13話 魔女 対 勇者
バルバラの背の上で、オルガノはさりげなくユレナの前に座して風除けとなる。
そういった挙動から、ユレナは彼が自身にとって特別な存在であることに薄々感づいていた。
しかし、それは牧緒の言っていたユレナを脱獄させようとしている人物、というだけの認識。
まさか探していた実父が同じ監獄に収監されていて、自身を助けようとしているとは思ってもみなかった。
牧緒はそんな二人の様子を温かい目で見守っている。
オルガノを連れて来ることを決めた理由は、単純に家族は共にあるべきだと思ったから。
自身が失った親子の時間を、二人に享受させることで満たされる気がしたのだ。
「マキオ、何か来てるにゃ!」
ニャプチの視線の先には、こちらに迫りくる宙に浮いた人影があった。
「あれが勇者か……。バルバラ、後どれぐらいで聖域を抜けられる?」
「もうすぐだ」
勇者の影は次第に大きくなっていく。バルバラよりも遥かに速い速度が出ているようだ。
焦る牧緒の目の前で、魔女の背中が影を作る。
身を伏せてバルバラの背に掴っていなければ、間違いなく振り落とされる風圧。
だが、魔女は己が二本の足で立っていた。
「よもや……あそこから出られる日が来るとはな……」
途端、魔女の髪は艶めき、淡い金色のそれは光を反射する。
途端、魔女の纏ったボロ布は姿を変え、黒に銀色の刺繍が入ったドレスへと生まれ変わる。
途端、吹き荒れる風は掻き消え、靡く髪とドレスは静けさを取り戻す。
聖域を、越えた――。
魔女は冷たく鋭い視線を牧緒に向ける。
「妾の名はリデューシャ・ラナ・ヨルベルク。よろしく、マキオ」
リデューシャは表情を一変させ、ニカッと笑った。
協力の意思を持っていると判断した牧緒は安堵するも、直後に不安に襲われる。
魔女の実力も、勇者の実力も牧緒は想像することしかできていないのだから。
「勇者を足止めできそうか?」
「足止めでいいのか? 妾は屠るつもりでいたのだがな」
リデューシャは腰に手を当て、自信満々に答える。
背が高く、大人びた風貌だが、その態度にはどこか幼さが垣間見える。
「よかった、期待してる!」
殺し合いは望んでいないが、ただ見ていることしかできない牧緒は全てを託した。
リデューシャは目を瞑り、静かに息を吸って唱える。
「逆巻け、魔力よ。掛かれ、自然よ――」
指揮者の様に両手を構える。
空には黒雲がかかり、ゴロゴロと雷が唸る。僅かに降り始めた雨粒が、牧緒の頬に当たった。
「まずは下から」
リデューシャが両手を振り上げると、遥か下方の大地を彩る杉林がざわめく。
そして幾本もの樹木が絡まり合い、雲を突き抜けるほどの大樹と成って勇者レトロに迫る。
「す、凄い……」
牧緒はかつて、王城で魔法を学ぶ中で、実際に戦闘に使われる魔法を何度か目にしたことがあった。
魔女の魔法は規模も性質も、記憶の中のどれにも属さない。次元が違う。
しかしレトロもまた、それに匹敵する強敵。
剣を抜くのと同時に、ヒンッという耳を劈く風切り音が鳴り、下から突き上げる大樹は縦に切り刻まれた。
「あれが強欲の魔女か……」
レトロは魔法を放った者の姿を捕捉した。
魔女が自然を操る魔法を主に使うことを知っている。故に近接戦闘であれば自身が有利であると判断した。
次の魔法が放たれる前に、レトロは加速して一気に距離を詰める。
その一手に対して、リデューシャは片手を突き出す。
すると雨粒が集約し、鏡の様な巨大な水の壁が成形された。
水の壁を構わず突き抜けようとするレトロだったが、それは雨水ではありえないほどの粘性を持ち合わせていた。
それはレトロの体に絡みつき、動きを一瞬止める。しかし、彼は強引にそれを突破できるだろう。
だが、リデューシャはその一瞬があれば次の魔法を放つことができる。
「霹靂――」
そう唱えて指を鳴らすと、青い稲妻がレトロを貫く。
粘性を持つ水は、電気を伝導し継続的にレトロを刺し続ける。
電流により筋肉は収縮し、体の自由を奪う……はずだった。
魔法防御は科学や物理の法則すらも無視して身を守る。
