夏の終わりの夢物語
ムーンライトノベルズ(R-18)で連載した“百合と薔薇”の番外編です。
番外編ですが、本編を知らなくても、人間関係は分かると思います。
これが短編か、とお叱りを受けそうな程、長いです。ですが、どうしても一話にまとめたかったので……。
その辺は、どうかご容赦下さいませ。
(一話の方が、修正も加筆も楽なんです)
それは、残夏の太陽に、森の深緑が眩しく光る穏やかな日だった。
秋の気配をほんの少し感じさせる、爽やかな風。その風が通り抜ける森を、白と黒の二頭の馬が、風と共に駆けている。
漆黒の馬には、黒い髪に黒い瞳の若い男が騎乗していた。男は、ハッキリとした目鼻立ちの眉目秀麗な青年で、色香も匂わせる表情は、凛々しい武将の様だ。男は、生糸の様に艶やかな黒髪を、後ろで一纏めにして、黒馬の尾の様に風に靡かせている。前を見詰める瞳は黒曜石の如く光り、流れ行く木漏れ日を映している。同時に男からは、残忍な冷たさと、全てを切り裂く鋭さ、血腥さも漂っていた。
その直ぐ後ろの白馬には、男にしては華奢な色白の青年が、肩までの銀髪を靡かせている。彼は、淀みの無い青紫色の瞳に、紅い唇、長い睫を持ち、女神かと見紛う程の美青年だった。彼からは、黒髪の男とは全く違う、穏やかさ、優しさ、清らかさが感じられた。
全てに平等である筈の神の愛。だが神は、この二人にだけは、特別な寵愛を示したのだろう、と噂されていた。それは二人が、彫刻の美青年像以上の容姿である事は勿論、どんな場所でもどんな季節でも、彼等がいるだけで、景色は芸術に変わったからだった。
今、森を駆ける彼等は、それぞれの馬も見事だが、騎乗する姿も華やかで美しく、二人の品格の高さを示していた。
黒馬に騎乗する男の腰に挿す剣には、ここボルデン王国の王家紋章が着き、白馬に騎乗する青年の剣には、隣国アルギス王国の王家紋章が、それぞれ着いていた。
終わりを告げようとする夏は、森の深緑を湧き立たせている。草木達は、まだまだ力強く若く美しい事を、行く者達に見せ付けた。
その深緑に、漆黒の黒馬と真っ白な白馬のコントラストが森に映える。だが馬に騎乗する二人は、それ以上に鮮やかだ。まるで、血の滴る妖艶な紅薔薇と、全てを浄化する清楚な白百合だった。
彼等は、木々の間から射し込む光や、精霊・妖精達の歓迎を受け、見事に森の一部になっていた。
暫く二人が走っていると、ぱぁっと森が開け、突然目の前に湖が現れた。
こじんまりとした湖は、ボルデンの城程の広さはあるだろうか。湖面は、そよそよと吹く風に僅かに波打っていた。それがキラキラと太陽に反射し、二人の顔を照らす。その眩しさに、二人は馬を停止させた。
「美しい湖だな……。
ニコラウス、ここで少し休もう。朝から走らせているヴィーナスに、水を与えたい」
白馬に跨る青年が、自身の馬の首を撫ぜて、前を行く男に声を掛けた。
「そうだな。アポロも休ませる事にする。俺はまだまだ行けるが。
本当はユゼフが疲れたんじゃないか? ヴィーナスのせいにするなよ。まぁ、その気持ちも分からんではない。ボルデン一の馬術の名騎手に、遅れを取らずにぴったり着いて来たんだからな」
「名騎手? 誰がだ? 立場上、私がニコラウスの前を走れないだけだ。私とヴィーナスのコンビは最強だ。私が少し本気を出したら、ニコラウスに勝ち目はない」
ユゼフは、ニコラウスを軽くあしらって、ヴィーナスからポンと降りた。
「勝ち目が無い? この俺が? ほーう、俺のキスマーク、首に付けてそう来るか」
「言うな!」
ユゼフは、ユゼフの襟元を見てニヤリと笑うニコラウスを、睨み付けた。
「にしても、美しい眺めだな。俺の国に、しかもこんな近い所に、こんな湖があるとは気が付かなかった」
ニコラウスは、馬の上から湖をぐるりと見渡し、ひらりと飛び降りた。
「何だ、知らなかったのか?
ニコラウス、ここボルデンはお前の国だろ。将来この国を治めるお前が、城から2時間程で来られる湖さえ、知らなくてどうする?」
ユゼフはそう言いながら、ヴィーナスの鞍を外し手綱を放して、彼女の自由にさせた。
「どんなに近くにあろうが、地図にも載らんような森や湖なんか、一々覚えれられっか。俺は忙しいんだ。
そう言うユゼフはどうなんだ? お前は、アルギスの全てを分かっているのか?」
ニコラウスは、ボルデン王国の第一皇子だ。ボルデンは今、大陸で最も勢いのある国のひとつで、年々領土も拡大している。だが奪ってしまえばそれまでで、ニコラウスは新しい領土の地形は愚か、城の足元ですら満足に把握していない。
「私か? 当然だ。私の国アルギスは、ボルデンの1/5の広さしかないしな。それに私は、城から出ることが出来ない高齢の国王と、病弱な兄上の変わりに、暇を見つけては領地を見回った。私が馬に乗り始めた歳から視察に出ているから、もう5年になる。50世帯程の小さな集落でも何度も訪れているから、その村で起こったどんな出来事も、私は全て把握している。
城で、無駄に威張り散らし踏ん反り返っている、どこかの皇子と一緒しないでもらいたい」
ユゼフは、ヴィーナスが湖水に入り、水を飲み始めたのを確認して、その場に腰を降ろした。ニコラウスもアポロを放ち、ユゼフの隣に腰を降ろす。
放たれたアポロは、遠慮がちにヴィーナスに近付き、ヴィーナスの隣で停止した。二頭は、鼻先を並べて仲良く水を飲んでいる。
ヴィーナスは、美しい馬体を持つ牝馬だ。だが気性は荒く、ユゼフ以外の者の言う事は聞かない。ボルデンに来た当初、ヴィーナスはアポロが近付く事も許さなかった。最近になって、やっとアポロを警戒しなくなり、威嚇の姿勢も示さなくなった。
「ヴィーナスは、アポロに随分優しくなったよな。ユゼフも、俺にもっと優しくしろよ」
ユゼフの肩に伸びて来たニコラウスの手を、ユゼフは、パン、と払い除けた。
「ヴィーナスがアポロに優しいだと? あれは、ヴィーナスがアポロを相手にしなくなっただけだ。
私がニコラウスに優しくしろだと? 充分優しいじゃないか。これ以上お前を甘やす必要はない。いや、むしろ甘過ぎだ。今日からはもっと厳しくする。
国家機密の重大な仕事も、他国の王子である私に押し付ける皇太子が、どの国に居る? 少しは真面目に皇子らしく仕事しろ! あれじゃ、お前の尻拭いをさせられる官吏達が可哀そうだ」
「そんな事はないね。官吏こそ甘やかしたらダメだ。それに俺は、充分仕事をしている。現に今だってこうして、この国の視察にだな……」
「はぁ? これのどこが視察だ? 単なる暇潰しの遠乗りに過ぎない。とは言え、それを分かってて、ニコラウスに着いて来た私も私だがな。
まぁそれはそれとして、折角の美しい湖だ。私はここで羽を伸ばさせてもらう」
ユゼフはそう言って立ち上がり、上着を脱いだ。
「何だそういう事なら……。遠慮するな、俺が全部脱がせてやる」
「勘違いするなっ!」
ガン! ユゼフは、立ち上がろうとするニコラウスの頭を、足で踏み押さえた。
「お前なぁ。非公開の視察とは言え、仮にもボルデンの皇子を足蹴にするか?」
「ああ悪い。切り株だと思った」
ユゼフは飄々と言い放ち、ニコラウスの頭に付いた土を払う振りをして、黒髪をグシャグシャに掻き回した。ムッとするニコラウスに、ユゼフは必死に笑いを堪えた。
「それじゃ私はここで、久々に泳がせて貰う。水が透き通って、ここからでも湖底まで見える。魚達も気持ち良さそうだ」
「そうか? ここの水は案外冷たそうだぞ。風邪を引く」
「平気だ。それより、この機会を逃す方がずっと惜しい。私は、子供の頃から泳ぎは好きだし得意だ。だが人前では泳げないからな。今日は思いっきり楽しませてもらう。ニコラウス、お前もどうだ?」
「俺はいい。俺はいつでも泳げるし、ここに狼か熊でも現れたら洒落にならん。俺はここで昼寝でもしてるさ」
「そうか残念だ。ニコラウスの金鎚具合を、確かめてやろうかと思ったのにな」
「それは今夜、風呂で確かめさせてやる」
減らず口を叩くニコラウスに呆れながらも、早く湖で泳ごうと、ユゼフはサッサと服を脱いだ。ニコラウスの目の前で、躊躇う事無く裸になり、靴や衣服を一纏めに置いた。
「ユゼフ……。お前、恥らい、とかないのか? もっと色っぽく脱げよ」
「そんな無駄な事はしない。ニコラウス相手に、何を恥らう必要がある?」
「ホント、ユゼフは男以上に男らしいな」
ユゼフは王子の服の下に、美しい肢体を隠している。真珠の様な光沢の艶のある白い肌。すらりと伸びた長い手足。女らしい柔らかな曲線。剣術や武術で鍛えられた身体は、締まっていて無駄が無い。純白の少女のようなユゼフの裸体は、少しも厭らしさを感じない。それでいて、ビーナス像をも遥かに凌ぐ女性美は、もはや芸術、としか言い表せない。
彼女の艶やかな姿を知る者は、ユゼフの母親とほんの一握りの侍女のみだった。ユゼフの兄皇子と13人の姉達、父親であるアルギス王ですら、ユゼフを王子(♂)と信じて疑わなかった。
