第3章「本格始動」
俺はあんなことを言ったのを、正直、若干後悔していた。
――2週間。
たった2週間で、ドラムを叩けるようにしてみせるなんて。
もうちょい、期間を増やせばよかった。
2週間なんて、到底無理だ。甘すぎる。
だって俺は、ドラムのことなんて何も知らない。リズム感だってそこまで自信があるわけじゃない。
何より、教え方なんて分からない。
瑞樹の真剣な目にあてられて、勢いで言ってしまった言葉。それが今、重たくのしかかっていた。
心底、呆れ果てた。
けど、もう言っちまったんだ。
やるしかない。
俺の覚悟は、もう戻れないところまで来ていた。
ドラムは、元々バンドにいたあのドラムからもらった。金持ちなのかわからんが、ずいぶんすぐくれた。
問題は山積みだったが、何よりの問題は、練習場所だった。
音を出せる場所なんて、そうそうない。
俺と瑞樹は、放課後に学校の隅っこや、公園のベンチでリズムの練習をするしかなかった。とはいえ、俺の胸の奥は少しだけ浮かれていた。何もかもが手探りで、正直不安だらけだけど……誰かと一緒に目標に向かって進むって、こんなにワクワクするんだなって思った。
そんなとき、救いの手を差し伸べてくれたのが、小山敏夫――物理の先生だった。
年齢は50歳前半。温厚でいつもニコニコしている優しい先生だ。
けど、その優しさが仇なのか、生徒からはちょっとなめられがちで、授業中も舐めた態度をとるやつがいる。
ただ、そんなことも一切気にせず、今日も黒板に向かって黙々とチョークを走らせる姿は、逆にかっこよくも見える。
一部の生徒の間では、彼は「本気で怒ったらやばい」という噂があり、裏では“キラー”なんてあだ名までつけられていた。
その真偽は誰にも分からない。
でも、俺たちにとっては、まぎれもなく“恩師”だった。
最初は、先生に頼むのもためらっていた。けど、ある日の放課後、俺は偶然、帰り道で先生の姿を見かけた。物理の授業が終わったあと、まだ明るさの残る夕方、小山先生は校門の前で自転車に荷物を積み込んでいた。
ふとその手が止まり、夕暮れに沈む空を見上げた先生の横顔に、どこか遠くを見るような寂しさがあった。
その一瞬の表情が、なぜか心にひっかかった。
思い返せば、数日前の物理の授業の中で、先生がぽろっと「昔、週末は音楽仲間とジャズバーに通っててね」なんて話していたことがあった。
そのときは「へえ〜」くらいにしか思わなかったけど、いま目の前の先生の横顔と、あのときの言葉が妙に重なった。
それはまるで――過去に何かを燃やし尽くした人の面影だった。
「この人、やっぱり……」
胸がざわついて、思わず声をかけた。
「先生って、ドラム……できたりします?」
先生は少し驚いたように笑って、「なんで?」と聞き返した。
「いや……なんか、そんな気がして」
すると先生はふっと笑って、「実は昔、ジャズクラブでドラムをやってたんだよ」と口にした。まさかの事実に、俺は思わず食いついて、勢いのままバンドのこと、練習場所に困っていることを話してしまった。
すると先生は、「それなら話は早い」と笑って、次の日には昔から一緒にジャズバーに通っているという飲み仲間でもある、吹奏楽部の顧問に掛け合ってくれた。おかげで、空いている時間に音楽室を使わせてもらえるようになった。
「若い子の夢を応援できるなら、僕も嬉しいからね」
なんて、にこやかに言う先生に、俺も瑞樹も思わず頭を下げた。
俺たちはようやく、音を出せる場所を手に入れた。
本格的に、始まった気がした。
話は変わって、ここから瑞樹の進捗具合について話そう。――最初につまずいたのは、やっぱりスティックの持ち方と足の動きだった。
右手と左手、それぞれで違うリズムを刻むというのは、初心者にはとんでもなく難しいことらしい。しかもバスドラムを踏む足も加わると、まるで身体のパーツがバラバラに動いてるような感覚になるらしく、瑞樹は何度も何度もスティックを落としていた。
「もう、どうしてこんなに難しいの……!」
そんな風に叫びながらも、彼女はめげずに繰り返していた。根性だけは、誰にも負けないと感じた。
そんな彼女の姿を見ていたら、どこか胸が熱くなった。
期限は残り一週間――どうにかこうにか形にしたい、そう強く願った。
