02.イピスとイアンテ -上-
オウィディウスの変身物語の一つに、イピスとイアンテの話がある。これは女として生まれたイピスが男として育てられ、イアンテと恋に落ち、そしてイピスの男体化を経て結ばれるまでの話である。
中世の百合で触れたイダとオリーヴの大本となるこのテキストは古代ローマと中世ヨーロッパとの倫理や文化の違いを示しているが、同性との愛に思い悩んで長々と独白する点では一致している。
昔々、クノッソス(※クレタ島にある町)からほど遠くないフェストスという土地に、リグダスという男がひっそりと暮らしていた。彼は名の知られていない人物で、貧しい家柄であり、そしてその暮らしも質素だった。しかし彼は実直で、その生き様も非の打ちどころが無かった。
彼の妻に出産の日が近づいていたとき、
「私は二つのことについて誓いを立てている。お前の陣痛の痛みをできる限り和らげることと、生まれる子供が男の子になることだ。女の子に生まれればその宿命は困難で、運命の女神は力を与えてはくれない」
「故に望まぬことではあるのだが、女の子が生まれたのなら殺されますように」
と、彼は妻の耳元で教え聞かせた。
来る日も来る日も彼はその恐ろしい文句を言い続けていた。そんな彼らの顔は涙に濡れていた。妻のテレテューサは、彼に希望を抱かないようにと絶え間なく無益な懇願をしていた。しかしリグダスは頑なだった。
胎児が成熟した重みを持つようになった頃、真夜中の闇の中で、テレテューサは寝台の傍にイーナキス神(※イシス神)が神聖な行列を連れて立っている幻想を見たような気がした。イーナキスの額には三日月のような角があり、黄金色に輝く麦穂と共に王家の威容を示していた。その傍には吠える者アヌビス、神聖なバステト、様々な色を持つアピス、そして指で声を抑えて沈黙を促す神が控える。神聖な楽器シストラムsistrumがあり、満ち足りたオシリス神と、眠りを齎す毒を持つ異国の蛇がいる。
そして彼女が眠りから目を覚ますと、女神はこう告げた。
「テレテューサ、我の崇拝者よ。汝の夫を欺いて重い悩みを取り除くのです。そして疑いなく、出産神ルキナは出産に関する何もかもを取り除いてあなたを解放する。我は助けを与える女神であり、懇願を受けて援助を齎す。崇拝者である汝が、我を恩知らずの神だと嘆く必要はありません」
と、忠告を与えて寝室から去った。
彼女は幸せを抱いて起き上がり、クレタ島の星々に向かって清らかな手を伸ばして、彼女の空想が実現するように祈った。
暫く後、彼女は痛みが増すと、その重みを空中に追い出した(※子供が生まれた)が、娘の父親は何も知らなかった。彼女は他の母親の男の子を偽るように命じた。そしてこの事実を知っている乳母でなければ、偽りはないと信じられていた。
父親は誓いを果たし、祖父の名前イピスIphisを与えた。母親はその名前が男女共通の名前であり、それによって誰をも欺くことが出来るだろうことに喜んだ。
それから始まった献身には、欺瞞が偽りによって隠れ潜んでいた。彼女は少年の装いをしていて、顔立ちは少年とも少女ともいえるが、どちらにしても美しかった。
彼女が生まれてから13年の年月が過ぎたとき、父親はイピスを金髪のイアンテIantheと婚約させた。イアンテはテレステスの娘であり、フェストス(※クレタ島の町)の中で最も美しい容姿を持っていた。同じ年齢、同じような美しさを持つ彼女たちは、同じ歳の頃から同じ教師に師事し、同じ教育を受けていた。
されど信頼は不均衡だった。イアンテは夫になるであろう彼を信じて、約束された結婚と結婚式の日を待ち望んでいた。他方、イピスは彼女を愛し、しかし喜びを引き出すことが出来ないことに絶望し、そして乙女の中で燃え上がる炎を増大させていた。
イピスは涙を堪えながら、言った。
「私の末路には何が待ち受けているのでしょう?」
そしてまた言う。
「誰にも知られていないとはいえ、愛とはなんて驚異的で奇妙な出来事なのだろう。もし神々が私を許すことを望んでいたのなら、私を許すべきだった。もし破滅させることを望むのならば、少なくとも自然な災厄を慣習的に与えるべきだった。牝牛は牝牛を愛することは無く、牝馬は牝馬を愛することは無い。牡羊は牝羊に情熱を抱き、牡鹿には牝鹿が従う。そのようにして鳥たちも連れ立つが、あらゆる動物たちの中で雌の欲望に引き寄せられる雌は一切いない」
「──私なんていなければ良かった!」