ユゼフは、生まれた時からアルギス王国の王子として育てられた。故に女としての自覚は皆無で、見ず知らずの他人にも平気で肌を晒す。兵士と一緒に泥酔し、共に朝まで爆睡する。何人もの男達を相手に一人で喧嘩して、血塗れで帰って来る……。それらは皆、アルギスでのユゼフの日常だった。
期せずしてユゼフの秘密を知ったニコラウスは、たった一人で、ボルデン王国に人質としてやって来た彼女の、守り役だった。
パシャン……。
水しぶきも上げずに、僅かな水音と共に、ユゼフの身体は湖に呑み込まれた。ユゼフが消えた湖面にはゆっくりと波紋が広がり、青い空を映す鏡面が静かに波打っている。
水中を進む白いユゼフ影は、まるで魚だ。もしこの世に人魚がいるならば、きっとあんな風に泳ぐのだろう。ニコラウスは白い影を目で追いながら、そんな事を思って北叟笑んだ。
湖底まで深く潜るユゼフの頭上では、光が網目を作ってユラユラ揺れる。小さな魚の群れが、ユゼフの前で光る腹を見せ、身体を翻して、一斉に方向を変える。太い鰻が、身体を器用に畝ねらせて泳いで行く。湖底でじっと動かない魚が、目だけをギョロっと動かせてユゼフを睨む。湖面に浮かぶ蛙や水鳥達が、ユゼフの頭上にユラユラと影を落とす。ユゼフは、息をするのも忘れて夢中になった。
岸から30m程離れた湖面に、ユゼフが現れた。魚が跳ねる様に、身体を捻り背を反らし、銀色の髪を光らせて勢いよく飛び出した。ユゼフは真上を向いて、肺にいっぱい空気を溜め込み、湖面を蹴って背面から再び湖底に沈み込む。
ユゼフの白い影は銀色の髪を光らせて、水中で左右にクルクル捻り回ったり、宙返りをする様に前転したり後転したりする。泳ぎ始めた子カワウソの様に、楽しそうに水と戯れていた。
ユゼフが水中で動く度に湖面が揺れ、それがキラキラと太陽を反射する。プクプクと吐き出した細かい泡は身体に纏わり、身体の表面をコロコロと転がって浮上し、それが湖面に広がる。ユゼフが弾いた水滴は、湖に小さな虹を作った。
時折り、柔らかな風が湖岸に座るニコラウスの頬を撫ぜた。小鳥の囀りすら聞こえない、静かな終夏の、眩しい一場面だった。
「ユゼフ、お前は文句無しに綺麗だよ。このままずっと、俺以外の男の前で素肌を晒すな。お前は俺だけのものだからな」
水面に現れては消えるユゼフを、ニコラウスは目を細めて眺めている。湖底に沈むユゼフを目で追いながら、祈るように小さく呟いた。
その時、湖面のどこからか、バシャン、と何かが落ちる音がした。続いてバシャバシャと水面を藻掻く音がして、それは湖面を伝って広がった。
鹿か子熊でも落ちたんだろうか。ニコラウスは目を凝らし、音のする方を見た。だがニコラウスの目には、何も確認出来ない。ユゼフも水音に気が付き、水中から顔を出して湖面を見回した。どこから聞こえて来るのか、源を捜した。
子供? 遥か先の湖面に、白い小さな手が見える。その手は浮き沈みを繰り返し、水面を叩いている。ユゼフは、他に赤毛が水面を漂っているのを確認し、その子に向かって全力で泳いだ。
湖面から、時折りバシャンと現れる顔と頭から判断すると、5歳位の男の子だろうか。しかし子供と言えども、獅噛み付かれ手足の自由が奪われたら、いくら泳ぎが得意のユゼフでも、共に溺れてしまう。ユゼフは、必死に藻掻く子供の近くまで行くと、プクンと水中に潜った。パニックになっている子供に獅噛み付かれない様に、背後から子供の首に手を回し上を向かせた。ユゼフはその状態で、ラッコの様に子供を腹に乗せて、湖岸まで泳いだ。
ユゼフが助けに行くと同時に、ニコラウスも、溺れる子供に最も近い湖岸へ走った。ニコラウスが、溺れたのは人の子供だと確認した時には、その子が泣きじゃくってユゼフに縋り付いていた。ユゼフが、5歳くらいの男の子を抱っこして岸に上がって来た。
ユゼフは、泣きじゃくる子供を落ち着かせようと、草むらに座って優しく声を掛けた。
「もう大丈夫だ。君は男の子だろ? ちょっと驚いただけだよな」
ユゼフが、いくら赤毛を撫ぜても背中を摩っても、男の子は一向に泣き止まない。ユゼフに獅噛み付き、柔らかな乳房に顔を埋めている。その様子に、ニコラウスがブチ切れた。
「おい、いい加減にしろ! 餓鬼の癖にユゼフに触るな!」
ニコラウスは、後ろ上方から子供の襟首を掴んで、ユゼフから引き離した。男の子は、びっくりしてニコラウスを見上げた。真っ赤に怒るニコラウスを、ポカーンと見詰めた。ニコラウスに睨みつけられると、子供はニコラウスの手を振り払って再びユゼフに獅噛み付き、泣き出した。
「このクソ餓鬼!」
子供に伸びて来たニコラウスの手を、ユゼフは掴む。
「ニコラウス、大人気ないぞ。この子は今溺れて死に掛けてたんだ。幸い水は飲んでいないみたいだが、兎に角、落ち着かせるのが先だろ」
庇うユゼフの腕の中で、男の子はチラッとニコラウスを見て、ベーッと舌を出した。ニコラウスの黒い瞳が、赤くメラメラと燃えた。
泣き声が一段落した所で、ユゼフは男の子に訊ねた。
「それで君は、何で溺れたんだ? 遊んでいて足を滑らせたのか?」
「うううん。母さまを見付けたからだよ。母さまお帰り。僕母さまを迎えに来たんだ」
「母さま? 誰が?」
ユゼフは、他に誰かいるのかと辺りを見回した。だが男の子は、じーっとユゼフを見詰めている。
「……えっ私?」
ユゼフは、自分で自身を指差した。
「そうだよ。もしかして、僕が分かんないの?
……もしかして、母さま湖に落ちて頭打った? 僕アベルだよ」
アベルは、小首を傾げて怪訝な顔をしている。これには、ユゼフもニコラウスも驚いた。
「ユゼフ、お前子供がいたのか?」
「バカを言うなっ! 私はお前しか知らん!」
「だよな」
ユゼフの内の女を目覚めさせたのは、ニコラウスだ。ニコラウスは、ムキになるユゼフに噴き出しそうになった。
「よう、アベルとか言ったか? 残念だが、このユゼフはお前のかーちゃんじゃないぞ。他を探せ」
ユゼフからアベルを引き剥がそうとするも、アベルは必死に獅噛み付いて離れない。
「違う! 僕の母さまだっ! 僕、ずーっと待ってたんだから。良い子でずーっと待ってたんだから!」
首を振って、再び泣きじゃくるアベルの背中を、ユゼフはポンポンと叩いた。
「分かった。それじゃ、私がアベルの家まで送って行こう。本当のお母さんが、もう帰って来ているかもしれないよ」
ユゼフは、アベルの母親が子供を置いて買い物にでも行っているのだろうと思った。留守番をしている内に、アベルが飽きて、帰りを待ちきれず家を飛び出したのだろう。そして湖で泳ぐ私を母親と見間違えて、喜んだアベルが湖の深さを考えずに、飛び込んでしまった。と、そんな事を想像した。
「母さま、僕、本当に良い子だったよ。父さまと母さまが、いつ帰って来てもいいように、僕のお部屋だって、ちゃーんとお片付けしてあるんだ。勉強だってちゃーんとしたよ。皆の名前、スラスラ書けるんだ。数字も読めるし。それから、階段を四段も飛び降りられるようになった。あんまり良い子過ぎて、母さまびっくりするから。
お家は、リーリエが毎日お掃除してるよ。僕もほんの少し手伝ったんだ。だからとーっても綺麗。ねっねっ、早く帰ろ」
アベルはユゼフの腕からポンと降りて、ユゼフと手を繋ぎ、自分の家へと連れて行こうと引っ張った。
「リーリエ?」
ニコラウスが、その名に反応した。
「おじちゃん……、誰?」
アベルが、ニコラウスの存在を思い出して、怪訝な顔をした。ニコラウスがキレた。
「お前っ! 俺を誰だと……」
「ニコラウス!」
ユゼフは、大声を上げるニコラウスを諌め、アベルの襟首を掴もうとするニコラウスの腕を掴んだ。
「アベル、この人は私の友達だ。名前はニコ……。ニコルって言うんだ」
ユゼフは、念の為ニコラウスの名前を偽った。隣では、偽名で呼ばれたニコラウスが驚いている。
「ふーん。おじちゃん、ニコルって言うんだ。母さまの新しい使用人?」
「まぁ、そうだな」
ユゼフの返答に、手をぎゅっと握り、ワナワナ振るわせるニコラウス。ユゼフは必死に笑いを噛み殺した。
「それで母さまは、本当に頭打ったの? リーリエの事も一緒に忘れちゃった?」
「えっと……」
ユゼフが、即答出来ずに口篭もった。
「リーリエって、僕ん家の女給さんだよ。お婆ちゃんだけど。
リーリエは、父さまが生まれる前から僕ん家にいたって、母さまが教えてくれたじゃん。優しいけど怒ると凄く恐くてさ。でも怒られるのはいつも僕ばっかで……。狡い」
リーリエ、と言う名を聞くと、ユゼフの心は少し痛む。それは公には出来ない、ユゼフのもうひとつの名前だ。一生を王子(♂)として、アルギスの民に捧げる覚悟のユゼフには、生涯呼ばれることの無い名前だった。
