小さな町のホヌ
自室のテレビで、夕方の報道番組を眺めていた。
テレビに映るニュースキャスターが、殺人の容疑で近所に住む男性を警察が連行したと伝え、キャスターからその男性へと画面が切り替わり、映し出されていた。
突然のテレビの報道に驚き、それと同時に戸惑いを覚え、「まさか」という思いが込み上げてくる。確か、俺は、昨日この男と話をしたはずだ。
いつものありきたりな様子で、「そんなことをするような人に見えなかった」とか、「無口な人で、でも、挨拶はちゃんとしてくれてました」などと、男に対する近隣の住民の印象なども同時に伝えられていた。
俺もその住民たちと同様、あの男が人を殺す動機があるようには見えなかった。
初対面の人間に抱く感情としてはオーソドックスな所だ、確かに、「死にたいのか?」と言われたが、「殺すぞ」と言われたわけでもない。
俺は、記憶の糸を手繰りよせるため、一昨日からの出来事を思い返した。テレビはいつの間にか明日の天気予報へと変わっていた。
夜風にさざめいて、松林の防砂林がシャーシャーと葉揺すりの音を、容赦なく俺に殴りつけてくる。
潮を含んだ風に揺られて、どこに進んでも鳴りやまない頭上の音は、目に見えない誰かに俺の居場所を伝えているようだった。
俺は疎ましげに頭上を一瞥した。いまだ空は見えない。林に入る直前まで人工灯の少ない空には、一面にはっきりと星空が見えていた。
夏の星座の代表格、大三角の、ベガ、アルタイル、デネブの星たちもハッキリと見えた。
限られた時間の中で、再開を喜びあうように宙に浮かぶ星たちは、一年間つもりに積もった身の上話をしているのか、キラキラと輝いていた。ただ、今は松の枝葉だけが奇妙に唸り、光のない、闇の中でうごめく黒宙を作り出していた。
いったいどれくらい歩いたのか、時間の感覚が鈍り、今じゃ足元の平行感覚もおかしくなりつつあった。真っ直ぐ歩いているつもりが、船酔いのまま陸地を歩くような感覚で、左右にふらつき手当たり次第に松の木にぶつかり歩いていた。ふらつきながらも、確かに俺の耳には、波の音が届いていた。そっと目を瞑り、音を頼りに想像した。
波は砂浜を駆けあがり、力尽きたように海に引き返す、そして順を待たずして次の波が覆いかぶさり、泡沫を作りながら、また砂浜を駆けあがった。
止まることのない、もしかすると止めたくても止めれない、波に悩みと言うものがあったなら、そんなことじゃないかと俺は考えた。
この場所が、立ち入り禁止場所だと分っていたが、いざ入ってみると表向きの理由とは違い、一般の人には公言できないような理由で立ち入り禁止になったのでは、と思い始めた。
ここに立ち入った人たちは、生きて帰れず死ぬ運命……。
身体の隅々まで水をかぶったように汗が肌を濡らしていた。蒸し暑い夜にもかかわらず唐突に、身震いが俺を襲った。まるで冷水の滴を背筋に垂らされたようだった。
肝試しにここに来る若い連中は後を絶たず、最近は県外からも毎晩のようにやって来ると、俺は聞いていた。
たぶん、今年きた連中の中にも、来なければよかったと思った奴はいたはずだ。
この松林の先に、今日の俺の、そして、後の絶たない若者たちの肝試しスポットの海水浴場が、ある。いや厳密にいうと、『あった』と言うべきなのかも知れない。
『護岸整備計画年次表』
俺はまじまじと建設計画の工程内容を読んだ。
数か月ごとのタイムスケジュールで、かなり大がかりな作業だということは良く伝わった。
だがその作業を観察できる術はない、現に立ち入り禁止となっているため、その作業を見ようにも中に入ることが許されなかった。
「ここに入れるのは、年内まで、か...」
この公園内にある海水浴場は護岸整理によって砂浜をさらい、防波堤にする予定だった。
その工事計画で、砂浜の砂を運び出す作業が、秋には始まるらしい。
80年代の初め、何ひとつ取り柄のなかったこの小さな町に、海水浴場ができた。
浜長200mの白く輝く砂浜と、透明度の高い綺麗な海水が評判で、同県はもとより他県からも毎年のように海水浴客がやって来て、賑わっていた。
松林の防砂林を潜り抜けるとキレイな砂浜が見え、プライベートビーチのようなたたずまいからか海水浴場は盛況し、小さな町の知名度は、一躍全国区となった。
