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暗流 ~アンダーカレント~

作者: 花隈モンド


冬が訪れても、難波の街の体感温度は下がることがない。

アーケードに覆われた難波センター街は、行き場を求めて彷徨う若者と観光客でごった返し、熱気と騒音が充満していた。飲食店やカラオケボックスはどこも満員らしく、通りにまで行列ができている。ゲームセンターやレンタルDVD店にも人があふれ、原色のネオンで彩られたパチンコ屋は通行人の足を止めようと耳障りな軽音楽を街路に垂れ流している。

人波に流されるままにアーケード街から一歩はずれると、なんばグランド花月が見える。劇場前の広場には学生風の若者がたむろしている。

劇場の裏手――塗装の剥げた「サウスロード千日前」のゲートをくぐると、がらりと街の雰囲気が変わる。シャッターのおりた家具屋、寂れたスナックにラブホテルが密集しており、人通りも少ない。

路地を木枯らしが吹き抜けた。

美樹本(みきもと)リョウは立ちどまった。コーチジャケットのポケットに手を突っこみ、たばこを取り出した。ひと目でホープとわかる短い太巻きを一本くわえ、ダンヒルのライターで火を点ける。金属音が鳴り響き、夜気を切り裂いた。濃い煙がただよう。

リョウの前を、白髪頭の痩せぎすが歩いている。彼は軽く後ろをふりかえり、リョウの足元を盗み見た。視線の先にはコードヴァンの革靴が光沢を放っている。

白髪は舌打ちをした。「二十三歳で、ダンヒルにオールデンかい……キザなやっちゃ」

「そっちは、もっと身なりを気にしたほうがいいぜ」とリョウは言葉を返す。

白髪は色褪せたジャンパー姿で、安物のビジネスシューズを履いている。

「余計なお世話や。若造の分際で……」

「本当にこんなところに、例の店があるのか?」

「この先や」

さらに奥へ進む。スプレーの落書きが目立つマンションが建ち並んでいる。街灯が少なく、明かりを発しているのは自販機くらいのものだ。

とある雑居ビルの前まで来ると、駐車場に停められた黒塗りのベンツから、顔見知りの戸崎(とざき)(まさ)(たか)がおりてきた。

この男は、百七十八センチのリョウが目線を上げるほどの上背があり、肩幅も広い。年は四十五、六のはず――。豊かな漆黒の髪はオールバックに撫でつけられ、トム・フォードのスーツを着こみ、靴はグレーのスーツと同色のジョン・ロブだ。

 戸崎はリョウに気づくと、口の端を曲げた。

 リョウはくわえていたホープを地面に落とし、靴底で踏みにじった。

「奇遇だな、戸崎さん」

リョウがいうと、戸崎は険しい表情を一瞬浮かべたが、嘆息まじりに顔をそむけた。

「……こっちだ」戸崎は掠れた声で一言いうと、ビルに入った。

「あんた、もう帰っていいよ」リョウは、背後にいる白髪を手で追い払おうとした。

「……何いうてんねん。わしも遊びに来たんや」

三人はエレベーターに乗って、最上階の五階に上がった。鉄製のドアの前に立つ。戸崎がベルを鳴らす。音がフロアまで響くこともなく、無音だった。ドアの斜め上には監視カメラのレンズが光っており、まるで意志を持っているかのようにリョウと白髪を凝視した。

ベルの横には表札の代わりに、一枚の白黒写真が鋲で打ちつけられていた。ロングドレスを着た女性が、湖の水面下を漂っている――幻想的なショットだった。

リョウが写真を見て、口を開いた。「店の名前は《アンダーカレント》かい?」

戸崎が、リョウのほうに少し顔を傾けた。「……よくわかったな」

「ビル・エヴァンス&ジム・ホールのアルバムジャケットにそっくりだ」

「おまえもジャズは好きだったな」

白髪は会話に入れず、後ろから二人を見比べるばかりだった。

戸崎が遠い目をすると同時にロックが解除され、鉄製のドアが重々しく開いた。出迎えたボーイが頭を下げ、三人を招じ入れる。

「あんたの店か?」リョウは新しいホープをくわえながら、戸崎に訊く。

「そういうことらしいな」

四十坪ほどの薄暗い店内には、バカラ台が三台置かれていた。

それぞれの台には、白無地のワイシャツに黒ベスト、黒の蝶ネクタイという服装の男性ディーラーが配されている。ディーラーの立つ位置から、バカラ台は扇状にひろがっている。その半円に沿うようにして等間隔に置かれたスツールに、客たちは腰を落ちつけている。

すべての台は、満席に近かった。客数は四十人程度だ。

彼らは手もとに積んだチップの山から、幾枚かを前に押し出す。そして、めくられるカードに目を釘づけにする。バカラの一勝負は早い。またたく間に、皆の前に積まれたチップが移動する。ディーラーに没収されるか、倍になって返される。

壁には「ミニマム50ドル」と書かれた紙が貼られている。

「賭け(ベット)の下限が五千円か」

「なんなら帰ってもいいぞ」

リョウは店内を見廻した。

「カジノらしくないもんが置いてあるな」

リョウが顎をしゃくった先には、スポットライトに照らされた一台のグランドピアノがあった。

ピアノの前には、袖の長いシルク製のロングドレスに身を包んだ、写真の女性が座っていた。彼女は両手を鍵盤の上に置く。顔を俯かせながらワルツを奏でた。インテンポに入ると、淀みない音運びで軽快な四拍子に変わった。ジャズ特有の転調だった。

「へえ、ジャズピアノの生演奏か。洒落てんじゃん」

「ゆっくりしていくといい」

戸崎はそういい残すと、客で賑わうバカラ台を廻ってバックヤードへと消えた。

白髪はすでにバカラ台の前に座って、ゲームに興じていた。

リョウはバーカウンターに寄りかかり、ピアノの演奏に聴き入った。ホープを一本、灰にすると、バカラ台へと移動した。空席に腰を落ちつけた。クラッチバッグから帯封の札束をひとつ取り出して、テーブルの上を滑らせる。ディーラーが金を受け取り、百万円分のチップに替えた。

リョウの右隣には白髪が座っており、紙に鉛筆で文字を書いている。

「風向きはどうだい」

リョウが声をかけると、彼は顔を上げた。

「……バンカー続きやな」

白髪がメモをリョウに見せた。それは出目表だった。序盤は「P」の文字と「B」の文字がほとんど交互に出ているが、直近の五ゲームは「P」だけが連続して並んでいる。

「ツラ目か」リョウは出目表を返した。

白髪は面倒くさそうに数枚のチップを、テーブル上の〈PLAYER(プレイヤー)〉と書かれたエリアに置いた。他の客の多くも〈PLAYER〉にチップを積む。そろそろ目が変わるころだろうと〈BANKER(バンカー)〉に賭ける者も少なくはない。