それよりも、ユゼフ自身が忘れている名を聞き、ニコラウスが反応した事に、ユゼフが苦笑した。
アベルに手を曳かれて、彼の家に向かおうとするユゼフを、ニコラウスが引き止めた。
「ところでユゼフ。お前、服も着ずにそのまま行くのか? 俺でもそんな失礼な格好はしないぞ」
「あー……」
ユゼフは、アベルをヴィーナスに乗せて、アベルが指差す森を走った。
ダークグリーンの、艶々した深緑の森。風には、ユゼフの知らない、ハーブか花の香りがした。スラリとした大樹がバランスよく並び、高い木の木漏れ日は、どの森のものより淡くユラユラと揺れ、一瞬虹色に光る。
木の葉に隠れているのは、妖精達だろうか。フフフ、と可愛い笑い声が聞こえる気がする。大樹の陰でヒソヒソ話すのは、ユゼフとニコラウスを見定める、森の精霊か。小鳥達の囀りが、ようこそ私達の森へ、と言っている様に聞こえて、ユゼフはなんだかほっとした。
夏の終わり、とは言え昼間はまだまだ気温が高い。だが森の中は、冷んやりとして心地良かった。
森を暫く行くと、土地が開け、白煉瓦の屋敷が見えた。森の深緑に映える、美しい屋敷だ。高い大樹に覆われた森の奥に、突然現れた白亜の屋敷。ユゼフはヴィーナスを小走りさせて、暫く屋敷を眺めていた。
背の高い鉄門を通って、敷地内に入り近くで眺めると、屋敷は思った以上に大きい。しかも、歴史を感じさせる威厳と風格のある建物だ。
庭には、咽るほどの花壇の花と、蛙がのんびり泳ぐ池がある。池の噴水が作る小さな虹が、来る者の心を和ませる。等間隔に植えられたポプラの並木に、蝉が夏の終わりを惜しむように鳴いていた。
ここはいったい誰の領地だ? ニコラウスは首を捻った。ボルデン城に近い土地で、こんなに大きな屋敷を持つ有力者なら、ニコラウスが知らない筈はない。暫く考えていたが、該当貴族は思い浮かばなかった。
だが、広大な屋敷は異様に静かで、使用人や馬の声がしない。
不思議に思いながらも、アベルに厩を案内されて、ヴィーナスとアポロを納めた。そこも立派な厩舎だったが、辺りを見回しても他に馬が一頭もいない。水も餌も敷き藁もなく、そこに馬が居た形跡は見当らなかった。
「早く、早く!」
二頭が、初めて来た厩舎でも騒がず寛ぎ始めたのを確認して、ユゼフとニコラウスは、アベルに急かされ玄関に向かった。
「ただいまー! リーリエ、母さまが帰って来たよー!」
ギギギー。ロココ調の彫刻が施された、大きく重い玄関扉が、音と共にゆっくりと開いた。中には、黒い服を着た女給が両手を前で重ね、姿勢正しく立っていた。しかし、彼女のまっ白い髪や、彼女の人生を感じる皺、細い手等、相当歳を重ねている様に見えた。
確かにお婆ちゃんだ。ユゼフはアベルの言葉を思い出して、微笑んだ。
「お帰りなさいませ、アベル様。いらっしゃいませ、お客様。シュルツ家の屋敷に、ようこそおいで下さいました」
彼女は背筋をしゃんと伸ばし、丁寧にお辞儀をした。だがその顔に笑顔は無く、老人特有の虚ろな目は、瞬きもしない。口だけが事務的に動いている。
「いいえ、こちらこそ。成り行きとは言え、突然の訪問、ご無礼、仕まります」
ユゼフがきちんと挨拶する間、ニコラウスはシュルツ家の屋敷内を、キョロキョロと見回していた。
リビングも兼ねた広い玄関ホールの正面に、大きくて古い振り子時計が掛かっている。長い時を刻んだであろうその時計は、これからも何十年何百年と、この屋敷の時を告げて行く、と思わせる風格があった。
ニコラウスには、振り子の、カタン、コトン、と鳴る金属音が、妙に耳に刺さる。まるでこの屋敷の黒い歴史を物語っているようで、ニコラウスは動く振り子を、暫く眺めていた。
壁には、幾つも肖像画が並んでいる。代々の当主とその家族だろうか。一番新しいと思われる夫人の絵は、銀色の髪に青紫色の瞳で、どこかユゼフに似ている。ニコラウスは、思わずユゼフと夫人を見比べた。
屋敷の中は、窓や手摺り調度品に至るまで、綺麗に磨かれ掃除されていた。にも関わらず、なんだかカビ臭い。不自然な程、綺麗に掃除され整えられた部屋は、まるで博物館のようで、生活臭が全くしない。
見上げると、ステンドグラスの大きな窓から、明るい日の光りが幾つもホールに差し込んでいる。色取り取りの鮮やかな光。だが、屋敷の中は少しも明るさが感じられない。むしろ、陰気臭く感じる屋敷内では、その光自体が不自然だった。
「リーリエ、違うよ。この人はお客様じゃなくて母さまだよ。ちょっと変なの格好してるけど“今度こそ”本当の母さまだよ。……やだなぁリーリエ。母さまを忘れちゃったの?」
「そうでございましたね。失礼致しました、坊ちゃま」
女給の老婆の声には抑揚が無く、無表情で何を考えているのか分からない。アベルにも、ただ、分かりました、とだけ頷いた。無感情な女給の態度が気になるユゼフとは違って、ニコラウスはアベルが気になった。
今度こそ? アベルの言葉に、ニコラウスの眉がピクリと上がる。
「申し送れました。私はユゼフと申します。こっちはニコ……、ニコルです。
私達は、偶々この森の近くにやって来ました。綺麗な湖に、馬を停めて休んでいた所、アベルが溺れているのを見付けましたので……。
そうだアベル! お前ずぶ濡れだよな。早く着替えないと」
ユゼフは、思い出した様にアベルの肩に触れた。だが、湖で溺れていた筈のアベルの服は完全に乾いていて、濡れた痕跡すらない。そう言えば、ユゼフがヴィーナスに乗せた時も、アベルは服も髪も濡れてはいなかった。
「母さま、僕は平気だよ。ぜーんぜん汚なくなんか、ないから」
ユゼフに纏わり付いて甘えるアベルに、老女がピシャリと言った。
「いいえ。アベル様いけません。早くお着替えなさいませ。お一人で出来ますね?」
アベルは眉を顰めて口を尖らせた。
「……はーい」
アベルは、渋々階段を登って行った。
「申し訳ございません。ユゼフ様、ニコル様。奥様に間違われて、さぞご迷惑な事でしょう。
実はアベル様のお母様、ここシュルツ家の奥様は、随分前に亡くなられています。でもアベル様は、奥様の死を受け容れる事が出来ません。未だに、認めようとはしないのです」
「そうですか。子供ならば無理もありません。それで今でも、お母さんが帰って来ると信じて、ずっと待っているのですね?」
「はい……。
ところでユゼフ様ニコル様。本日は、何かお急ぎのご用でもございますでしょうか? もしそうでなければ、今夜はこの屋敷でお過ごし下さいませんか? 突然ではございますが、外も既に暗いですし、アベル様も喜びます」
外が暗い? ニコラウスは反射的に窓を見た。さっきまで、屋内に煌々と光りを差し込んでいたステンドグラスの窓が、いつの間にか真っ暗になっていた。気が付くと、ホール内の松明や蝋燭に灯かりが点り、屋敷内を照らしていた。
時計は……。つい先ほど12時前を示していた短針が、今は8時を示している。
ニコラウスは、薄気味悪くなってユゼフの耳元で囁いた。
「おいユゼフ、これ、ヤバくないか? 何か変だぜ。この家も婆さんも」
「何を言うか。それはお前の“気のせい”って奴だ。失礼な事言うなよな」
ユゼフは何も感じないのか、眉を顰めてニコラウスをジロリと見た。
「ではリーリエさん。お言葉に甘えて、今夜はここで休ませて頂きます。代わり、と言っては何ですが、お世話になるお礼に、私達に何か出来る事はありませんか? 大した事は出来ませんが」
泊まる気満々のユゼフに、ニコラウスが焦って、ユゼフの腕を引っ張った。
「おい、ユゼフ! 俺はここに泊まるとは言っていない。さっさと城に帰るぞ」
耳が遠いのか無表情を決め込んでいるのか、老女は、大きな声で喋るニコラウスに何の反応も示さない。
「では、ユゼフ様にはアベル様のお相手をして頂けたら、と存じます。今夜だけ、アベル様のお母様になって下さい。ご無理であるならば、遠慮なくお断り下さい」
「いいえ、構いません。アベルに、アルギスに語り継がれる御伽噺でもして、眠くなったら子守唄でもを歌ってあげましょう」
「ありがとうございます。是非そうして下さい。アベル様も喜びます。それで、ニコル様には……」
老女が品定めをする様に、ニコラウスの爪先から頭の天辺まで、じーっと見やった。
「俺は歌わんぞ。餓鬼のお守りはごめんだ」
「いいえニコル様には、壁の修理をお願いしたいのですが。御覧の通り、この屋敷は古くて男手もございません」
「この俺様に、大工の真似事をしろだと? 俺は……」
「ニコラ…、ニコル!」
ムッとして大きな声を上げるニコラウスを、ユゼフが手を上げて制止し、耳元で囁いた。
「ここで皇子だとでも言うつもりか? 壁修理ぐらいやってやれ。それとも皇子様は、釘の一本も打てないのか?」
ユゼフの言葉に、カチンと来た。
「うるさい。やればいいんだろ? ユゼフ、これは貸しだからな。城に戻ったら、お前を一週間は寝かせない」
