第三話 死に損ないの子羊
私は贄になるためだけに生まれた、言うなれば神の糧となるべき子羊だった。
私が生まれたのは広い地球の一角で、科学的にありえないの一言で神も悪魔も一蹴してしまう島国日本。
けれどそこまで発展しながらも、神に縋りつこうとする馬鹿な人たちはまだ存在していたらしい。生まれた私を取り巻く環境は、科学的とは決して言えないおかしなカルト教団だった。
それを率いるは我が父親。教祖様なんて格好良い呼び名はついているけれど、結局は中年のおじさんだ。
ついでに母親はもっと最悪。正直顔も名前もよく知らない一信者だったらしい。生贄を宿すためだけに教祖様と交わった、それこそ使い捨ての駒みたいなものだ。
そしてそんなカルト教団が、私の命を賭して祀り上げた神。
名はシルファス、姿形はまるで少年。
あんまり人の顔なんて生で見る機会はなかったけれど、そんな私でも綺麗だと思う。私と同じか少し下くらいの少年なので格好良いとは思えなかったが、うん、多分美形と呼ばれる部類に入るんだと思う。
そして性格は――
『まあまあ怒んないでね? 怒ったら可愛い顔が台無し』
――エセ神。
その一言に尽きた。性格を表す言葉になっていなくてもこの際いい。エセ神だこいつは。
むしろ台無しなのは私の人生。
自分の運命を受け入れ贄となるため生きてきた私の人生を、見事に踏み躙ってくれやがった。
それも、たった一言で。
『せ、せっかく君が怖がる教団やら教祖様のいない世界へ連れて来てあげたんだよ? ね、そんな睨まないで。っていうか本当怖いから睨まないで欲しいな……』
それから、ムカつくほどに恩着せがましい。
実体があれば殴ってやりたかった。
こいつのせいで、私は今こんな状況に陥っているというのに。
確かに、ここには教祖様もおかしなカルト教団も何もいない。
自由に生きようと思えば、生きられる場所だろう。だけど。
「私は身寄りもいない、贄以外の生き方も知らない。野生に生きろなんて言われても3日で死ぬ自信があるぞ?」
厳かな口調で告げる。
私は、自分で生きるということを知らなかった。
今までが多少おかしくても恵まれた環境だったばかりに、何も知らない。お金の使い方だって知識で知っているだけで、買い物なんてしたことはない。それがまして異世界。分かるはずがない。
こんなところに一人放り出されて生きろなんて、無茶にも程がある。
そう睨んでやると、何だとシルファスは笑った。――‘何だ’?
『野生に生きろなんてそんなこと、君みたいなか弱い女の子に言ったりしないよ』
「か、か弱……っ?」
シルファスの唇から紡がれた言葉に、思わず反応してしまう。
か弱い。
それは確かに否定できないけれど、そんなこと、言われたこともなかった。何だかおかしな言葉だ。
確かに私は弱い存在だろう。世間の庇護を必要とする、あらゆる意味で弱い存在だ。
けれど、シルファスの言葉にはそれだけじゃない、違う意味合いが混ざっているような気がした。
『君が世間知らずで一人じゃ生きていけない箱入り娘だっていうのは知ってる。それを知っててわざわざ放り出すほど、僕は意地悪じゃない』
人が決死の覚悟で喰らってくれと言っているのを拒む時点で十分意地が悪いと思う。
「……それで、どうしろと?」
『だから、そのために僕がいるんじゃないか』
私が軽蔑するように睨むと、シルファスは今度は胸を張って答えた。
お前がいてどうなる。実体があればせめて何かの盾になったのかもしれないのに、この役立たずのエセ神め。
『僕が君を守る。これで万事おーけー、でしょ?』
……は?
…………まも、る……?