その影響からか、人口も増えさびれていた町に、活気と希望が湧きあがりはじめていた、と親父は話していた。
しかし、その活気も90年代の半ばに差しかかり、衰退の一途を辿りはじめた。日本経済に陰りが見え始めた頃、それまでの好景気の影の裏に隠れていた重大な問題に、町の人々はやっと気付き始めていた。
その美しい海岸線とは対照的に、この海水浴場では毎年のように、水難事故が発生していた。
ある時は幼い子供、ある時は働き盛りの男性と、次々と後の絶たない水難事故に、町としては対策を強化しありとあらゆる手段を講じてはみたが、不慮の事故は止む気配を見せず、次第に客足は引いた潮ように遠のいていった。
2000年代に突入した頃には、既にこの海水浴場に地元住民以外の人が寄りつくことは無くなり、俺が小学生の頃には閑散としたものだった。
しかし、その後も死者や行方不明者を出し、この海水浴場はいつしか、『呪われた海』と呼ばれるようになった。
「今年も既に一人が死亡、一人が行方不明、か。その名に恥じない呪われっぷりだな」
俺は松林をなおも慎重に進んでいた。もう少しで浜辺につきそうな気配があった。その先にある海で、この夏も事故に見舞われた犠牲者がいた。
もしかすると、次なる犠牲者は自分で、林の外で手招きをして待っているのかもしれない。そう考えると恐怖心から足が竦みおぼつかない、それでもなんとか震える足を叩いて俺は、前へ前へとすすんだ。
先の犠牲者には共通して言えるのは、毎夜にその者達がこの海岸に訪れていることだ。
無論、立ち入り禁止とされている場所なのだから、関係者でもなければ来る必要がない。要は、面白半分で来たはた迷惑な奴らということだ。
『呪われた海』などと末期には揶揄されて、町としても回遊禁止の措置を講じるほかなく、それが人命のためだったのか、町の名誉のためだったのか俺には分らない。
結論からいえば今も犠牲者は増えているので、当時の町としての決断は、結局意味のないことだったのかもしれない。
その犠牲者がこの町とは関係のないよそ者なのだから始末が悪いと、町民の誰もが思っていた。
ようやく林の群生地帯から抜け、砂浜にたどり着いた。1mほどの生垣の下には芝生を所々に蓄えた浜辺が月夜に照らされて白く輝いていた。
林に入る前までは雲が薄く広がり、月をぼんやりと覆っていたのに、今では海に溶けだしてしまったかのように、どこにも見当たらない。
背後には薄暗い闇と不気味な葉を揺する音と、正面には視界いっぱいに広がる星空と、その下に静かに揺らめく海面とさざ波の音が聞こえていた。
月明かりでも浜辺は白く、まるで夜空の星が降りそそぎ、一粒一粒の砂に変わり砂浜となったんじゃないかと思えるほど、白く輝いていた。
穏やかな浜辺とは逆に、全てを飲み込んでしまいそうな黒い海から、泡沫を含み浜を駆けのぼる微弱な波が押し寄せては引くを繰り返し、俺に、「おいで」と手招きして呼んでいるようにも見えた。
『美しい』
息を呑んで、かろうじて頭の中に浮かんだ感想が、それだった。
俺の人生で美の象徴を女性にのみ求めていたことから、目の前に広がる風景はラッセンが描く原画のように、幻想的で神秘的な雰囲気が感じられた。
まさに絵画の世界に自分が入り込んでしまったかのような錯覚に陥り、味わったことのない興奮で全身に鳥肌がたった。
もっと間近で見ようと俺は靴と靴下を脱ぎ、白く光る砂浜に足を踏み出した。
砂浜が封鎖されてから数年が経ち、人の出入りがなかったからか、砂浜にはゴミ一つ落ちてなかった。他の海水浴場では見慣れた光景も、ここはラッセンの描く原画の世界だ、ゴミなんか落ちてやしない。
足の裏にヒンヤリとした砂の感触が伝わってくる。連日の熱帯夜で俺の身体は熱にうなされていたが、足の裏から熱が伝動したのか俺の体温は徐々に下がっていった。
パラパラと細かい粒が足の裏にくっ付く、湿気を含まない砂は次に足を踏み出す頃には、後腐れもないほど簡単に地面に戻った。
ここに来た俺を気持ちよく向かい入れてくれた砂浜とこの海は、本当に『呪われた海』なんだろうか。それとも油断させた隙に、俺を引きずり込むつもりなんだろうか……。
砂浜の幅は約20m、思っていたよりも波打ち際までの距離が遠くに感じられた。
