第9章「炎」
水口のライブから二週間が過ぎていた。あの夜のざわめきも、痛いほど突きつけられた実力差も、今は少し霞んでいる。けれど、胸の奥でじりじりと燻っているものが、日に日に強くなっていた。
加藤は、教室ではいつものように笑い、授業中も退屈そうにノートをとっている。けれど放課後になると、足は自然に音楽室へ向かっていた。 心の奥にぽっかりと穴が開いたようで、何をしても満たされない。授業中の笑顔も上辺だけで、ノートに書く文字もどこか上の空。仲間と過ごす時間すら色あせて見え、気づけば自分だけ取り残されているような孤独感に苛まれていた。そんな毎日が、どうしようもなく物足りなくて、悶々とする日々に嫌気がさしていた。ギターをケースから取り出す瞬間、心臓が跳ねる。「……このままで終わるのか?」弦を弾くたびに、その問いが頭の中に響いた。
とある日の放課後、加藤は小山先生に呼び止められた。 「どうしたんだよ、いきなり」加藤が少し不思議そうに言うと、先生は柔らかく微笑んだ。 「最近、君の音に少し迷いを感じるんだ。何かあったのかい?」 加藤は一瞬言葉を探し、それから観念したように息を吐いた。 「あの日のこと……水口のバンドのライブを見て、どうしても心がざわついて」 小山先生は少し考えてから、柔らかな声で言った。 「じゃあ今夜、STOMPにおいで。君に見せたいものがあるんだ」 「お、おう……わかった。幸政たちにも言っとくよ」加藤が答えると、先生は首を振った。 「いや、彼らには内緒にしてほしい」 「え、なんで?」 「いいから。今日の夜、待ってるね」加藤は状況が飲み込めないままSTOMPに向かった。扉を開けると、小山先生が柔らかな笑顔で手を振った。「おお、来た来た。今日はよろしくね」
「よろしく?どういうことだよ」加藤が眉をひそめる。
「実は今日、僕らのバンドが一夜限りで復活するんだ。ただ、どうしてもギターが足りなくてねえ」
「はあ!?聞いてねえし!曲だって知らねえぞ!」
小山先生は楽しそうに肩をすくめた。「大丈夫、大丈夫。心配はいらないよ。ほら、もう時間だ。行こう」 耳元で小山先生が柔らかく囁いた。「君の父親がよく練習していたフレーズを思い出してごらん」 加藤は息をのんだ。「お、おう……できるかわかんねえけど、やってみるわ」 音が重なった瞬間、父の姿がよみがえるようだった。ギターからあふれる響きに胸が震え、加藤の目には涙がにじんだ。「親父は、こんな楽しいことをやってたんだな……」 未来に焦るのではなく、今この瞬間を全力で楽しむ。加藤はそのことに気づいた。そこから先の演奏は夢中になりすぎて、指がどう動いたのかも、どんな表情をしていたのかも覚えていない。ただ胸の奥に熱が渦巻いて、音にすべてを預けていた感覚だけが残っていた。
ライブが終わった後、STOMPの裏口で冷たい夜風にあたりながら物思いにふけていると、ふいにタバコの煙が流れてきた。振り返ると母親が立っていた。
「な、なんだよ! 来たならなんか言えよ!」加藤が驚いて声を上げる。
母親は薄く笑って煙を吐いた。「別にいいでしょ。……あんたの親父も、よくここで物思いにふけってたねえ」
加藤は思わず尋ねた。「その時の親父、どんな顔してたんだ」
「……あんたによく似た、いい顔してたよ。風邪ひくから、早く中に入りなさい」
「……おう。わかった」加藤はうなずき、背筋を伸ばして歩き出した。
加藤が中に戻ると、メンバーと小山先生が片付けを終えて笑い合っていた。軽く挨拶をして帰ろうとしたその瞬間、小山先生の声が背中を呼び止める。
「今日は助かったよ。本当にありがとう」
加藤は一瞬言葉をのみ込み、それからまっすぐ先生を見た。
「……いや、俺のほうこそありがとう。親父が見ていた景色を、少しだけ覗けた気がしたんだ」
小山先生は目を細め、柔らかい笑みを浮かべながらも真剣な声で言った。
「そうか。それならよかった。今日の君の音は最高だったよ。ただ……まだまだ練習は必要だけどね」
「うるせえな、そんなのわかってるよ!」加藤は顔を赤らめて言い返す。
先生はふっと笑い、次の瞬間、肩を力強く握った。
「君はきっと、お父さんを越えられる。僕はそう信じてる。まだまだ、これからだ」
父の残した音、あのギターの響き。小山先生が言ってくれた「君はきっと、お父さんを越えられる。」という言葉。全部が背中を押していた。
ある日の放課後、気づけば三人はまた音楽室に集まっていた。けれど、そこにあったのは以前のような熱ではなく、沈黙に近い空気だった。瑞稀はスティックを弄び、幸政は窓の外を眺め、加藤はチューニングを繰り返す。
ふいに、加藤が口を開いた。「……なあ、今度ワンマンライブしねえか」
幸政が眉をひそめる。「……なんだよ急に」
瑞稀も視線を落としたまま、小さな声で言う。「でも……また同じことになったら、どうするの」
加藤はギターのネックを握りしめた。「だからこそだよ。今度は、自分たちで“場”を作るんだ。選ばれるのを待つんじゃなくて、俺らが鳴らしたい場所で、俺らが鳴らす」
二人が顔を上げる。その目に、迷いと期待が交じった光が宿った。
幸政が眉をひそめて言った。「どこでやるんだよ。水口たちがやったライブハウスなんかじゃ、二番煎じみたいでダサいだろ」 すると加藤が口角を上げて答える。「あるだろ……STOMPが」 その言葉に幸政と瑞樹は同時に目を見開いた。「その手があったか!」 二人の胸の奥に、抑えきれない熱が再び灯るのを感じた。STOMPに問い合わせたところ、二週間後なら空いているという。三人はその日に照準を合わせ、練習に打ち込むことを決めた。
小山先生が柔らかく笑いながら姿を見せた。「最近は少し忙しくてね、僕一人じゃ手が回らないんだ。……だから呼んでおいたよ」そう言って連絡を入れた先は、例のスタジオだった。先生は三人に向き直り、「明日、学校が終わったら直接そこに来なさい」と静かに告げた。その瞬間、幸政の顔色が青ざめ、加藤は苦笑いを浮かべる。瑞樹は首をかしげながら二人を見つめた。翌日、放課後に向かう道中、加藤は小声で「……あそこには行きたくねえ」と何度もつぶやき、隣の幸政も真っ青な顔をしていた。瑞樹はそんな二人を見て、「ちょっと!何があったか知らないけど、気持ちで負けちゃダメでしょ!」と声を張った。スタジオに着くと、小山先生のバンド仲間たちが待っていた。そこから当日まで、彼らの厳しい指導を受けることになる。幸政は以前セッションでその厳しさを知っており、加藤は中学時代に何日も軟禁同然でギター漬けにされた記憶がよみがえっていた。
だが彼らの目には何としてもライブを成功させたいという思いが炎のように燃えていた。
10章「特訓」