「はいはい。だが昨夜も一昨夜も、確か私より先にニコラウスが寝たような―……」
ユゼフが惚けて天井を仰ぎ、チラリとニコラウスを見た。
「それはだなぁ……」
ユゼフの秘密を知るニコラウスは、他に口外しない代わりにユゼフの身体を要求した。女としての、純潔とか貞操観念など全く持たないユゼフは、それをあっさり承諾した。
ユゼフの、世話役兼教師兼目付け役であるニコラウスは、いつもユゼフと一緒にいる。一人でも充分華やかなふたりが、一緒にいるだけでかなり目立つ。目立つのに、かなりのプレイボーイで積極的なニコラウスが、所構わずユゼフにキスをする。お陰で、世間から二人は男色家だと思われていた。
だが、同性愛者だと噂される二人は人々から忌み嫌われるどころか、いつの間にか憧れの的になっていた。ギリシャ神話の、アポロンとヒアキントスの世界を醸し出す二人に、ほぼ全ての人が立ち止まり、通り過ぎる二人をじーっと目で追った。特に女性は目を潤ませ、切ない溜め息を吐いていた。
「昨夜は……、いや昨夜も、だ。ユゼフが寝られないだろうと思って、俺が気を使ったんだ」
その美貌とボルデン王国の皇太子という地位で、数え切れない程の女を抱いたニコラウス。しかし、どの女とも1度きりの関係で終わらせてしまう、ボルデン一のプレイボーイだ。そのニコラウスが、ユゼフに出会ってから、他の女に興味を示さなくなっていた。
「ではニコル様、こちらへお願い致します」
老女は、ユゼフとニコラウスのやり取りを、聞いているのか聞こえないのか、全く表情を変えずにニコラウスを地下へと案内した。
地下への狭い通路は、思った以上にジメジメしていて、かび臭さが鼻に付く。乾燥している訳でもないのに、階段を1段降りるたび、埃が激しく舞い上がった。
「長い間、この地下室には誰も来なかったのか?」
ニコラウスが、前を歩く老女に訊いた。
「はい。壁が崩れてから、怖くて中に入れないのです。ですが、その地下室には大切な物が沢山仕舞ってありますので、なんとか運び出したいのですが」
「壁が崩れた?」
「はい。鼠が壁に穴を空けたようで、その穴が広がって壁が崩れ始めました。ですが、この前確認した限りでは、土砂が床一面に土が広がっている訳では無く、品物も皆無事でした」
「誰かに頼めばいいだろ。この屋敷に、専属の出入りの者はいるんだろ?」
屋敷の生活物資等を運ぶ商人に、なぜ人足を頼まないのか不思議に思った。商売人は信用出来ないのか、それともこの家は人足も頼めない程困窮しているのか……。ニコラウスは、首を捻った。
「こちらでございます」
通路の突き当たりの地下室の扉を、老女が開けた。
ギギギ、と、錆びた金属音を発ててゆっくり開いた扉の向こうには……。鼠だろうか、一斉に隅に移動する影が見えた。しかも、地下室から何かの屍骸の様な臭いが漂ってきて、ニコラウスは思わず顔を背けた。
こんな所、無理だ。1分も居られん。俺はこの国の皇子だぞ。なんでこんな事しなきゃならん? ニコラウスは、地下室に背を向けて、階段に一歩足をかけた。
その時、ほーら見たことかと勝ち誇るユゼフの顔が、ニコラウスの目の前をチラチラした。
チッ。ユゼフに大きな顔されたんじゃ、堪らんわ。ニコラウスは戻って、老女の後に続き地下室に入った。
老女は、部屋に6箇所ある壁の燭台の蝋燭に、自分の蝋燭で順番に火を点した。全て点した老女は、奥の方から板と釘と金槌を取り出して、ニコラウスの前に並べた。
「これ以上、室内に土が入ってこないよう、壁の穴を塞いでいただくだけで結構です」
「煉瓦の壁にか?」
「はい。以前穴に煉瓦を詰めてみましたが、暫くすると押し出されてしまいましたので」
焼き煉瓦なんかに釘が刺さる訳ないだろ。刺さったとしても直ぐに抜けるぞ。イロイロ疑問があったが、ニコラウスは後で文句を言われるのも癪なので、とりあえず試して見る事にした。
煉瓦が押し出され、土が雪崩れ込んでいる直径1メートル程の壁の穴に、ニコラウスは板を宛がってみた。だが板は穴より短く、しかも土砂を支えるだけの強度も厚みもない。
「婆さん、これは無理だ。又、今度に……」
ニコラウスが振り返ると、そこに老女の姿はなかった。
「おい、婆さん!」
ニコラウスは板を放り投げて、慌てて扉に手を掛けた。
ガチャガチャ、ガチャガチャ。扉には鍵か掛かっていて、内側から開ける事が出来ない。ニコラウスは剣を抜いて、鍵穴に突き立てた。
カ――ン……。剣は無駄に火花を散らせ、ニコラウスの腕を痺れさせるだけだった。
今度は落ちていた煉瓦で、鍵穴周辺をガンガン叩いた。しかし、煉瓦が粉々になっただけで、鍵にも扉にも何の損傷もない。
終いには、扉の至る所を蹴り、バンバンと体当たりを繰り返した。それでも頑丈な扉は、びくりとも動かない。
「おい、ババァ! なぜ俺を閉じ込める? 俺が誰だか分かってるのか?」
ニコラウスが扉を激しく叩き、叫んだ。だが扉の向うからは、何の反応もない。
「おい聴いてるのか? ババァそこにいるんだろ?」
ニコラウスは、尚も扉を叩き続ける。
「存じております。ボルデン王国皇太子様でいらっしゃる、ニコラウス皇子殿下にございますね」
扉の向うから、背筋を逆撫でするような低く冷たい声がして、ニコラウスの扉を叩く音が止まった。
「なぜ…、俺の名を知っている?」
扉の向うで、老女が続けた。
「私は、ここシュルツ家に、百年前から仕えております、給仕長でございます。
なぜご存知かと? それをニコラウス様が、私に申されますか?
ニコラウス様、この屋敷にこの森に来た事はございませんか? 私に会うのは、本当に初めてでございますか? 玄関ホールの奥様と旦那様の肖像画に、見覚えはございませんか?
…………。
私は覚えておりました。直ぐに、貴方様が皇太子様だと気付きました。ニコラウス様がお持ちの剣には、ボルデン王家の紋章もございました。それを見て、ニコル様がニコラウス皇太子様であると確証致しました。
その紋章が許されるのは、限られたお方のみと伺っております。ですが、何よりこの私が、はっきりとその剣を覚えております」
この剣に見覚えがある? 俺がこの剣を研磨師に出した時、偶然目にしたんだろうか。それとも肖像画か何かで見たんだろうか……。不可解に思いながらも、ニコラウスは老女に言われて、自分の記憶を辿った。
言われてみれば、この森もこの屋敷も、見た事がある様な気がする。しかし、同じ様な森に同じ様な屋敷等、ボルデン国内にはいくつもある。
ボルデンの国自体、内戦が終結し安定したのは、つい最近の事だ。ニコラウスが、国軍に付いて国内を飛び回っていた時期だとしたら、その時に通りすがった森や屋敷等、戦気溢れる少年に、記憶として留まる筈がない。
「ニコラウス様……。そうですか、お忘れでございますか……。ニコラウス様にとって、それはお心に留めるまでも無い、ほんの些細な出来事だったのでございますね。
7年前の“今日”の事でございます。このシュルツ家は、その時ボルデン王家により、滅ぼされました。そして多くの者が命を落とし、又逃げ遂せた者も、後に残党狩りに会いました。使用人達の家族も含めて、この屋敷の関係者で生き残った者は一人もおりません」
「7年前の今日……」
思い出した。それはニコラウスが14の時、ボルデン王国がやっと国として纏まった頃だった。国王が完全に国を支配する為、王族に少しでも逆らう不穏因子を、片っ端から見つけ出してはそれらを一掃した。疑わしき者は、全て切り捨てた。
新しい領地を手に入れたばかりのボルデン王国では、取り戻そうとする周辺国からの脅威に晒されていた。“脅威には脅威を以って”、それが当時王家の方針だった。
新国民にも近隣諸国にも、ボルデン王は桁外れに強くて恐ろしいと、震えさせ黙らせる事が急務だった。故に、反逆者達に反旗を翻す意志と暇を与えてはならないと考え、怪しき者は全て抹殺した。
そんな緊張状態で、内部から結束を崩す事は、国の崩壊を意味する。配下の貴族達は考える猶予も無く、王家に従うか否かの二択を迫られた。
多くが王家に従う中で、シュルツ家は理想を通し、戦争は回避すべき、と提唱した。アベルの父は、使用人を含めたシュルツ家一族、数十人の命を懸けて、戦いを今直ぐ止める様、嘆願した。数百万人のボルデン国民の命を救おうとしたのだ。
だが当時の王家には、戦争を回避するだけの人材も時間的余裕も無い。刻一刻と変わる緊迫した状況に、理想を議論する暇などなかった。
王家一丸となる為、開戦への意志統一が優先した。結果、何十万人の民の命を奪う事になろうとも。
戦士としては未だ幼かったニコラウスも、その時デビューを果たし国中を粛清に回っていた。このシュルツ家も、ニコラウスの父である国王に逆らう一族だと見なし、粛清の対象となった。
「ここは、あのシュルツ家か……」
「そうです。思い出されましたか?