最初は心地の良い感触だった砂浜が、十歩も進めば、いつのまにか深く沈み込み足の抜けない底なし沼にハマったような感覚になっていた。
ここで亡くなった人たちが、俺を死の淵に引きずり込んでるのか、信心深くない俺でも薄気味の悪い場所に立っていると思うと、意識してしまう。
この海で毎年、人が死んでる。あいつも、ここで死んだのだ。
15mほど進んだところで足の裏に硬い物が当たった。足を退けてみると、ちょうど人の足のような形をした貝殻があった。表面に樹木の年輪を思わせるような段々模様があり、それが貝の成長をあらわした物だった。
「なんでこんなところに牡蠣の殻があるんだ」地面からすくい上げて、目を凝らした。確かに牡蠣の貝殻だ。
自然と流れ着いたのか、それともここで誰かが食べたのか、それとも……。
判然としないまま立ち尽くし、またボンヤリと海を眺めた。
この漆黒の海は月明かりすら飲み込んでしまいそうだった。海面に写る月がグニャリと変形するのを、飽きずに見ていた。
「お前、ここで何してんだ」
「ひっ」
突然、背後から声を掛けられ、しゃっくりが起きたような情けない声が出てしまった。
恐る恐る振り返ると薄暗がりながら、白髪の混じったような短髪で、中年と思わしき顔だったが、余分な脂肪がなく引き締まった身体つきはその認識を覆すほどだった。
身長は俺と対して変わらないがガッシリとした身体つきで、俺よりもかなり大きく見える。
麻織物のハーフパンツと紺系のTシャツという出で立ちで年齢はたぶん50歳くらいだ。
「お前。ここ立ち入り禁止だって、知ってて入ったんだよな」
「あ、いや。あの、そのですね」しどろもどろになりつつも、適当な理由を付けて答えた。
「昔ここの砂浜にタイムカプセルを埋めたんです。小学生の頃に。それを掘り起こそうと思って、来ました」
男は俺の言ったことを聞くつもりもないのか、それとも理由を聞いたのは建てまえだったのか、返答もせずに俺が立っている周辺に目を配らせ、砂浜に注意を向けていた。
「当たり前のこと聞くけどよ、ゴミとか散らかしてねーだろうな」さっきの質問の時とは違い、はいと答える以外の選択肢が用意されてなかった。
ここに居ることよりも、ゴミを散らかすことの方が、この男にとっては腹立たしいのだろうか。
「もちろん、ゴミなんて散らかしてません」ただそう答えたあとで、手に持っていた牡蠣の殻の存在を思い出した。持っているのは片方だけ。対となる貝殻が下に落ちていたら何と答えれば良いんだ。
「酒も飲んでねーな?」
「はい」
「じゃあ、さっさと帰れ」男は俺に半歩にじり寄り、顔を睨んだ。
壮年の男の顔には幾重の皺と、無精ひげが見えた。太陽の下で見ればきっと浅黒く日焼けでもしてるに違いない。
にやっと笑い白い歯を零せば間違いなく海の男に見れるはずだが、この至近距離で一切の笑みも零さず凄みのある眼力で睨みつけられ、俺はたじろいだ。
「はい、すみませんでした」
「工事の途中で、誰かがタイムカプセルを見つけてくれるといいな」そう言い残して、男は背を向けて歩き出していた。
その後ろ姿は背筋の伸びたしっかりとした足取りで、月明かりがあるとはいえ昼間と変わらないような、迷いのない歩行だった。
「なんだよ、ちゃんと聞いてたのかよ」俺は、男が闇に消えていったのを確認してから呟いた。そして気付いた。
「てか工事関係者じゃないのかよ!」
急に夜風が冷えてきた。砂浜の冷たさも相まって身体が足先から冷えだす。そろそろ帰るか。
「また、来るな」と呪われた海に向かい、一言を残し、俺は海に背を向けた。
翌晩、俺はまた海にやってきた。昨日と同じような気象で、デジャヴすら感じる。月は俺が気付けないだけで少しほど欠けてるはずだった。
今日も公園の入り口を迂回して、バリケードを登れる場所にバイクを移動した。
スクーターを踏み台代わりにして、ひょいっとバリケードを乗り越え、猫のような身のこなしで地面に着地した。
昨日は迷いに迷った松の防砂林も一直線に抜けて、砂浜まで一気にやってきた。
海は変わらずに静かな波音と、月明かりを湛えてそこで待っていた。
『やっぱり美しい』貴女は美しい、会ったばっかりでこんなこと言うのも変だけど、僕と付き合ってくれませんか?
