見える。


生き方を変える気にはなれない。


他人に好かれるために言葉を丸めることも、涙を武器にすることも、今さら覚えるつもりはない。

愛される妹の影で、愛想よく微笑む自分など、想像するだけで息が詰まる。


しばらく考え込んでいると、扉が控えめに叩かれる音がした。

返事を待たずに、寝るためのゆったりとした白いワンピースの裾が視界に入る。


「起きたのですか?お姉さま……お加減はいかがですか」


薄い桃色の髪が、柔らかく揺れている。

青い瞳が、心配そうにこちらをのぞき込む。


小説の主人公にして、ツェツィーリエの妹のフロレンツィアだ。


その名を呼ぶことなく、ツェツィーリエが背筋が伸ばすと、老婆のようとも蔑まれる白い髪がさらりと落ちる。


「見てのとおりよ。死んではいないわ」


フロレンツィアは、何か言いかけて唇を結ぶ。

指先が、たっぷりとしたスカートの端をぎゅっと握りしめる。


「お見舞いに、お花を……」


庭で摘んできたのだろう差し出された小さな花束を、ツェツィーリエは一瞥する。


「必要ないわ。部屋に余計なものを置かない主義なの」


視線だけで扉を示す。


フロレンツィアは一歩踏み出しかけ、ほんの一瞬、青い瞳が揺れたあと、深く頭を下げる。


「……失礼いたします」


静かに扉が閉まる。

部屋は再び、静寂に包まれた。


次の満月に、小説の中のツェツィーリエは死ぬ。

夜の空に浮かぶあの白い円盤が、刃のように自分の運命を切り取るのだと、はっきりと知っている。


まだ17歳だ。

前世でも若くして死んだのだ。

ここで死ぬつもりはない。


ツェツィーリエは静かに窓辺へ歩み寄る。


カーテンをわずかに開けると、ずいぶん薄くなってきた月が、空に淡く浮かんでいる。

夜と朝の境目に、消えかけの白が揺れている。


「満月まであまり時間がないわね」


ガラスに映る赤い瞳が、わずかに細められる。


「書類を用意しなくてはね」


その言葉とともに、唇の端がわずかに上がる。

ただ死を待つだけなんてまっぴらごめんである。


物語の1ページに押し込められるつもりもない。

やがて満月は来る。

ツェツィーリエは、机へと歩き出した。






侯爵邸のバルコニーは、広大な庭園を一望できる。

庭園には春の花が、可愛らしく咲いている。

まだ春浅い風が、銀のティーポットの表面を冷たく撫でていく。

婚約者との茶会――本来ならば、もっと静かで、2人の閉ざされた時間のはずだった。


しかし席に着いているのは4人だ。


ツェツィーリエの婚約者、ベルノルト・ケルシュトナー侯爵令息。

その隣に妹のフロレンツィア。

その向かい側にはツェツィーリエの幼馴染のカール・ギーゼン伯爵令息。


少し離れてニコラウス・シュタール侯爵令息が座り、そして主役の1人であるはずのツェツィーリエは、背筋を伸ばしたまま淡々と茶器を見つめている。

ツェツィーリエの好みの落ち着いた印象の茶器だ。


ベルノルトとカールの視線は、ほとんど同時にフロレンツィアへ向けられる。

どちらも微笑んでいるのに、空気はひりつくほど硬い。


「今日は風が強いな」


ベルノルトが言えば、


「でも日差しはやわらかいよ。フロレンツィア、寒くない?」


カールがすぐに続ける。


先ほどからツェツィーリエをまったく無視してフロレンツィアばかりに向けられた2人の応酬に、ニコラウスは困ったように目を伏せ、ふとテーブルの花瓶へと指先を向けた。


咲いている花もあるが、まだ春は浅く、蕾のものが大半だ。

フロレンツィアが彩りにと摘んで飾った花だった。


ニコラウスが指先を震わせると、淡いピンク色の花が、彼の魔力を受けてふっと姿勢を正す。

花弁がみるみる開いていき、艶のあるピンク色の花びらが陽光を受けてやわらかく光る。


花が美しく色づく中、ただ、そのひとつが黒く萎れ、花弁がひらりと机に落ちた。


「ああ!ごめん!ひとつ枯らしちゃった……失敗しちゃったよ……」

「いやいや。花とはいえ、生命に関わる難しい魔法を成功させているのがすごいよ。さすが、宮廷魔法使いをめざすだけあるじゃないか」


カールが感心したように笑う。


カールとニコラウスは幼い頃ツェツィーリエの母が亡くなってすぐから家族ぐるみで親交があり、ことあるごとにこの公爵邸に遊びに来ていた。

母親同士が親友だったらしい。


「宮廷魔法使いになるのが夢だからね」


ニコラウスが照れたように笑うのが可愛らしい。


不思議な色合いの紺色の髪にヘーゼルの瞳のニコラウスは、少女めいたような容姿で、16歳になったいまでもとても愛らしい。

カールはきりっとした美丈夫なので、ある界隈ではこの二人はセットでとても人気があるらしい。


宮廷魔法使いは難関だ。

貴族の家から宮廷魔法使いが出ることは大変な名誉であり、才能ある者を養子にしてでも送り出す家もあるほどの地位。


ニコラウスは、花瓶から一輪を抜き取り、ベルノルトへ差し出す。