プレイヤーサイドとバンカーサイド、それぞれに配られるカードのどちらが強いか、ただそれだけを予想して賭けるゲームがバカラである。シンプルゆえに、ギャンブルの最高峰ともいわれる種目だ。

リョウはピアノの旋律に耳を傾けながら、指でリズムを取った。チップを賭けようとはしない。

ディーラーが前に手を出して、皆にベット終了の合図をした。そして手もとのシューターからカードを引き抜いてきて、〈PLAYER〉と〈BANKER〉に二枚ずつ伏せた。

各サイドで最高額を賭けた客には、伏せたカードを自分の手で開く権利が与えられる。

まずはプレイヤーサイドにもっとも高額を賭けた厚化粧の中年女性がカードをめくる。一枚目は絵札でノーカウント。二枚目が7だった。合計数は七。女は不満そうに唇を尖らせて、カードをテーブルの中央に投げた。

次はバンカーサイドに最高額をベットしたチンピラ風の男がカードをめくる。一枚目が3。二枚目も3だった。合計数は六。チンピラは舌打ちをして、二枚のカードを折り曲げ、テーブルに叩きつけた。

客たちはどよめいた。喜ぶ客もいれば、落胆する客もいる。ディーラーが即座にチップの移動をして、使い終わったカードも回収する。バカラでは一度使ったカードは二度と使われることはなく、破棄される。

「またプレイヤーの勝ちや」白髪は勝って倍になったチップを手繰り寄せながら、リョウに向かって歯ぐきを見せた。「どないした、にいちゃん。せっかく案内したったのに、賭けへんのか?」

リョウは黙ってホープをくわえ、火を点けた。

次も、その次もプレイヤーの勝ちだった。別の台にいた客たちも立ち上がり、リョウのいるバカラ台のゲームを観戦しはじめた。プレイヤーのツラ目がいつまでつづくのか、興味をそそられている。

店内に一瞬、静寂が訪れた。ピアノの演奏が曲を終えたのだ。

客の全員がプレイヤーにチップを積んだのはそのときだった。もはや笑いながら、行くところまで行け……と投げやりに口走っている者までいる。

ディーラーが客のベットを打ち切るために、右手を振りかけた。

店内に再びピアノの旋律が流れ出した。タッチは精確だが、どこか厭世的なメロディーだった。

リョウの右手が素早く動いた。

「……ベットですか?」ディーラーが訊く。

リョウは含み笑いを返し、手もとのチップをすべて、バンカーに置いた。

「正気か。百万やぞ」白髪が驚いた。「それもバンカーに……」

リョウ一人だけがバンカーに賭けていた。

裏向きにカードが二枚ずつ配られる。

プレイヤーサイドに最高額を賭けた禿頭がカードを手もとに引き寄せて、端からめくっていった。一枚目は3、二枚目は5だった。合計数は八――皆がざわついた。

リョウはホープを灰皿に押し潰し、寄越されたカードに手を触れた。一枚目を開く。

周囲から失笑が漏れた。ハートのクイーンが嘲笑っていたのだ。絵札は点数にならない。

リョウの表情は変わらなかった。二枚目のカードに手をかける。両手を使って、端から縦方向にカードを開いていく。

スペードのマークが二つ、顔を出した。リョウの背後で観戦する人々も、前かがみになってカードを覗きこんでいる。

さらにカードを奥までめくる。二列に並んだスペードマークが、計四つ。

一気に中央まで開いた。リョウのカードを覗きこんでいた者たちが、ジェットコースターにでも乗っているかのような雄叫びを上げた。

列と列のあいだに、スペードのマークが鎮座していたのだ。

リョウがカードをテーブルの真ん中に投げる。それが9だとわかると、その場にいる全員が歓声を上げた。

プレイヤーに賭けられたチップは、すべてディーラーに没収された。ただ一人、バンカーに賭けていたリョウには、コミッションを引かれた約二倍の配当がつけられた。周りから拍手が起こった。

「運のいいやっちゃ……」白髪はどよめきを遮るように、押し殺した声を出した。「なんでバンカーが勝つと思ってん」

リョウは人差し指を上に向けた。「天からのお告げを聞いてね」

「……天も落ちてくることがあるぞ」

観戦者たちは自分が勝ったわけでもないのに談笑しながら、自分たちの座っていた席に戻った。

リョウは二百万近いチップをディーラーに預けて、席を立った。

「どこ行くねん。一回勝ったら、ヤメるんかい」

リョウはコーチジャケットのポケットに手を突っ込み、バカラ台のあいだを軽い足どりですり抜けた。店の隅でピアノを弾く女の後ろに立つ。彼女は弾き終わったところだった。楽譜はない。すべてアドリブで演奏しているのだ。

客は皆、無関心だが、リョウだけは拍手をした。「いまのは、ヘンリー・マンシーニの曲だな」

女はゆっくりと振り向いた。ライトに照らされた長い髪がなびく。柑橘系の香りがひろがった。

「詳しいのね」

澄んだ声がそう答えた。上からスポットライトが当てられているものの、彼女の顔のほとんどは影になっている。

「おれの一番好きな曲だからな」

女はフッと笑っただけで、ピアノに向き直った。

「さっきは騒々しくさせてわるかった」

「私の演奏よりも、あなたのクールなプレイに惹かれたみたいね」

「あいつらには、きみの価値がわかってないんだ」リョウは彼女の前に廻りこみ、側板に手をついた。「なぜこんなところで弾いている? プロでも通用するレベルだ」

「ここでしか弾けないのよ」

「どういう意味?」

女は顔を上げた。影に包まれていた顔が天井のライトに照らされて露わになった。目鼻立ちの整った顔は、能面のように無表情だ。しかし、切れ長の瞳には幽かに動揺の色が浮かんでいる。

リョウはホープの箱を取り出して、一本を差し出した。

女は目を伏せた。ふたたび横顔が陰影を深める。差し出されたホープに、細く長い指で触れようとした。流行りのネイルアートなどもない、綺麗に切り揃えられた爪だった。

「……なぎさ! 今日はそろそろ上がれ」

戸崎の声だ。バックヤードのカーテンから顔を出した。

「はい」

なぎさと呼ばれた女は鍵盤蓋を閉め、立ち上がった。すらりとして背が高い。彼女はヒールを鳴らしながら、カーテンの奥へ吸いこまれるようにして消えた。リョウは戸崎と目が合ったが、視線を遮断するようにカーテンは閉じられた。

