第2章「幸政の過去」
春の風が冷たいのか、俺の気持ちが冷えてるのか。そんなことを考えながら、新得工業高校の校門をくぐった。
このあたりじゃ“バカ高”と呼ばれる学校。中学の頃、勉強そっちのけでベースばっかり触ってたツケが、この進学先だった。
それでも、新しい生活には少しだけ期待していた。俺の新しい一ページが、ここから始まる。
――それが、加藤と出会った春だった。
入学して数日後の放課後、加藤はクラスでもひときわ目立つ存在だった。鋭い目つきと、少しだるそうな口調。それでも周囲を自然と惹きつける空気をまとっていた。そんな彼が教室の隅で友人と慌ただしく話していた。耳に入ってきた言葉に、思わず足が止まった。
「やべぇ……今日、ベースボーカル来れねぇ。水口、彼女とデートだとよ……」
ベースボーカルが来ない? 俺は思わず口を開いた。
「……俺、ベースできるけど」
加藤が驚いた顔でこちらを見る。
「マジ!? お前、名前なんて言うの?」
「斎藤。斎藤幸政」
「俺、加藤。加藤真之介。よろしくな!」
突然決まった、見知らぬやつとのバンド参加。俺の高校生活は、予定になかった方向へ動き出した。
翌日、加藤からライブの話をされた。
「今度の金曜にちょっとしたステージがあるんだ。一曲だけでもいいから頼む!」
練習なんてできる時間もなかったが、加藤の熱意に押されて承諾した。
ライブ当日。俺は加藤に連れられ、ステージに立った。
「水口が来れねぇってんなら、俺が歌うしかねぇべ!」
加藤はギターを構え、マイクの前へ。
「じゃあ……曲、どうすんの?」
「昨日ちょっと合わせたあれ、覚えてるか? あれでいこう」
ぶっつけ本番。リハーサルも満足にしていない。ギターとベースだけの簡単な構成で乗り切るしかなかった。
ステージ裏で、手汗が止まらない。心臓の音が耳に響くほど、緊張していた。脚が震える。加藤を見ると、やけに落ち着いていた。
「大丈夫だって。お前ならできる」
加藤の言葉に、少しだけ力が湧いた。
ステージに立つと、観客はひとりだけ。見たことのない制服を着た、場違いなくらい綺麗な女の子だった。
(……誰だ、あの子)
加藤のカウントが響く。「ワン、ツー、スリー!」
俺はただ、ベースに集中した。不格好でも、音が届けばそれでいい。あの子に届けば、それでいい。
――結果は、惨敗だった。
ライブ後、ドラムを叩いていた同級生が吐き捨てた。
「俺、今日限りでやめるわ。どうせ誰も来ねぇし、意味ねぇよ」
加藤が前に出ようとするのを、俺が思わず手で止めた。
加藤は悔しそうに目を伏せた。
「せっかく入ってくれたのになあ……」
帰り道、加藤がぽつりと話しかけてきた。
「なんか悪かったなあ。緊張したべ?」
「ああ、まあ、練習できなかったしな。俺の方こそごめん」
加藤はうつむきながらため息をついた。
「いやあ、水口になんて言おうかな……。でも、正直お前が来てくれてマジで助かったわ」
「……それなら良かったよ」
ぎこちないけど、少しだけ前に進めた気がした。
翌朝、校舎に入ると、奥の教室から怒号が聞こえた。
(この声……)
のぞいてみると、加藤が水口の頬を殴った直後だった。話を聞くと、水口がバンドをやめると言い出したらしい。
加藤があんなにも怒ったのは、きっと“また大切なものを失うかもしれない”という怖さだったのだと思う。
先生に取り押さえられ、職員室へ連れていかれた。その表情が頭から離れなかった。
後で聞いた話では、加藤は2週間の停学処分を受けたらしい。
その日の放課後。校門前に昨日のライブにいた女の子が立っていた。
「あの……昨日ライブに来てましたよね」
「は……はい……」
「加藤ならしばらく来ませんよ。停学で」