「これをフロレンツィアに。君のピンク色の愛らしい髪と同じ色だ」


ベルノルトはニコラウスから花を受け取り、何のためらいもなくフロレンツィアに渡す。


「さあ、どうぞ。美しい姫君」

「きれい!ありがとう」


フロレンツィアは胸元で花を抱え、小さく笑う。

その仕草は自然で、無邪気で、誰もが守りたくなるような柔らかさがある。


ニコラウスはもう一輪を抜き、今度は直接ツェツィーリエに差し出した。


「これはツェリちゃんへのお見舞いに。もう怪我は大丈夫?」

「ええ、たいしたことはないわ。せっかくだけれど、私に花なんて似合わないわよ」


ベルノルトが眉をひそめる。


「ニコラウスの優しさを素直に受け入れないなんて、本当に君はひねくれた女だな」


ニコラウスはおずおずと顔を上げる。


「あの、僕はこの花、ツェリちゃんに似合うと思うんだけど……」


唯一ツェツィーリエの愛称を呼ぶその声は風に紛れそうなほど小さい。

ツェツィーリエはしばらく無言で、やがて椅子から立ち上がる。


「では、ここに」


優雅な仕草でニコラウスに背を向ける。

ニコラウスはそっと近づき、彼女の白い髪に花を挿した。

淡い色が、絡まりやすい波打つ白い髪の中で静かに揺れる。


その間に、フロレンツィアは茶を淹れている。

湯気が立ちのぼり、甘い香りが漂う。


――ここで毒が盛られるのだ。


もうこの時点で、すでに仕込まれているはずだ。

弱い毒だ。死ぬことはない。

だが彼女は寝込み、その責は姉に押しつけられる。


次の瞬間、ツェツィーリエの手が動いた。


カップを払いのける。白い磁器が石床に落ち、鈍い音を立てて割れた。

静寂。


「何をする!」

「ツェツィーリエ!お前!」


カールが立ち上がる。

ベルノルトの声は低い。


「虫がとまっていたのよ」

「見え透いた言い訳をするな。君のそういうところが理解できない。人に優しくできないのか」


ベルノルトの言葉に、ツェツィーリエはわずかに首を傾ける。


「人にやさしく?」


まるで初めて聞いたかのようにその言葉を口の中で転がし、にやりと笑った。


「おかしいわね。聞き間違いかしら。私、貴方から優しくされたことなんて一度もないのだけれど」


ツェツィーリエは立ち上がった。


「あとはお好きになさって。どうぞ、私の自慢の妹、フロレンツィアとお茶会を楽しんでくださいな」


背後で何か言い合う声がするが、振り返らない。

立ち上がろうとしたフロレンツィアが、 「きゃっ」と小さく声をあげた。


床板が腐っていたようで、沈むそこに足を取られたようだ。

すかさずベルノルトが力強く支える。


「屋敷が古くなっているようだな」


くっついている婚約者と妹を一瞥して、ツェツィーリエはため息をついた。


「フロレンツィア、気を付けなさい。淑女なら、慌てて動かないように」

「……申し訳ございません。お姉さま」


ベルノルトの瞳がわずかに揺れる。


「君は大丈夫かの一言も言えないのか」


その青い瞳をツェツィーリエはまっすぐに見返す。


「ええ。貴方様と同じですわ。貴方も怪我をした私に大丈夫かとは言えないようですので。私たち、似たもの同士ですわね」


一瞬、風が止まったように感じる。

それ以上言葉を交わすことなく、ツェツィーリエは背を向ける。

今度こそ、静かに歩き去った。






夕刻、気分転換に庭園の奥に来たツェツィーリエは、ふと立ち止まった。


石畳の向こうから足音が追いかけてくる。

ためらいなく、怒りを隠そうともしない荒々しい足取り。

振り返らずとも分かる。


「君には良心というものがないのか」


低く押し殺した声だ。

風が髪を揺らし、白い髪の束が肩に絡む。


「ありませんわね。それがなにか?」


ゆっくりと振り向く。

ベルノルトの碧い瞳は真っ直ぐで、迷いがない。


「フロレンツィアは、君に何をされても姉を悪く言わない。メイドだって、君に怯えているが何も言わない。誰もが君のようになんでも言えるわけではない。強さと立場にかこつけて人をなじるのは卑怯者のすることだ」


正しさと真っ直ぐさ、揺るぎなく自分自身だけを信じている声音だ。


「メイドはそれが仕事だから、雇い主に何も言えないのは当たり前よ。ましてや、こんな貴族社会では、いつ首を切られてもおかしくないのよ」


ベルノルトの眉がわずかに動く。


「自分だけが正しいようなことを言うな」

「それは貴方もでしょう」


静かな応酬。

風が二人の間を通り抜け、枯れ葉を転がしていく。


「俺は己の信念と正義に基づいて話しているんだ」


彼の言葉は揺らがない。

信じているのだ、自分を。

疑ったことなどないのだろう。


「あら奇遇ね。私と一緒だわ。ただ貴方のそれは信念かどうか怪しいわね。ご自身の優しさに酔っているだけではなくて?可哀そうな愛人の子のフロレンツィアを大切にする自分自身がお好きなんでしょう?」