「…………は?」
『え、何その返事。もしかして気に入らなかった?』
怖々と私に尋ねるシルファス。どうやら本気で聞いているらしい。
けれど当の私は、気に入らないとか、気に入るとか――そんな話ではない。
守る。シルファスは、そう言ったのだ。
「……ど、どういう意味だ、それは」
『どういう……って、そのまんまの意味だけど。あ、大丈夫、曲がりなりにも元神だからそれなりに役に立つはず。肉弾戦は無理だけどね』
そういう意味じゃない。
瞼が熱くなって、思わず目を閉じた。――守る。
何気なく落とした言葉だろうに、私は無様にも敏感に反応してしまった。
さっきまですらすらと出てきたはずの皮肉が出てこない。一体、何と返せと?
完全に黙してしまった私を訝しげに思ったのか、シルファスが、口を開く。
『…………えーっと……もしかして、照れてる?』
「……うるさい」
復活。そして、とりあえず手始めに一言。
実体があったら一発殴ってやるところだった。
――駄目だ、慣れろ私。相手はこういう奴だ。どうしようもない。
守るとか神にとっては普通で、そういう自信があるから言ったもので。他意はない。それだけ。だから。
ようやく、うるさく喚いていた心臓が大人しくなる。深呼吸を二、三度してから、私はシルファスを強く睨んだ。
「……つまり、お前が私のことを守るから、代わりに私に生きろと言いたいのか?」
『うん』
「……隠しもしないのか」
恩着せがましい。思いながら、表情を崩して僅かに苦笑する。
けれどシルファスはぱちくりと瞬きをしただけで。
『だって隠したって仕方がないじゃない。――まあどうせ、死なせはしないけど』
それを言うならば、もう自分で死ぬ気なんかも起こらないけれど。
贄なんて望まない運命でも、それで十分だった。何も考えずに生きてこられたから。
――だけど、もう。
ふうと肩の力を抜くと、今まで向かいにずっと立っていたシルファスがひょいと隣に腰掛けた。
何故か満面の笑み。私はきょとんとする。
そして何故か笑顔のまま、右手を差し出された。それが握手を求めているのだと気付くまでには、しばらくかかったが。
『まあ、そういうことだから、よろしくね? ――ええと』
「……梓紗」
名前を聞いているのだろうと思って答える。――ぷい、と視線を少しだけ逸らしながら。
自分の名前を名乗るのなんていつ以来だろう。初めてだった気もする。懐かしい気もする。だけど、何にしろ、悪い気分ではなかった。
『そう。梓紗……、可愛い名前。よろしくね』
何だか恥ずかしい台詞を言われてると気付いて赤面した時にはもう遅く、無理矢理手を近付けられ重ねられる。
――どうせ実体がないのだから重ならないのに、何だか、久しぶりに人の温もりを感じた気がした。
あたたかい。交わらないはずなのに、そう思ってしまう。
恥ずかしくても、手を引く気にはならない。
『――あ、そうだ』
ふいにシルファスが、声を上げた。
思わず顔を上げ、手を引っ込めてしまう。何だと驚いたまま見つめていれば、シルファスは、笑顔で。
『言うの忘れてたんだけど、僕梓紗以外には見えてないから』
「………………は?」
今、嫌な言葉が聞こえた気がする。二回目。
何だろう。やっぱり耳が腐ってるのか。そう思った、が。
『梓紗には意識して見えるようにしてるけど、他の人には見えてないんだ。だから梓紗、今一人芝居状態』
けろりと笑うシルファス。何処かで、ぷちりと何かが切れるような音が聞こえた気がした。
……そうか、だからか。
だから、さっきから、周囲の人の視線が痛いのか。
「…………シルファス」
『ちょ、声が低いよ? 梓紗ちゃん声が低い低い低い』
そりゃあそうなるように声出しましたから。
俯けた顔を上げ、何故だか顔面蒼白になるシルファスを見据える。
そしてあえて、にっこりと最高の笑顔を見せつけてやった。
「……やっぱり死ね♪」
ひい、と悲鳴が上がる。悲鳴を上げて逃げる神を私は追い掛けていく。
――私は、決めた。
いつかこのエセ神を葬ってやろうと。
そして、その時のために生きよう――と。