「え!? どうしてですか……?」
「ああ、水口ってやつが辞めるって言い出して……」
彼女は顔色を失い、そのまま走り去っていった。
気になって加藤の家を訪ねると、そこには水口と女の子、瑞樹がいた。
「彼女に連れてきてもらわねえと謝りにも来れねえのか!? 男だろうが!」
「うるせえよ! くだらねえ夢に付き合わせんなよ!」
瑞樹は涙をこぼしていた。
「バイトだから帰るわ。もう近づくな」
「ねえ! 待ってよ!」
「うるせえ! 重いんだよ! 今日限りだわ……」
「おい、それはねえだろ!」
水口が玄関のドアを乱暴に開けると、そこに俺が立っていた。
一瞬、彼の動きが止まる。俺も何を言えばいいのかわからず、ただ口を開く。
「……すみません」
誰に向けた言葉かも分からなかった。ただ、目の前の状況に対して謝りたかった。
水口は露骨に舌打ちをし、そのまま俺の脇をすり抜けて出て行った。俺の肩が軽く揺れた。
玄関の奥から加藤の声が飛んできた。
「……家、教えたっけ?」
「ドラムのやつに聞いた。なんか気になって」
「……まあ、上がってけよ。ここまで来てんだし」
ドアが開ききり、俺は少し躊躇いながらも靴を脱いで中に上がった。中からは瑞樹がまだうつむいて座っている姿が見えた。加藤もどこか気まずそうに目を逸らしつつ、気遣うようにリビングへと促した。
加藤の家は妙に静かだった。時計の針の音だけが、やけに耳に響く。
「親、いないのか?」
「夜勤。いつも夜は俺ひとりなんだわ」
そう言って加藤がソファにどかっと座る。俺は何となく空気を読んで、さっき近くのコンビニで買ってきたガリガリ君を手渡す。
「てか、なんでガリガリ君?」
「最近ハマってて……食う?」
加藤が噴き出す。
「いらねえよ。瑞樹ちゃんにあげなよ」
初めて聞いた名前に、俺は一瞬だけ戸惑った。
「……食う?」
瑞樹は驚いたようにこちらを見て、それから小さく微笑んだ。
「……いただきます」
瑞樹が遠慮がちにガリガリ君を手に取ったその瞬間、俺の悔しそうな顔を見た加藤が腹を抱えて爆笑し始めた。
「なんだこれ、超うける!」
一瞬だけ、重苦しかった空気がふっと和らいだ。
そのあと、加藤が水口とのことをぽつぽつと話し始めた。
幼稚園からの付き合いで、ずっとバンドでの成功を夢見てきたこと。水口の存在がどれだけ大きかったか。
それを聞いて、俺もようやく納得できた。加藤の怒りも、落ち込みも。
すると、瑞樹が真剣な顔で言った。
「あたし……手伝えることありますか?」
加藤がすぐに答える。
「気持ちはありがたいけどな」
「なんでもいいんです! ベースいないですよね!? 勉強して上手くなりますから!」
その言葉に、俺の口が勝手に動いた。
「……俺でよければ、ベースやろうか?」
本当はバイトして金を貯めて、東京に行くつもりだった。でも、そのときは迷いがなかった。
瑞樹が驚きと安堵の混ざったような表情を浮かべて、こくんと頷いた。
加藤が目を見開いて、満面の笑みを浮かべた。
「マジ!? めっちゃ嬉しい!」
加藤の目が、本気で輝いていた。
瑞樹は小さくため息をついた。「……今日はもう帰ります」
涙の跡が少し残るその顔に、少しだけ柔らかい表情が浮かんでいた。
「夜道、ひとりで大丈夫か?」加藤が声をかける。
「大丈夫です……多分」
「いや、一応送ってくわ」
加藤がこちらを振り返る。「……悪い、俺いまちょっと親に電話しなきゃでさ。幸、お前、瑞樹ちゃん送ってやってくれねえか?」
「え? あ、うん、わかった」
玄関を出て並んで歩きながら、俺はどう話しかけていいか分からなかった。ただ、隣を歩く瑞樹の足取りが少しだけ軽くなっている気がして、それがなんだか嬉しかった。