そんな軽口を叩いてでも手に入れたいと思えるほどだった。俺の目にはこの海が呪われているようには映らなかった。
ただ、見た目で判断できるほどこの海は優しいものじゃなかった。
この海岸には離岸流と呼ばれる個所がいくつかあり、その場所で回遊をしているとあっという間に沖へと流されてしまう。幾多の水難事故は、その離岸流が主な原因だった。
プロのライフセーバーさえ離岸流の犠牲となってしまったあの日、ここでその事故は起きたのだ。
中学一年の夏、夏期休業を前に、俺と友人の山城君で海水浴にやって来た。
両親からは、波打ち際で遊びなさい、と口うるさく言いつけられたが中学生ともなれば守ったフリをするのが世の常、思春期特有の処世術だった。
もちろん警戒心がなかった訳でもなく、毎年、水難事故の報道を耳にするので学校でも離岸流についての授業が行われていた。
「とりあえず泳ごうぜ」山城君はシャツを脱ぎ捨て海水パンツ姿になり、既にゴーグルの装着まで始めていた。
「沖まで泳ぐ気か?」
「まさか、そこら辺で潜って貝でも探そうかと思ってよ」昨日新しく買ったゴーグルを早く試したいと話し、山城君はゴムベルトの長さの微調整していた。
「じゃあどっちがデカい貝を見つけられるか勝負な」俺は意気揚々と勝負を持ちかけた。
「バカ言うなよ。そんな貝、沖の方まで行かなきゃ見つかんねーよ」でも、と山城君は前置きして、「勝負は受けて立つぜ」とゴーグルそ装着しこめかみの辺りで具合を確かめた。
互いに臨戦態勢に入り、頷くと、海に向かって走り出した。
皆が言うような『呪われた海』は本当は存在しないと俺は思う、あの日は、ただ運が悪かった、そう山城君のご両親は、うなだれて泣く俺に声を掛けてくれた。
そうじゃない、と言えなかった自分に今でも失望する。不幸な出来事は世の中にごまんとある。
その中の一つに山城君は巻き込まれてしまったのか、もしかすると俺が巻き込ませたのか、俺が山城君を殺してそれを都合よく海のせいにして、俺は今でも生きている。
山城君の夢を奪ってまで、生きている価値が俺にはあるのだろうか。
昨日と同じように浜辺の真ん中まで歩いて、俺は腰をおろして海岸線を右から左へと眺めていった。
すると左手奥の砂浜でたき火のような灯りが揺らめいていた。火の周りで数人の人影が動いているのも遠目で見て分かる。
この場所からだとおよそ120mくらいか、砂浜でいうと左の端っこの方なので俺と相対する場所と言える。
様子から見るに、かなりの喧騒具合なのはうかがい知れた、俺の傍で絶えず寝息のように穏やかで静かな波音がその喧騒をかき消していた。雰囲気からして俺とさほど年齢の変わらない連中なのだと判別もつく。
「あんなあからさまに騒いで、昨日のおっさんが来たら怒られるぞ」
俺は物静かな性格だけに、この神秘的な雰囲気が壊れるようなたき火と、それに群がる人影にうんざりした。
俺だけじゃない、あいつらもまた、この海と町に迷惑を掛ける人間だ。と人生を謳歌してるであろう彼らと、自分の過去の過ちを天秤で量っていた。
「またお前か」
「ヒッ」
物音も立てず気配もなかったので、まさか昨日の男が後ろに立っていたと思わず、今度は本当のしゃっくりが出た。
しゃっくりを止める方法のはずが、しゃっくりを引き起こすとは天地が引っくり返るようなもんだ。
「またあなたですか。びっくりするんで止めてくれませんか!」
「お前こそ、ここは立ち入り禁止だって分かってるよな? なんでまた来た」男は俺を睨みつけ云った。その凄みにビビって、しゃっくりはピタリとやんだ。
「それはあなたも同じじゃないんですか? 関係者じゃないですよね」
「ああ、関係者じゃねぇ。だからなんだってんだ」当然だろと言わんばかりに腕を組み胸を張った。その胸板は厚くスポーツに明け暮れた肉体と言っても良いほど鍛えられた身体だった。
「俺に文句を言える立場じゃ、ないと思います。同列ですよ、むしろ同罪だ」
「じゃあ一つだけ答えてやる」男は組んでいた腕を解くと、俺の胸ぐらを掴んで荒々しくねじりあげた。胸が苦しくなって手を解こう試みたが、岩のようにゴツイ手が、閉じこもった貝のように、びくともしなかった。
「お前の言うとおり、罪を犯したんだよ俺は。その罪滅ぼしでな、いまでもここに居るんだよ」
「なッ、なんなんですか、その罪って」ズルっと掴まれていたシャツが男の手の中から解かれ、息苦しくなった呼吸を整えながら、聞いた。
「答える義理はない。それよりも、お前は昨日、注意をされたのに何でまた来た。お前は、死にたいのか?」
どうして初対面の男にそこまでの暴言を吐かれなくてはならないのか、理不尽な物言に流石の俺もカチンと来た。