一瞬、ベルノルトの表情が曇る。

怒りではなく、理解できないものを見る顔。


「そんな風にしか考えられないのか。君は愛を知らないんだな」

「私、愛なんて受けたことがございませんの」

「君のように醜い心を持つ人間とは婚約を破棄したい」


空気が止まる。

遠くで鳥が飛び立つ音がする。

――たしか、小説では。

ツェツィーリエは婚約破棄を拒んだ。


小説のツェツィーリエはただただ寂しい女だった。


父と母は政略結婚で、そこに愛はなかったし、気の強い母と横柄な父は相性が本当に悪かったらしい。


父に見向きもされない母親は、跡取りの男子を産めなかった後悔の中、ツェツィーリエが男だったらと何度も詰って病気で儚くなった。

父は仕事が忙しいと、死の床でさえ母のもとを訪れなかった。

唯一味方であってほしいと望んだ婚約者はこの通りだ。


その結果、婚約破棄を拒み、詰り、悪役としての道を選んだ。

そして、満月の夜に死ぬ。


ほんのわずかな時間、沈黙が流れる。

ツェツィーリエは禍々しいと評判の赤い瞳でまっすぐ彼を見る。

悲しみも、怒りも、浮かべない。


ゆっくりと、だがどこまでも優雅に、いままで婚約者に向けたことがないだろう満面の笑みを浮かべる。


「よろしくてよ」


その声は穏やかで、驚くほど軽い。

ベルノルトの目がわずかに見開かれる。


拒まれると思っていたのだろう。

縋られると、決めつけていたのだろう。


ツェツィーリエはゆるやかに一礼する。

確かに、運命が音を立てて崩れていく音が聞こえた気がした。






翌朝の侯爵家の食堂は、しんと静まり返っていた。

磨き上げられた銀食器が静かに光り、窓から差し込む朝の陽が長い影を落とす。


朝食だけは、家族3人で食べると決まっている。

ツェツィーリエの母が生きていた頃はなかったルールだが、フロレンツィアの母が亡くなって、彼女が侯爵家に引き取られたその日に父が決めたのだ。


白いテーブルクロスの上には焼き立てのパンと温かいスープ、湯気の立つ紅茶。

けれど空気は、どこかひりついている。


その緊張感を感じてか、メイドがカップを差し出した瞬間、指先がわずかに震えた。

琥珀色の液体が揺れ、ツェツィーリエとフロレンツィアのあいだのテーブルクロスへと零れ落ちる。


「もっ、申し訳ございません」


声は掠れ、顔色は青ざめている。

フロレンツィアはすぐに「大丈夫よ」と柔らかく言う。


ツェツィーリエは視線を下げ、布の上に広がる染みを眺めた。


「気を付けなさい。令嬢に火傷の痕が残ってしまっては、貴女は死刑になる可能性もあるのよ」


ひい、と小さな悲鳴のような息が漏れる。

メイドは深々と頭を下げ、肩を震わせる。


その光景を、父は無表情に見ていた。

やがて、低く吐き捨てる。


「お前のそういうところは、死んだ母親そっくりだな」


ツェツィーリエは視線を上げない。

銀のナイフに映る自分の顔を、ただ見つめている。

父は続ける。


「ベルノルト君から婚約破棄の申し出があった」


さらに静まり返る食卓。

フロレンツィアの驚きに目を見開いている。


「婚約破棄は認められない。仲良くしなさい」


父親は、短く命令した。

ツェツィーリエはゆっくりと顔を上げる。


「それは、フロレンツィアをあいつにやりたくないからですわね」


フロレンツィアが息を呑む。


「お、お姉さま……」


父の眉間に深い皺が刻まれる。


「仲良くしなさい。ここまで育てた恩を返せ。これは当主命令だ」


ツェツィーリエはナプキンを畳み、静かに膝の上に置く。


「ええ。感謝しておりますわ。巷では私は血も涙もないとの噂らしいですわね。そのように立派に育てていただいたのですもの。きちんとそれに見合った恩を返させていただきますわ」

「お前っ……」


次の瞬間、頬に衝撃が走る。

椅子が軋み、食器が震える。

ツェツィーリエの顔が強制的に横に振られる。


その前に、小さな身体が飛び込んだ。

フロレンツィアだった。


「やめてください……!お父様!」


声は震えているのに、広げられた両腕は迷いなく姉を庇う。


2発目のために高く挙げられた父の手が空中で止まる。


しばしの沈黙。

やがて椅子を引く音が響く。


「フロレンツィアに免じて、今日は許してやる。仲良くしろ。いいな」


吐き捨てるように言い残し、父は背を向けた。


ツェツィーリエはゆっくりと自分の頬に触れた。

頬は熱く熱を持っていた。


フロレンツィアの父の背中越しに、小さく笑う。


「恩は必ず返しますわ」

「それでいい」


父の背が扉の向こうに消える。

ツェツィーリエは、何事もなかったかのように椅子へと座り直した。


「大丈夫ですか。お姉さま。手当てを……」

「これくらいなら必要ないわ。お父様も令嬢の顔に傷を残さない理性は残っていたようね。貴女もさっさと食べてしまいなさい」


なんでもないことのように言う姉に、フロレンツィアは複雑そうな表情を浮かべつつも、やがて席についた。







午後の光が、廊下に細長く落ちている。

磨かれた床に、青白い窓枠の影が揺れ、遠くで庭師の鋏の音がかすかに響いた。

控えめな足音のあと、扉が叩かれる。


「勉強を教えてほしいんだ」


開けると、ニコラウスが立っていた。

紺色の髪は陽に透け、どこか不安そうに笑っている。


「ねぇ、ツェリちゃん。ベルノルトも来ているけど、行かなくていいの」


視線を窓へ向ける。

庭では白いテーブルを囲み、ベルノルトとカール、そして淡い桃色の髪を揺らすフロレンツィアが穏やかに談笑している。

笑い声が風に乗り、ここまで届く。


「私は遠慮するわ。ニコはあそこに混じらなくてよろしいの」


ツェツィーリエは淡々と言う。


「僕はツェリちゃんに会いにきているから」


ツェツィーリエの愛称を呼ぶのは、死んだ母をのぞけばニコラウスだけだ。

一瞬だけ、赤い瞳が細くなる。


ニコラウスは持っていた魔法書を開いて、ここと指さした。


「あら。こんなのも分からないの。いい解説書があるわ。こちらに来なさい」


書棚から一冊、重い魔法書を取り出す。

革装丁が机に置かれ、乾いた音を立てた。


「ツェリちゃん、魔法理論が得意だもんね」

「煽てないで。あなたは小さい頃から変わらないわね。あとはどこがわからないの?」


彼女は椅子を引き寄せ、ニコラウスに座るよう促した。


「えーと、印をつけてきたはずなんだけど……どれだっけ」

「整理していてちょうだい。その間に、お茶を淹れるわね」


立ち上がり、銀のポットを手に取る。


「え、うれしい!ツェリちゃんが淹れてくれるの?」


目を輝かせる様子に、ほんの少しだけ口元が緩む。


「ええ。最近、この屋敷で毒が流行っているようでね。用心のために、お茶はすべて自分で淹れたものしか飲まないようにしているの。女主人がいない屋敷は管理が行き届かなくてだめね」


