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彼と猫のアルゴリズム

作者: 兎島

 走る。

 白い建物は、夕日の赤に溺れていた。こんな日にのんびり一人で歩いていたら、考えなくてもいいことを考えてしまうから。ひょいと夕闇に目を向けてしまったりすると、今にも消えたいそうな目をした過去がおれを睨んでくるから。だから、おれは走る。息を大きく吸い込むと、微かにあまいキンモクセイの香りがした。

 地面に焼き付くように濃く黒い影が写る。長く伸びたおれの丸っこい頭部に、とんがった三角の耳がふたつ生えているのが見えた。

「おい! あのバカ猫どこ行きやがった!」

 鋭い声が聞こえて、おれは慌ててその場を後にする。姿勢を低くして植え込みの裏へ駆け込むと、慌ただしい足音が間近で止まった。

「どうしたんですか、先生」

 どこか凛とした響きをもつ女の子の声が聞こえる。黒髪を肩のあたりで切りそろえたきれいな子だ。彼女は手に持ったホウキの上にシャープな顎をのせると、特に面白くもなさそうに中年の教師を見つめた。

「今日こそあいつはとっちめてやらなきゃいけない。あんなのに校内をうろつかれてちゃたまったもんじゃない!」

 くそう、あのうすらハゲめ、えらそうに言いやがって。定年とやらがまぢかに迫った教師は、おとなしく余生の過ごし方でも考えていればいいのだ。おれはくしくしと顔をこすって、こっそり植え込みから抜け出した。

「ああ、ねこちゃんね。別にいいじゃない、絵のモデルにもなるし」

「春藤、お前なぁ……」

 どうもおれのことを知っているらしい女の子と目が合う。絵のモデル、ということは彼女は絵描きなんだろうか。なるほど、白い肌といい、ほっそりした体つきといい、文化系を絵に描いたようなひとだ。絵描きだけに。

「今度デッサンに付き合ってよ。ねえ」

 彼女がいたずらっぽく『おれに』、言った。ハゲが、ん? とこちらを振り返りそうになる。おれは慌てて駆け出した。ひどいよ、仲間だと思ったのに!

 まだあの人は来そうにない。仕方がないから、裏門で待っていよう。あの人はいつも裏門を通って帰るのだ。

ただし、偏屈な年寄りの教師がいそうなところは避ける。若い教師なら、まだおれのことは見逃してくれる。ここはもとよりそういう校風だからだ。

 そういえば、夏の始めごろ、ひとりの若い教師がこの学校を去った、らしい。タイショク、と誰かが言っていた。ふむ。タイショクというのは、あのハゲみたいな年頃のやつがするものではないのかと思ったが、おれはそのあたりの事情はよく分からない。

 おれはそいつに何度か声をかけられた記憶がある。

 七月の終わり、生徒が来なければならない最後の日のことだ。その日の彼は白衣を着ていなかった。薄いブルーのストライプのカッターシャツを着ていて、すらりとした体つきにそれはよく似合っていた。そいつは黒い鞄をひとつだけ持って、割としゃんしゃんした足取りで裏門へと歩いていた。おれはその日もあの人を裏門付近で待っていて、ちょうどそいつに出会した。おれは何度かそいつとすれ違ったことがあったのだが、あいつはおれを初めて見たときに、

『いい耳だな。綺麗な三角形だ』

 となんとも斜め上をいく発言をして、おれを吹き出させたのだった。こいつはおれを咎めないタイプなのだとその時に分かっていたから、俺はその場を動かなかった。すると彼はおれを見て、ぼんやりした表情で、