「俺よりも、向こうの連中に云ったらどうなんですか。それとも俺を殺したいんですか」所詮、自分が矢面にのぼることはできず、はた目から見てとても迷惑そうな連中に男の注意を向けさせた。
男は何も言わずに俺に一瞥をくれた、そして指さした奥で騒ぐ集団に視線を移した。
「お前はここがなんて呼ばれてるか、知ってるか」視線は遠くの獲物を捉えたまま、狩りのイロハを話すような、静かな声量だった。そして悲しみを帯びていた。
「呪われた海、ですよね」俺は答える。さっきまで『呪われた海』は存在しないと思っていたのに、当然でしょ、というように答えた。
「そうだ、この海は呪われてる」
「え?」
「この海は何も悪くない、ただ、ひどい奴らの行いのせいで悪者扱いされてる。飲酒だの、肝試しだの、守るべきルールから逸脱した行動を取れば相手は自然だ、ちっぽけな人間が太刀打ち出来るほど、甘くはねぇ。死ぬのは当然だ」そこで区切ると、身体を俺の方へ向き直し、「この海を汚してんのは、お前たちみたいな連中なんだよ」と言い放った。
正直、心が折られたような気分だった。この男は俺の過去の行いなど知るはずもないのに、核心を突く指摘だった。
親友の死が、俺のせいだったことを、見抜かれてしまったのだった。
「俺も」言おうか迷ったが、次の言葉が上手く続かない。胸に手をやり、一度だけ深呼吸した。
「俺も、罪滅ぼしに来たんです」
「はぁん? なんだ、罪滅ぼしって」男は物珍しそうな表情でこちらを見た。月明かりに照らされた顔は気のせいか穏やかに見えた。
「先日、小学校の同窓会があって、皆でタイムカプセルを掘り起こしたんです。その中の同級生の一人と昔、中学生の時に、この海水浴場に遊びに来たんです。ちょうど10年前の昨日でした、良く晴れた日で、穏やかな波で太陽の光を吸収したみたいに白い砂浜でした。来てるお客さんも少なくてプライベートビーチみたいで、こんなにいい場所なのに、どうして誰も来ないんだろうって不思議だったんです」
俺はあの日の記憶を無理矢理思い起こす。無理矢理に忘れてたあの日の出来事を。
「おい、そんなちっけぇシジミじゃ俺のアサリにはかなわねぇぞ」山城君の手にはどうやって育ったのか、卓球ボールほどの大きいアサリが握られていた。大きさはあるが夏になるとアサリには毒素が出るので食用には適さなくなる。
「でもアサリじゃ食べられないだろ、むしろシジミの方がいい」俺は自分の提案した勝負とは関係ない味覚勝負で対抗した。勝つか負けるかなど、どうでも良かった。俺は山城君を驚かせるために貝の大きさで競う勝負を持ちかけた。試合に負けて、勝負に勝つ。
「一ノ瀬、そりゃ卑怯だ。ちゃんと探せよ」
「まだ勝負は始まったばかりだろ、ちょっと喉渇いた」俺は自然な振る舞いで浜辺に上がった。太陽は頂点に達し、さらに気温を上げる気配をみせてる。
荷物が置かれたビニールシートに座り、浅瀬で中腰になりながら貝を探してる山城君の様子を伺った。
「気付いてないな」俺の好奇心がさらに高鳴った。リュックに入った牡蠣の貝殻をギュッと握り締めた。
「ちょっとしたイタズラだったんです。こんな所に牡蠣なんて見つかるはずないのに、それを見つけたら彼はどんな反応をするのか、見たくて」
山城君が水面に潜った隙を見て、俺は牡蠣の貝殻を沖の方へと投げ込んだ。空の貝殻の中に鉛の重しを仕込んで、ボンドで接着した、ただそれだけの仕掛けが、彼の命を奪ったのだ。
「正確に言うと、山城君だけじゃないんです。彼を助けようとしたライフセーバーの方も亡くなったんです。すごい勢いで沖に流されていく山城君を、俺はただ見てることしか、出来なくて」
いつからだったのか気付かないほど、俺の両膝がガクガクと震えていた。遠のいていく親友の顔が望遠レンズで覗いているかのようにハッキリと見えていた。苦しそうに手をバタつかせ、必死にこっちに泳ごうとしてる姿が、目の前の真っ黒な海に投影されていた。
無限の時間のように感じながらもライフセーバーの青年は見る見るうちに山城くんの近くまで泳いでいった。助かる! と彼らの距離が数メートルの距離となった瞬間に、二人に覆いかぶさるような高波が襲った。
あっという間だった。
その後、一瞬だけライフセーバーの青年が顔を出したが、山城君の姿が見えない事に気付き、海中へ潜った。
その後、二人の姿は見えなくなってしまった。
「翌日になって、二人の遺体が引き上げられました。俺が二人を、殺したんです。山城君の書いたタイムカプセルには、人を救う職業に就きたいって書いてありました。もしかすると俺は、人を救ってくれる側の人たちを、二人を殺したんでしょうか」
「なら懺悔は終ったな。さっさと帰れ」
男は新たな用事でもできたと言わんばかりに、俺を押しのけて浜辺の反対側へと歩き出した。