その瞬間、ニコラウスの笑顔がわずかに消える。


「ニコ?」


驚いて、紅茶を用意する手が止まる。

ツェツィーリエが見たことがない表情だった。


「ううん。ごめん。……ツェリちゃんは僕が守るからね」


すぐに、いつもの柔らかな笑みが戻る。

ツェツィーリエはカップを差し出しながら、彼の目をじっと見つめる。


「調子のいいこと言っちゃって。あとで怖くなっても、私は知らないわよ?」

「ええー」


口をとがらせる仕草は幼い。

ツェツィーリエは思わず口元を綻ばせた。


前世では一人っ子だったが、弟がいたらこんなかんじだったのだろうか。


カップから立ちのぼる湯気が、ふたりのあいだでゆらりと揺れた。







薄暗い部屋のなかで、涙の匂いがした。

濡れた頬を両手で覆う女と、その肩越しに苛立ちを隠そうともしない男。

床に落ちたグラスが転がり、わずかな水がペルシャ絨毯に染みている。


「お前が優しくないのが悪い。もう愛していないんだよ。頼むから別れてくれよ」


男の声は低く、どこか自分を正当化する響きを帯びていた。


泣いているのは、彼の隣に立つ女だ。

震える指で袖を握りしめ、許しを乞うように俯いている。

その光景を見つめるもう一人の女は、驚くほど静かだった。


涙も出ない。

ただ、冷えた夜の空気のように、感情が澄みきっている。


「わたしがいつ別れないなんて言ったのよ。自惚れるのもたいがいにしたら」


声は淡々としていて、刃のように薄い。

男の顔が一瞬ゆがむ。

怒りと、そしてどこか安堵が混じった表情。


泣き声がさらに高くなる。

けれどその音は遠く、まるでガラス越しの出来事のようだった。

扉を開け、廊下に出る。


エレベーターの鏡に映る自分の顔は、驚くほど何も浮かんでいない。

マンションの外へ出ると、夜風が頬を撫でた。


都会の灯りににじむ月は、白く、冷たく、満ちかけている。

胸の奥で、なにかがひどく静かに沈む。


「……くだらない。ばっかじゃないの」


呟いた声は夜に吸い込まれ、足音だけがコンクリートに響く。

月を見上げる。

満ちる光が、まぶたの裏まで差し込んだ。




天蓋の布が、かすかに揺れている。

胸の奥に残る冷えた感覚だけが現実味を帯びていた。


前世の出来事を夢に見るのは、それを思い出してからはよくあることになった。


10年付き合った彼氏と親友が浮気をして、恋とも友情とも完全に決別したあの夜。


「私って、あの頃から変わらないのね」


そう呟いた声は、いつもより少し低く、どこか硬かった。


「本当、ばっかじゃないの」







午後の回廊は静まり返り、磨き上げられた床に差し込む光が細く伸びていた。

外庭では噴水の水音がかすかに響き、その涼やかな音とは裏腹に、二人の間の空気はひりついている。


「フロレンツィアへの嫌がらせをやめてくれないか」


いきなり話しかけてきたカールの声は低く、押し殺した怒りを含んでいた。


「くだらないわね。嫌がらせ?」


ツェツィーリエはゆっくりと振り向き、指先で手袋の皺を伸ばす。

その仕草は落ち着いているのに、赤い瞳だけが冷ややかに光っていた。


「皆違う人間ですもの。私と同じまったく同じ考えの人間なんて、この世にいたらそれは素敵ね。ところで、同族嫌悪という言葉はご存知かしら」


風が吹き抜け、彼女の淡い髪を揺らす。

絡まりやすい波打つ髪が頬にかかり、指で払いのける様子すら優雅だ。


「なにが言いたい」


カールの眉間に皺が寄る。

正義を信じる者の顔だが、その正義は彼自身を少しも疑わない。


「案外、貴方は私と同じようなことを考えているのかもしれませんわ」


ツェツィーリエの唇が、わずかに弧を描く。

カールが一歩踏み出す。

その靴音が硬く響く。


「俺とお前が?冗談じゃない。俺は愛人の子だからといって嫌がらせをするような卑怯な真似はしない。俺にはお前が悪魔に見えるよ。正直、理解できない」


彼の手は無意識だろう、拳を握りしめている。


「他人からの理解なんて、理解されたいと思った人にだけ分かればよくてよ。私、あなたに理解されたいなんて考えたこともないわ」


その言葉は静かで、感情をぶつけるでもなく、ただ事実を置くようだった。

沈黙が落ちる。


ツェツィーリエは片手に持っていた紙を持ち上げる。封蝋のない、ただ折りたたまれただけの書類。


「……それは何だ」


カールの視線が鋭くなる。


「大したものではありませんわ」


すっと踵を返すと、そのまま毅然と歩き出す。


彼女は目を伏せ、紙の端を指でなぞる。

その仕草は慎重で、まるで壊れ物を扱うようだ。


「あとは提出するだけだわ」


さらりと告げられた言葉が、回廊の空気を一層冷やす。


「私は、小説の運命を変えるわ」


満月まで、あとわずか。






その夜、丸々とした月は過剰なほどに澄み切り、庭の木々の影を鋭く石畳に落としていた。

静まり返った屋敷の上に、白い光が容赦なく降り注ぐ。


寝室の天蓋の中で、ツェツィーリエは目を閉じていたが、眠ってはいなかった。

呼吸は規則正しく、指先は布団の縁をわずかに掴んでいる。


かすかな軋み。

窓が押し開けられる音。

夜風とともに入り込んだ気配が、月明かりの筋を横切る。


剣を持った男が、ためらいなく寝台に近づく。

躊躇はない。


天蓋付きの美しいベットの前まで来ると、男は布団を一息に突き刺す。

ざぐりと切り裂く音。


裂けた布の下から崩れ落ちたのは、分厚い本の山だった。

男が息を呑む。


「それ、全部冒険譚ですのよ。男の子が欲しかった母が、私がお腹にいる頃にそろえてくれたそうよ」


声は穏やかで、寝室の奥から響いた。

カーテンの影から姿を現したツェツィーリエは、月光に照らされ、白い肌がほとんど透けるように見える。


赤い瞳が冷ややかに男を射抜く。

その顔を見た瞬間、男――カールの表情が歪む。


「……お前」

「ごきげんよう。カール。いい夜ね」


ツェツィーリエは水差しに手を伸ばし、指先で水面を撫でる。

透明な水がふわりと持ち上がり、空中で揺らめき、やがて形をとる。


そこに映し出されたのは、剣を握るカールそのものだった。

怒りに顔をゆがめ、目を血走らせた姿。


「他人は自分の鏡とは先人もよく言ったものね。よく見なさい。それがあなたの今の顔よ」


分身は完璧に彼の動きをなぞる。

歪みも、怒りも、醜さも。


「醜いわね」


その一言で、堪えきれずカールが踏み出す。

剣を振り上げ、一直線に向かってくる。


次の瞬間、足がもつれる。

床板が鈍く割れ、腐った木片が崩れ落ちる。


重い衝撃音。

カールの体が傾き、床に叩きつけられる。


「この屋敷、古いのよ。知っているでしょう。幼馴染の貴方なら」


水が弾ける。

宙に浮いた水差しの水が一気に広がり、意思を持つかのように彼の顔へと覆いかぶさる。


喉を押さえ、息を求めて暴れるが、水は逃げ場を与えない。

静かに、確実に、空気を奪う。


赤い瞳はわずかも揺れないまま、それを見下ろしている。

やがて抵抗が弱まり、彼の意識が遠のく。

水がふっと落ちる。


床に崩れたカールの胸がかすかに上下しているのを確認してから、ツェツィーリエは袖口を整えた。


「命だけは助けてあげるわ。楽しい牢屋生活を」


窓の外では、満月が何も知らぬ顔で輝いている。


「出てきなさいな」


扉の外、廊下の闇がわずかに揺れた。

数拍の沈黙ののち、控えめに扉が開く。

紺色の髪が、月明かりの縁にそっと現れた。


「……不法侵入ですわよ」


ツェツィーリエは振り返らずに言う。

水の気配はすでに消え、床には気を失ったカールが横たわっているだけだ。


「カールの様子がおかしくて、その、居ても立っても居られなくて……ごめん。襲われているのに、ツェリちゃんがカーテンに隠れているのが見えて、居場所がわかるとまずいと思って出ていけなかった」


