3話 ~阿部礼司という人~
――これは俺の前世から引き継がれた確かな記憶。
人に言われるがままに生きてきた。
自分の意思などまるで街路樹のように素通りされ、たまに尊重された。
実際のところ、礼司にそんな意識は一切無かった。
なぜなら、それが普通。自分のこなすべきタスクなのだと納得していたから。
――辛い本音を一切漏らさない人間だった。
礼司の周りはほとんど全てが平均的な要素で溢れていた。
生まれた家庭の所得。学校のテストの点数。進学先の高校・大学の偏差値。就職先での業績や自分の家庭の所得、そして嫁のスリーサイズまでもが……
しかし、そんな人生も悪くはないと心の底から思っていた。
――物語に始まりと終わりがあるように、人生にも終わりの時が来た。
まあ簡潔に言えば、老衰で死んだ。
正直なとこ、大して悲しくなかった。
てか、悲しむ暇なんてなかったから。
「ここは……天国か地獄か……」
(そのどちらでもないな)
「……これが脳に直接話しかけてくるというやつか」
その二言だけが、無限に広がる純白の空間に響いた。死ぬ前の自分の声が、ね。
「あのー……神様ですよね?」
(いかにも)
威厳のある野太い声が頭に響く。けれど不快感は生まれなかった。
「これからどうなるんですか?俺」
物理的には聞こえてこない神の声と会話するということに、阿部礼司は違和感を覚えた。
(過去のことに見向きもせず、先のことだけを考える。……冷たい心じゃのう)
「なんか……すみませんね」
阿部礼司は感情を隠そうと咄嗟に苦笑いを浮かべる。
(何故、感情を隠そうとする。……まあ良い。そんなお主には、異世界転生をしてもらおう)
「異世界転生……ですか……」
ぽかーんと口を開けたままの阿部礼司に神は言葉を付け足す。
(地球では、特に日本ではラノベというのが流行っているそうだな)
ライトノベル、略してラノベ。その単語には、阿部礼司も聞き覚えがあった。
「孫や息子たちがハマっていたあれか……」
(そう。そのうちの異世界転生というジャンルが確立されてるのだが、それをお主にしてもらう)
「まあ、いいですけど……」
(……けど?)
目には見えていない神にチラリと目配せをする。
けれども神はその動作にしっかりと反応してきた。
(……オプションをつけろ……と?)
「そんなところですね。俺も少し読んですよ、ラノベ。……っ?」
今気づいたが、一人称が「俺」になっている。一人称だけじゃない。口調までもが若い時に戻ったような感覚に包まれていた。
しかも、視線を手足に移すとだんだんと若返ってきている。
謎だな。なんで若返る?
まさに謎が謎を呼ぶ状態だ。
しかし、阿部礼司の疑問にはすぐに答えが返ってきた。
(既に異世界転生への進行は始まっている。喋れなくなる前に言いたいことは言っておいた方がいいぞ)
阿部礼司は若返ってきて硬い髭の生えた顎を、右手でジョリジョリとさすって少し考え込んだ。
そしてこう言った。
「普通でいいよ。……というか普通がいい」
これくらいの願望だったら叶うと阿部礼司は思った。
しかし、神からは快い返答が返って来るという予想は外れた。
(……)
「……ダメですか?」
神から返答があったのは少しの沈黙の後だった。
(……すまない。)
「何がですか?」
阿部礼司がそう言うのも無理はない。普通に暮らしたいと言っただけなのだから。
(……どうやら君は平均的なステータスを持つ運命にあるようだ。運命は変えられない。けれど、成長を遅らせることは出来る)
……神の発したの言葉が聞こえにくい。
なぜなら阿部礼司の体は幼児にまで戻っていたから。
このままじゃ喋れなくなると思った阿部礼司は、必死に喋ろうとした。
「に、にゃあ、にょうちゅりぇびゃ……」
“じ、じゃあ、どうすれば……”
でもそれはしっかりとした言葉にならなかった。
もう何を言おうとしたのかも分からない。
だんだんと阿部礼司の意識が薄れていく。
最期に、
(守りたいものができた時……自分が力不足だと感じた時……強く思うのだ。『諦めない』と……)
――そして新たな物語が始まった。
飛空艇と共に落下していくセシルを助けたいと思い、レイジはデッキから飛び降りた。
その瞬間、レイジは全てを思い出した。
――転生してたんだな……俺。
――全部思い出したよ。前世のことも、神とのやり取りも……
「なんで忘れてたんだろ俺!」
降下中、上空の冷たい風がびゅうびゅうと吹きつける。
そんな轟音にも負けずに、もう一度、思ったことを大声で宣言する。
「諦められるかぁぁああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」