リョウは、箱から飛び出て行き場をなくしたホープを口にくわえ、火を点けた。天井のライトに向かって煙を吐き出す。紫煙が光の中を渦巻いてただよい、やがて影に溶けた。

バカラ台の客たちはピアノの伴奏がなくなったことにも気づかない。大声を上げながら目の前のゲームに熱狂していた。

白髪の男だけが親指の爪を咬みながら貧乏ゆすりをしている。何かに取り憑かれたような目は、バカラ台の上ではなく、戸崎となぎさが消えたバックヤードの揺れるカーテンに向けられていた。


   2


翌晩もリョウは《アンダーカレント》へと足を運んだ。来店が二度目ともなると、付き添いは要らない。ベルを押す。鉄製のドアが開かれ、戸崎が出迎えた。

「ここを気に入ってくれたようだな」

唇には薄笑いを浮かべているが、目は笑っていない。

「今夜も流行ってるな」とリョウは店内を見渡す。

客は三十人ほどで盛況だった。リョウの鋭い視線は、熱狂に包まれるバカラ台ではなく、店の隅へと注がれた。昨晩とちがってスポットライトは灯っておらず、グランドピアノは暗闇の中で存在感を消している。

「ピアノの演奏がないと盛り上がらねえな」リョウがホープをくわえながらいった。

戸崎が強い目力でリョウを睨みつけた。「だったらジャズバーにでも行けよ」

リョウはひるむ様子もない。ホープに火を点ける。「あのピアニストはどこに行ったんだい?」

「適当な女を引っかけたいなら、道頓堀という手もあるな」

戸崎は吐き捨てると、裏に引っこんだ。

リョウも手近の灰皿にホープを揉み消し、歩き出した。向かった先はバカラ台ではなく、無人のピアノだった。鍵盤の前に座る。バカラをプレイしている客たちは、リョウに目もくれない。

一人、スツールからおりて、リョウに近づく者がいた。あの白髪男だった。闇の中で白髪はジッポーを取り出し、火を灯した。

「……にいちゃんは、戸崎とはどういう関係なんや?」

 青白く燃える炎を挟んで、白髪は小声でいった。

「何度か賭場ですれ違った程度の仲さ」リョウは無表情で答えた。

「そんなもんかい」

リョウは鍵盤蓋を開ける。自動で真上のスポットライトが点灯し、リョウの手もとを明るく照らした。

ピアノを弾きはじめた。ギャンブラーにしては繊細な指先が、鍵盤に軽くタッチし、なめらかな音色を紡ぎ出す。

「……ピアノも弾けるんかいな」白髪がジッポーの火を吹き消し、つまらなさそうにいった。「どっかで聴いたことのある曲やな」

「『Days Of Wine And Roses』だ。あの子が弾いていただろう」

「……にいちゃん、代わりのピアニストってわけじゃないやろ」

 リョウは笑った。「あの子の代役は務まらねえよ。セミプロで辞めちゃった程度の男だよ、おれは」

リョウの背後で来客の気配があった。足音が迫る。リョウはピアノを弾きながら、顔だけでふりかえった。男は立ち止まったが、視線はぶつかった。

顎髭を生やし、チェスターコートを羽織った中肉中背の男だった。歳は三十歳前後。彼は口を開けて何かいいかけたが、言葉は出てこなかった。憮然とした顔つきで店内のあちこちに視線をさまよわせる。

「ちょっと、時間ええか――」

白髪がチェスターに向かっていった。真正面から彼の腕を掴む。

「なんやねん、ジジイ。放せや」

チェスターが手を振りほどこうとする。だが、びくともしなかった。痩せぎすで六十歳近くに見える白髪だが、腕力は相当なものらしかった。

リョウは鍵盤を両手で叩きつけ、乱暴に演奏を中断した。立ち上がる。二人のあいだに割って入ろうとした。

そのとき、バックヤードのカーテンがいきなりめくり上がった。戸崎が出てきた。眉の根を寄せて、咬みつきそうな顔つきになっている。チェスターに歩み寄ると、白髪とリョウを分厚い手のひらで押しのけた。

「おれの客だ」

戸崎はチェスターの背中を手で押して、二人して店を出ていった。

一瞬の出来事だった。

「なんだい、いまのは?」リョウは口を開いた。

白髪は何も答えず、足早に玄関口に向かい、《アンダーカレント》を出た。

彼はエレベーターに乗りこんだ。ドアが閉まろうとする。

そのドアの隙間に、リョウがコードヴァンの右足を突っこんだ。「おれも乗せてくれよ」

二人を乗せたエレベーターが下降する。

「あの店、何かワケありなのかい?」

「……外に出てからのほうがええやろ」

白髪はエレベーターに取りつけられたカメラのレンズを一瞥した。音声を拾っている可能性もある。

ビルを出た。駐車場から戸崎のベンツは消えていた。

 午後九時をすぎている。ひと気のない暗い通りを、二人は速い足取りで歩いた。アーケード街が近づいてくる。深夜にもかかわらず、劇場近くでは漫才をしている者や、ギターで弾き語りをしている者、それらを観ている者で賑わっていた。この界隈だけは、リョウの知らない時代を引きずっていた。

白髪は歩調をゆるめて、リョウの後ろを歩きはじめた。

「あのピアニストの居場所は知ってるか?」リョウは前を向きながら訊ねた。

「ああ……茶屋町の戸崎の家におる」

「ずいぶん若い愛人だな」

「いや、あの子は戸崎の娘なんや」

「ということは、フルネームは――」

「戸崎なぎさっていうねん。美樹本みどりとかいう内縁の妻に生ませた子どもなんや」

 リョウは立ちどまった。

白髪がリョウの背中に顔をぶつけた。「い、痛ったァ……なんや、急に止まりよって」

リョウはホープを取り出して、くわえた。ダンヒルを擦り、火を点ける。天を見上げて、ふかした。煙は冷たい風に乗って流される。リョウは醒めた目で、煙の消えゆくさまを眺めた。

「他には?」リョウは尚も質問をつづける。

「……歳は二十一。ちょっと前まで、プロのジャズピアニストとして活動しとった」

「道理でな」

「それがや、所属してたレーベルをクビになったんや」

「実力不足ってわけでもなさそうだな」

「二年前に、麻薬使用による女子音大生死亡事件を起こした。麻薬使用と保護責任者遺棄の罪で二年間、刑務所に入れられた」

「麻薬?」

「エクスタシーや。若いモンに人気らしい。大阪のアメ村でたまたま手に入れたのを、その死んだ同級生の友だちと二人で試したらしいねん」

リョウは眉間に縦皺を寄せた。

「出所後は、《アンダーカレント》でピアノを弾く仕事をするようになった。もうあの子は、親父のやってる店くらいでしかピアノが弾けへんねん」

リョウはもう一口ホープを吸いこみ、白髪を見下ろした。「あんた、刑事だろ」

煙まじりに吐かれた言葉に、白髪は目を丸くした。

「あの店を挙げない理由は?」

彼は諦めたようにため息をついた。「……なんでか知らんが、府政に守られとる。戸崎は、松田と仲がええんやろ」

「大阪府知事か?」

「先月、再選したとこや。新聞くらい読んだほうがええで」

「あんた――」

村井(むらい)や」

「村井刑事さんよ。だったらなぜ、あそこに張りこむ必要がある?」

「……先月、戸崎の内縁の妻が自殺してるのが見つかった。山道で車を停めて、排気ガスを引きこんどったんやが、睡眠薬を大量に飲んどったんや。警察は自殺として処理したが、わしは他殺と睨んでる。あそこにおるんは、何か手がかりがないかと思ってな……」