言葉は早口で、けれど必死に抑えられている。

ニコラウスは視線を落とし、拳を胸元でぎゅっと握る。


「まあ、いいわ」


ツェツィーリエはようやく彼を見る。


「物理的にも、社会的にも、いくら幼馴染とはいえ、夜に令嬢の部屋に忍び込むのは良くないわ。貴方の将来にとって」


“あなたにとって”と強調するその声は、叱責というより忠告だった。


ニコラウスは小さく息を呑む。


「ごめんなさい」


肩が落ちる。睫毛が影をつくる。

あどけない表情が、月明かりの下でさらに幼く見えた。


ツェツィーリエは一歩近づき、迷いなく手を伸ばす。

紺色の髪に触れる。

指先がやわらかく頭を撫でる。

ツェツィーリエの髪と同じようにくせ毛なのに、指どおりがいい。


「守衛を呼ぶわ。貴方はその前に帰りなさい」


声音は静かだが、拒絶ではない。

ニコラウスは一瞬だけその手の温もりに目を閉じ、それから小さく頷いた。


「ツェリちゃんは、ひとりで大丈夫?」

「ええ。もちろん」

「わかった。じゃあ……いくよ。でも、守衛が来るまでは、隠れて見てるから」


何度も振り返りながら、ニコラウスはようやく部屋から出て行った。

閉じられた扉の前で、ツェツィーリエは一度だけ窓の外の月を見上げる。


満月は、変わらず美しい。







ニコラウスは、植物にしか興味のない子どもだった。


父や母がもっと笑ってほしい、興味をもってほしいと色んなおもちゃを買い与えたり、甘いお菓子を買ってくる度、「ああ、面倒だな」と思った。


なぜ笑わなくてはいけないのか。

子どもは笑うものだなんて、そんなの誰が決めたのだろうか。


特別に可愛いと名高い顔も、無表情では不気味に見えるそうだ。

本当に人間とはつくづく面倒な生き物だ。


その点、植物は良い。


ニコラウスに何も求めないし、そこに温度もない。

ただ、そこにあるだけだ。

ちょいちょいと葉をいじっていると、真下から声が聞こえた。


「危ないわよ」


木の上で赤く色を変え始めた葉を観察していたニコラウスは、ひょいと下をのぞきこんだ。

おばあちゃんのような白い髪の女の子が、こちらを見上げている。


「大丈夫。木登りは慣れてるから」

「大事なお客様に怪我はさせられないわ。降りてきなさい」


命令口調に少しむっとした瞬間、強い風が吹き、枝が大きくしなった。

葉がざわりと鳴った瞬間、ずるりとお尻が枝から離れた。


土の上に、小さな影が転がる。


痛いかと思ったが、意外に痛くない。

そう思った瞬間、地面に白い髪が広がっていることに気が付いた。

女の子が受け止めてくれたようだ。


はっとして上体を起こすと、女の子はなんでもないように起き上がった。

ちょうど花壇がクッションの代わりになったようだ。


まだあどけない頬に土がつき、白いの髪には細かな葉が絡んでいる。


「どうして木の上にいたの」


木に登るなと言われることは多いが、理由を聞かれたのは初めてだった。


「葉が赤くなっていたから。不思議だなって思って。それに、大きな木の葉っぱが、小さな木の葉っぱと同じなのか、近くで見てみたくて……」


ニコラウスは掌に乗せた葉を見せる。

確かに、庭の隅にある小さな木の葉と形は似ているが、色味も、筋の走り方も微妙に違う。


ツェツィーリエはその葉を一瞥し、それから少年の膝を確かめる。

擦りむいた皮膚にうっすら血がにじんでいた。


「貴方の好奇心はいいことでしょうけれど、死んでは意味がないわ」


小さな傷口にハンカチを当てる手つきは、思いのほか優しい。


「私の母はつい最近亡くなったのだけれど、棺に入ると、もう何もできなくなるのよ。葉を観察することも、木に登ることも。登るなら、もう少し安全性を確保しなさい」


言葉は淡々としているが、その指先がほんのわずかに止まる。

風が吹き、庭の木々が揺れる。


立ち上がったニコラウスは、じっと自分より少し背の高い女の子を見上げる。

赤い瞳の奥に映るのは、自分か、それとも別の何かか。


「ねえ、一緒にお菓子食べようよ。僕、お母さまが焼いたクッキーを持ってきたんだ」


唐突な誘いに、ツェツィーリエは瞬きをする。


「いま、そんな話をしていたかしら?」

「葉っぱの違い、教えてくれたお礼。あと、僕、さっき落ちたけど、君が助けてくれたから、まだ何でもできる」


そう言って、にこりと笑う。

慎重に、他の皆の笑顔といわれるものを思い出して、必死に似せてみる。


たぶん目を細めて、口端の両側を上げるのだ。

笑顔とは、これで正解のはずだ。


おそらく、これがニコラウスの生まれてはじめての笑顔だった。


ツェツィーリエは一瞬だけ視線をそらし、空を見上げる。

青い空に雲がゆっくりと流れている。


「……甘いものは嫌いではないわ」


女の子がそう言って歩き出したので、ニコラウスは後ろをついていった。

大きな葉が、強い風に揺れていた。





母を亡くした親友の子を心配して、ニコラウスとカールの母が気をまわしたようで、たまに二人が公爵邸に来るようになった。


貴族の子としては、ちょうど同じような身分の友達を作り、交流をし、社交の練習を始めるころでもあったので、都合もよかったのだろう。


その日、午後の庭は、陽光に満ちていた。

白い石畳の照り返しが柔らかく、整えられた芝の上には淡い影が落ちている。


丸いテーブルの上には薄い磁器のカップと、切り分けられた菓子。紅茶の香りが風にほどけて、薔薇の匂いと混ざり合う。


