冥路
昨日から降り続いている大雨のせいで、列車は二時間以上遅れ、目的地のS町に着いた時には、すっかり日が暮れていた。この路線は雨のために夕方から運休になるというアナウンスが車内に流れた。
改札を出ると回りの景色が雨にかすんで、建物の輪郭だけが薄闇の中にぼんやりと浮かびあがった。駅前にコンビニさえないような小さな町だった。
俺を名指しで「車を買いたい」という連絡が入ったのは三日前。
依頼主の名前に聞き覚えはなかった。縁故でもないかぎり、汽車で二時間もかかるような遠方から注文がはいることはまずない。狐につままれたような話だった。それでも車が売れるというなら、たとえ外国にだって行かないわけにはゆかない。
俺は駅の構内から客に電話をかけてみた。呼び出し音は鳴っているが誰も出ない。かけ直してみたけれどやはりつながらない。どちらにしても、今夜帰ることはできなくなったわけだから、商談は明日の朝にしようと決めて駅を出た。
しかし、雨の勢いは凄まじく、折りたたみの傘でしのげるようなものではなく、数メートル歩くのもおぼつかない。ふと見ると、明りを消したタクシーが一台だけ、駅前の車止めにひっそりと止まっていた。
俺はずぶ濡れになりながらタクシーに駆け寄った。運転手は、俺のほうを見ようともせず、無言でドアを開けそして閉めた。
「どこか、ひと晩泊まれるとこないかな。ホテルでも旅館でもいいんだけど」
相変わらず無言のまま、運転手は車を発進させ、十分ほど走って古ぼけたビルの前に止まった。
「…さん…えん」くぐもった声で何を言っているのかわからない。文句を言ってやろうかと思ったがそれも面倒になって、俺は黙ってメーターを見て料金を払い、タクシーを降りた。車を降りてから、あの運転手は、俺が金を払うときもルームランプをつけなかったことに気づいた。
ビルの入り口には、葉っぱの黄ばんだシュロのような観葉植物が置いてある。ドアの上に掲げられたアルファベットのプレートは、あちこち欠け落ちて「T」とか「L」とか、ほんの3,4個を残すだけだが、それでもこのビルは、どうやらこの町で唯一のホテルらしかった。
ほこりですすけたガラスのドアを押して中に入ると、奥のほうに青白い光が見えた。その明りの下には、古い映画に出てくるような、小さなフロントのカウンターがあって、頬のこけた年配の男が一人。
「一泊したいんだけど」
俺が言うと、男は気だるい仕草で、背後の木製の棚からプラスチックのホルダーがついたキーを取って、俺の前に置いた。俺はキーを受け取るとエレベーターに乗った。ワイヤーがギィーと、今にも止まりそうな嫌な音を立てて、蛍光灯が点滅する。いくら田舎町とはいえ、こんな状態で、営業していることが信じられなかった。
部屋はシングルベッドが置いてあるだけの、とてもホテルとは呼べないお粗末さで、ここも蛍光灯が切れかけているらしく、ひどく暗い。ベッドに腰を下ろして、俺は夕飯のことをすっかり忘れていたことに気づいた。ブリーフケースの中には、昼に汽車の中で買ったサンドイッチの残りがあるだけで、食料になりそうなものは他には入ってはいない。
「畜生」
俺は思わず悪態をついた。
夜になって雨はいっそう勢いを増したようで、まるで大きな水槽の中にいるようだ。もう一度外へ出かける気力は、俺にはもう残ってなかった。
仕方ない、一晩だけの辛抱だ。大学時代、海や山で野宿したと思ってやり過ごそう。せめてビールでもひっかけて寝てしまおう。俺は、フロントの横に自販機があったのを思い出した。
エレベーターが嫌な音を立てるのを我慢して一階に下りた俺は、自分の目を疑った。さっきは確かにそこにあったはずの自販機が見当たらず、フロントの明りも消えていた。
「ねえ、ちょっと。誰か」
呼んでみたが、どこにも人の気配はなく、天井の常夜灯だけがぽつりぽつりと光っている。フロントの棚を見るとルームキーがないのは俺が泊まっている401号だけ。つまり客は俺ひとりしかいないということだ。
俺はどこにもぶつけようがない最悪の気分と、重い足を引きずって部屋に戻った。再びベッドに体を投げ出したが、寝具はかびくさかった。いや、かびの臭いだけではない。ぷんと何かが腐ったような悪臭が鼻をついた。動物の死骸かなにかの臭い。こんな廃業同然の手入れの悪いホテルだから、ネズミの死骸でもあるんじゃないのか。俺は気になってベッドの下を覗き込んだ。
ベッドの下にあったのは、黄色く変色した古い新聞。
「飲酒運転で親子が死亡」の文字。
新聞を握った俺の手が震えた。俺は知っている。この事故を起こした茶髪の若者を。なぜならここに写っている、ボンネットがへこんだツートンカラーのクルーザーを売ったのは俺だからだ。親はパチンコ屋を経営する地元の資産家で、四百万あまりの代金をキャッシュで払った。運転の技術も未熟で、車に関する知識も皆無に近い、いかにも頭の軽そうな若者が、友だちとドライブに出かけ、酒を飲んで車を暴走させ、登校途中の小学生の女の子と付き添っていた母親をはねて死なせた。
だから事故のことを知った時は衝撃を受けた。しかし俺が悪いんじゃない、俺のせいではないと不快な記憶を封印した。
あれはこの町で起きた事故だったのか
死んだ親子の名前は「吉川」
俺はがたがた震えながら、携帯のキーを押した。つながらない。二度、三度リダイヤルするが出ない。四度目にやっと先方が出た。
「もしもし、吉川さんのお宅でしょうか?」
答えはない。
「もしもし、もしもし」
沈黙の後に「フフフフ」と女性のかすかな笑い声がした。笑い声は続く。一人、いや一人ではない。少し甲高い子どもの声が混じった。俺の耳の中で、その笑いは次第に大きくなって、やがて「アハハハハ」という哄笑に変わった。
俺は電話を投げ出して、部屋を飛び出した。エレベーターは電気が消えて、ボタンを叩いても上がってくる気配はない。俺は非常灯の青白いぼんやりした光を頼りにドアを押してみたがびくともしない。笑い声は変わらず俺の耳の中にあって、ガラス板を引っかくような甲高い不快な笑いが俺の脳を満たしている。
その俺にいきなり強烈な光が浴びせられた。
廊下の真正面に、車のヘッドライト。そしてエンジンをふかす音。
次の瞬間、疾走してきた黄色いクルーザーは俺の目の前にあった。逃げることができない巨大で凶暴な獣のように。そしてそれは彼女たちが最後に見た光景。
言葉にならない恐怖と絶望と、骨が砕け肉が裂ける衝撃と同時に俺の意識は闇に堕ちた。(了)