リョウはポケットからスマートフォンを取り出した。「これかい」

スマホの液晶画面を村井に見せた。そこに映し出されたのは、WEBのニュース記事をスクリーンショットで撮って保存された画像だった。

『……10日午後、大阪府千早赤阪村の金剛山で、路上に駐車していた車の中で女性が死亡しているのが見つかった。大阪府警富田林署が身元確認を進めた結果、死亡した女性は大阪市西区の無職・美樹本みどりさん(44)だったことが12日、分かった。車内にはビニールパイプで排気ガスを引き込んだ形跡があり、同署は自殺とみて経緯を調べている……』

リョウはスマホの画面をオフにし、ポケットに突っこんだ。村井はおあずけを喰らったように口をあんぐりと開けた。

「おれだってニュースくらいは読むんだぜ」

「……なんでこんな写真を大事に持っとんねん」

「おれの名前は美樹本リョウというんだ」

「美樹本? まさか美樹本みどりは……母親か?」

 リョウはフィルターを焦がしはじめたホープを地面に落とし、踏みつけた。「戸崎がどこに行ったかわかるか?」


   3


サウスロード千日前にあるコインパーキングに停められていたのは、車体に傷の目立つ、年季の入ったファミリアだった。村井は運転席に座り、ハンドルを握った。リョウは後部座席に滑りこんだ。車内は埃臭く、床にはパンやフライドチキンの衣といった食べカスまで落ちている。

「なんで後ろに座るねん」

「おれは相棒じゃねえからな。ボロの公用車じゃ、なおさらだ」

村井はフンと鼻を鳴らし、発進した。そのショックで、座席のシートが悲しげに軋む音を立てた。

「刑事って普通、二人一組だろ」

「……うっさい」

「ぼっちなんだな」

窓外の道頓堀周辺では、色彩豊かな看板が忙しなく点滅している。リョウは頬杖をつき、けばけばしい夜景を興味もなさそうに眺めた。

「アメ村の地下賭場に向かったはずや。戸崎が一部出資して出店したところなんや」

「チェスターコートの男と一緒か?」

「さっきはいわんかったけど、あれは府知事のドラ息子なんや。松田(まつだ)宗一(そういち)っていうねん。なんでか知らんけど、戸崎は宗一を《アンダーカレント》では遊ばせへん。いつも違う店に連れていく」

バックミラー越しに村井が、リョウに視線を送る。

「それはそうと、にいちゃんはどうやってあの店を知ったんや」

「美樹本みどりの死亡のニュースを見て、一週間前、大阪に来た。関西の賭場を歩き廻ってるうちに、戸崎の賭場にぶつかったのさ」

「……股旅のばくち打ちってわけか」

「いいかたが古臭いんだよ」

ファミリアが向かった先は、若者文化発信の街として知られるアメリカ村だった。難波から車で五分ほどの距離だった。午後十時を廻っているが、建ち並ぶ古着屋や飲食店の中にはシャッターを開けている店も多く、奇抜なファッションを着こなした若者たちの行き来は絶えない。

アメ村の中をうねるように這っている道路を、ファミリアは徐行で進む。無軌道な若者がいつ車道に飛び出してくるかわからない。

「うわ、危なっ!」

村井がクラクションを鳴らした。ハイティーンの女子たちが黄色い声を上げながら、道を横切った。

「村井さん、中指立てられてるぜ」

「これやから今どきの若いモンは……こっちが人殺しになってもうたらシャレならへんで」

人殺しという言葉を聞き、リョウの顔つきはまた引き締まった。

「わしのことを呼ぶときは、ムラさんでええ」

「おれはリョウでいいよ」

車はアメ村内のパーキングエリアに停められた。爬虫類カフェやタイ古式マッサージ店などが入っている七階建ての雑居ビルに入り、狭いエレベーターに乗る。店名表示がなく、一見デッドスペースとなっている七階が、賭場だった。会員の村井、彼の紹介という形でリョウも店に入った。

《アンダーカレント》の倍はある広さだった。バカラ台だけでなく、ルーレット台やスロットマシーンも置いてあって騒がしい。客は五十人ほどの入りだ。種々雑多な客種は《アンダーカレント》と変わらないが、天井で眩しいほどに輝く廻転式ミラーボールと、露出度の高いバニーガールが、店の品性を著しく下げていた。スピーカーからは、腹の底に響くほどのダンスミュージックまで流れている。

戸崎と宗一を見つけた。バカラ台の前に並んで座っている。戸崎はあきらかにリョウを意識しているが、目を合わさない。

「どうするつもりや、リョウ……」

「賭場に来たら、やることはひとつだ」

リョウは二人とは少し離れた席についた。バカラ台の上に、百万の札束を投げる。ディーラーが即座にチップを置いた。

戸崎がプレイヤーサイドに三十万円分のチップを賭けており、最高額ベットだった。リョウはプレイヤーサイドに五十万のチップを置いた。

戸崎は両手をテーブル上に組み、リョウに配られるカードを見つめた。

リョウが開けたカードは、8とAのナチュラルナインだった。リョウも戸崎も、賭けていたチップが倍になって返された。

次も、リョウは戸崎の賭け金より多くの金額をベットして、カードをめくる権利を渡さなかった。バカラの醍醐味は各サイドで最高額を賭けて、カードをめくることにあるといっていい。リョウの行為は、戸崎をぴったりとマークし、煽り運転をして挑発しているようなものだった。

「戸崎さん……なんやねん、こいつ」

宗一がささやく。戸崎は黙殺した。声が耳に届いていないようだった。瞬きもせずにディーラーの手もとを注視している。視界の端で、リョウの次の手をうかがっているようでもあった。

