ひまわり
「お誕生日おめでとう。」
「ハッピィ、バァースデー、トゥーユゥー、ハッピィ、バァースデー、トゥーユゥー。ハッピィ、バァースデー、ディア、弘之くーん。ハッピィ、バァースデー、トゥーユー。」
友達の弘之君のお誕生会。僕を含め七人お呼ばれされた。弘之君は、十歳になった。ケーキは弘之君のお母さんが腕によりを懸けて作った、とってもおいしそうなイチゴケーキ。真ん中にチョコレートの板に、ホワイトチョコで『弘之君 Happy Birthday』
と書いてある。その周りには、沢山のホイップクリームと少し歪なイチゴと、十本の蝋燭が並んでいる。
「ありがとう。」
蝋燭に火をつけて、部屋を暗くする。弘之君は、七人の友達とお母さんに見守られながら、大きく息を吸い込み「フゥー」と力いっぱい、小さな十つの火を吹き消した。
みんな自分が持ってきたプレゼントを渡す。僕は、弘之君が前から欲しがってたファミコンのソフト。
「開けてみていい?」
無邪気な笑顔で、弘之君はデパートのおもちゃ売り場のお姉さんが綺麗に包んでくれたラッピングをものともせずビリビリに破いた。
「うわー。やったぁ。フミ君、ありがとう。『ワイルド・レッグス』欲しかったんだぁ。スッゲー。おい、みんな早速やろうぜ。」
弘之君は、とても喜んでくれた。他の友達も、このソフトがやれることで喜んでいる。僕は、弘之君が喜んでくれて嬉しい。
―いや、あんまり嬉しくない。
だって、弘之君は、僕の好きな娘をとったんだ。僕の好きな沙織ちゃんは、弘之くんが好きなんだ。
弘之君はクラスでも人気者。僕は、クラスでも目立たない。弘之君は、今年の春に転校してきた。転校生っていうのは、いじめられるか人気者になるかの両極端。弘之君は、人気者になった。勉強も、運動も文句無しにできる。性格もいいし、ルックスもいい。弘之君は、どんどんとクラス、いや、学年のトップに立った。そんな弘之君と、僕が、なんで友達なんだろう。
―なんで、好きな娘をとった奴と僕は友達なんだろう。ただ、出席番号が前後という理由で僕らは友達なんだ。
「この間、沙織ちゃんに告白されちゃった。沙織ちゃん、かわいいよなぁ。俺のこと好きだったんだって。」
一ヶ月前、弘之君はそう言ってた。心臓を小さな針でチクッと刺されたみたいな感じがした。沙織ちゃん、弘之君のことが好きだったんだ。そうだよな。弘之君は僕とは違ってカッコいいしな。僕は弘之君と友達なだけで、幸せなんだ。
いつの間にか、誕生日会は、僕のあげたプレゼントのゲーム大会になってしまっていた。みんなゲームに夢中になっている。僕は、自分の番が来ないので、暇だった。テーブルの上には、食べかけのケーキや鳥の唐揚げ、スパゲティーとかが置いてある。どれもこれも、おいしそう。だけど、全然食べる気がしない。僕はその食べ物たちを見ていたら、なんだか気持ち悪くなってしまった。
「弘之君、トイレ借りていい?」
「うん、廊下のつきあたりにあるよ。」
僕は、小さいころから身体が弱いので一人で吐くのは慣れていた。弘之君家の洋式の便器に頭をつっこみ、僕の口にも人指し指をつっこみ、いつものように吐く。胃液くさいイチゴやスポンジケーキが出でくる。吐いたものが鼻に入って、涙が出てくる。トイレットペーパーをぐるぐると手に巻きつけ、涙と鼻水と口の周りの物を拭い取る。僕は立ち上がり、便器のなかに、その汚いトイレットペーパーを、汚いイチゴケーキの上に置き唾を吐き捨てた。それら汚い物体を脇のレバーを回し、水で流した。「ジャー。」と大きな音を立てながら、渦をまいて流れてゆく。それを見ている僕も、流れたいと思う。一緒に。渦をまいて。下水の中に引き込まれたいと思う。惨めな僕を、誰かに流して欲しいと思う。
僕がトイレから帰る時、台所で弘之君のお母さんを誰かが話していた。
「お母さん、どうするの。」
どうやら話相手は弘之君のお姉さんらしい。
「どうするって言っても・・・。」
「お母さん!お父さんがあんな人に盗られても、いいって言うの?」
「だって・・・。」
「私はやだよ。お父さんがあんな人に盗られるなんて。弘之だってそうよ。かわいそうだよ。今は、なんにも知らないで楽しそうにしてるけど、お父さんがいなくなったら、絶対嫌に決まってる。前のお父さんが死んで、やっと新しいお父さんができて、私たち、すごく嬉しかったのに。」