ニコラウス様は、その手で旦那様と奥様を殺害なされました。旦那様は、未だ幼かったニコラウス様に躊躇っておいででしたが、貴方様には少しの躊躇もなかった。人影を見つけ次第、惨殺なさいましたね。泣き叫ぶ女も震え上がる老人も隠れていた幼い子供も……。私は、罪無き人の命を、無差別に大量に奪ったその剣を、忘れる事はありません。この命が尽きようとも、決して忘れは致しません」
抑揚の無い老女の低い声は、ただ淡々とその時の惨状を語った。
「そうか。ここはあの時のクソ貴族の屋敷だったんだな。俺が皆殺しにしただと? 当然の事をしたまでだ。
王家に逆らう者、いや俺に逆らう者は、一人残らずこの世から抹殺する。どこに逃げようとも、どれだけ時が経とうともだ。
子供こそ、真っ先に消さねばならん。洗脳しやすいからな。子供は逆賊どものいい駒だ。
子供は、家族や友人を殺された恨みを糧に、大人になる。大人になって資金と同士を集め、国を引っ繰り返そうと企てる……。国を危うくする最大の危険分子だ。
お前等は俺達の行為を、悪魔だと言って非難するが、どこの国でも同じ様な事はやっている。人類の歴史が始まって以来、ずっとだ。それはこれからも、永遠に絶対に、変わらない。
それに、逆賊どもの家族諸共引きずり出して、公衆の面前で火刑にするよりましだろ。少しも苦しまず天国に送ってやるのは、俺の優しさだ」
ニコラウスは、残忍な笑みを浮かべて言い放った。
ふとニコラウスは、夢の様な理想郷を、現実に推し進めようとするユゼフが頭に浮かんだ。どんな理由であれ、殺人は悪だと断言するユゼフは、ニコラウスにとって、呆れて笑う気にも成れない程甘過ぎる思考の持ち主だった。
「それで? お前は俺をどうするつもりだ。ここに閉じ込めてジワジワと痛め付け、俺に復讐したいのか? 俺を殺したって、何ひとつ元には戻らん」
「旦那様や奥様は、復讐等とそんな愚かな事は望まれません。ニコラウス様には、暫くそこに居て頂きます」
「暫く? 暫くとはどの位だ? 一時間か? 一晩か? それとも、10日、1年、10年……。やはりここで俺を殺す気だな」
ニコラウスは、アベルと一緒にいる筈のユゼフを思い出した。
「おい、ユゼフは今どうしてる! あいつはシュルツ家とは何の関係もない。帰してやれ!」
バン! ニコラウスは、扉を強く叩いた。
「ご心配には及びません。ユゼフ様に危害は加えません。ユゼフ様が、アベル様の機嫌を損ねる事がない限り……」
ニコラウスは、何か嫌な予感がした。そもそもこの屋敷に一歩踏み入れた時から、ずっと気分は悪かった。
「それはどう言う事だ! ユゼフに手を出してみろ。今度こそ、この屋敷をぶっ潰してやる!」
ガン! 踵で扉を思い切り踏み付けた。
「おい、ババァ! 何とか言え!」
扉を叩いても蹴っても、何の反応もない。耳を澄ませても、地下室の階段を登って行く足音は聞こえなかったが、扉の僅かな隙間から蝋燭の灯りは見えない。この扉の向うに、老女はもういない。ニコラウスはそう確信した。
ニコラウスは、壁の燭台を取って、室内を照らした。もう一度、壁の穴に触れてみた。土は固く締まっている。叩いてみたが、ぽろぽろと小石が落ちるだけだった。掘った所で埒が開かない事は、火を見るよりも明らかだった。
部屋の奥へ行ってみた。行き止まりだ。壁を掌で舐めてみた。どこかに抜け穴がないか、隠し通路がないか探った。…………手で壁を、綺麗に掃除しただけだった。
再びぐるりと見回すと、鼠の屍骸に混じって夥しい数の人骨が、そこらじゅうに散らばっていた。
突然、思い出した。
「そうか。俺はあの時、この地下室に使用人達を追い込んで、一気に片付けた。この骨は、あの時のものか?」
ニコラウスは、忌々しげに頭蓋骨を蹴り飛ばした。
「何か、扉を抉じ開ける固いモノはないのか」
ニコラウスは、埃塗れの瓦礫を蹴散らして、何か無いかと探回った。
突然、地下室の空気が変わった。ニコラウスにもはっきり感じる程、冷たく重苦しい。ニコラウスは、辺りを睨み付けた。風も無いのに炎が大きく揺れ、バッと勢い良く燃え出した。ニコラウスのものではない幾つのも影が、ニコラウスに腕を伸ばして、壁で踊っている。
まるで生きている様な空気が、ニコラウスに纏わり、絡み付いて息苦しさを感じさせる。ポロポロと壁が崩れ、何かが、ガチャンと落ちて割れた。カチャカチャと骨がぶつかる音や、カタカタ、ガタガタ、バタン、という物音が、部屋のあちこちでする。それらは段々大きく激しくなった。
天井の影が、大きな口を開けて笑っている。白い靄が、ニコラウスの周りを踊り回る。蹲りたくなる程の激しい目眩と耳鳴りが、ニコラウスを襲う。
その場から逃げようと藻掻いても、呪いがかけられたのか、ニコラウスの脚は一歩も動かない。肩が重い。息が苦しい。目が霞み景色が歪む……。
ガチャン、ガチャンと大きな金属音がして、ニコラウスは音のする奥を見た。隅に追いやられていた錆びた甲冑が、剣を携えて、ゆっくりとニコラウスに向かって来る。
ニコラウスは甲冑を睨み、痺れる手で剣を抜いた。渾身の力を以って、刃を天井に向け真っすぐ伸ばし、王家紋章を掲げた。刃は、怪しく灯る炎を反射した。
パ――っと、刃から強い光が広がった。青白い炎の様な光線が、部屋の悪気を炙り出す。
刃に邪気が次々と吸収される。それらは光になって、四方八方に突き刺さる。同時にニコラウスも、強い視線で辺りを睨み付けた。声は聞こえないが、悪霊達が逃げ惑い叫びながら粉々になって行く気がした。
「騒ぐな!」
ニコラウスの大きな声が、地下室に木霊する……。
一瞬、物も音も炎も影も、空気すらも停止した。そして木霊が止むと同時に、思い出した様に再び辺りは騒がしくなる。影がすーっと壁から出てきて、ニコラウスの周りで踊りだし、風が沸き起こり、炎はさっき以上に燃え盛る。ガタガタゴトゴトと、骨や物が耳障りな騒音を奏でる……。
だがニコラウスは、その様子にニヤリと笑った。
「安心しろ。俺がもう一度、この剣でお前等を天国に送ってやる。心配するな。俺が死んだら地獄行きだ。この世が終わっても、二度とお前等に遭う事はない」
ニコラウスは、大きく息を吸い込んだ。腕に渾身の力を込める。
「逝け――――――――――!」
耳を劈くようなニコラウスの声が、地下室を揺るがせた。振り下ろされた剣は粉塵を巻き上げ、光をも砕く。淀んだ空気を両断した。すると、分断された空気が一斉にニコラウスに襲い掛かる。彼を呑み込もうと、風が強まり渦を巻く。
「うろたえるな!」
ニコラウスは、纏わり絡み付く霊たちを払拭する様に、再び剣を真上に振り上げた。剣は、再び一つになろうとする空気を断ち切った。風は急激に弱まり、炎の勢いも無くなった。
風が治まると同時に、剣の周りに小さな白い靄が無数に集まって来た。それらは全て、刃に吸い込まれていく。
部屋に漂う靄を全て吸収した剣は、今度は鈍く光る刃の先端から、音もなく沢山の火花が飛んだ。それらは一瞬、暗い地下室を眩しく照らし、キラキラと散ら張って、天井へと吸い込まれて行った。
刃から再び現れた小さな白い影が、天井に吸い込まれて行く瞬間、ニコラウスに向かって、バイバイ、と手を振っている姿に見えた。
白い靄も黒い影も光も、全て天井に消えてなくなると、何事も無かった様に、地下室には静けさが戻っていた。ニコラウスは鈍く光る刃を見詰め、ふっと笑って剣を鞘に収めた。
「ババァめ、こいつ等に俺を襲わせたのか……。いや違うな。こいつ等をここから天国に追い出したかったんだ。
ふん。この俺様が、ババァの計略にまんまと乗せられたってわけか。まぁ、癪だが適任だ」
カチャッ。ニコラウスは、後ろで鍵の音がして振り返った。
「おい、婆さん」
ニコラウスが扉に駆け寄って、ノブに手を伸ばした。触れようとした途端、扉はすーっと開いた。だが、扉の前にも階段の先にも、誰も見つける事は出来なかった。
ユゼフは、振り子時計の下でアベルとチェスをしていた。ソファから身を乗り出して、二人でチェス盤を睨む。
「チェックメイト! やったー、又僕の勝ち! 母さま、弱いなぁ」
「アベルは強いね。私は負けてばかりだ」
勿論、ユゼフはアベルに分からない様に、手加減している。
「アベル様。もう遅いですから、お休みなさいませ」
ユゼフは、いつの間にかやって来た女給の老女に驚くと共に、真上にある振り子時計を見上げた。いつの間にか、短針は10時を回っている。
「もう10時を過ぎている。アベル、子供は寝る時間だ。チェスは又明日やればいい」
「え――っ、やだよ、まだやりたいぃっ!」
ユゼフは、駄々を捏ねるアベルを宥めながら、テーブルの上のチェスの駒を片付け始めた。片付けながら、ユゼフはある事に気がついた。
昼前に、ニコラウスとこの屋敷にやって来てから、半日は過ぎた事になる。なのに、女給からはお茶もディナーの誘いもない。ユゼフは水すらも口にしていない。なのに、飢渇感は全くない。それどころか、半日もここにいた感覚が無い。せいぜい2時間程しか経っていない様に感じていた。
「明日じゃやだー。今やりたい。もっと母さまと一緒にいたい!」
ソファに噛り付くアベルに、片付けが終わったユゼフは微笑んだ。
「仕方ないな。それならアベルが眠るまで、傍で子守唄を歌ってあげるから」
「え? ホント? 母さまが唄を歌ってくれるの?」
アベルはソファから飛び降りて、両手でユゼフの腕を掴み、目を輝かせた。
「歌ってあげるよ。だからアベルも早く就寝の仕度をしなさい」
「はーい。じゃ、部屋で着替えて待ってる。僕の部屋は忘れてない? 2階だから。直ぐ来てね、母さま!」
アベルはユゼフに手を振って、元気良く階段を駆け上って行った。
「ユゼフ様、アベル様が我侭を言いまして、申し訳ございません」
「いいえ。一晩アベルの母親代わりになる位、何でもありません。一夜の宿のお礼に、是非やらせて下さい。
それでひとつお訊きしたいのですが、以前にもアベルが間違えて、この屋敷に母親似の女性を連れて来た事はありますか?」
アベルがユゼフに向かって“今度こそ”本物の母さまだ、と言った事が、ユゼフの頭に引っ掛かっていた。
「はい。アベル様は、この森を通る若い女性を捕まえては、母親だと言って、この屋敷に連れて来られました。
奥様が亡くなられた事は、アベル様自身、既に分かっていらっしゃると思います。ですが、もういない、もう会えないとは思いたくないのでしょう。毎日待ち続け、ずっと探しております」
「その女性の方達は、アベルの誤解を解いて、すぐに帰られたのでしょうか」
「直ぐに帰った方もございました。アベル様がシュルツ家の当主だとご説明さしあげると、アベル様を引き取りたい、この屋敷で一緒に暮らしたい、と申し出て下さる方もございました。