プレイヤーのツラ目が続いていた。

戸崎は何喰わぬ顔で二百万円分のチップを動かした。置いた場所は、これまでとは一転してバンカーサイドだ。

リョウの目は、喰い入るように戸崎のベットしたチップに注がれた。煽り運転を続けていたが、ついに戸崎が挑発に乗ったように思われた。ベットの金額も桁が違う。

周りの客は固唾を飲んで二人の闘いを観ていた。

普段のリョウならばギャンブルにおいて、次の一手に逡巡することはない。即断即決だ。しかし、このときのリョウは手が止まった。一気に戸崎を追い抜くチャンスだった。ミスは許されない。

三百万ほどのチップをプレイヤーに置いた。リョウは、プレイヤーのツラ目が続く、と判断したのだ。

「ノーモアベット……」とディーラーが右手を場にかざした。

大金が動いている。ディーラーも緊張した面持ちでシューターからカードを抜いた。

リョウは、伏せて配られた二枚のカードに手をかけた。一枚目は絵札で顔をしかめたが、二枚目は8だった。

「ナチュラルエイトだ」とリョウはカードをテーブルに弾いた。

BGMにも負けぬほどの歓声が周囲から上がる中で、リョウはそっと息をついた。

戸崎は口の端を曲げた。リョウの合計数が八であったことに、むしろ勝機を見出したような表情だった。リョウはその顔を見て、怖気をふるった。

戸崎のめくった一枚目のカードは5。二枚目のカードをめくる戸崎の指先に力がこもっている。

二枚目は4だった。合計数は九。ナチュラルナインだ。

人々からは歓声よりも、ため息が漏れた。リョウの賭けていたチップは没収される。

それからの数ゲーム、リョウはいいところなく負けつづけた。戸崎はリョウの逆目を賭けて、勝ち金を積んでいった。

戸崎がディーラーにチップを預けて、席を立った。リョウも弾かれたように立ち上がる。戸崎が向かった先は、店内の通路の奥にある「STAFF ONLY」のドアだった。

「逃げるのか、戸崎」

「おまえにしては珍しくアツくなってるな」

しかし、戸崎の額にも玉の汗が浮かんでいた。

 リョウは一歩前に詰め寄った。「おれは金沢で生まれて、両親に捨てられた。施設に入れられたが、私生児のおれを育ててくれたのは、北陸の賭場にいる大人たちだった」

戸崎は背を向けて、ドアノブに手をかけた。

リョウは彼の背中に声を浴びせる。「おれのおふくろ――美樹本みどりは、おれを捨てて、また新しくロクでもない男をつくって、どこかへ逃げた。ガキのころから、周りにはそう聞かされていた。おふくろと逃げた男っては、あんたなんだろ?」

戸崎は無言のまま、ドアの向こうに消えた。リョウは拳を握りしめたが、バカラ台に戻った。

村井が心配そうな顔でリョウを迎える。「……出直すか、リョウ」

「いや、まだだ」

リョウは宗一に目を留めた。グラスの酒を飲みながら、一人で侘しくチップを賭けている。彼の隣のスツールに腰かけた。

「……なんやねん、戸崎のやつ……」宗一はぶつぶつと文句をいっている。

「あんたは《アンダーカレント》では遊ばないのか?」

リョウが訊くと、宗一は睨み返してきた。

「おれの勝手やろ」酒臭い息を吐いた。顔も赤くなっている。

「なぎさが目的か。それで戸崎に遠ざけられている……ちがうか?」

宗一は手の中でチップを弄んでいる。カチカチとチップが擦れる音がする。

「……アホくさ。実の親父におもちゃにされとるような女なんか、興味ないわ」

「……? どういうことだ」

宗一は自分の前腕を指差した。「右腕にな、タトゥーがある。それが親父のイニシャルなんや。イカれた変態親父にな、入れられとんねん」

「本当なのか?」

リョウがにじり寄ると、宗一は唇を震わせた。余計なことを喋ったと感じたらしい。

「……おい! うっさいぞ、この客。誰の紹介やねん」

宗一が叫ぶと、ゲームに熱狂していた客たちも一斉にリョウを見た。皆、酔いから覚めたような目だった。

店の奥から男性スタッフが出てきた。蝶ネクタイを締めてはいるが、およそディーラーとは思えない屈強な男だ。

リョウは席を立ち、動じることもなく身構えた。

村井が駆け寄ってくる。「これ以上はあかん。そろそろ――」

村井の言葉が終わらぬうちに、蝶ネクタイから拳が飛んできた。

リョウは軀をかわした。打ちのめすはずの相手が俊敏な動きを見せたせいで、蝶ネクタイは前につんのめった。頬を震わせる。彼はふたたび固めた拳をふりあげた。

 リョウの右手が一閃した。サンドバッグを殴りつけるような鈍い音が響いた。蝶ネクタイの口から呻き声が漏れる。両手で腹を押さえ、前かがみになった。

 リョウは彼の肩を支えながら、耳もとでささやいた。

「おれは気が弱くってさ。勘弁してくれよ」

 蝶ネクタイの顔面が上気する。リョウが軀を放すと、彼は上体を前に折ったまま、床に膝をついた。店内は時間が止まったようだった。群衆にまぎれて、宗一は雲隠れしていた。

「邪魔したな」

リョウと村井はうなずきあい、店をあとにした。


   4


ファミリアは大阪のミナミからキタへ向かう。午前一時、梅田駅前の茶屋町に入った。モダンな雰囲気をまとった街は、深夜でも明るさを失っていない。アメ村同様、若者の姿は多い。彼らは奇をてらった服装ではなく、都会的なセンスの洗練された身なりをしていた。

車中でリョウはスマホを使い、戸崎なぎさについて調べた。村井の教えてくれた情報が、ネット上にも出廻っていた。

高校卒業と同時に国内の大手ジャズレーベルと契約した彼女は、アルバムを発表する前に女子音大生死亡事件を起こした。そのために、世に名前が知れ渡る前に、音楽生命を絶たれた。

しかし、関西では精力的にライブ活動をしていて、知る人ぞ知る存在だったらしい。なぎさがピアノを弾く様子を写した画像も出てきた。ステージ上ではノースリーブのワンピースを好んで着ていたようだが、露出した腕には、どこにもタトゥーは彫られていない。ましてや父親のイニシャルが刻まれているなんてことは――。

本当にタトゥーが彫られているとすれば、事件後に入れたのだ。いや、入れられた、というほうが正しいのか。

「見ろ。あのデッカイのが、戸崎となぎさの住処や」

村井の声に、リョウはスマホから目を上げた。

一棟のタワーマンションがそびえていた。

茶屋町には、一方通行の道路が縦横無尽にはりめぐらされてある。村井は慎重にハンドルを切りながら、道をたどっていく。

「部屋のナンバーはわかるか」

「三十一階建ての最上階。3101号……」

ファミリアは停車した。リョウは一人で車をおり、タワーマンションに近づいた。三階までは商業施設が入っているため、マンションのエントランスは目立たない造りになっていた。