レトロの肉体は普段と変わらぬ状態を維持し、傷一つ負っていない。
いつの間にか粘性の水は弾け飛び、レトロの動きを阻む物はなくなった。
「ほう……それなりにやるようだな」
リデューシャの表情からは余裕が見て取れる。
「澹澹燦燦――」
リデューシャは指先を曲げて腕を振りながら再び呪文を唱える。
多くの雨粒が集まり、それは空を走るレトロの周囲を旋回しながら飛び回った。
それと同時に、炎が突然レトロを包み込む。
「水火――」
そして、爆音と爆風。
一連の魔法が引き起こしたのは、水蒸気爆発と同等の事象。
衝撃波は、リデューシャの空間を包み込む魔法防御により、牧緒たちに伝わることはなかった。
しかし、轟く音までは防げない。
牧緒の視界はわずかに揺れ、しばらく耳鳴りが続いて音を聞き取れない。
それはリデューシャとバルバラを除いて、他の者も同じだった。
ニャプチに至っては、ひっくり返って目を回している。
「さて、どうなるかな」
リデューシャが呟いたその瞬間、目に見えない風の斬撃が彼女の右半身を切り裂いた。
切り離された半身は吹き飛び、血液と一緒に内臓が流れ落ちる。
「かっはっは……、硬いな……」
リデューシャはレトロが無事であったことに、吐血しながらも笑う。
水蒸気の煙幕の奥に見えた勇者の姿は、無傷どころか身に纏う衣服に穴すら開いていない。
「リ、リデューシャ……」
牧緒は動揺を隠せない。彼女の傷は、どう見ても致命傷だ。
だが、牧緒はまだ理解していない。
“終末級”と呼ばれる者たちの常軌を逸した領域を。
「案ずるな……妾を殺すのに二の撃を必要としている時点で、それまでの男だ……」
そう言うと、リデューシャの体から荊が生えてくる。
それは彼女の失った部分を補い、ミチミチと音を立てて瞬時に元の肉体へと変化する。
切り裂かれたドレスも補修され、再び彼女の体を包んだ。
呪文による魔法の強化すら必要なく、リデューシャはごく当たり前の様に復活する。
レトロは剣を振り、再び風の斬撃を放つ。
対してリデューシャは、手の平を口元に添えて「ふっ」と息を吹いた。
それは突風となり、風の斬撃を飲み込んで掻き消した。
「色々と手はあるが、そうだな……もう少し派手なやり方でいくとしよう」
リデューシャは腰に手を当てて、牧緒の顔色を窺うように次の一手を選ぶ。
「召喚獣――来たれ、凝聚する翼の獅よ」
手を交差して唱えると、雨雲の裂け目から、それらは現れた。
亜空間より襲来する支配されし魔物、グリフォンの群れである。
数百、いや数千のグリフォンが空を埋め尽くした。
馬より大きな体で、鋭利な嘴と鉤爪は象すら瞬殺する。
人間による基準では、グリフォンの討伐目安は最低でもA級冒険者であること。
流石の勇者であっても、この数を捌ききることは容易でない。
「抱擁せし者――」
迫るグリフォンを前に、レトロは呪文を唱えた。
剣を握る左手の指輪が強く発光し、それは空も大地も等しく照らした。
光の魔法はまるで棘の様に細く走り、グリフォンたちを串刺しにして肉塊へと変える。
効果範囲は五キロメートルにも及び、光を通す魔法防御では防ぐことのできない絶対致死の魔法。
だが、リデューシャは光が届くよりも早く行動した。
彼女は魔法陣や魔法具といった型を要さず、自在に魔力の形を操作することができる。
それは他人の魔力……それも、既に魔法と成った物も対象となる。
水が光を屈折するイメージ――それ脳に定着させ、魔力操作の補助とした。
光の棘はねじ曲がり、すんでの所で牧緒たちには到達しなかった。
「まさか相反魔法も無しに防がれるとは……驚いたな」
レトロは、この魔法を真正面から防ぐ方法は相反魔法しかないと考えていた。
光の魔法の相反は闇。だが広範囲の闇の魔法は、使用者本人の視界を遮ることとなる。
その隙をついて距離を詰めるのがレトロの思惑であった。
リデューシャはそれを見越して、敢えて難易度の高い方法で防御したのだ。
レトロは先の光の魔法でグリフォンが全滅したと思い込んでいる。