ですがアベル様は、ほんの僅かな疚しい心も見通してしまわれる。結局、皆追い返してしまわれました」
「そうだったんですか……。ところでアベルはいくつですか? 5歳くらいに見えますが」
「はい、アベル様は、5歳のまま時が止まってしまいました」
「え? それは、どういう……」
「ユゼフ様」
ユゼフの疑問は、老女にに遮られた。
「ユゼフ様でしたら、アベル様をお願い出来ます。私は、いつまでもここにいる事は出来ません。ですが、アベル様を一人にする訳にもまいりません」
「アベルに、親戚はいないのですか?」
どの貴族も、血縁関係を広げてその地位を磐石なものにしようとする。シュルツ家も当然そうであり、遠縁を探ればいくらでもいるだろうと、ユゼフは思った。
「残念ながら、シュルツ家はボルデン王家からあまりよく思われておりません。ですので、アベル様を養子に、と申し出て下さる親族を、見つける事が出来ませんでした」
「そうなのですか……」
「ですから、ユゼフ様になら……」
ユゼフは、申し訳無さそうに苦笑した。
「私にも、アベルを哀れに思う気持ちはあります。それに、由緒正しいシュルツ家の嫡子を預かる等、大変光栄な事です。ですが私には、アベルより前に守らねばならない多くの民がいます。
私は、彼等とその家族を、飢えや寒さ、疫病災害から守らなければなりません。彼等の家や財産を護り、争いの無い穏やかな国にしなければなりません。それが、神から与えられし私の使命なのであり、私はその為に生まれて来たのですから。
そしてそれは残念ながら、ここボルデンの民ではありません。アベルを護るのは、私ではなくニコラ……、いえボルデンの王族ですから」
ユゼフが国民の話をする時は、必ず表情が穏やかになる。ユゼフが、いかに彼等を愛しているかが、容易に窺われた。
「羨ましい。ユゼフ様が作られる国は、この先も何十年何百年と、平和が続くのでしょう」
「そうなれば、と願っております」
ユゼフの父が治めるアルギス王国は、四方を険しい山に囲まれ、気候は厳しく資源も無い。雪が降ると完全に隣国から閉ざされてしまう、貧しい小さな国だ。だがその悪条件が功を奏して、他国から興味を持たれず侵略も受けずに、長い間平和を保ってきた。
長い平穏は、貧しい国民の生活を向上させる。農機具が発達し、作物や家畜の品種改良が進む。祭り、音楽、服装、料理と独自の大衆文化も育む。学校、病院、各種インフラも整い、優秀な人材も育つ。こうして何も無かった貧しい国アルギスは、徐々に豊かになっていった。
戦争は、民の命を脅かすだけでなく、国の財政を圧迫する。国民の為に使われる筈の予算は、戦争に注ぎ込まれてしまう。そんな無駄使いはしたくない国王は、近隣諸国との争いに捲き込まれぬよう、知恵で国民と彼等の家や財産を護って来たのだ。
そんな父はユゼフ自慢の国王であり、ユゼフにとってアルギス王国は、何にも換え難い、自分の命すら惜しくない大切なものだった。
「ユゼフ様は、なぜニコル様とご一緒におられるのですか? 失礼ですが、余りにも……」
事務的に喋る無表情の老女が、口を濁す様子に、ユゼフは失笑した。
「言いたい事は分かります。成り行きとはいえ、私自身が不思議に思っている位ですから」
その時、二階から待ち切れず叫ぶアベルの声がした。
「母さま、早くー! 何してるの?」
ユゼフは、やれやれと首を竦めて、老女に挨拶をした。
「では、アベルを寝かし付けてきます」
アベルの部屋は子供らしく、壁にはぬいぐるみや人形や絵本が沢山並んでいた。部屋の隅には、積み木や木の玩具もある。シーツもカーテンもカーペットも、可愛らしい動物柄だった。
お盆位の大きさの人物画が、壁に掛かっていた。絵の女性は、玄関にあった肖像画と同一人物に見える。
この女性がアベルの母親なんだな。ユゼフは、玄関にあった女性の肖像画を思い出した。
アベルは既にベッドに入って、ユゼフに自分の隣に来るようにと、布団をポンポン叩いている。
「早く早く!」
いつもは、ニコラウスに早くベッドに来るようにと催促されているユゼフは、今夜の可愛い閨の相手に、くすりと笑った。
ユゼフはアベルの隣に腰掛けて、アベルの赤毛を掻き上げた。アベルは嬉しそうに、キラキラした瞳でユゼフを見詰めている。気が付くと、アベルの瞳もユゼフと同じ青紫色だった。
そうか。きっとアベルのお母さんも、アベルと同じ瞳をしていたんだ。それでアベルが、同じ色の瞳を見つけて私を母親だと信じたんだろう。ユゼフは納得して微笑んだ。
ユゼフは赤毛を撫ぜながら、物音を立てないように静かに、囁くような小さな声で歌い始めた。
ユゼフの声は、鈴虫の声のように小さい。けれど澄んだ高いソプラノは、屋敷中に響き渡る。優しく柔らかな声は、開け放した窓から森にも流れて行く。
ユゼフの歌声は、人も虫も動物達も、耳にしたもの全ての動きを止める。森の暗闇を歩き回る獣達も足を止め、声のする方へ振り返った。梟が、丸い目と首をグルグル動かして、ユゼフの声に反応している。森の木の葉は囁く事を止め、夜風も止まった。夜空を飾る星さえも、瞬きを止めたようだった。
アベルは直ぐに眠りに就いた。お母さんの夢でも見ているのだろうか。穏やかで楽しそうな笑みを浮かべている。ユゼフは、アベルの口に入りそうな赤毛を掻き上げ、布団から出ている小さな腕を、そっと仕舞う。布団を、アベルの襟元まで引き上げた。
アベルが深い眠りに就いた事を確認して、ユゼフは冷たい夜風の入る窓を閉め、蝋燭の灯りを、ふっと吹き消した。
「お休み、アベル。いい夢を」
チュッ。ユゼフはアベルの額にキスをして、静かに部屋を出た。
地下室から脱出したニコラウスは、嫌な予感に目の前の階段を駆け登った。地下入り口の扉には、又鍵が掛かっているかもしれない。ニコラウスは階段を駆け登った勢いで、バーン、と扉に体当たりした。
扉はあっさり開いたが、ニコラウスの目の前に、さっきとは違う見知らぬ廊下が、ずっと先まで続いている。
「どこだ、ここは!」
それでも、地下に戻る訳には行かない。躊躇している暇は無い。ニコラウスは廊下を走った。
幾つもの曲がり角に、判断を迷わせる分岐。壁にも天井にも窓は無く、同じ様な廊下が延々と続く。壁に掛かる人物画が、焦るニコラウスを嘲笑っているようだ。
ニコラウスは、幾度と無く行き止まりにぶち当たった。その度に、勢い余ってぶつかり、壁に跳ね飛ばされた。
「くっそー!」
弾き飛び尻餅を搗くニコラウスは、行く手に立ち開かるその壁を、忌々しげに蹴り飛ばした。直ぐに身を翻し、来た路を走る。無表情で無機質な廊下は、狭い迷路となり強い圧迫感を与える。天井も壁も段々狭まって、ニコラウスを押し潰そうと迫って来る気がした。
何度も出会う同じ肖像画。だがニコラウスが目にする度に、その肖像画の表情が変わっている。ツーンと澄ますその顔は、ニコラウスが屋敷に甚振られている様子に、必死に笑いを堪えていた。
振り返る気なんか毛頭無いが、俺の後ろにはきっと何も無い。真っ白か真っ黒だ。足を止めたら俺は呑み込まれる。この屋敷は、その瞬間を待ち侘び楽しんでいやがるんだ。ニコラウスは、そう感じて苦笑した。
「ばばぁ! どこ行った! 俺に何をしたい!」
ニコラウスは走りながら、剣に手を伸ばした。
その時、聞き覚えの有る歌声が、微かに耳に届いた。澄んだ高いソプラノ。ニコラウスはハッと立ち止まり、その声に耳を澄ませる。聞き取り難い小さな声。だがそれは、確かにユゼフの歌声だった。
ニコラウスがユゼフと出合ったのも、彼女の歌声がきっかけだった。アルギスの村を偶々通ったニコラウスが、賛美歌を歌う美声に引き寄せられ、村の小さな教会でユゼフと出会った。今再び、ニコラウスはユゼフの歌声に導かれて、迷路の様な廊下を進む。
ユゼフの歌声が響く廊下は、急に穏やかな雰囲気に変わった。圧迫感が無くなり、幅も天井も広がった気がした。蝋燭の灯りも優しくなった。肖像画の人物は皆目を閉じ、ユゼフの歌に聞き入っている。幾つもあった分岐が消え、廊下はひとつになった。
ニコラウスは、ユゼフの声を辿ってアベルの部屋の前まで来た。ニコラウスが、戸に手を伸ばしてアベルの部屋入ろうとすると、歌が止まった。続いて扉が開き、部屋からユゼフが出てきた。
危害を加えられた様子の無いユゼフに、ニコラウスはほっと胸を撫で下ろす。
「なんだ、ニコラウス。壁の修理はもう終わったのか?」
「壁の修理?」
そうか。俺は大工の真似事をしに、地下室へ行ったのか。ニコラウスは、何故自分が地下室へ行ったのか、思い出した。
ユゼフが、ニコラウスの汚い格好を見て、噴き出した。
「らしくなく随分頑張ったんだな。全身埃塗れで、ニコラウス自慢の黒髪もグチャグチャだ。煤で顔も真っ黒だし、服も破けてる。ボルデン一の伊達男が台無しだな。それで、怪我はないのか?」
「怪我か? ああ、大丈夫だ。地下室は、一匹残らず綺麗に片付けてきたさ」
「一匹残らず? ……。まぁいい。ニコラウスでも、一応役には立ったんだな?」
「かなりな」
ニコラウスは、意味ありげに笑った。
「母さま? 母さま? ……母さまはどこ?」
アベルの部屋から、ユゼフを呼ぶ悲痛な叫びが聞こえて来た。ユゼフは、その声に肩を竦めた。
「ヤレヤレ、王子様がお呼びだ」
ユゼフは苦笑して、アベルの部屋のノブに手を掛けた。
「ユゼフ、待て!」
ニコラウスが、咄嗟にその手を制止した。
「何だ? アベルに妬いてるのか? 安心しろ。朝まで一緒にいる訳じゃない。アベルを寝かし付ける間だけだ。ニコラウスのお守りは、後でしてやる。待っていろ」
ユゼフは笑って言うと、アベルの部屋に入って行った。
「ユゼ……」
ニコラウスは、ユゼフに続いてアベルの部屋に入ろうと、締まり掛けた戸に慌てて手を伸ばした。
「ニコル様は、こちらでお休み下さい」
背後から老女の声がして、ニコラウスは驚いて振り返った。老女は、何事も無かったかのように無表情で立っている。
「ばばぁ! よくも俺を」
「どうかなさいましたか? 私に何か御用でもございましたか? 私でしたら、ずっとアベル様のお側におりましたが」
「よくも、抜け抜けと」
バン! ニコラウスは拳を握り締め、老女の頬を掠めて彼女の背後にある壁を殴った。だが老女の表情は全く変わらず、瞬きすらしない。白々しい老女に、ニコラウスは腕を壁に押し付けて、彼女に顔を近付けた。
「地下室の鍵を閉めただろ!」
「地下室、でございますか? 私はそんな所に、ニコル様をご案内した覚えはございません。そもそもこの家に、地下室はございません」
「俺に、壁の修理をしろと言ったじゃないか」
「申し訳ございません。ニコル様の仰る事が、私には理解出来ません」
態度も変えず淡々と答える老女に、ニコラウスは混乱した。
俺がおかしいのか? あれは幻覚だったのか? 夢だと言うのか? ……だとしたら、俺は今迄どこにいた?