パネルでルームナンバーを押した。はい、と澄んだ声が応答した。

「《アンダーカレント》のピアニスト、美樹本なぎささんだよな」

「あなたは……昨日の?」

インターフォンに取りつけられたカメラで、リョウの顔は相手に筒抜けだ。

「美樹本みどりの子だよ」

「……何をいってるの?」

「下りてきてくれないか」

もどかしい沈黙のあと、通話が切れる音がした。

五分、待った。リョウはコンシェルジュに通話をつなごうとした。そのとき、エントランスのガラスドアの向こうに、エレベーターをおりて通路を歩いてくる人影が見えた。

なぎさだった。急いで準備したのだろう、ブラウスにカーディガンを羽織っただけの恰好だった。風呂上がりなのか、彼女を目の前にすると、シャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。

「突然わるかったな」

「……あなた、何者なの?」

「美樹本リョウだ。父親は違うが、きみの兄貴だよ」

 なぎさが困惑した表情で、リョウを上目遣いに見上げる。

「私に兄はいないわ」

「知らねえのも無理はないさ。きみが生まれる前に、おれは金沢で捨てられたんだからな」

「金沢……」

 なぎさが顎に手をやった。何か思い当たる節があるのかもしれない。それは母親の出身地なのだ。

リョウはホープをくわえて火を点けた。煙が立ちのぼり、なぎさの凛とした香りが掻き消された。

「おれたちの母親……美樹本みどりの死について聞きたい」

ただよう紫煙の向こうで、なぎさが目を大きく見開き、声にならない叫びを上げたようだった。

「美樹本みどりは、戸崎に殺され――」

「二度と、ここには来ないで」

なぎさは強くいい放った。くるりと踵を返して背を向ける。

リョウはホープを地面に落とした。後ろから彼女の腕を掴んだ。

「いや、何するの」

右腕にからみついている服の袖をたくし上げた。

リョウは目を見張った。彼女の右の前腕部分には、薔薇が咲いていた。花弁の上には「M&N」という文字が踊っている。妖しい魅力を放つタトゥーだった。

「昌孝……なぎさ……」

リョウが放心していると、なぎさは手を振りほどいた。息を荒げて、リョウを睨みつける。

「おまえはやっぱり、戸崎に縛られているんだな」

「……帰ってよ」

なぎさは小走りにマンションのロビーに消えた。

リョウは、地面に転がって火種を燻ぶらせているホープを靴底で始末し、エントランスから外に出た。

停めたファミリアに、村井がもたれかかって腕組みをしていた。

「母親のことを訊いたら、シャットアウトされたよ」リョウは肩をすくめた。「兄貴のおれがいることも知らないようだ」

「そうか……」

村井は決まりがわるそうに白髪頭を掻いた。

「なぎさの腕にタトゥーがあるのは本当だった」リョウは新しいホープに火を灯した。「おれはいままで、おれを捨てた身勝手なおふくろを憎んできた。だけど、事実は違うのかもしれない。おふくろを殺し、なぎさを束縛している戸崎を許すわけにはいかない――」

胸中を吐露するリョウに、村井は白髪頭を二、三度ふり、口をつぐんだ。


   5


翌日の午後四時。リョウは西成区に足を運んだ。錆びたアーケードの下に伸びる商店街には、袖の擦り切れた薄汚い服を着た男たちがゾンビのようにゆらゆらと歩いていた。

リョウはコードヴァンの革靴を踏み鳴らして、商店街を抜けた。その先は飛田新地だった。何本かの通りが交差する一画で、道の両脇には古めかしい小料理屋を装った曖昧宿が並んでいる。昼間だというのに営業している店も多い。前を男が通るたびに、呼びこみの老婆は唾を飛ばし、上がり框に座る艶かしい女性はシナをつくる。

リョウは脇目もふらず、大門通りと呼ばれる道に出た。かつての遊郭の名残である大門跡に近づく。そのすぐそばにある、なんの変哲もない三階建てのアパートに足を踏み入れた。

三階の角部屋のベルを押した。

「……はい。藤堂(とうどう)ですが」

「美樹本です」

今朝のうちに村井が組織対策課の力も借りて、戸崎と関わりのある人物を調べてくれた。その一人が藤堂という元暴力団員だった。彼は二十年ほど前に、戸崎ともっとも密接な関係にあったらしい。

アポは取っていた。リョウは藤堂と胸襟を開いて語り合うために、村井を伴わずに一人でやってきた。村井は危ないから一緒に行くといってきたが、リョウは個人的なことだからといって聞き入れなかった。

ドアを開いたのは、松葉杖をついた五十路の男だった。坊主頭で、セーターにスラックスを穿いていた。が、スラックスの股下を通っているのは右足だけで、左足はない。

「いらっしゃい」

藤堂はいびつな笑みを浮かべた。しかし、目が虚ろで、どことなく視線が合わない。薄い唇の隙間から見える歯は、大半が抜け落ちていた。手には両方とも親指以外に指がない。

彼は一本踏鞴のように廊下を歩いていく。リョウは彼の後ろをついていった。

2DKの間取りだった。物がほとんどない。彼はダイニングテーブルの前の椅子に腰を落ちつけた。リョウも対座する。

襖を開放した隣室では、全自動の麻雀卓を囲む四人の男がいた。彼らはリョウを一瞬見やったが、すぐに自分の手牌に視線を戻した。牌の音、点棒の音、ポンやチーといった低く短い発声だけが聞こえてくる。

「マンション麻雀ですか」

「気にせんでええ。この界隈に住んでる、なんの害もない人らや」

リョウはうなずいた。卓上で交わされる札の枚数から察しても、街場の雀荘とたいしてレートは変わらない。健全な麻雀だ。

「戸崎昌孝について聞きたくて、来ました」

「たしか、戸崎の女が、美樹本……なんたらいう女やったな」

「僕は金沢で生まれて、美樹本みどりという母親に捨てられました。父親は知りません。ですが、父親とおれを捨てて逃げた女が、戸崎の内縁の妻だったと最近知りました」

「戸崎はな、ばくちだけで各地を転々とする、流れ者やった」

藤堂の濁りきった目が、過去を見つめている。

「わしは当時、関西で傍系のチンケな暴力団の若頭で、いくつか賭場を任されとった。そんなときに戸崎がわしを頼って大阪にやってきた。どういう経緯か知らんが、生まれたばっかりの赤子を殺そうとしたところを、やつの女が止めて――」

