5話 唯一竜
その竜は、生を自覚した時から完成されていた。
全身を覆う鱗は、万物を寄せ付けぬ鎧。
威風たる両翼は、風を自在に操り空を支配する。
その爪は触れる物を容易く切り裂き、牙は望んだ物を噛み砕く。
灼熱の息吹は、地平の果てまで焼き尽くす。
不足があるとすれば、それは記憶。
その目に映る空と大地は、竜にとって覚えのない風景だった。
竜は飛んだ。
指針も無く、ひたすら。
竜は歌った。
その喉笛から奏でられる歌を、どこで知ったのかも思い出せずに。
竜は吠えた。
孤独は恐れていない。だが、自身の存在を証明する何かを求めていた。
どれほどの時が過ぎただろうか――。
ある日、竜は気まぐれに弱き者を魔物の牙から救ってやった。
それは大地に蔓延る魔物には敵うべくもない小さき種。
生き延びたその種は、数千年をかけて進化した。
飛び疲れた竜はその様子を見守り、種を愛でた。
気が付けば竜は神と崇められ、竜と同じ言葉で対話を望まれた。
竜はその種を“人間”と呼ぶようになった。
魔物の群れを焼き払うだけで、人間たちは泣いて喜んだ。
空に炸裂する火の玉を吹きあげてみせただけで、人間たちは笑って喜んだ。
儀式とやらに参列してやるだけで、人間たちは穏やかに喜んだ。
竜は、そんな小さな人間が好きだった。
番い、子を成し、血の繋がりを尊ぶ人間を見ている内に、竜もそれが欲しくなった。
ふと見上げれば満天の星空。まだ見ぬその光の先に、何かがいる様に錯覚する。
竜は再び飛んだ。雲を越えたその先へ。
徐々に意識は薄れて、肺から全ての空気が抜けていく。
だが、竜の生命力はそれを凌駕した。
魔力を肺に送り込むことで、生命を維持する。その神業は無意識に行われていた。
竜は途端に軽くなった体に驚愕する。
翼で風を捉えずとも、下へ落ちない。逆に捉える風を見失い、思った方へ進めない。
だから魔力を翼で叩くことで、推進力を生んだ。
青い大地を離れ、人間と同じように番いを探す。
しかし、満ちた希望はあっという間に枯れてしまう。
漆黒の空間を進めど、眼前に見えるはずの光は一向に近づく様子がない。
それでいて、振り返ると青い大地は見る見る小さくなっていく。
孤独はより強く、より深くなっていった。
それに耐え兼ねて青い大地へ戻る頃には、知る人間は誰一人残っていなかった。
竜の存在は歴史から葬られ、神話でのみ語り継がれる偶像へと堕ちていた。
自らの力で生きる術を身に着けた人間は、竜を厄災と恐れて迫害する。
人間が好きだった竜に怒りはなく、あるのは悲しみだけだった。
人里を離れて山で暮らす内、人間への未練は薄れていく。
腹が減れば魔物でも人間でも構わず喰った。暇になれば国を焼いて消した。
同族への想いすら断ち切って、竜は無為に時を過ごした。
更に時は過ぎ、厄災たる竜を討滅するために一人の男が隊を連ねてやって来た。
その男こそが人間の英雄。勇者と呼ばれる強き者。
勇者は魔剣グラムを携えて竜と戦った。
それは百を越える賢者たちの血と、百を越える鍛冶師たちの生涯を費やして打たれた魔剣。
そして僅かな奇跡が折り重なって誕生した偶然の産物でもあった。
その偶然は、竜の鱗すら貫く必然を実現する。
彼らは一晩中戦った。
勇者の傷を癒して命を繋ぐための魔法使いたちは、入代立ち代わりに役目を果たすと、使い捨ての様に命を落としていった。
勇者を補助する多くの戦士たちが、竜の巻き起こす風に吹き飛ばされ、無残にも散っていった。
勇者を守る多くの守護者たちが、巨大な盾とその身を焼いて、竜の息吹によって灰と化した。
勇者は亡き者たちの意思を継ぎ、魔剣グラムを振り続ける。
「君は強すぎる。あの魔王よりも強い……」
勇者は膝をついて弱音を吐く。その手に剣を握る力は残っていなかった。
しかし、竜も地に伏せ、息を荒げて体を起こせずにいる。
魔剣グラムが刻んだ傷は、確実に竜を追い詰めていた。
「でも、自信が持てたよ。今の僕なら、きっと魔王を倒せると思う」
この戦いで竜の強さを知り、それを魔王と比較して、客観的に己の強さを理解する。
勇者が倒すべき者は多い。