いいや、幻覚なんかじゃない。俺は確かにこのばばあに地下室に閉じ込められた。現に……。そう思いながら、ニコラウスは自分の服装を確認した。
しかし、血が滲んでいた筈の手の擦り傷は、なくなっていた。陶器の破片で切った傷も、釘の刺し傷もない。髪も整っていて、服の汚れや綻びも、全て無くなっていた。
おかしい。確かに俺は……。ユゼフがニコラウスを見て、汚い、と言った事を、ニコラウスはすっかり忘れていた。
ニコラウスは、急に自信が無くなった。老女に後ろめたさすら感じ、すごすごと腕を下ろす。
「こちらでございます」
老女は、狐に抓まれた様な表情のニコラウスには構わず、アベルの隣の部屋を案内した。
その部屋は、普通の客間だった。ツインベッドに、鏡台、クローゼット、ソファにテーブル、カップボード。大きな窓の先には、バルコニー。
「そこに居ろ」
ニコラウスは、一礼して部屋を出て行こうとする老女に、その場にいるよう指を差した。
ニコラウスは、念の為部屋を調べた。鍵や窓やベッドの下、家具の後ろ、バルコニー。外の真っ暗な森を見ながらバルコニーの下を確認した。
この高さなら、ユゼフを抱えて飛び降りられる。ニコラウスは目を凝らして、アポロのいる厩の位置も確認した。
ニコラウスは、部屋に納得して老女を下げた。
ニコラウスは溜め息を吐きながら、ドカッとソファに座った。ソファの前のテーブルに、水差しが置いてある。
考えてみれば、ここに来てから何も口にしていない。喉も渇いていた。ニコラウスは、水差しに手を伸ばして……。止めた。
何が何だがさっぱり分からず、ニコラウスはソファの背凭れに頭と両肘を掛け、ぼーっと天井を眺めた。ユゼフの歌う子守唄が、開けた窓から流れて来る。心地良い声音に、ニコラウスの緊張も解れ、眠気を誘う。
ここは本当に、あのシュルツの家か? 俺は本当に、ここに来た事があるのか? 地下室での出来事を思い返した。
あれが幻想だとは、とても思えん。俺自身が忘れていた事を、あの地下室が思い出させたんだからな。
地下室で婆さんが言っていた事が本当なら、7年前確かに俺は、玄関の肖像画にあった女を殺した。俺が先頭に立って、逃げ惑う使用人達を容赦なく惨殺した。そうか、あの肖像画の女が、アベルの母親か……。
待てよ。確かあの時、女の後ろに隠れていた子供……。あれはアベルか? ……だとしたら、アベルは今何歳だ? ニコラウスの背筋に、すーっと冷や汗が伝う。
いや、そうじゃない。あの時俺は……。
その時、子守唄を歌うユゼフの声が止まった。ニコラウスは険しい表情で、バンとソファから立ち上がった。剣を抜き、部屋から飛び出した。
思い出した。あの時俺は……。俺はこの剣で、アベルの首を刎ねた。
「ユゼフ!」
バーン! ニコラウスは、アベルの部屋の戸を突き破った。
部屋に足を踏み入れたニコラウスは、ギョッとした。顔を背けたくなる腐敗臭。壁一面に並べられたシャレコウベ。滅多切りにされて、誰だがわからない肖像画。床も壁も窓も朽ち掛けていて、床にガラスやレンガの破片が散乱している。
「アベル!」
アベルは抜け落ちそうなベッドで、眠っているユゼフにギュッと獅噛み付いていた。
「いやだ! 母さまは渡さない!」
「アベル、それは母さんじゃない! お前の母さんはとっくに死んだ。アベル、あの時お前も、お前の母さんと一緒に死んだんだ!」
「うそだ! 母さまはここにいる。この人が僕の母さまだ!」
アベルが叫ぶと風が湧き起こり、窓がバタンバタンと煽られた。
「嘘じゃない! 俺が―っ! 俺がお前とお前の母親を、この手で殺した!」
「嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ――っ!」
アベルの声と共に風は更に強まり、部屋に吹き荒れ、蝋燭の炎が掻き消された。
「お前はここにいるべきじゃない! 母さんを探したって見付かる訳がない! お前の母さんは、とっくに天国だ!」
「違う。違う違う、違う! お前、うるさい! お前なんか、消してやる!」
アベルの瞳が、真っ赤に変わった。部屋中の空気が轟々と渦を巻き、ガラスの破片や崩れた煉瓦、壁のシャレコウベ等が、一斉に舞い上がる。
風の勢いは強く、粉塵が視界を塞ぐ。ニコラウスは、息も出来ず目も開けられない。立っているのが精一杯だ。飛ばされそうな身体を保とうと、掴んだ壁はバキバキと剥がれて舞い上がった。
「この人は僕の母さまだ! 今度こそ、本当の母さまだ!
皆……。皆僕を置いて行くんだ。僕の母さまじゃないって言うんだ。僕が好きなんじゃなくて、皆この家が欲しいだけなんだ。誰も僕を好きだって、言ってくれない……。
そして皆、僕に黙って帰ろうとする……。そんなの、僕は、絶対絶対許さない!」
アベルの部屋に散乱するシャレコウベ。舞い上がる人骨。それらは皆、アベルの受け入れを拒否した女達の物だと、ニコラウスは確信した。
「アベル! 俺が又天国に送ってやる。お前を天国の母さんの所に送ってやる! だから迷うな! 男だったら真実から逃げるな!」
強い風が吹き荒れる中、ニコラウスは両脚を踏ん張り、なんとか剣先をアベルに向けた。
「うるさい! お前なんか、死んじゃえ!」
風に舞っていたガラスの破片や煉瓦や木片、シャレコウベ等が、一斉にニコラウスに向かって飛んだ。ニコラウスは、それらを剣で叩き落すが、一部は手足や頬を傷付けた。
「ユゼフ――! ユゼフ起きろ! いつまで寝てるんだ!」
アベルは、ユゼフの心を閉じ込めるように、しっかりと獅噛み付いている。ニコラウスがどんなに叫んでも、ユゼフに目醒める気配がない。
ニコラウスがアベルを叩き斬ろうにも、アベルはユゼフに隠れるようにして抱き付いている。アベルの盾になっているユゼフが邪魔になり、アベルに刃が届かない。ここで無理矢理アベルを斬り捨てれば、ユゼフも無事では済まない。下手したら、ユゼフの命も奪ってしまう。
チッ。ニコラウスは舌打ちをした。
ニコラウスは、ユゼフの腰の当たりから一気に刃を振り上げた。ニコラウスに迷いは無い。刃はニコラウスに忠実に、鈍い音と共にユゼフの背中を引き裂き、血飛沫を舞い散らす。仰け反るユゼフの服に血が滲む。それは見る間にユゼフの背中に広がって行く……。剣に滴るユゼフの血が、刃を伝って風に舞いニコラウスの頬を染める。
「うっ」
ユゼフは、ニコラウスに斬り付けられた背中の傷に、顔を顰めた。容赦ない深さの傷に、呼吸が苦しい。しかし、正気に戻ったユゼフの目にアベルの部屋の光景が飛び込んで、傷の痛みはどこかに吹き飛んだ。
「これは一体……。お前は、アベル、か?」
ユゼフに獅噛み付く、黒い塊。ユゼフは、その塊の中の異様に赤く光る二つの点を見詰めた。
「ユゼフ、そいつから離れろ!」
ニコラウスの声に、ユゼフは振り返った。ズキン。背中に激痛が走り、ユゼフは動きを止めた。
「ダメだ。母さま行っちゃだめ! 僕を置いてかないで! 僕だけの母さまでいて!」
ニコラウスは、目覚めたユゼフの腕を無理矢理引っ張り、アベルから奪い取った。再びアベルに奪われない様、ユゼフをしっかりと抱え込む。
「いやだ。母さま、母さま、母さま」
アベルは泣き叫び、その声は森へ木霊した。すると、森が急に騒がしくなった。
森に、嵐の様な強い風が吹き荒れた。木々は大きく撓り、小枝や木の葉が渦を巻いて舞い上がる。警戒する動物達の、甲高い奇声が響く。月も星も見えなくなって、森は漆黒の闇に包まれた。
「母さま行かないで。お願いだから僕を置いて行かないで。又僕を一人にしないで。僕良い子でいるから。母さまの言う事、ちゃんと聞くから。
僕もっと勉強する。もっとお手伝いする。歯磨きも一人でする。だから……。
母さま、母さま、母さま――――――――!」
アベルの悲痛な叫びと共に、メリメリと壁が壊れ、窓が吹き飛んだ。ベッドもタンスも椅子も机も、部屋中の全て物を舞い上げて、轟々と渦が巻く。渦は爆発的に広がり高くなり、竜巻になって屋敷中を巻き込んだ。隣の部屋の床が飛び、廊下の壁が飛び、屋根裏部屋毎、屋根が飛ぶ。白い靄や燃え盛る炎も、渦に捲き込まれて行く。その渦に浮かび上がる、幾つのも影達……。
その規模は、ニコラウスが地下室で遭遇したモノの、何百倍も強い力だった。王家の剣を持ってしても、今のニコラウスにこれほどの強い力を、一人で治める自信はない。今のアベルを打ち負かす力はなかった。
母親を求めるアベルの手が伸びて、ユゼフに迫る。そうはさせるかと、ユゼフを守る。
ニコラウスは、煉瓦やガラスの応酬からユゼフを守り、盾となる。ニコラウス自身が瓦礫達の的になった。自身の傷かユゼフの傷か、ニコラウスの全身は血に塗れた。
ガツン。何度目かの、煉瓦の直撃を脚に受けた。痛みに、半歩足が下がる。一瞬爆風に、ユゼフ毎身体を持って行かれそうになり、痛む両脚で踏み留まった。飛ばされないように、ユゼフをアベルに奪われない様に、ユゼフを片手でしっかり抱きかかえ、威嚇するように剣先をアベルに向け続けた。
「アベル! 何度も言わせるな! こいつはお前の母さんじゃない!」
「母さま、母さま、母さま……」
ユゼフには状況が理解出来ない。すっかり変わった屋敷内や黒い塊のアベル、崩壊していく屋敷を呑み込む暴風。それと、脈打つ背中の激痛。痛みのせいで、たとえ風に煽られなくても、ユゼフは自力で立てそうにない。ニコラウスに支えられ、やっと立っていた。