リョウの瞳に炎が燃えた。その赤子とは、まぎれもなくリョウのことだろう。

「どうして、戸崎は赤ン坊を殺そうとしたんでしょうか」

「生理的な衝動やろな。たんに邪魔やったんやろ」

リョウは黙りこんだ。

「次に会うたときは身軽になっとったから、子どもはどこぞに捨ててきたんやろうと察しがついた」

 リョウは湧いてくる暗い感情を殺した。

「当時のうちの組は、組長が死んで間ァもなかった。後継者が決まらんで落ちつかん時期に、わしは戸崎と盃を交わした……あいつのばくちの腕を見込んでのことや。それで賭場の経営のイロハを叩きこんだ。やつに博才があったんやろ、みるみるうちに実績を上げよった。わしも欲をかいて、のしあがろうと目論んだんやが……間違いやった」

「というと?」

「じつはな、組長が死んだというのは、わしがチンピラを金で雇って、殺させたんや」

「どうしてそんなことを……」

「組長も昔は男気のある人間やったが、腑抜けになってた。一人娘しかおらず、娘婿もやくざを嫌っとった。孫ができてデレデレしてるうちに、近いうちに組を解散するとか抜かしよったんや。それやったら、わしがこの組を引き継ぐ……そんな思いでやったことやった」

彼は当時のやるせなさを思い出したのか、軀を震わせた。

「せやけど、わしが殺しの報酬をケチったばっかりに、そのチンピラが戸崎と繋がった。戸崎はわしのことを組長殺しやと組員らに吹きこんだ。わしは組員らからケジメをつけさせられた。実際は集団リンチや。命までは取られんかったが、いっそ殺してくれって思ったわ」

欠陥だらけの軀が、そのときの惨劇を物語っていた。

「親分の仇として、わしを懲らしめた挙句、組を潰しよった。わしが抜けたあとの組は、まとめる人間が誰もおらんかったんや。あいつが組長になるためにやったことなら、まだわかる。あいつは一体なんのために……」

「その後の戸崎は、どうなったのですか」

「どんな手を使うたんか、賭場の利権を買い取って、いまや飛ぶ鳥落とす勢いや」

「……おれの母親だった美樹本みどりですが、先月死にました」

藤堂の太い眉がぴくりと動いた。

「自殺として処理されましたが、他殺の疑いがあります。あと、みどりとのあいだには、なぎさという娘がいますが、この子は戸崎に性的虐待を受けて、束縛されている可能性が高いんです」

藤堂はため息をつき、首を横に振った。

「あいつには人間の情というもんがない。欲しいもんは必ず手に入れて、邪魔者は消す主義の男や……。わしは生きとるがな」

そのとき、リョウのスマホが鳴った。村井だった。

「さっき、戸崎の運転するベンツが茶屋町のマンションを出た。あとを追おうとしたんやが、入れ代わりに宗一が車でやってきたんや。マンションから遅れて出てきたなぎさを乗せて、戸崎とは別方向に走った」

「それで?」

「宗一となぎさのほうを尾行したんやが……二人は如何わしいホテルに入った。いまはホテルの前で張りこんどる」

リョウは、すぐに向かう、と告げて電話を切った。藤堂にいった。

「戸崎には、あなたと同じ苦しみを与えてやります」

「あんたが戸崎の分身やとしたら、できるかもしれん」

「……分身じゃないですよ。おれは天涯孤独ですから」

リョウは席を立った。

藤堂は焦点の定まらない目を少し上げた。歪んだ顔の前で、力なく手を振る。

「二度と顔を見せんでくれ。終わったことは、もとには戻らん」


   6


梅田の兎我野町に駆けつけたころには、暮色が迫っていた。ホテルや風俗店が軒を連ねているエリアで、日没とともにやっと街が動き出した感じだった。キャバ嬢らしき派手な身なりの女や、陰険な顔つきをした男たちが我が物顔であたりを闊歩している。タクシーが何台も往来を行き交っていた。

リョウと村井はファミリアの中で、前部座席に肩を並べていた。フロントガラス越しに、なぎさと宗一が入ったというホテルのエントランスがうかがえる。

待ち構えているあいだ、リョウは藤堂から聞き出した話を、村井に伝えた。

「戸崎は、生まれて間もないリョウを邪魔に感じて、殺そうとしたんか……」

「きっとおふくろは、おれをかばうために戸崎と一緒に大阪へ行くしかなかったんだ」

「なんちゅうやっちゃ……。しかもいくら悪党とはいえ、藤堂という恩人を陥れた。さらにはみどりを殺し、実の娘のなぎさをペットみたいに飼うてる……。同じ人間とは思えへん」

「だけど、なぎさは戸崎の目を盗んで、宗一と会った。なぎさはどうするつもりだろう」

そのとき、なぎさが一人でホテルから出てきた。おぼつかない足どりだ。彼女はあたりを見廻して、タクシーを停めようとしている。

リョウと村井は車から飛び出した。

両脇から彼女を押さえた。なぎさは短い悲鳴を上げて、膝から崩れ落ちた。

「……パパに会わせて……」

アスファルトの上に彼女のハンドバッグが落ち、派手な音を立てた。中から、化粧ポーチや財布にくわえて、血濡れたバタフライナイフが転がった。よく見ると、彼女の着ている服にも血が点々と飛んでいた。

「ムラさん、中の様子を見てきてくれ」

「わかった……」

村井がホテルに飛びこんだ。なぎさは彼の背中を呆然と見送ったあと、顔を伏せた。

「宗一を殺したのか?」

なぎさは頭をもたげた。顔は血の気を失ったように一層青白く、唇はわなないていた。

「……あいつが、私に、逃げろって。逃げなきゃ、殺されるって……」

「一体どういうことなのか、説明しろ」

なぎさは深呼吸をした。観念したようだった。

「……二年前、私は麻薬を使って友だちを死なせた罪で服役した。でも、その場にはもう一人、男がいたのよ」

「それが松田宗一だったわけだな」

宗一は、その場にいないことになったらしい。府知事は口止め料として、戸崎に月二百万を払うようになった。そして戸崎の経営する賭場を、府政が守ることを約束した。だが先月、府知事は再選されたことで態度を変えてきた。

「松田宗一は、パパや私には当然近寄ってこなかったし、近寄ることを固く禁じられていた。それなのに、最近になって接近してきたの。今日、大事な話があるといわれて、やつの誘いに乗ったの。そうしたら、府知事が私を始末しようとしてるという話を聞かされた。あいつは私に、どこか遠くへ逃げろといった。私がそれを拒否したら、あいつは私を無理に抱こうとして……」