「でも、お母さんには、どうすることも・・・。」
「じゃあ、なんでお父さんと結婚したのよ。死んだお父さんのことやっと忘れられて、お父さんに優しくされて、どうしようもなく好きになって、結婚したんでしょ?・・・。お父さんの表面だけしか分からなかったんだ。それに、私たちのことを思って結婚したんだよ。私たちがお父さんがいないからっていじめられると思って。そんなの平気なのに。大丈夫なのに。お母さんはもっと幸せになんなきゃ、駄目なんだよ!」
弘之君のお姉さんは、台所のドアから勢いよく出てきた。そこに立っている僕と目があった。目には涙がいっぱい溜まっている。僕と目があって一回目の瞬きで、左の目から溜まった涙が、一筋流れた。二回目の瞬きで両目から涙が溢れた。
僕はまるでメデューサを見て石になってしまったかのように、固まってしまった。一瞬、時が止まってしまったかのようだった。世界には、僕と弘之君のお姉さんしかいないみたいに感じた。
「ど、どうも・・・。」
僕が、その沈黙に耐え切れずに喉を押してこういうと、お姉さんは何も言わずに走って二階に上がってしまった。
「ねぇ、弘之君ってお姉さんいたんだ。」
ゲームに夢中になってる弘之君に聞いた。
「えっ?うん、いるけど。」
「いくつ?」
「六年生だよ。だから何?」
「いや、別に。」
「それよりさ、フミ君の番なんだけど。」
「どお、このゲームおもしろい?」
「スゲーよ。やっぱフミ君だよなぁ。目のつけどころが違うよ。最高ー。」
弘之君は、本当に楽しそう。あのことを知らないから。あのことを知ったら、弘之君は、どうなるんだろう。壊れるのだろうか。キれるのだろうか。少し、見てみたい気もするけど、僕は言わない。弘之君のために。―いや、弘之君のお姉さんのために。このことは、僕とお姉さんの秘密にしよう。
それからというもの、弘之君のことはもちろん、弘之君のお姉さんのことが気にかかってしかたがなかった。沙織ちゃんのことなんか、どうでもよくなっていた。いや同じ歳の子なんて興味がなくなっていた。いつもは、消しゴムを落としてしまってそれを拾ってくれた子にキュンとしたり、体育のときにやる準備運動で背中をあわせ伸びるやつでドキドキしたり、お母さんに「スーパー行ってきて。」と買い物を頼まれ、たまたま同じスーパーに同じ理由で来ていると思われる子にときめいてみたりしたのに。僕は、どうやらみんなより少しだけ、大人になってしまったらしい。
僕は、学校で弘之君のお姉さんを探すようになっていた。四年生と六年生の教室は少し離れている。うまくいって、一日に二回見かけるかどうか。休み時間に六年生の教室の前をウロウロするわけにもいかないし。たまに廊下ですれ違うぐらいだ。そして、僕がお姉さんを見かけるときは、いつも一人なことに、僕は気がついてしまった。いつも、寂しそうだった。友達、いないのかな。
窓際の席の僕は、授業中いつものように外を見ていた。校庭では体育の授業をしている。体育着の胸のところに『6―2』という数字。弘之君のお姉さんのクラスだ。僕は探した。『江森』という苗字。すぐに見つけられた。やっぱり、一人だったから。背中の『六年二組 江森』の字がとても小さく見える。
授業はバスケをやるらしい。チームを作るときも、お姉さんは、一人残った。二つのチームはジャンケンをした。負けたほうのチームがお姉さんを引き受ける。試合のとき、同じチームの人は、誰一人お姉さんにパスをしない。お姉さんは、ゆっくりとボールの動くほうに走るだけ。
授業の終わる少し前、
「ハーイ、終わりー。使ったボールは、元のカゴに入れておくこと。」
と先生が言う。
それを聞いたボールを持っていた人は、カゴにボールを入れようと強く投げた。ボールはカゴには入らず、勢いよくもっと向こうへ飛んでいった。投げた人は、お姉さんに「入れといて。」と言って、友達と教室に戻っていった。彼女は、ボールを拾いにいき、カゴに投げつけた。力いっぱいに投げつけたせいで、ボールはもっと遠くに飛んでいった。お姉さんは、またボールを拾いにいく。今度はボールを力まかせに投げるかわりに、その場所に座り込んだ。お姉さんの背中は、壊れそうだった。とても、小さかった。小さい背中は震えていた。悔しさと寂しさで、泣いていた。その思いをお姉さんは、ボールに当たった。ボールは、もっともっと遠くに行った。校庭には、お姉さん一人だけ。ポツンと、小さい背中がひとつだけ。