ツェツィーリエは背筋を伸ばし、椅子にもたれることなく座っている。


カールは肘をつき、ニコラウスは両手でカップを包み込むように持っていた。

そこへ、砂利を蹴る軽い足音が近づく。

振り向いたとき、桃色の髪が揺れた。


フロレンツィアが、息を切らして走ってくる。

頬が上気し、青い瞳が潤んでいる。


つい最近母親を無くしたフロレンツィアは、この侯爵家に引き取られてきた。

ツェツィーリエのひとつ年下なので、彼女の母が生きているころから浮気をしていたのだろうことは容易に想像がついた。


「この子が今日からお前の妹になる」と言った父親に、貴族にはよくあることだったので、ツェツィーリエはなんの感慨もなく「そうですか」と答えた。

ほんの1ヶ月前の話だ。


「はしたないわ。淑女たるもの、いついかなる時でも走ってはいけないわ。たとえ屋敷に火をはなたれてもね」


言いながら、ツェツィーリエはカップを置く。

その指先に揺らぎはない。


フロレンツィアは立ち止まり、呼吸を整えようとしながら姉を見る。


「おねえさま。フローラと一緒にいて。せんせいがこわいの」


細い指が、そっとドレスの裾を握る。

庭の空気がわずかに重くなる。


フロレンツィアの母親はこの侯爵家で働いていたメイドだったらしく、子どもを身ごもったことを告げずに実家に帰ったらしい。

流行り病で亡くなる際、父に子どもを託したそうだ。


フロレンツィアはフローラという名前で市井で暮らしていたため、この侯爵家での生活にはまだ慣れないようだ。


フロレンツィアは、貴族らしい名前のほうがこれから過ごしやすいだろうと、父親が新しくつけた名前だ。


ツェツィーリエの名前は考えもせずに母に「勝手につけろ」と言ったということも、フロレンツィアの名前は三日三晩悩んでいたということも、ツェツィーリエは知っている。


それを淡々と話す温度のない声を、ニコラウスとカールはいつものお茶の席で聞いた。


名前を発表した時、親からの最初の贈り物を受け取ったフロレンツィアを、ツェツィーリエは物陰からみていたらしい。


ツェツィーリエはカップを持っていた手を見下ろし、視線を外す。


「私の本日の勉強は終わったわ。それに、貴女と私では、いま学んでいる内容が違うのよ。貴女の分は貴女が頑張りなさい」


淡々と告げると、ちょうど背後から家庭教師が近づき、恭しく頭を下げる。


フロレンツィアは一瞬だけ振り返る。

何かを言いかけて、言葉を飲み込み、やがて大人しく教師に連れられていく。


桃色の髪が陽に透け、次第に庭の向こうへ消えていった。

カールが深く息をつく。


「かわいそうだよ。あんな天使のように可愛い子に、あんな風に厳しいこと言うなんて」


ツェツィーリエは紅茶を一口含む。


「知らないわ。自分のやるべきことを放棄しているほうがいけないのよ」

「君には人に寄り添う心がないよ。フロレンツィアはここに来たばかりだろう」

「あの子はこれから愛人の子という誹りを受けながら生きていくのよ。これくらいで潰れていては先はないわ」

「愛人の子!そんなこと、姉の君の口から言うものじゃないよ!君には血も涙もない!」


カールは立ち上がると、フロレンツィアを追って走っていく。

赤い瞳が静かにその背中に向けられる。


「血は流れているわ。青い血が」


微笑みとも嘲りともつかない表情が、ほんの一瞬浮かぶ。


ニコラウスはただ、そんなツェツィーリエの横顔を見つめている。

やがて彼女は、傍らに控えるメイドへ視線を移す。


「部屋に花でも添えてあげなさい。勉強はあの子がこれから生きていくために必要なものだわ。花が好きなようだから、少しでも気持ちが安らぐでしょう」


命じる声は変わらず冷ややかだが、その内容にメイドは驚いたように目を瞬かせ、それから深く頭を下げた。


風が吹き、テーブルの上の花弁が一枚、ひらりと落ちる。


ふいに、ニコラウスが小さく身を乗り出した。


「ねえ、ご本を読んで、ツェリちゃん」


無邪気な声が、庭の静寂をやわらかく揺らした。

ニコラウスの中で、可愛い子どもとはこういうものだった。

いままで観察してきたそれを精一杯自分の表情として浮かべた。


「どの本がいいの?」


ツェツィーリエがほんのわずかに笑う。


ニコラウスは、ツェツィーリエをお気に入りの鉢植えのように大事にしたかった。





午後の光が傾き、庭の影が長く伸びるころ、木立の奥で二つの影が向かい合っていた。

芝を渡る風は涼しいのに、空気だけが妙に熱を帯びている。


カールは石の縁に腰を下ろし、足先で小石を蹴った。


「なあ、最近、ベルノルトのやつがフロレンツィアに近すぎないか。あいつ、ツェツィーリエの婚約者のくせに」


声は低いが、抑えきれない苛立ちが滲んでいる。


ニコラウスは膝の上に本を開いたまま、文字から目を離さない。

指先だけが、紙の端をゆっくりと撫でる。


「まあ、そういうこともあるんじゃない」


あまりにも軽い調子に、カールの眉がぴくりと動く。


「あいつ、許せない。フロレンツィアに色目を使うなんて。もう我慢できない。僕の方がずっと昔からフロレンツィアを見ていたのに」


吐き捨てるように言い、立ち上がる。


「だいたいツェツィーリエは、フロレンツィアが愛人の子だからって馬鹿にしているんだ。あいつは自分より下だと思っている奴に向かっては容赦がない。僕だって、伯爵家の人間だって何度馬鹿にされたか。ああいう人間が将来侯爵家を継いで人の上に立つなんてぞっとするよ」


