39話 ふろ
伏魔殿での最初の夜。
ユレナはずっと気がかりだった、あることに着手すると決めた。
「ニャプちゃん、お風呂に入りましょう」
「ヤにゃ」
ニャプチは顔をしかめて嫌がる。
監獄を出てからは、清潔を保つのに十分な環境で過ごしてきた。しかし、ニャプチが風呂に入った姿を見たことがない。
ユレナはそんな状態を放っておくことができなかった。
「ベトベトすると気持ち悪いでしょ?」
「ボクは全然ベトベトしてないから大丈夫にゃ」
「ちょっと臭うし……」
「お日様の匂いだから大丈夫にゃ」
「ちょっと焦げた様な臭いが……」
「マキオは臭いって言ってないし、問題ないにゃ」
「マキオ様は、そういうことは面と向かって言わない人ですから……」
「結構ずけずけ物を言う奴な気がするけどにゃ~」
説得は上手くいかない。それでもユレナは諦められなかった。
「マキオ様は獣人を中心とした国……いえ、魔境をお創りになろうとお考えです。そうなれば、同じ獣人のニャプちゃんはその者たちの上司になるわけです」
「上司……」
「つまりお手本にならなければならない立場。お風呂に入ることが当たり前であると示さなければなりません」
ユレナは、ニャプチの自尊心に訴えかけた。
「……興味ないにゃ~」
しかし効果はなかった。
「じゃあ、今後のご飯は一生人参です」
「お風呂入るにゃ」
ニャプチが人参だけを避けて食事をとっていることを、ユレナは見逃さなかった。
現状、何もない無主地に陣取る伏魔殿では、外食を楽しむこともできない。
唯一料理の技術を持つユレナに、食事の権限を握られていると言っても過言ではない。
ニャプチの楽しみは、食べて動いて寝ること……ユレナには逆らえないと悟った。
伏魔殿には大浴場が完備されている。
リデューシャの魔力を糧に湧き出す湯には、一度浸かるだけで裂傷を完治させてしまうほどの効能がある。
「ほら、服を脱いでください」
「うにゃ~」
やる気のないニャプチを、何から何までサポートする。
立ち込める蒸気は脱衣所にまで届き、視界が悪い。
とめどなく流れ続ける湯で、浴槽は満たされている。
元貴族のユレナですら息を呑むほど立派な作りだ。
「わぁ、でっかい! これなら泳げるにゃ~」
一転してテンションが上がり、迷わず駆けだそうとするニャプチを制止する。
「まずは体を洗ってから!」
ユレナはニャプチを木の小椅子に座らせて、桶に汲んだ湯を頭からかける。
脇には、髪や体を洗うための薬液が瓶に詰められ、並んでいる。
「こういうのも含めて、全部魔法で作られてるんですよね……? やっぱり魔女様は凄いなぁ」
感心しながら、薬液を手に取ってニャプチの頭を無造作に捏ねる。
「うにゃ、にゃ、ふにゃ、ぴゃ」
されるがままのニャプチが、時折目や口に入った泡を擦ったり吐き出したりする。
「さぁ、次は体です」
何度か湯をかけて髪の毛の泡を洗い流した後、今度は別の薬液を手に塗り広げ、ニャプチの体を撫で始める。
「うににに……にゃあああ」
嫌がるニャプチを押さえつけつつ、構わず体を洗っていく。
その時、ユレナはある違和感に気が付いた。
「あれ? ん? んん?」
最初はニャプチが尻尾を内側に丸めているのかと思った。
だが、何度か撫でまわす内に、その正体を知る。
「ニャプちゃん……もしかして男の子?」
「ボクは雄とか雌とか、そういうのはないにゃ」
「んんん……ん、んんんんんん?」
ユレナは混乱する。状況は理解できるが飲み込むことができない。
思考が硬直するも、手は動かし続ける。
しっかりニャプチの体を綺麗にして、再び湯をかけて洗い流す。
「もう泳いでいいにゃ?」
「……いいですよ」
「にゃあ~」
ニャプチは勢いよくジャンプして湯船に飛び込んだ。
「胸も腰つきも女の子としか思えないのに……うーん、まぁ、問題ないですよね!」
ニャプチがあまりにもあっけらかんとしているので、ユレナは考えるのをやめた。
彼女はどちらかといえば雌に傾倒した体の構造をしている。
しかし、あらゆる生物の性質を併せ持つ合成獣人であるからして、雌雄同体としてこの世に生を受けた。
といっても、身体に現れる特徴は狼の耳と尻尾を含めてその程度。
合成獣人としての真価は、肉体的構造を無視して機能的な結果を得られるところにある。
例えば、エラがなくとも水中で呼吸を可能とし、翼がなくとも空を飛べる。
それはニャプチが魔法生物であることを物語っている。しかし、本人は自分にどのようなことができるかを含めて、それを理解していない。
「ニャプちゃん、他所のお風呂では泳いじゃダメですよ」
そう諭しながら、ユレナも湯船に浸かる。
ヴァーリア監獄から脱獄して、今日まで目まぐるしい日々だった。
その中で、自分はいったいどれだけ役に立てただろうかと、ユレナは考える。
本当だったら処刑され、既に失っているはずの命。できることなら、牧緒の力になりたい。
実の父を探すために異世界へ行くことは阻止したい。そして、仲間であるオルガノを排除しようとも考えている。
牧緒にとっての理想の仲間を演じるつもりはないが、牧緒を尊敬しているのも事実。
だが、何かを成そうにも【悪の特異点】の中では突出したものを持たないことを自覚している。
「魔王を利用する方法があれば……」
唯一無二のそれは、制御不能の脅威。
魔王に意識を奪われずにその力だけを使えれば、魔女や唯一竜と並ぶ戦力となれるだろう。
しかし、その方法は皆目見当もつかない。
「その方法、妾が教えてやろう」
リデューシャが、仁王立ちでユレナを見下ろしていた。
「魔女様!」
驚くユレナを他所に、リデューシャも湯船に浸かる。
「信用できないか?」
「いえ、そんなことありません! 私は魔女様を尊敬していますし、信用しています!」
リデューシャは「フフ」と笑い、しばらく湯の中で体を休めてから、続けた。
「お前と魔王の魂は別々の物だ。だから一方が体を支配すれば、一方は抑え込まれる」
ユレナは大げさに頷きながら謹聴する。
「ならば、魂を一つに融合してしまえば良い。傍若無人な魔王と、大人しいお前が一つになれば、丁度良くもなるだろう」
それは妙案の様でもあるが、実のところユレナも魔王も自分を失い、第三の精神を宿すこととなる非道な方法。
しかし、ユレナは妙に納得してしまう。そんな彼女に、リデューシャは交換条件を出す。
「魂の扱い方は教えてやる。だから、お前は妾に“かわいい”を教えろ」
「“かわいい”を……ですか?」
リデューシャは牧緒の心を掴むための、新たな方法を模索していた――。
浴場の入口で、牧緒が呆然としている。
オルガノがどっしりと構え、行く手を阻んでくるからだ。
「ちょっとさぁ! 風呂に入りたいだけなんだけど!」
「駄目だ。お前には勿体無い」
「そんなぁ……」
説明は省く男オルガノの手によって、お約束の展開は阻止されたのであった。