「いい耳だな。そんな綺麗な三角形、はじめて見た」

 と言った。その時おれは、最初のときとおんなじこと言った、とちょっとおかしくなったくらいだったのだが、あとでちょっとそいつのことが心配になった。

 はじめて見た。

 どうしてあんなことを言ったのだろう。あいつがおれの耳を見たのは、一度や二度ではなかったはずなのに。

 今思えば、あれが彼のこの学校で過ごす最後の日だったのではないかと思う。それから、そいつを見かけたことは一度もなかったから。

 ……まあ、人間ってのはよく分からない。

 割と見目の良いやつではあったのだが、ちょっと変わり者だったとの噂もある。

 クールな風貌と斜め上をいく感じの発言は、ちょっぴりあの人と似ていたような気がする。

 と、おれが裏門あたりでちょっと思案にふけっていると、二人分の足音が聞こえてきた。

「ちょっと、いいってば! なんでついてくるのよ」

「なんでって言いたいのはこっちだっつの……。怒るなよ」

 おっと、何やらもめているらしい。おれはにやりとして校舎の影に隠れる。と、そいつらはぱたぱたと早めの足取りでこちらへやってきた。

「ほっといて。あたし、これを捨てにいかなきゃいけないんだから」

「重いだろ。持つよ」

 ひとりは、可愛らしい顔立ちのショートカットの女の子。もうひとりは長身のイケメン殿である。女の子はちょっと取り乱しているようだが、男のほうは至って冷静だ。

 彼女が両手で持っていた大きなゴミ袋を、男はひょいと片手で取り上げた。くう、しびれるねえ。いい男だぜ、まったく。

 と、女の子はぐすっと鼻を鳴らしたかと思うと、小さくしゃくり上げて泣き始めた。おれはさすがにぎょっとしたのだが、男はまるでそうなるのが分かっていたとでも言うように微笑んで、彼女を石段に座らせた。

「わかってたの、いつかはこうなるって。私、ミハルとは元々合わなかった」

 嗚咽混じりに呟く彼女の隣にしゃがみこんで、彼は、うん、と小さく頷いた。

「だけど、あれはお前も怒って正解だったんだよ。あんなこと、クラスメイト全員の前で言うなんてどうかしてる」

 男は相変わらず穏やかな口調でそう言うと、彼女の背中を優しく叩いた。

「……そんな風にしないでよ」

「ごめん」

 すねたように呟く彼女に、男は素直に謝った。

「どうして追いかけてきたの」

「友達だから」

 即答した男に、おれは目を剥いた。

 ともだちい!? 彼女じゃないの!

 ぷっ、と、彼女は泣きながら笑った。ここからは後ろ姿しか見えないのだが、彼女はたぶんまだ泣いていたと思う。

「ねえ嶋」

「ん?」

「あたし、嶋のことが好き」

「……うん」

 うんって。そこは男らしく、おれも好きだよ! って返せよ。

 だけどもちろん、世の中はそんなに単純にはできていないんだってことくらい、おれは知っている。猫だって、アプローチすれば絶対に交尾させてもらえるって訳ではないのだ。――こんな例えをしたら、あの人に無言で頭を叩かれそうだけれど。

「やっぱり、嶋の中じゃあたしは友達のまんまなんだね」

「……ごめん」

「謝らないでよ」

 女の子が明るい声で言った。でもその声は少し震えていて、男が無言でハンカチを差し出す。すると彼女はそれを受け取って、ぶっ、ちーんっと、それはもう勢いよく鼻をかんだ。男の顔が、あのあれだ、なぜか裁判中というシチュエーションの車のCMで裁判官にハンカチを貸したときの役所広司みたいになっていた。うん、なんていうか、心中お察ししますってな状況だ。

「だったら、こんな風に優しくしちゃ駄目。あたし馬鹿なんだから、期待しちゃうでしょ」

 かっ……

 かっけー! 鼻水かんだあとなのに、なんかかっけえ!