「え、ちょっと」
俺は男に慰めの言葉をかけてもらえるのではないかと引き下がった。が、男の口から出た言葉は、「もう二度と、ここへは来るな」だった。
男は一度だけ振り返る。その顔が月明かりでもよく見えた。口元を歪ませ、目を血走らせ狂気に満ちた表情だった。
その後ろ姿は怒りに打ちひしがれているようにも見えた。背を丸めて猛獣が獲物に近づいていく、昨日のような堂々とした後ろ姿は、どこにもなかった。
「ない」まさかなと思いつつも何度もポケットを探った、それは左右に始まり両尻のポケットを巻き込み、ポケットのないシャツさえも、探る対象へ含まれていた。
見つからない焦りは、直ぐに失望へと変わった。俺はどこかでバイクの鍵を落としてしまった。
俺は視線を海岸の方へ移し、「仕方ない、よな?」とつぶやいて再びバリケードを乗り越えた。
砂浜に戻ってくるまでたっぷりと30分は掛かっていた。どこで落としたのか見当もつかなかったので、スマホのライトを地面に照らしながら往復で通った道を入念に調べていた。
砂浜に戻ると、男の姿も、先ほどまで騒がしかった連中の姿もなくなっていた。人が居ることの安心感はこの場では不必要だと再認識した。月明かりと波音だけがこの場の支配者となり、幻想的という言葉が初めて生まれる。俺はその場に立ち会えたのだ。
そうして感慨深げにたっていた俺は本来の目的を思い出す。「鍵、見つけねーとな」
しかし、取り越し苦労とはこのことで、自分が座っていた場所にあっけなくカギは落ちていた。灯台下暗しともいうか、ここには灯台がないけど。
こんな事なら初めからここまで真っ直ぐ戻ってくれば良かった。と砂の上で光るカギを拾い上げた。
「また、お前か」
「ひッ」
これで三度目だ。この男は俺を付け回してるのではないかと違う意味での恐怖感が頭の片隅を過ぎった。
しかし、先ほどまでの様子とは明らかに違っていた。
「どうしたんですか」頭から足まで全身を濡らして立っていた、息遣いもひどく、呼吸を整える余裕もなさそうだった。
「いいか、今日の事は誰にも話すな。二度とここにも来るな、分ったな!」俺の両肩を掴んで男は言った。濡れた手はシャツの生地を通り越して肌にじわっと滲んだ。
両肩を思いっきり押し返され俺は倒れそうになった。
「ちょ、なにすんだよ」
「もう一度言う、今日の出来事も、お前の過去も誰にも話すんじゃない。いいな!」
男は今までなら去って行くはずだったが、今は俺が立ち去るのを待っていた。
明らかに様子がおかしい。もしかしてさっきの連中と何かあったのだろうか?
しかし、たとえそれが的中してたとしても、俺に聞きだす勇気はなかった。
何よりも、すごい剣幕で俺を睨みつけていた。胃の奥をえぐり出されるような、キリキリとした痛みが胸の辺りで駆け巡る。奥歯を噛みしめ、喉を駆けあがってきたモノを飲み込んだ。
それは、あの日に感じた恐怖からの痛みに似ていた。
翌朝、『呪われた海』での新たな犠牲者が発見されたと、ニュースは伝えていた。
工事現場の作業員が見回りの際に浜辺で人が倒れているのを発見した。
遺体は他県の大学生で死亡原因は溺死と報道がされ、アルコールが検出されたことも補足されていた。
学生は両親に海に行くと伝えただけで、その後の連絡は無かったそうだ。
事故当時の状況が掴めず公園の前には彼が乗ってきたであろう車が残されていたらしい。
確かに、あの夜、公園には車が一台止まっていたのを俺は見ていた。そして、その夜の出来事も全て覚えている。
「今日の出来事も、お前の過去も誰にも話すんじゃない」俺にそう話したあの男は、この事故に何か関わっているのではないかと、何故か確信していた。
でも、どうして俺の過去まで話してはならないと言ったんだろう……。
その後、事故に関する新たな情報がもたらされたのは午後を回って夕方のニュースが始まる時間帯だった。
町内に住む50代の男性が殺人の容疑で逮捕されたのだ。
事件当時の容疑者の格好は、昨夜の男と一致していて、逮捕されたのは間違いなくあの男だと俺は分った。
死亡した大学生の遺体の右腕上腕部には、男性の手形と思わしき痣が残っており、酔った学生を海に引きずり込み溺死させたとして取り調べを受けているらしい。
なぜ容疑者としてあの男が上がったのか俺には分らなかったが、タイミング良くキャスターが俺の疑問を払拭した。
昨晩、浜辺で男性二人が揉めている様子を目撃したと。匿名の情報が警察にもたらされたらしい。そしてキャスターは、容疑者の男が黙秘していると付け加えた。
しかし、昨日騒がしかったのは集団で、大学生は間違いなくあの中の一人だと俺は確信していた。
それともあの連中とは全く関係ない、俺みたいな独り身が夜な夜なやって来ていたのだろうか?
