第6章「幕開け」
午前七時二十五分、校庭はまだ薄い色をしていた。延長コードは蛇のように砂の上を這い、小型アンプの電源ランプが小さく点る。金属の匂いと朝の湿気が混じり、指先は少しだけ冷たい。
「……誰も来ねえな」加藤がチューニングのペグを回しながら、柵の向こうをちらりと見る。
俺は返事をしない。弦を軽くはじいて感触だけを確かめると、小山先生が管理棟側でコードのたるみを確認して親指を立てた。「問題なし。あと五分」
七時二十八分、校門の方で何かが揺れた。シンバルバッグ。息を切らして、瑞樹が立っていた。
「遅れて、ごめん」「来たな」加藤が短く笑う。
スネアを置き、ハイハットを組む。スティックを握る手が小刻みに震えている。俺はケーブルを足元に寄せてベースのボリュームを少しだけ上げた。空気が、音を待っている。
「……ちょっと待て」加藤が喉を鳴らして咳き込む。もう一度声を出そうとして、空気だけが漏れた。「出ねえ。高いとこが、全然」
喉スプレーを吹き、温かいお茶を飲む。もう一度ハミング。掠れた音が朝の空にほどけて消える。
「どうする?」俺が問うと、加藤は一瞬だけ目を閉じてから俺を見た。「——歌、頼めるか」
時間が伸びたみたいに、心臓の鼓動だけが大きくなる。怖い。けど、逃げたくない。「歌詞、頭に入ってる。いける」
小山先生が走ってきて、マイクスタンドの高さを俺の口元に合わせる。「キーはそのまま。最初の一音を怖がるな。マイクは拳一つ分、腹で押し出せ」
瑞樹がスティックを持ったまま言う。「私、走らないようにする。ついてきて」
加藤はギターのボリュームを少し絞り、「コーラスだけ薄く入れる。無理ならジェスチャーで切る」と短く指示した。
先生が俺の肩を軽く叩く。「今日はベースと歌、両方だ。手と喉が喧嘩したら——手を信じろ」
深呼吸。マイクに向かって小さく音階をなぞる。朝の空気に、自分の声が不器用に浮かんだ。「行ける」俺はうなずく。
フェンスの陰に三人、四人。ビラを見たのか、早起きの誰かがこちらを無言で見ている。
「いいか」小山先生が腕時計を見て言う。「七時三十分、チャイムの前に終わる。——一曲勝負だ」
加藤が俺たちを見る。言葉はいらない。瑞樹が深く息を吸い、こくりとうなずく。「ワン、ツー、スリー、フォー——」
曲はELLEGARDENの『スターフィッシュ』。瑞樹の右手がハイハットを均等に刻みはじめ、スネアが朝の空気にまっすぐ線を引く。一定の八分、ぶれない土台。俺は腹でカウントを飲み込み、低音を地面に打ち込む。指先は冷たいのに、弦の下だけが熱い。
加藤のコードが乗る。乾いたストロークが、薄い光を一枚ずつ重ねていくみたいに広がった。
——最初の一音。喉の奥で迷いが渦巻く。けれど先生の言葉を思い出す。最初の一音を怖がるな。腹から押し出せ。
マイクが息を拾う。声が空に出た。かすかに震えたが落ちなかった。二拍目で瑞樹のスネアが背中を押し、四拍目でベースが足場を作る。サビ前、加藤のギターが一段だけボリュームを上げ、光が強くなる。
フェンスの陰が増えた。二人、三人。自転車を押したまま立ち止まる誰か。腕を組んだまま離れない誰か。誰も声は出さないのに、空気だけがこちらに寄ってくる。
間奏、加藤が短いスライドで空気を切り、俺はリフを太くする。瑞樹のキックが一拍だけ前のめりになり、すぐ戻る——走らない。約束どおりだ。
ブリッジ、音を一瞬だけ落として呼吸をそろえる。喉が開く。視界の端で、先生がゆっくりうなずくのが見えた。
ラストサビ。全部を載せる。悔しさも、夜明けの冷たさも、当選発表の紙の白さも。瑞樹のクラッシュが朝を割り、加藤のストロークが太陽みたいに広がる。低音が校庭の土を震わせる。声は、もう震えていない。
最後のブレイク。三人で同時に息を止め、同時に踏み込む。終わりの合図はクラッシュとミュート、そして静寂。
余韻が校庭に薄く残った。俺はマイクから顔を離し、ゆっくり息を吐く。指先はしびれているのに、心臓だけが静かだ。
遠くで始業前のチャイムが鳴った。俺たちは間に合った。
音が完全に消えた。息を吸い直して顔を上げると、フェンスの向こうに思った以上の人だかりができていた。誰かが小さく拍手をし、別の誰かが携帯をしまう。
加藤と目が合う。互いに息で笑う。瑞樹はスティックを握ったまま、ちょっとだけ顎を上げた。どや顔、というより、胸を張った顔だ。
「……なあ、瑞樹」俺は聞いた。「今日、なんであんなに叩けたんだ」
瑞樹は一拍だけ迷って、目を細めた。「内緒の特訓。——小山先生に、ちょっとだけ見てもらってた」
「ばれたか」小山先生が苦笑する。