 おれは裏門にやってきた。ここは人気が少ないし、あの人も来るしで割と気に入っている場所だ。おれは塀の上によじ登って、まったり待つことにした。

 ちりんちりん、と風鈴の音がする。高校沿いの道の向こう側の民家の前に、田宮のおじいちゃんが座っていた。彼の家の玄関には、一年を通して風鈴が吊られている。

「ありゃあ、にゃんこちゃんじゃないか」

 じいちゃんが目を細める。「かっこいい顔立ちをしているねえ」

「タマさんがさっき来たと思ったんだけどね。どこかへ行ってしまったみたいだ」

 タマさんというのは白い猫のことで、猫好きのじいちゃんの家の常連だ。かく言うおれも、時たまおじいちゃんの家に寄ったりする。

「サヨ、にゃんこちゃんが来たぞ。何か出してやれ」

 じいちゃんが家の奥へ向かって叫ぶ。返事はない。おれはきゅうっと胸が苦しくなるのを感じて、「いいよ、じいちゃん」と声を上げた。

 でもじいちゃんにその声は届かない。彼はおかしいなという風に首をかしげながら、家の奥へと入っていった。その直後自転車に乗った中年の女の人がやってきて、家の中に入っていく。

 田宮のじいちゃんは、一人暮らしだ。彼がサヨと呼んでいた奥さんの小夜子さんは二年前に亡くなったと聞いたし、タマさんは老衰で夏の終わりに死んだ。彼になにが起こっているのかおれは何となく分かっていたけれど、おれは変わらず彼と接していた。彼と同じ類の爆弾を抱えているのだろうひとを、おれはもう一人知っていたから。

 にゃんこちゃん、というのは、彼が初めて出会った猫にとりあえずつけるあだ名だ。

 ――まあ、もっともおれは――。

「颯汰。またそんなとこに登ってんのか」

 ――本物の猫などではないのだが。

 後ろから声をかけられて、おれは弾かれるように振り返った。色素の薄い栗色の髪が見えた瞬間、おれは塀から飛び降りた。

「キョウさん、居たっ!」

 おれは三角の猫耳のついたフードをぱさりと落として、嬉々としてキョウさんの自転車の荷台に腰掛ける。

「今までどこにいたんだよ。探した」

 感情の薄い声音で言った先輩が、緩やかに自転車を漕ぎ進める。サドルの端っこをつかみながら、おれは軽い調子で話し始める。

「うすらハゲに服装のことで怒鳴られそうになったから、あちこち逃げ回ってたんだ。そしたらさ、すげーの。修羅場に遭遇しちゃった」

「ふうん」

「あー! ちょ、真面目に聞いてよ。おれ感動しちゃったんだよ、世の中にはあんなにかっこいい鼻のかみ方する女子がいるんだって」

「どんな修羅場だよ、それ」

 呆れるように笑ったキョウさんの後ろ髪を見ながら、おれはちょっと昔のことを思い出していた。

 おれの名前は、猫村颯汰という。昔からよくねこちゃんとかにゃんことかそういうあだ名で呼ばれていて、俺自身も特に嫌ではなかったから好きに呼んでもらっていた。

 中学一年のときに、おれは部活で悲惨な目に遭った。最初先輩からいじめを受けていたのはおれではなかった。おれの親友だったやつだ。そいつをかばったら、今度はおれがいじめられるようになった。ただ殴る蹴るされるだけならまだましだ。彼らはもっとえげつないことをおれにした。口にもしたくないようなこと。思い出したくないことが、あの頃は毎日のように繰り返された。おれがかばった親友は気づいているはずなのになんにも知らない振りではれものにさわるようにおれに接した。その時おれは、今までかみあっていると思っていたおれとあいつのピースはすでに涙でふやけて歪んで噛み合わなくなってしまったんだと気づいて愕然とした。

 キョウさん――伊佐野叶と出会ったのは、そんなある日のことだった。おれは公園のトイレで先輩たちにいたぶられていて、そこに偶然彼がやってきた。彼は随分と驚いた様子でトイレの入口に立ち尽くしていたけれど、そのうちおもむろに携帯を取り出してどこかにかけはじめた。先輩のうちのひとりがそれに気づいて、おい、と彼に声をかけた。

 それはスピーカーがオンにされていて、3コールほど後に近所の警察書の名前を言いながら男の人が応えるのが聞こえた。

『ああ、すいません。なんか市民公園のトイレで悪いことをしている人たちが、』

その途端、四、五人の先輩たちが我先にと脱兎のごとく逃げ出した。彼らは真面目ではないけれど不良にはなりきれないって程度の微妙な人たちだったから、警察、というワードを聞いただけでキャパシティがオーバーしてしまったんだろう。