そしてこの夜、俺は知らないうちに、少しずつこの物語に巻き込まれていったのだった。
加藤が停学から戻ってきたのは、4月も終わりに近づいた頃だった。
教室に入ってきた瞬間、その空気が少しだけ張り詰める。派手な事件のあとだけに、周囲の視線も冷たい。けれど加藤は、それを一切気にした様子もなく、真っ直ぐ俺のところに来て言った。
「幸、ドラム探すぞ」
まるで何事もなかったかのような口調。でも、その目は明らかに焦っていた。
昼休みになると、加藤はバンドメンバー募集のポスターを持って校舎内を駆け回った。コピー室で紙を刷って、廊下や階段の掲示板に貼り、放課後には吹奏楽部の部室前に立って声をかけた。
「ドラムやってたやついない? ちょっとバンド組んでてさ」
だが、返ってくるのは冷たい視線か、生返事だけだった。やっぱりあの殴打事件の印象は強く残っていたらしい。
「加藤真之介って、あの問題起こしたやつでしょ?」
「……やめときなよ。ああいうの、また何かあったとき面倒だよ」
俺は、その言葉に背中を押されるような冷たさを感じた。
(……こいつら、ほんと冷たいな)
結局、一週間が過ぎても見つからなかった。
「もう、仮でもサポートメンバーでいいよ……誰かいねぇかな……」
加藤の声には、焦りよりも疲労の色が濃かった。
その日の放課後、俺と加藤は肩を並べて無言で帰っていた。太陽は傾きかけていて、春風がやけに冷たく感じた。
そのとき、前方から小さな影が近づいてくるのが見えた。
「あっ……!」
加藤が小さく声を漏らした。
制服はうちの学校のものじゃない。けれどすぐにわかった。ライブのあと、加藤の家で会ったあの女の子――瑞樹だった。
彼女もこちらに気づいたのか、ぴたりと足を止めた。
「……ねえ、ドラムの人、まだ見つかってないんですよね?」
加藤が驚いたように目を見開いた。
「なんで知ってんだ?」
「ポスター、見ました。校門のとこに貼ってたの、たまたま通りがかりに」
瑞樹は一歩近づいて、少し緊張したような声で言った。
「……あたしじゃ、ダメですか?」
「え?」
「ドラム、まだ初心者だけど……頑張ります。どうしても……バンド、やってみたいんです。水口さんのことで迷惑をかけたままじゃいたくないから。少しでも、何か力になりたくて……」
加藤がゆっくり立ち止まり、腕を組んで彼女を見つめた。
「……やめとけ。素人がドラムなんか叩いたら、全体がめちゃくちゃになる。こっちは遊びでやってるんじゃねえんだよ」
瑞樹は言い返さず、じっと加藤を見つめ続けた。その姿に、胸の奥で柔らかい音が鳴った気がした。まるで、ずっと閉じたままだった蓋が、ほんの少しだけ開いたような。
「――2週間。2週間で、なんとか叩けるようにしてみせる」
「は?」
加藤は、呆れたように片眉を上げてため息をついた。その目は、どこか冷ややかで、けれど完全に突き放すには躊躇しているような複雑な色をしていた。
「俺が教える。家で練習見てやる。基礎だけでも。合わせられるくらいにはなるかもしれない」
加藤は明らかに迷っていた。
「……マジで言ってんのか」
(自分でも、何言ってんだって思った。でも、引き返す気はなかった)
「言ってる。俺が保証する。だから、考えてやってくれ」
加藤は数秒の沈黙のあと、呆れたように眉をひそめて鼻で笑い、小さく舌打ちして目をそらした。
「……わかったよ。2週間な。それでダメなら、マジで他あたるからな」
瑞樹の目に、ぱっと光が宿った。
「ありがとうございます!! 絶対、頑張ります!」
その言葉に、俺も少しだけ気が引き締まった。
止まっていたビートが、また少しだけ動き出した気がした。
第3章「本格始動編へ」