けれど同時に、胸の内側は焦りでいっぱいだった。あとたった七日で、彼女がきちんとドラムを叩けるようになるのか? 加藤に認めさせることができるのか? そんなプレッシャーが、俺の肩に重くのしかかっていた。
そんな俺たちの前に、小山先生が音もなく現れた。
「お、やってるな」
先生はニコニコしながら部屋に入ってきて、瑞樹のスティックの持ち方をやさしく正した。
「こう持つと、指に力が入りすぎない。バウンドを活かすんだ。ほら、こんなふうに」
言葉よりも、音だった。先生がスティックを持ち、スネアに触れた瞬間――空気が一変した。
軽やかで、正確で、それでいて遊び心のあるリズムが室内に響く。
「……うそ」
瑞樹が目を丸くする。
俺も思わず見入っていた。
「昔取った杵柄ってやつかな」
先生はそう言って、スティックを瑞樹に手渡した。
「君たちの姿、ちょっと昔の自分たちを思い出すんだよ。困ったときは、頼っていいからね」
その言葉に、俺の胸の奥で、何かが“弾けた”。
できるわけない、なんて思ってたのに。
いや、今でもできるかなんて分からない。
でも――“もしかしたら”が、本当に“できるかも”に変わっていく音がした。
そこからの一週間はまるで風のように過ぎていった。
小山先生の教え方は驚くほど的確で、特にリズムの取り方や脱力のコツなど、初心者が最初に戸惑うポイントを的確に押さえていた。
初日はまともに音すら出せなかった瑞樹も、日を追うごとにスティックの扱いに慣れていき、シンプルな8ビートくらいなら、ぎこちないながらも形になってきた。
俺もその姿に、少しずつ“いけるかもしれない”という感覚を持ち始めていた。
そして迎えた運命の日――加藤が、無言で音楽室の扉を開けた。
その一歩に、俺の心臓がどくんと跳ねる。
彼の目は鋭く、真剣だった。
俺はごくりと生唾を飲み込み、背筋を伸ばす。
「8ビート、聞かせてもらおうか」
加藤がそう言うと、瑞樹はこくりと小さくうなずいた。
スティックを握る手が、ほんの少し震えている。
けれど、彼女は深く息を吸って、ドラムセットに向かった。
そして――音が鳴った。
ぎこちないながらも、確かにリズムを刻んでいた。
まだ不安定だし、テンポも揺れている。
けれど、最初の頃の“何もできなさ”から比べれば、それは明らかに進歩していた。
加藤がゆっくりと腕を組み、口の端をわずかにゆがめた。
「……まあ、悪くねえな」
それは渋々ながらも、認めたという証だった。
俺の肩から、一気に力が抜けた。
よかった――本当によかった。
これで、ようやくスタートラインに立てた気がした。
その瞬間、音楽室のドアが再び開いた。
「なんだい、ずいぶんと賑やかじゃないか」
穏やかな声に振り返ると、そこには小山先生がいた。
加藤の顔が、みるみるうちに引きつる。
「な……なんであんたが!」
「ああ、びっくりさせちゃったかな?」
小山先生は柔らかく笑いながら、まるで古い友人にでも再会したかのように言った。
「彼が音楽にのめり込むきっかけを作ったの、実は私なんだ。……ね、加藤くん?」
加藤は顔をそむけたが、否定しなかった。
「水口くんとのこと、聞いたよ。……君は本当に昔から変わらないねえ」
その声には、叱責でもなく、同情でもなく、ただ懐かしむような優しさがあった。
加藤はむすっとしながらも、目の奥にはわずかながら戸惑いと、安心の色が浮かんでいた。
「そうだそうだ、今日は君たちに提案があるんだ」
加藤が思わず身を乗り出す。
「えっ、先生が?」
小山先生は、にこにこと笑ったまま、机の上に一枚の紙を置いた。
「同好会の申請書類さ。これに記入すれば、正式に“軽音同好会”として認められるよ」
加藤は目を丸くして、それを見つめた。
「え!? あんなに拒んでたのに、いいのかよ……」
先生は嬉しそうにうなずいた。
「ようやく君の“真の仲間”を見つけたようだからねえ」
そのとき、瑞樹が少しだけ不安げな表情で口を開いた。
「けど……私、他校の生徒なんです……それでも、本当に大丈夫ですか?」
小山先生は穏やかに微笑んで、コクリとうなずいた。
「もちろん正式な部員とは言えないけどね。あくまで“協力者”としての立場。外部の子が部に入るのは難しいからね。でも……このバンドに彼女は欠かせない。私が顧問として責任を持って見守るよ」
その一言に、教室の空気がふっと変わった。小さな始まりだったが、それは確かに、新しい物語の幕開けだった。
第4章「波乱の学校祭」