彼は逃げていく奴らのうち一人の腕を掴んで、低い声で言った。

『次おんなじことしたらどうなるかぐらい、分かってて逃げるんだよな』

 かなり強い力で掴まれたらしい先輩は顔を恐怖にゆがめて、壊れたロボットみたいに何度も頷き、腕を離された途端よろけるようにして駆けていった。

警察の人に、すいません、やっぱり勘違いでした、などと適当なことを言って電話を切ったキョウさんは、呆然としているおれの前にしゃがみこんで、言った。

『しかしお前、強いなあ。俺だったらごめんだね、こんなの』

 彼は甲斐甲斐しくおれの世話を焼いて、ところどころ傷ついているおれを人間らしい身なりに戻して、頭をぽんぽんと叩いて去っていった。

 それから先輩たちがおれに何かしてくることはなくなって、おれは前よりも随分と暮らしやすくなった。

 彼はまさにおれのヒーローだった。動物以下の扱いを受けていたおれをきちんと人間に戻してくれた。

 おれは彼が着ていた制服からこの高校を割り出し、彼に憧れて家から少し遠いこの高校に入学した。彼はちょっと変わっていたが、やっぱり優しくて強いひとだという印象は変わらなかった。

 ウマがあったおれたちは、大抵一緒に帰ったり、休日に遊んだりしている。キョウさんは受験生なので最近は帰りだけだけれど。もちろんキョウさんの他に友人がいないわけじゃないけど、やっぱりキョウさんといるのが一番心地がいい。

「ねえキョウさん」

「ん」

「おれね、キョウさんが好き」

「見てりゃ分かる」

「ほんとに? あ、勘違いしないでよ。そういう意味じゃないから」

「分かってるって。いちいちそんな面倒くさい解釈はしない」

 ふうん? とおれは彼の顔を覗き込もうとする。とろけるような赤が、うつくしく整った横顔を柔らかく照らした。

「キョウさん、おれね、ほんとはネコじゃないんだよ」

「それも、見りゃ分かるっての」

 ほんとにー? と、おれは声を上げる。どうも彼とは会話が噛み合っていない気がした。

「あのさ、あっちの意味で言ってんだよ? 分かってる?」

「……てか、そういう、とかあっち、っていう言い方がややこしいんだよ。この際代名詞じゃなくて具体的に言ってくれよ」

「それはよくない。なんかロマンがない」

 じゃあどうしろっつーんだよ、と呆れ声で返す彼の背中を見て、おれは妙案を思いついた。

「じゃあ、今からキョウさん家行こう。おれがレクチャー交えて具体的に教えてあげる」

「お前ね、おれが受験生だってこと忘れてないか」

 けたけたと笑うおれの首もとで、耳付きフードが揺れる。おれの項には、もううっすらとだが傷跡が残っている。かつて先輩たちにつけられたものだ。赤く刻まれたそれは、性別を表すマークに猫耳がついたもの。バカバカしくてやっていられないと思うのに、おれはそれを隠したくて真っ黒な耳付きフードをかぶる。そうすれば、少しでも過去の自分と今の自分は別人だと思えるような気がしているから。本当にばかみたいだ。でも、キョウさんの前では、おれはそれを取ることが出来た。今はそれで十分だと、素直にそう思える。頭の固い教師はうざったいが。


 なあ、おれは、この世界が素晴らしいと思ったことなんて一度もないけど。

 少なくともこの人がいるうちは、ここで生きてやってもいいかなって思えたりするんだ。

 ひょいと目を向けた夕闇の向こうに、学ランを着たおれが無言で立っている。今にも消えちゃいそうな目をして、おれを睨んでいる。……それでも。

きっとおれは、傷だらけの彼に胸を張って教えてやれるだろう。

 なあ、おれはきちんと、解答を、居場所を、見つけることができたぞ、と。

総合文化祭用の部誌に出しました。「だまされました」って感想をくれた人もいたようないなかったような。

読んでもらえば分かるかも知れないんですが、視点に凝ってみたかっただけです。白状します、遊びました。

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