言葉を重ねるたびに、顔が紅潮していく。

ニコラウスは気にせずにページをめくる。

紙が擦れる音が、やけに大きく響いた。


「それで?」


短い問い。

カールは口元を歪める。


「いいことを思いついたんだ。ベルノルトを退場させて、ツェツィーリエをこらしめる、いい方法がある」

「ふうん」


興味の薄い返事。

それでもニコラウスの指先は、ページをめくろうとしたまま止まった。


カールは懐から小さな硝子瓶を取り出す。

夕陽を受けて、液体が淡く光る。


「これ、手に入れたんだ。毒だよ。少しくらいなら死なないし、大丈夫」

「ツェリちゃんに盛るの?」

「まさか。それよりも、フロレンツィアに盛るんだよ。もちろん、少量。それをツェツィーリエのせいにするんだ」


カールは瓶に頬ずりすると、幸せな夢を見る子どものように目を細めた。


「僕がフロレンツィアを看病するよ。そうして2人は、永遠に愛し合うんだ!」


ニコラウスはゆっくりと顔を上げる。


「ツェリちゃんを侯爵家から追い出すつもり?」

「そして、ベルノルトにも退場してもらう。ベルノルトは毒を盛ったツェツィーリエを許せずに、殺してしまうんだよ!」

「あの正義漢がそんなことするかな」

「あいつの剣をひとつ盗ませたんだ。抜かりはないよ」


ニコラウスは楽しそうにその場でくるりと回った。


「僕とフロレンツィアの恋が始まって、そしてベルノルトとツェツィーリエの恋は終わるんだ。僕はすべてを手にする」


「そう」とだけ言って、ニコラウスは微笑む。

柔らかく、いつも通りの、何も知らないような無垢な笑みで。






夜。雲間から月がのぞき、屋敷の壁を銀に染める。

廊下の奥で、影がひとつ膝をついている。


「カール様が動き出しました。今日、計画を実行するようです。ツェツィーリエ様を殺し、ベルノルト様に罪をきせるつもりです」


低く、乾いた報告。

月明かりの中、もう一つの影が静かに頷く。


「やはり、見張っていて正解だったな。ご苦労」


カールの話を聞いてからツェツィーリエの護衛として密かに付けさせていた男は、13歳の誕生日に、ニコラウスが両親にねだったものだ。


手足のように動かせる護衛がほしい。

影のように、身を隠しながら守るのが得意な男。


ツェツィーリエの敵は多い。


いつか必要になるその時のために、ニコラウスは着々と準備を進めていた。


「ツェツィーリエを傷つける者はだれであろうと許さない」


ニコラウスはすっかり顔になじんだ笑みを浮かべる。


穏やかな声音のその奥の凍るような冷たさに気づく人間はどれだけいるだろうか。


夜の静寂がわずかに震えた。







運命の満月の夜を終えた侯爵邸の正門は、朝の光を受けて冷たく白く輝いていた。

石畳に落ちる影は長く、まだ冬の名残を含んだ風が、木々を揺らす。

春とはいえ、少し肌寒さを感じる。


外套を着たツェツィーリエの背はまっすぐで、その姿はまるで出立する騎士のように凛としている。


父はそんな娘を、握りつぶしてしまいそうな拳をなんとか鎮めながら見ていた。


「恩知らずめ。いつから計画していたんだ」


低く押し殺した怒りが、辺りを震わせる。

ツェツィーリエはゆっくりと振り返る。

赤い瞳が朝日に透け、宝石のように淡く光った。


「嫌ですわ、お父様。私は貴族として、アイヒンガー侯爵家の人間として、名誉の職につくのです。これで恩は返しましたでしょう?」


その声にはわずかな震えもない。


「仲良くしろと言っただろう。結局婚約解消だなんて、女としてのお前の人生は終わったな」


父の言葉は刃のように鋭いが、ツェツィーリエの表情は変わらない。


「ええ、そうかもしれませんわね。でもお言いつけどおり、仲良くはしましたわ」

「なに?」

「これで侯爵家の跡取りはフロレンツィアです。貴方は大切なフロレンツィアを側においておけるのですよ。家族は仲良く、幸せな結末ですわ」


その一言に、父は言葉を失う。

風が吹き抜け、門柱に絡む蔦がかさりと鳴る。


「あの時、お父様は仲良くしろと仰いました。私は確かにそれを了承しましたが、お父様の言葉には主語がありませんでしたわ。なら仲良くする相手は、あの男でなくてもよろしいでしょう。私って、なんて親孝行な娘なのかしら。ね?恩はお返ししましたでしょう」

「なにを馬鹿なことを」