故に生まれる隙。
死して尚、グリフォンたちは穴だらけの翼を広げて、まるで落ち葉の様に左右に振れながらゆっくりと落下していく。
「凝聚せよ」
リデューシャが呟くと、グリフォンの死骸は引っ張られるようにレトロに向かって集約した。
肉塊はレトロを押しつぶそうとする。
「っ……! これは……」
それはただのグリフォンではない。
リデューシャの手によって改造された新たな種。
群れでありながら、合体することで一個体として存在し得る。
その性質は死骸であっても変わらない。
磁石の様に引き寄せ合い、細胞は結合して新たなグリフォンとして生まれ変わろうとしていた。
そしてそれは、時に不純物すらも取り込んで己の肉とする。
レトロはその細胞の一部となるだろう。
「どうだ、マキオ。なかなかに壮観であっただろう?」
リデューシャは、呆然とする牧緒に笑顔を向けた。
まるで牧緒に楽しんで貰うために戦っているかのような口ぶりだ。
「あ、あぁ、凄かった……勇者は死んだのか?」
「うむ、凝聚を始めたグリフォンの再生速度は早い。斬ろうが焼こうが抜け出すことはできまい」
その通りだった。だからこそ、レトロは斬りもせず焼きもせず、別の手段を取ることにした。
「召喚獣――グーラ・スライム」
肉に包まれたレトロの右手に黒い玉が出現し、瞬く間に内側から巨大化してグリフォンを包み込んだ。
それは、体内に無限の質量を飲み込み圧縮するブラックホールの如き魔物。
暫くの静寂の後、レトロはその黒い玉から平然と抜け出した。
次の瞬間には、グーラ・スライムは体を縮小し、包み込んだグリフォンごと亜空間に消える。
「仕方がない。王道が通用しないのならば、邪道を持って仇をなそう……!」
リデューシャの言葉を聞いて、牧緒はこの先に待つ景色を想像した。
これ以上戦闘が激化すれば、バルバラの飛行に支障をきたす可能性がある。
そうならなかったとしても、牧緒自身が耐えられる保証はない。
このまま互角の状況が続いたとすれば、逃亡先に勇者が付いて来ることになる。
それだけは避けねばならない。
「待ってくれ、リデューシャ」
「何故だ?」
牧緒は追撃の手を止めに入るが、リデューシャは構えを解かない。
「勇者は本気を出している様に見えるか?」
「まだ余興だ……互いに真価は見せていない」
「勇者が力を温存しているのは、想定外の状況を危惧してるからだと思う」
「いいや、焦らして楽しんでいるだけさ」
リデューシャは牧緒の言葉を跳ね返す様に言う。手を止める気はなさそうだ。
だが、牧緒も後には引けない。勇者を圧倒できないのであれば、確実に逃げ切れる手段を選ぶ。
「頼む、俺に任せてくれ……!」
牧緒はリデューシャの前に立ちはだかり、手を握る。
魔女が聞き及ぶ噂通りの人間ならば、牧緒は殺されて魔女は好きなように振る舞うだろう。
しかし、リデューシャは素直に手を引き、「分かった」とだけ言った。
「ありがとう! ……バルバラ、俺がここから離れたら速度を落として一定の距離を保ってくれ!」
「離れる? どういうことだ?」
バルバラには牧緒が何をしようとしているのか分からない。
だがどんな答えが返って来たとしても、脱獄を実現させた男の言葉に従う所存であった。
「これから、勇者にとっての想定外ってやつを引き起こす!」
そう言うと、牧緒はユレナの両肩を掴んで向き合う。
「おい貴様、何をしている……!」
オルガノが牧緒を引き剥がそうとするが、リデューシャがそれを視線だけで牽制した。
「ユレナ……、俺の名前は山田 太郎だ」
「へ?」
ユレナは状況を理解できずにいた。だが、理解する時間は与えられない。
彼女は一度気を失い、目を覚ます――。
「……何をしたっ!」
オルガノはユレナの姿を見て、驚愕して怒りに満ちる。
目を覚ましたユレナの頭部には、二本の禍々しい角。尾てい骨の辺りからは蛇の様な尾が生えている。
両手は鎧の様な黒い鱗に覆われ、鋭い爪の先が光る。
「臭う、臭うぞ。薄汚い勇者の血が……!」
魔王、ロキアズルが覚醒した。