人間を滅ぼさんと躍進する魔王も、その対象である。
「……まるで次を見据えた様な言い方だな。ここで終わるとは……微塵も思っていない……様だ」
竜は久方ぶりに言葉を発した。
傷を癒す時間を稼ぐためでもあり、強き勇者への敬意でもある。
「ハハハ! 凄いな、人間の言葉を話す魔物なんて初めてだ!」
仲間は皆死んだ。
一人残された勇者は、気を紛らわせるために話していただけ。
まさか言葉が伝わっていたとは思ってもいなかった。
「最初から君を殺すつもりはないよ。それは無理だと分かっていたからね」
そう言うと、勇者は後ろに倒れて天を仰いだ。
「ほら、ワイバーンの騎士たちがやって来た」
空には騎士が跨る複数匹のワイバーンたちが旋回している。
竜に似たその魔物は、この世界においては空飛ぶ大トカゲに過ぎない。
火も吹かず、馬より多少大きい程度。だが力は強い。群れれば竜ほどの巨体を吊り上げられるほどに。
ワイバーンから鎖が下ろされ、魔法によって蛇の様に独りでに竜の体に巻き付いていく。
「君をヴァーリア監獄に移送する。気が付いていない様だけど、魔剣グラムには毒がある。あと数日は動けないはずだ」
竜の時間稼ぎには意味がなかった。
魔力を毒とする魔剣グラムの魔法によって、体の自由は完全に奪われていたのだ。
本来であれば死に至らしめる即効性の毒だが、竜に対しては神経毒程度にしか効果がなかった。
「何のためだ? お前が癒えてから我を殺せばよい。何故そうしない?」
「“終末級”の存在は世界に向けた脅しになる。その気になればいつでも放てる……ってね」
殺してしまえば脅威は去る。しかし、生かしておけば訪れるのは一時の平穏に過ぎない。
その平穏を崩壊させる権利を、勇者は握ろうとしているのだ。
それは“終末級”という強大な脅威によってではなく、愚かな人間たちの小さな戦争を抑止するための手段。
「そうか……」
竜は力なく呟き、現状を受け入れた。
かつて神と崇められていたことすら、信頼や敬意からくるものではなく、都合よく利用するための欺瞞だったのではないかと思えてくる。
ワイバーンたちに吊られた竜は、沈む夕日に照らされながら彼方へと消えて行った。
その影を目で追いながら、勇者は静かに呼吸を整える。
「君がヴァーリアを出る時は来ない……僕はそう祈っているよ」
誰もいない空に向かって吐き出されたその言葉には、世界の平和を祈る勇者の想いが込められていた。
だが、そこには人類の礎を築いた竜への情は含まれていない。
今はもう、竜を想う者はいない。
今はもう、竜に手を差し伸べる者はいない。
今はもう、竜の愛を知る者はいない。
今はもう――。
「――俺と一緒に家族のもとへ帰ろう……!」
牧緒の言葉に、唯一竜は目を丸くした。
彼が向けた感情は、唯一竜が久しく忘れていた物だったからだ。
もしも本当に異世界が存在するならば、出生の記憶を失っている唯一竜は、自身もそこから来たことを否定できない。
だが、牧緒の言い分を鵜吞みにするわけにもいかない。
「言葉を……お前の世界の言葉を、我に教えろ。異世界の存在が偽りであったとしても、架空の言語を一から考えたのだとしたら、天晴だ」
唯一竜は自ら妥協案を提示する。
結局のところ、唯一竜は仲間を欲していた。
種族は違えど“異世界”という共通の繋がりを見出だした牧緒を、信じたのではなく、信じたくなったのだ。
「あぁ、もちろん! 何でも教える!」
一度は死を覚悟した牧緒の声は少し上擦っていた。
「俺は牧緒。あんたのことはなんて呼べばいい?」
「そうだな……昔、バルバラと呼ばれていたことがある。それでいい」
唯一竜バルバラ――それがかつて、愛した人間たちが呼んだ彼の名前。
名を交わした瞬間、対等とは言えずとも、食料と捕食者の関係ではなくなった。
だが、牧緒の目的はバルバラと仲を深めて、自身の命を先延ばしにすることではない。
「バルバラ、俺が必ず元の世界に帰る方法を見つけ出す。だから、まずはここを出よう!」
必要なのは脱獄に協力させるだけの動機。
牧緒の作戦は成功したと言っていいだろう。