それと匿名での目撃情報も気になるものだった。目撃するにしても公園内に入り込まなければ出来ないのだから、通報者もバリケードを乗り越えてあの場所にいたはずだ。
そこで俺は大切な何かを忘れているような気がした。
俺は、この事件には、関係ない? 一切? 仮にあの男が犯人だったら? 黙秘を続けて、物証もなく容疑が晴れたら?
密告者を探すか? あの夜に、俺に言った言葉の意味『もう一度言う、今日の出来事も、お前の過去も誰にも話すんじゃない。いいな!』
俺が警察になにか話をしたことで男の犯行がバレた、と男は思うかもしれない。その為の口止めだったのなら……。
「いや待て、そんなこと言っても身元はバレてないはずだし」しかしバイクのナンバーを控えられていたら……。
よ、よし。もうバイクに乗るのは止めよう。でも所有していたらいつか身元がバレてしまうかも知れない……。
俺は身の安全を図る手段を懸命に考えていた。他の事に気を配る事も出来ずに命を守ろうと、必死で考えていた。
「お前がバラしたんだな。あれほど話すなと言ったのに……。残念だ」
俺の背後に男が立っていた。素早い動きで両腕を伸ばし、両手で俺の首を締めあげた。男が手に力を込めた。同時に両腕の筋肉が膨れ上がる。
メリメリと首を締め上げ、気道は完全に閉ざされ鬱血しているのが分かった。苦しかった。しかし意識だけはハッキリしていた。いつまでも続く息苦しさを俺は感じていた。
男は俺の様子に満足したのか笑みを浮かべ、首を掴み、軽々と俺を持ち上げたまま海へと歩き出した。
『呪われた海』に足が浸かる。その瞬間天地が逆さまになったかのように身体の重力が失われ、空に足が伸びているのを眺めながら、顔面は海中へと沈め落とされた。
空に伸びていた足も直ぐに海中へ沈んだ。海中から見える月はグニャリと笑っている。
両手両足をバタつかせ必死でもがいている俺を海面すれすれから男が無表情で見下ろしていた。まるで金魚鉢の中をジッと観察するようにつまらなそうな表情だった。
「ひッ」
俺はいつもの叫び声で起きた。その瞬間、俺は自らの両手で首を締め付けていることに気付いた。
全身に冷や汗を掻き、夢の中で海に沈められたように、寝間着はぐっしょりと濡れていた。
「もしかして、あの男が、今まで殺していたのか?」度重なる水難事故は必ず人気の少ない深夜に起こっていた。
目撃者も少なく、あらかたの事故は若者の危険な夜遊びとして処理されていた。
しかし、今回は違った。男は逮捕されている。もしかしたらこれであの海は呪いから解放されるんじゃないだろうか?