僕は、彼女を守ってあげたいと思った。僕のほうが年下で、彼女のほうがお姉さんだけど、僕は守りたいと、一心に思った。彼女には、僕が必要なんだ。この思いは、僕の小さな心の中で、もぞもぞと動いて、大きく膨らんだ。そして、心の殻を破って、外に出てくるのはそう遠くはなかった。
その日の放課後、僕は友達と一緒に帰っていた。テレビゲームの話や、漫画の話とかをして。商店街のところに差し掛かったとき、前に歩いている彼女に気がついた。彼女は、本屋に入っていった。
僕は友達に、
「ちょっと、本屋に寄ってくから先に帰っていいよ。」
と言って、走って本屋に向かった。
彼女は、やっぱり一人だった。相変わらず、寂しい背中をしている。僕は息を切らせながら、そしてできるだけ息を殺して、彼女のいる洋書の並ぶコーナーに行った。彼女は僕には分からない外国語で書いてある本を、手にとって見ている。表紙には、『VINCENT VAN GOGH』と書いてある。耳を包帯のような布でぐるぐる巻きにした、悲しそうな表情の男の人の絵が描いてある。どうやら、絵を描く外国人の本らしい。普通の本より大きくて、図鑑みたいだ。彼女は、細い腕を震わせながら両手でその図鑑のような本を持っている。瞬きをするのを忘れているくらい、熱心に見入っている。全く、僕には気づいていない。一ページ、一ページ、隅々まで一心不乱に見ている。彼女は、このGOGHという人がとても好きらしい。
彼女は、白い肌をしていた。少し大きめのトレーナーを着ているので、なおさら痩せている体を強調させている。六年生にしてはとても小柄だ。髪は、真っ黒でさらさらしている。
僕がこうして彼女を見ていたら、彼女は僕の存在にやっと気づいた。振り返って、僕を見ている。少し驚いた顔をしている。僕と彼女は、黙っていた。何も言わず。彼女の瞳は、寂しさで曇っていた。誰も入り込ませない、誰にも自分を許していない、何も語らない目。僕のことを一筋に見ている。なんだか僕は、少し怖くなった。
「君、弘之の友達でしょ。」
「・・・・はい。」
「お母さんと私の話、立ち聞きしたでしょ。」
「・・・・。」
「誰かに言ったでしょ。」
「いえ、言ってません。」
「弘之に言ったでしょ。」
「言ってないです。」
「嘘。」
「嘘じゃないです。誰にも言ってないです。弘之君にだって、言ってないです。」
「何で、言わないの?」
「何でって・・・。」
「何で言わないのよ。」
「言っちゃいけないことだと思ったから。」
「言いたくて、仕方ないのにね。」
「言いたくないです。言うことで、人を傷つけるなら、僕は言いたくない。」
「・・・。何でそんなにやさしいの?」
「泣き顔を見たから。」
「えっ?」
「お姉さんの泣き顔は、見たくない。」
「大人だね。弘之と同じ歳とは思えない。」
僕は、本当に大人になってしまったように感じた。身長も今より四十センチも伸びて、紳士用の服をきて、口の周りには朝、剃り残した髭がのび、大人になった気分だった。
「私、ゴッホが好きなの。」
「その人、ゴッホって言うんだ。絵を描く人なの?」
「うん、昔の人だけどね。もうずっと前、私たちが生まれるずっと前に死んじゃった。」
「何で好きなの?」
「耳を切ったから。」
「えっ?」
「耳を自分で切り落としたの。理由は、わからない。ゴッホのことは、ゴッホ自身もあんまり解らなかったみたい。でも、私は少し解るの。私も、耳を切りたいの。もう、みんなの声を聞きたくないのよ。みんな、いい加減なこと言って。それか、私への悪口。聞きたくないの。誰の声も。なんにも。耳なんてなければいい。耳がなかったら、なんにも聞こえない。私も、しゃべることができない。誰にもしゃべることは、もうとっくにないの。ひとつも。」
「僕にも。僕にも話してくれないの?」
彼女は、しばらく黙ったままだった。けど、瞳からは曇りが消えてるように見えた。僕の、勘違いかも知れないけど。
「聞いてくれるならね。本気で聞いてくれるなら・・・君に話してあげる。」
「聞くよ。僕は、本気で話が聞きたい。」