そういえば、先生は病気でもないのに、たまに早く帰る日があった。あれは——そういうことか。思い当たって、頬の内側が熱くなる。
そのとき、奥のほうから怒鳴り声が飛んだ。「君たち、何をやっているんだ!」
教頭の声だ。空気が一瞬で冷える。
「撤収!」小山先生が低く言ってから、すぐに声を張った。「早く片付け!!」
ドキドキが収まる間もなく、俺たちは一斉に動いた。コードを巻き、アンプの電源を落とし、スタンドを畳む。足音と金属音だけが、校庭に短く響く。
「私、行くね!」瑞樹がスネアを抱えて言う。「遅刻、ギリギリ」
「走れ!」加藤が笑う。
瑞樹はシンバルバッグを肩にかけ、校門の向こうへ駆けていった。朝の光の中に背中が溶ける。——間に合ったのかどうかは、誰も知らない。
そのあと、俺たちは教頭に呼び出された。職員室の長机に並ばされ、机の上には白い反省文用紙が二枚、ぴたりと置かれる。
「今回の行為は校内の秩序を乱すものである。各自、一枚。反省を明確に記すこと」
教頭は抑えた声で言い、腕を組んで立った。
静かになった。ペン先が紙を走る音だけが、やけに大きい。
俺が言葉を選んでいる横で、加藤は遠慮なく筆圧を上げた。ちらりと覗くと——作文用紙が“楽しかったです”で、びっしり埋まっていく。
「……お前、何書いてんだよ」
「事実。めちゃくちゃ楽しかった」
「君、ふざけているのかね」教頭の眉が跳ねる。
堪えきれず、俺は吹き出した。「すみません……」
こんな清々しい朝は、生まれてはじめてだった。
やがて小山先生も別室でこっぴどく叱られ、戻ってきた。ところがその顔は、不思議とすっきりして見えた。
「前から、あの人の理屈は好きじゃない」先生は小声で言う。「でも、君らの一曲はよかった」
廊下に出ると、先生がふと思い出したように続けた。
「そうだ、言っておく。君らが学校祭に落ちた本当の理由——『他校の生徒が混ざっているから』だそうだ。抗議はした。規定を盾に、受け入れられなかったが」
俺と加藤は顔を見合わせ、同時に口角が上がった。
「……一矢、報いたな」
ニヤニヤが、しばらく止まらなかった。
反省文を書き終えると、俺と加藤はそれぞれ教室に戻った。ドアを開けた瞬間、拍手が弾けた。
「朝の、やったのお前らだろ!」
「ヤバかったぞ、鳥肌立った」
誰かが肩を叩き、誰かが笑う。思わず視界が滲んだ。「……ありがとな」声が震えた。
廊下には模造紙のポスターが並び、屋台の匂いが風に混じる。放送委員のBGM、から揚げの油の音、教室劇の小道具を抱えた先輩。学校祭は、いつもどおり賑やかで、いつもどおり忙しい。その合間合間に、「朝の校庭、聞いた?」という小さな囁きが、廊下を伝っていった。
昼、体育館ステージ。
水口のバンドが整然と並び、セッティングは手際がいい。黒いTシャツで揃え、ケーブル一本にも無駄がない。フロントに立った水口がマイクを握る。
「オリジナル、一曲。聴いてください」
音が出た瞬間、上手いとわかった。リズムは揺れず、ギターの抜けもいい。MCの間合いも完璧で、客席の手拍子を一度でまとめる。それでも、なぜだろう。空気が少しだけ冷えた。知らない曲の壁か、完璧すぎる温度か。拍手はちゃんと起きるのに、熱は広がらない。
「……上手い」加藤が小さく言った。
「うん。全部、持ってる」俺は答える。「俺たちに、まだないやつを」
悔しさが、喉の奥で静かに燃えた。だけど、目は逸らさない。俺たちはまだ、始まったばかりだ。
そんなこんなで学祭は幕を閉じた。新得工業の軽音同好会は、思っていた以上に名前を残したらしい。
それからというもの、部活の時間になると、廊下の向こうにひょこっと顔を出すやつが増えた。放課後の四時、片付け前に一曲だけ鳴らす——それがいつのまにか俺たちの合図になった。
ある夕方、アンプの電源を落としかけたところで、加藤が言った。
「……そろそろ、俺らのバンド名、決めね?」
「どんなの?」
「真面目なのは似合わねえ。ちょい“反逆者”っぽい匂いのやつ」
瑞樹がスティックを肩に担いで首を傾げる。「でも、黒歴史っぽいのはやだ」
「たとえば——『反逆前夜』」
「硬い」
「『夜明けリベリオン』」
「カタカナ多い」
窓の外、風に揺れた銀杏が一枚落ちた。夕陽が教室の床に長く伸びる。
「……“Rebellion”は?」俺は口に出していた。「許可も枠もいらない、あの日の朝みたいな感じ」
加藤が一瞬黙って、にやりと笑う。「いい。短いし、意味が真っ直ぐだ。俺ららしい」
瑞樹が親指を立てた。「賛成。呼びやすいし、忘れない」
その名が決まったのは、空気が少し冷たくなりはじめた秋口のころだった。
第7章 「おもかげ」