「結局のところ、貴方の可愛い可愛いフロレンツィアを一生誰にも渡さないなんて無理なお話なのですわ。貴族の娘として、いつかどこかに嫁ぐ時がきます。それなら、婿を取って手元に置いておくのが、お父様にとっては一番よいのではなくて?」


赤い瞳が、ほんの一瞬だけ細くなる。

そこに浮かぶのは嘲りではなく、どこか乾いた諦念の色。


「お前……」


怒声は最後まで形をなさない。

ツェツィーリエは外套の襟を正す。


「私、自分の人生くらい自分の責任で決められますわ。そんな風に立派に育てていただいたこと、親愛なるお父様に感謝申し上げます」


言い終わると同時に、とびっきり優雅なカーテシーをする。


いままで生きてきた中で一番美しい礼に見えるよう、頭のてっぺんから指の先、足の先までのすみずみに心をこめる。


「それではごきげんよう。アイヒンガー侯爵様」








宮廷魔法使いの寮の部屋は、思っていたよりも簡素だった。

白い壁、質素な机。天蓋のない簡素なベット。


慣れない荷物の片付けをしていたせいで、すっかり夜の余韻もあとごくわずかだ。


魔法の日で照らされた磨かれた床はまだ新しく、侯爵邸の古びた木の軋みとは違い、ここには誰の記憶も染みついていない。


ツェツィーリエは机の上に置いた一枚の書状を見下ろす。

封蝋はすでに破られ、受理されたという返答が仰々しく綴られている。


「今日からね」


小さく呟いた声が、これからを始める部屋に溶ける。


実はずっと前から、宮廷魔法協会から、宮廷魔法使いへの招集依頼が届いていた。


ツェツィーリエは優れた魔法使いだ。

侯爵家の跡取りだということから返事は出さずにいたが、前世を思い出してからすぐに、その返答書を協会に送った。


彼女は表向きは何も変えぬまま、水面下で着実に道を整えてきた。


誰にも悟られぬように、静かに、確実に。


背後の扉に、かすかな気配が走る。

振り返らずに言う。


「どうしてここにいるの、ニコ」


扉の向こうで、遠慮がちに扉が開く。


「ツェリちゃんこそ、宮廷魔法使いになんて、なっていいの?侯爵家の後継者でしょ」


入ってきたニコラウスは、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。

だがその瞳は、わずかに探るように細められていた。


「いいのよ。フロレンツィアがいるわ。あの子が後継者のほうが父も大事な子が手元にいて嬉しいだろうし。……というのはまあ、建前ね。本音を言うと、あの家は私には窮屈で退屈なのよ」


肩をすくめる仕草は軽いが、その背には長年の重みが見え隠れする。

ニコラウスは一歩、部屋の中へ踏み込む。


「ツェリちゃん、昔から自由が好きだもんね。今日から同僚だね」

「え」


ニコラウスは、少しだけ誇らしげに胸を張った。


「僕も今日から宮廷魔法使いなんだ。侯爵家出身とはいえ、三男だからね。食い扶持は自分で稼がないと」


一瞬、ツェツィーリエは言葉が出なかった。

それから、吐き出すように言った。


「ばっかじゃないの」


赤い瞳が細くなる。


窓の外では、よくやく昇ってきた太陽の光が、朝焼けの紫に溶けていく。

ツェツィーリエはゆっくりと彼に近づいた。


「そういえば貴方の得意な緑の魔法って、植物を成長させて、枯らせるまでできるわよね。たとえば、床の木を腐らせるような。ねえ、執着の侯爵子息様」

「えーと……なに?執着?」

「こちらの話よ。物語なんて、所詮ただの物語よ」


目の前にいるのは、穏やかで、可愛らしくて、誰よりも気弱に見えるひとつ年下の少年。


「これは現実だものね」


窓の外の太陽の光が、だんだんと強くなる。

この朝は、本来ツェツィーリエが迎えるはずではなかったものだ。


ツェツィーリエの世界の中で、一番新しい朝が来た。


ツェツィーリエ、お幸せにと思った方は、ポチッとしていただけると嬉しいです꒰* ॢꈍ◡ꈍ ॢ꒱

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― 新着の感想 ―
なんていうか、侯爵家の当主に妹の幸せはなさそうなのに、カールもわかってない感が。父も良い年したおじさんのお人形遊びにしか見えないし。 自分の幸せを追及して地位を捨てた姉のが幸せになりそうな皮肉。
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