「どうして逃げるのを拒んだ? あんな父親のもとにいるよりマシだったろ」

「パパは、私のすべてよ。私だけを見て、私を救ってくれたの」

 彼女の目は真剣だった。

「そのタトゥーは……自分で入れたのか」

なぎさはうなずく。タトゥーの彫られた前腕を、服の上から左手で撫でた。

ホテルの自動ドアが開き、村井が出てきた。

「大丈夫や、傷は浅い。部屋で気を失ってるだけや。いま救急を呼んでる」

「ムラさん、この子を頼む」

「リョウは……?」

「戸崎に会いに行く」

――午後七時。《アンダーカレント》のベルを鳴らしたが、応答する者がいない。重いドアを押した。ロックは解除されていた。目の前には、戸崎の広い背中だけがあった。彼はひとり、カードの散乱したバカラ台の前に腰かけ、ウイスキーの入ったグラスを傾けている。

リョウはピアノの前に座った。鍵盤蓋を開き、曲を奏ではじめた。切ない音色が店内に響き、染み渡っていく。

戸崎がピアノを弾くリョウを見返った。「……『酒とバラの日々』か。映画は観たか? おれの一番嫌いな曲だ」

リョウはピアノを弾きながら、戸崎から目をそらした。いつもは閉め切っているカーテンと窓が開け放たれ、遠くに星くずを散らしたような難波の夜景が見えた。

「おまえもプロを目指していたのか」

リョウは窓外から手もとの鍵盤に目を落とした。「おれも、あんたと同じように、人を殺そうとしたことがある」

「……?」

「東京の大学に通いながら、ジャズのライブ活動をするセミプロだった。スカウトされてプロになるやつもいたが、おれには声がかからなかった」

リョウは静かに語る。

「あるとき、いくつかのバンドが対抗するかたちで完全即興のフリーセッションイベントが開催された。その演奏中にゴタゴタがあって、演奏中断(ブレークダウン)した。どこからか噂を聞いていたんだろう、おれを指差して、『孤児院上がりの素人にピアノを弾く権利はない』といったやつがいたんだ。おれはそいつを、ステージ上で半殺しにしてやった」

戸崎は悲しげな目でリョウを見た。

「そいつは死にはしなかった。おれを訴えることもしなかった。だけど、おれはもうプロとしてピアノを弾ける気がしなくなった」

「孤児院上がりの素人か」戸崎がつぶやいた。

「あんたのやったことは、藤堂という男から聞いたよ」

「……おれを恨んでるか?」

曲を弾き終えたリョウは、戸崎の隣に腰を下ろした。

戸崎は立ち上がった。バカラ台を廻って、ディーラースペースに立った。台を挟んで、リョウを見下ろす。

リョウも目を上げて、戸崎を睨み返した。「一戦やろうってわけか?」

「おれはもうじき逮捕される」

「ここに五百万ある」リョウはクラッチバッグを指で叩いた。

戸崎は散らばったカードをすべて捨てた。サイドテーブルから新品のデッキを持ってきて、封を切る。華麗な手さばきでシャッフルをした。入念に切り終え、手もとのシューターにおさめた。

二人のあいだに、吐息さえ呑みこんでしまうような沈黙がおとずれた。

リョウはホープをくわえて、火を点けた。ダンヒルの金属音が、その場に漲っている緊張をさらに高めたようだった。

リョウは冷酷なまでの眼光で、テーブル上を見つめた。燻るホープが燃え尽きて、灰と化した。

右手でクラッチバッグを持ち上げる。それはテーブル上の〈PLAYER〉でも〈BANKER〉でもなく、〈TIE(タイ)〉と書かれたエリアに置かれた。

「引き分け(タイ)に賭けるやつを見たのは、ひさしぶりだ」

「あんたの気迫に敬意を表したのさ」

戸崎が人差し指の一本を使って、シューターからカードを一枚ずつ引き抜いた。

プレイヤーに二枚、バンカーに二枚のカードが伏せて置かれた。

ディーラーの戸崎が、プレイヤーのカードを一気に開いた。

3と6だった。合計数は九。

次にバンカーのカードに手をかけた。

一枚目は8。

戸崎が二枚目のカードを摘み上げた。「……おまえは頭がいい」

戸崎がカードを指で弾いた。リョウの目の前でカードは廻転し、表向きに倒れた。Aだった。

「金のかわりに、質問に答えろ」リョウは両肘をテーブルについたまま、戸崎を見上げる。「おふくろを殺したのは、おまえか――」

戸崎は目を閉じて、首を縦に振った。

「なぜだ」

「おれがなぎさを愛したからだ」

「…………」

「女子音大生死亡事件が起きる前に、おれはなぎさを犯した。だが、すぐに後悔した。なぎさには酷く恨まれ、みどりは実の娘に嫉妬した。なぎさが出所したあと、ピアニストとして行き場のないなぎさを、店で働かせた。同時に、松田から口止め料を受け取ることで、摘発を恐れて店を転々とする暮らしからも逃れられた。順風満帆に見えたが、おれはなぎさから離れられなくなった。酒に溺れてわめき散らすみどりを前にしたとき、魔が差した――」

開け放した窓から、パトカーのサイレンが聞こえてきた。

ドアが開けられ、大勢の警察官が駆けこんできた。

戸崎がリョウの顔を見て、いった。「警察を呼んだのはおれだ。一人の殺人犯がここにいるってな」

戸崎は彼らに向かって両手を差し出した。

ビルを出ると、パトカーが数台停まっていた。ひと気のなかった通りに野次馬が押し寄せている。廻転する赤色灯が通行人を寄せつけまいとしながらも、逆に好奇心を刺激していた。

戸崎はパトカーに乗せられた。テールランプが遠ざかり、角を曲がって見えなくなったとき、リョウの肩に手を置く者がいた。村井だった。

「……大丈夫か?」

「ムラさん、あんたの執念が実ったんだ。おめでとう――」

上空には満月が浮かんでいた。やがて黒雲が忍び寄り、その円い輪郭をぼかしはじめる。雲に覆いつくされて月が姿をくらますと、暗い空が街にのしかかった。

リョウは感情を失ったような空漠とした目を前に向け、足を踏み出した。

「どこに行くんや?」

「さあ。おれは股旅のばくち打ちだからな」

リョウは難波の雑踏に吸いこまれた。



――一ヵ月後、なぎさが自宅マンションから投身自殺をした。がらんどうとなった部屋には、リョウに宛てた遺書が残されていた。

『父が母を殺したのではありません。私が殺しました。あなたを殺そうとしたのも父ではありません、母と関係があった藤堂です。あなたと私は、実の兄妹なのです。母はお酒を飲むと、人格が変わりました。男なら誰でもよく、自分で自分を貶めるような女でした。父はそんな母を許し、誰よりも愛していました。あなたは何も知らずに、父を追いつめました。そして、私の父への愛を不純なものとしました。あなたは、周りのすべてを汚した、母の分身なのです』

(了)


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