僕たちは、学校に行った。昼には、みんながサッカーとか、縄跳びとか、ドロケイとかして騒がしい校庭も、真っ暗になっていた。プールを見ると、真っ黒な水面に月が反射して、もう一つの空ができていた。僕らは、鍵の掛かっていない窓から校舎の中に入った。廊下は、校庭ほど暗くはなかったが、非常口の緑色の光が、かえって緑色に薄暗くして薄気味悪い。長い廊下を通って、六年二組の教室に入った。六年生の教室に入るのは、初めてだったから少し緊張する。机が、窓から入ってくる月の明かりで光っている。
「あそこが、私の机。」
と言いながら、彼女は指差した。
彼女の指した机は、真ん中にあった。周りの机は彼女の机を避けるかのようにして、一メートルほど離れて位置している。
「何で、真ん中にあるか解る?」
「ううん。」
「みんなが私をいじめやすくするため。ああやっておくと、授業中いじめやすいのよ。消しゴムが飛んできたり、後ろの人がコンパスで背中をちくちくつついたり、隣の人がいじわるな手紙を送ってきたり、前の人がプリントをまわしてくれなかったり。休み時間にはトイレにも行かせてくれない。たまに、行かせてくれても、トイレの前で待ち伏せしてて入らせてくれない。だがら、何回もお漏らししちゃった。慣れたもんよ。先生も知ってるの。だけど、何もしてくれない。先生も、一緒になっていじめる始末よ。この間、理科室に呼び出されて行ったら、先生何したと思う?私を裸にした。そして、写真を撮るの。『これは、実験なんだよ。』って言って。私は、抵抗しなかった。『この写真がばら撒かれたくなかったら、このことは誰にも言ってはいけないよ。』って言われた。言う訳ないのに。言う友達がいないんだから。お母さんや、弘之にだって嫌われてるんだから。私を、好きな人なんて、いないんだから。」
彼女は無表情で、このことを淡々と僕に話した。まるで人形みたいに、ビー玉みたいな瞳で。でも、僕には解る。彼女の心の中は、ふつふつと煮えている何かがある。すべての人間に対する怒りで、心が溶けてしまいそうなのを。僕は、彼女の心に目を瞑ってはいられなくなった。
「僕が。僕が好きだよ。」
「嘘だ。」
「本当だよ。」
「嘘だよ。なんで、平気でそんなことが言えるのよ。そんなこと言わないでよ。私のことなんか誰も好きな訳ないんだ。憎たらしい顔してるでしょ。みんなこの顔が嫌いなんだよ。だから、いじめたくなるんだよ。」
「そんなことない。綺麗な顔をしているよ。少なくとも、僕はそう思ってる。僕だけでいいでしょ?僕だけが、大切に想っているのは駄目かな。」
「・・・・。」
「僕は、初めてお姉さんを見たとき、すごく不思議な感じがした。好きになったんだ。今までとは違う、『好き』になったんだ。だから、耳を切るなんで言わないで。僕の言葉を聞いて。何回でも言うよ。僕は、君が好き。あなたが、好き。」
彼女の顔が、突然真剣になった。
「裕美って言って。裕美が、好きって。」
裕美はそう言った。氷のようだった瞳が、融けるように涙が溢れ出た。
「裕美が好き。」
「もう一回。」
「裕美が好き。」
「もう一回。」
「裕美が・・・・。」
僕が言いかけたそのとき、僕に前に膝をついて、僕の胸に顔を埋めた。
「裕美が・・・好きだよ。」
「年下のくせに、・・・生意気だよ。」
裕美の熱い息が僕の成長しきってない胸にぶつかる。僕は、この人の傍でこうしていて、すごく幸せな気分だった。
「これから、ずっと守っていくよ。僕は、まだ小さいし、何もできないけど。ずっと、傍にいることはできる。」
「本当に、生意気ね。」
裕美は笑っていた。初めて見た。彼女の笑顔は、美しかった。誰にも勝てない笑顔だった。笑っているほうが、全然良かった。
「このことは二人の内緒ね。」
「うん、内緒にしよう。でも、僕には隠し事しないでね。」
「うん、しないよ。」
「いっぱい、笑ってね。」
「うん、できそうな気がする。ゴッホの絵でいうと、『ひまわり』かな。」
僕は、ゴッホの「ひまわり」を見たことはなかった。ゴッホなんて人、知らなかったんだから。これからも、別に知ろうとは思わない。中学校に行っても、高校に行っても、大学に行っても、社会人になっても、興味はないと思う。僕には、違う「ひまわり」がいるから。絵なんかより、本物なんかより、もっといい「ひまわり」が僕の隣には、いつも咲いているから。