あいつが話した、呪いの元凶はルールを守らない連中だと話しをしていたが、そんな奴らが気に食わずに殺していたんじゃないだろうか。
むしろ呪いの元凶はあの男で、陰ながら若者を殺害して楽しんでいたんじゃないか。
そこまで考えて、俺は一つ身震いをした。
どうして俺はそんな酷い考え方が出来るんだ……。
あの人は海を守りたかったはずだ、人の愚行で海が汚れるのを止めたかった。
最初の夜に俺に聞いたじゃないか。ゴミは散らかしてないか、と。酒は飲んでないか、と。
騒がしかった連中にも注意をしに行ったはずだ。死んだ大学生もその中の一人に違いない。
しかし、それなら何故、他の連中は名乗り出ないのだろうか。
仲間がいるなら殺人をやすやす見過ごすわけもない。そう考えるとあの人の潔白は当然のように思えた。
しかし、それを証明できる事が俺には出来なかった。そしてあの人が服を濡らして浜辺を歩く姿を目撃している。いうなればこの証言はあの人にとって不利になる。
ましてやその本人から、誰にも話すなと言われたのだから、守るしかなかった。
歯がゆい現状に俺は落胆した。濡れた寝間着に体温を奪われ身体が冷めてきた。俺はシャワーを浴びる為に下着とシャツをタンスから取り出した。
お風呂で汗を掻いた身体を洗い流し、サッパリとした気持ちで寝室に戻った。
あの人が犯人ではないと確証を得て気持ちも軽くなっていた。しかし、それを証明したくても出来ないもどかしさが俺に付き纏う。
「どうやったらあの人の無実を証明できる」必死で考えてみたものの名案は浮かばなかった。警察に直接話しても俺の目撃証言は不都合だし。
半ばお手上げ状態だった。
俺は何気なしにSNSを開いた。トレンドには『#呪いの海』がトップに来ていた。RTは3万件を超していた。
中には過去の事故を詳細に書いたツイートもあり、今回の事件との因果関係をこじつける内容が書かれていた。
「バカバカしい」俺はスマホを投げてベッドに倒れ込んだ。俺はもう、二度と行くことのできないあの場所を思い描いて眠りについた。
翌朝になり事件は大きく動いた。あの人の無実が証明され解放されたのだ。
現場に残されていた車の車内から複数人の毛髪や飲みかけのペットボトルがあり、事件当時も団体で行動していた可能性があったとして特定を急いでいた。
そして町内のコンビニの防犯カメラに、買い物をしていた学生と一緒に写る男女三人がいた。
警察の取り調べによると。匿名の情報は彼らによるもので、未成年でありながらの飲酒喫煙や立ち入り禁止の場所への侵入で大学を退学処分させられてしまう。
と自己中心的な考えから、あの人に罪を被せようと画策していた。
彼らの中では人命は学歴よりも軽いらしい。
そして、あの人の無実を決定付けた証言が、思いもよらない人達から寄せられていた。
「去年、私はあの海で溺れているのを助けられました。当時、夜遅くまでお酒を呑み、海で泳いでいた時、離岸流にハマってしまい一気に沖まで流されました。一緒にいた仲間達もどうすることも出来ず呆然としていた中で、私のもとに泳いでくる彼がいました。パニックを起こしていた私に『安心しろ、落ち着いていれば助かる』と声を掛けて下さり、浜辺まで送り届けてくださいました。彼は私の命の恩人です。殺人をするなど絶対にありません」
そう証言したのは30代の男性だった。
他にも同じような内容で幾つもの証言が警察に届けられていた。
証言者たちはSNSを見て彼だと確信し警察に名乗り出たのだ。何故それまで彼らは口をつむんでいたのか?
それはあの人が口止めをしていたからに他ならない。
美しい海を静かに見守りたかっただけだから。
今回の事故の犠牲者である学生は既に手遅れだったらしい。そんな学生を、せめて親もとへ帰してあげたいと必死で浜まで引っ張って泳いだらしい。
学生の腕に付いた痣はその時によるものだった。
後日、地元新聞の地域面に今回の騒動の記事が載った。
『小さな町のホヌ』
彼は過去に繁栄した海水浴場でライフセーバーとして美しい海を守っていた。
しかし、優秀な彼でさえ防ぎようのない水難事故は後を絶たず、次第に海水浴客は減っていった。
その中でも、彼の心に悔いの残る事故が10年前に起こりました。
彼が急用で仕事に出られなかったその日、彼の替わりに仕事を引き受けた新人のライフセーバーが居ました。
青年は正義感の強い人で、ベテランの彼の替わりという事で、何かあってはいけないと細心の注意を払っていました。
しかし、海水浴客の当時中学生だった少年が、離岸流にさらわれ沖へと流されてしまい、少年を助けるべく、青年が救助に向かったが、高波の襲われ二人は帰らぬ人となってしまいました。
その一件で彼は自らを責めセーバーの仕事から退きました。
この町の海水浴場を守っていた彼を失ったことで、町は海水浴場を閉鎖することを決めました。
しかし、皮肉なもので秘境は夜な夜な人を惹きつけ、海の中へと人を誘い込み事故を起こし続けた。
いつしか人々は『呪われた海』と呼ぶようになった。
そんな海を守ろうと彼はひとり、夜のパトロールを続け、そして溺れる人たちを幾度となく救ってきた。
そして今年限りで、この砂浜は無くなってしまいます。
私たち、海の守り神ホヌの住処も、失われてしまうのです。
読んで頂きありがとうございます。
補足として、ホヌとは・・・
ハワイ語では海亀のことを「Honu」と言います。
海の守り神としていろいろな言い伝えや伝説があるそうです。
いまはそのウミガメを守るべく、法律が出来ています。
人々は自然から大切なことをこれからも学び続けるべきですね。