平穏
西暦二〇一八年四月六日・金曜日、日本のとある地方都市に、一人の少年がいた。伝統ある寺社仏閣が数多く存在する中、その内の一つであろう旧い寺院の庭先で、彼は独り、空を見上げている。
「……ふう」
雲一つない青空とは対照的に、少年の表情は憂いに満ちている。それは、彼の内にある暗い感情を表しているかのようだ。
「……はあ」
中天に輝く太陽を恨めしそうに睨みつけながら、少年は再び嘆息する。そんな彼の背後に、一つの影が忍び寄る。それは少年のすぐ後ろにまで迫ると、手にしている物を振りかざした。しかし、少年は気づかない。依然として空を見上げている彼に、容赦ない一撃が振り下ろされる――!
「いっってぇぇぇ!」
不意の一撃に、悶絶を余儀なくされる。痛みをこらえながら、自身を襲った影の方へと目を向ける。果たして、その瞳に映ったものは……
「サボってんじゃないよ! しっかり掃除しな、明!」
箒を手にした老婆であった。
「サボってねえよ! ちょっと、休憩してただけだ!」
「嘘つくんじゃないよ! 三十分以上も、ぼーっとしてたじゃないか!」
痛みから立ち直った少年が威勢よく抗議するが、老婆の方も負けていない。互いに、大声を張り上げ始める。
「大体だな、かわいい孫が来てやったっていうのに、掃除なんざさせるとは何事だ!」
「やかましい! 男なら、掃除の一つくらい文句言わずにやって見せな!」
「断る! なんでこんな無駄に広い寺の掃除をボランティアでやってやらなきゃならねぇんだ! せめて小遣いを出せ、小遣いを!」
「あーあー、何かって言うとすぐ小遣い小遣いと。まったく、浅ましいねえ。一体、誰に似たんだか」
老婆が呆れたような目をして、大げさに首を横に振る。
「ふ、誰かに似たんだとしたら、それはあんたの娘だろうよ。つまりは、あんたに似たのも同じってことだ。ふはは、盛大なブーメランだな、ババア」
「ああん⁉ 誰がババアだって⁉」
ヒートアップした老婆が再び箒を振りかざす。対して、今度は少年も箒を構える。
「明、謝るなら今のうちだよ? あたしゃ、手加減はしないからねぇ」
「馬鹿言ってんじゃねえ。そっちこそ、いつまで俺より強いつもりでいる気だ? 今日こそ、引導を渡してやるぜ!」
直後、まるで躊躇いの無い打ち合いが始まった。
――不動明、それが少年の名だ。市内の高校に通う二年生なのだが、平日にもかかわらず学校に行っていないのは、今が春休み中のためである。そして、今日は近所の寺の住職をしている祖母の下を訪れたというわけなのだが……
「ま、まいった……」
この通り、ボコボコにされるという始末である。
「ふん、あたしに勝とうなんて十年早いんだよ」
ドヤ顔で仁王立ちをしながら、地に倒れ伏した孫に勝利宣言をする。
「それじゃ、境内の端から端まできっちり掃除するんだよ。あたしは部屋でお茶飲んでるから、終わったら来な」
そう言い残すと、祖母はその場を去っていく。
「――あ、そうそう。これもついでに片付けといとくれ」
自身が手にしていた箒を明に放り投げる。それを頭で受け取った後、しばらくしてから、ようやく明は立ち上がった。
「あー、頭いてえ。……あのババア、相変わらず強えな」
悪態をつきながらも、自分の箒と渡された箒を手に取る。片方を縁側に立てかけると、境内の掃除を始める。
「……はあ、面倒くさい」
大げさな溜め息を二度三度つき、だらだらと手を動かしていく。負けたことで潔くなったのか、先程の様に露骨にサボる気配はない。
――鹿影寺。明は広いと口にしていたが、実際には大した広さはない。敷地内にある建物は、祖母が住んでいる庫裏と仏像が安置されている本堂、あとは小さな倉庫が一棟あるだけだ。とても立派とは言えないが、それなりの歴史を有する寺として、近隣住民や観光客がしばしば参拝している。しかし、僧侶が明の祖母一人であるため、家族で手伝いをするというのが常であった。今までは。
「東京かあ、いいよなあ……」
そう、明の両親と妹は、この春から東京に引っ越している。理由は父親の仕事の都合だ。本来なら、明も一緒について行くべきところだが、祖母が一人になってしまうことや家の管理の問題、彼が高校生であることなどを考慮した結果、残ることになったというわけである。
「ま、いいか。そのうち行く機会もあるだろ」
前向きな言葉を口にすることで、明は気を取り直す。
「よし、さっさと終わらせるか!」
次いで、勢いよく走りだす。すると、大雑把としか評しようのない掃き掃除をし始めた。