ニコラウスに阻まれて、アベルの手はユゼフに届かない。茫然とした表情で立ち竦み、首を小さく振り、ユゼフに伸ばした手を弱々しく引っ込めた。一人残され泣き疲れた迷児の様に、掠れた声で何度も何度も母親を呼ぶ。
叶わない想いに、アベルの瞳は青紫色に戻り、綺麗な涙がポロポロと頬を伝う。風が勢いを弱め、舞っていた物がボトボトと床に落ちた。
「かあ…さ、ま……」
アベルの声が、涙に遮られて言葉にならない。アベルは、その場にぺたんと座り込み、項垂れた。両手で涙を拭い、ヒクヒクとしゃくり上げて小さな声で泣いている。もはやアベルの声は音にはならず、口だけが、呪文の様にパクパクと動く。
その様子に、ユゼフはニコラウスの腕を払い、ニコラウスから離れてアベルに手を差し伸べた。
「母さま……」
アベルは立ち上がって、嬉しそうにユゼフの手を取った。ユゼフがアベルを抱き上げると、アベルは安心したように目を閉じ、ユゼフの胸に顔を埋めた。
ユゼフは、子供の姿に戻ったアベルの赤毛を優しく撫ぜる。帰って来た、と顔を上げて確認するアベルの、キラキラした瞳。その瞳を見詰めて、ユゼフは小さく頷いた。ニコラウスには、アベルを抱いて凛と立つユゼフの背中に、深い傷がある様には見えなかった。
風が完全に止まった。舞っていた枕の羽も、ふわりふわりと床に落ちた。
二人は不思議な光に包まれた。淡い光は段々広がり強くなる。あれ程強かった悪気は、全く感じられない。そしてアベルを抱くユゼフの姿は、まるで聖母マリアだ。いつの間にか屋敷全体が、聖書の一場面の清らかな光景に変わっていた。
そしてアベルとユゼフの二人は、光に吸い寄せられるように、ニコラウスの側をすーっと離れて行く。
ニコラウスが、あれ程強く抱きかかえていたにも関わらず、すっと腕から放れていったユゼフに、ニコラウスは自失呆然だった。全身の力が抜け、腕はだらりと下がる。両手の握力も抜け、剣がガチャン、と下に落ちた。
そう、ユゼフはニコラウスではなく、アベルを選んだのだ。ニコラウスは認めたくなくて、二人を凝視し小さく首を振った。
「なぜだユゼフ……。なぜ俺の腕を解いた……。そんな、事は……。ダメだ許さない……。行くなユゼフ……」
ユゼフを巡って、アベルとニコラウスの立場が逆転した。
「行くな、これは命令だ! お前は、お前の大切なアルギスも見捨てるつもりか!」
ニコラウスは、一刻も早くユゼフを取り返したい。だが肝心の腕も脚も、ちっとも動かない。ユゼフとアベルが少しずつ離れて行くのを、ただ見ているだけだった。
「ユゼフ、俺にはお前が必要だ。アベルは死んだ。だが俺は生きている! これからも俺は生き続ける。だから必要なんだ。俺はお前が必要なんだ!」
しかしユゼフは、アベルの瞳を見詰めたまま、視線を外さない。二人には、まるでニコラウスの声が聞こえていない、いや、二人の世界にニコラウス自体が存在していない。ニコラウスの言葉とは裏腹に、笑顔で見詰め合う二人は、誰が見ても本物の親子だった。
「ユゼフ、戻って来い、戻って来い、戻って来いーっ!」
俺はこのまま、ここでユゼフを失うのか?
ふっと、ユゼフとの出会いが、頭に浮かんだ。それに続き、舞踏会、御前試合、ユゼフの秘密を知った時、ユゼフを始めて抱いた夜……。ニコラウスの思考に、その時々のユゼフが蘇る。人は、大切なものを失う瞬間、沢山の想いが溢れ出すと言う……。
違う! 違うぞ! たとえこの命が費えても、ユゼフを失うなんて事は、絶対に無い! ユゼフ、ユゼフ、ユゼフ。俺はお前を……。
「愛してる!」
ニコラウスの必死の叫びが、ユゼフとアベルの動きを止めた。ユゼフはニコラウスにゆっくりと振り返った。
「心配なさらなくても大丈夫です、ニコラウス様。ユゼフ様は、ちゃんとお返し致します」
ユゼフは、ニコラウスに向かって微笑んだ。彼女の姿形はユゼフだったが、声は聞き覚えの無い女のものだった。
「お前は誰だ?」
「私は、ルイーゼ・フォン・シュルツと申します。この子の、アベルの母親です。私はこの世に在らざる者。ですので申し訳ありませんが、ユゼフ様のお体をほんの少し、お貸し下さい」
「お前がアベルの母親? 本当か?
……だがそれが本当なら、お前は俺に殺された。アベルも俺が殺した。お前は俺が憎い筈だ。なのにそんな戯言を俺に言うか?
誰が信じる! サッサとユゼフを返しやがれ。その代わり、俺の命はくれてやってもいい」
「お間違えなさいますな。私も主人も、人の命を奪うような、幸せを壊すような争いは好きではありません。そんな事、シュルツ家の者は誰一人望んではおりません。
たとえ、それが敵討ちであったとしても、争いに変わりありません。自分の都合を優先して、他人の平和を壊す事は、あってはならないのです。
私達の命を以って、戦争に終止符を打てたとしたなら、私達はボルデン王家を恨みは致しません。この子も含めた私達の命が、ボルデンの平和の礎となるのなら、それで充分なのです。
将来ボルデンの王となられるニコラウス様が、私達の命を無駄にしないとお考え下さるなら、シュルツ家一同、安心して天国からボルデンを見守っていられます」
「シュルツ家を皆殺しにした事は、俺は今でも後悔していない。14歳の小便臭い餓鬼が、その時どんな事を思っていたかなんて、今の俺には記憶に無いがな。それでもあの時は、それがボルデン安定の為の、最善策だったと今も信じている。
そうか、お前達は……。
約束しよう。シュルツ家の命は無駄にしないと。もう、あのような惨劇が二度と起こらない国にすると」
ニコラウスは落とした剣を拾い、ルイーゼに向かって突き出した。
「神に召されしシュルツ家の皆に誓う。この王家の剣に懸けて」
「ありがとうございます、皇太子殿下」
ルイーゼは、アベルを下ろしてニコラウスに跪いた。アベルは、悪さをした子供の様に、叱られるのではないかと、ルイーゼの背中から顔を半分、そーっと覗かせている。
「だがしかし、お前はなぜもっと早くアベルを迎えに来なかったんだ? そうしていれば、森を通る女達が犠牲になる事もなかった」
「それは……。亡くなられた女性とその家族には、大変申し訳なかったと思っております。ですが……。
この屋敷に未練を残す魂が、私の邪魔をしていたのです。アベルは、紛れも無いシュルツ家の当主。アベルがいなくなれば、シュルツ家はお終いです。
使用人の中には、何代にも渡ってシュルツ家に仕えた者もおりました。シュルツの屋敷が、人生そのものだった者もおりました。愛すべき彼等は、自分が殺される意味すら分からずに、一瞬にして何もかも奪われてしまったのです。納得出来ない者もいた事でしょう。
何より、アベルが私の死を信じられず、私を待ち続け、探し続けていましたから。アベルの強い気持ちが、この家を保っていたのだと思います」
ニコラウスには、返す言葉が無い。何の落ち度も罪もない、王家と何の関わりも無い、シュルツ家の使用人達とその家族。長い間この屋敷で営まれてきた、穏やかな日々……。ニコラウスは、今更ながら戦争悪を感じ、無意識に唇を噛んだ。
護る為に戦わなければならない時もある。必要悪、と言う言葉もある。戦争が全部悪い訳ではない。だが……。戦争を始める事、それこそが全ての悪なのだと。戦争に勝った者が勝者ではない。争いを回避した者こそが真の勝者なのだと。
「では、ニコラウス様。お手数をお掛けして申し訳ありませんが……」
ルイーゼが立ち上がった。
「分かっている。今、送ってやる。残りも全て連れて行け」
「その前に……。アベル?」
ルイーゼは、後ろに隠れているアベルを前に出した。アベルは項垂れて、チラチラとニコラウスを見ている。
「ごめんなさい、は?」
「……ごめんなさい」
アベルは、首を竦め小さな声で、頭をペコッと下げて、ニコラウスに謝った。先程までの悪霊とは、似ても似つかぬ可愛らしい仕草に、ニコラウスは思わず噴き出した。
ルイーゼは、再びアベルを抱き上げた。
「さぁアベル、お母さんと一緒に行きましょう。お父様も、お祖父様もお祖母様も、婆やも爺やも、皆アベルが来るのを待っていますよ」
「はーい! 僕ね、母さまに話したい事、いっぱいあるんだぁ。いっぱいいっぱい、いーっぱい!」
「はいはい。後で全部聞かせてね。お父様にも話してあげてね」
「うん!」
アベルはルイーゼに抱きついた。ルイーゼは意図的に、ニコラウスにアベルの背を向けた。
ニコラウスは二人に近寄り、両手で剣を握った。静かに息を吸い込み、アベルの背中を、迷わず下から上へ切り裂いた。
アベルの身体は、煙の様にフワリと二つに分断された。しかしアベルの顔に苦痛は見られない。振り上げた剣が煙を巻き上げる様に、アベルはすーっと上にあがった。同時に、ユゼフの体からルイーゼが抜け出た。彼女は、肖像画そのままの女性だった。その腕には、アベルをしっかり抱き留めていた。
アベルとルイーゼは、ニコラウスにも屋敷にも、もう振り返らない。笑顔で見詰め合ったまま、抜け落ちた天井からすーっと夜空へ消えた。気が付くといつの間にか、森には安らかな静寂が戻り、空には月と星が輝いていた。
ルイーゼが抜けたユゼフの身体は、その場に力なく崩れ落ちた。ニコラウスが慌ててユゼフを抱き留めると、上からバラバラと屋根が落ちて来た。屋根だけではなく、壁も窓も剥がれて落ちた。屋敷全体が急に崩れだした。
そうか、支えていたアベルの力が、消えて無くなったったからな。ここはもうすぐ崩壊する。
ニコラウスはユゼフを抱えて、崩れかけたバルコニーの手摺りに手を掛けた。だがバルコニーの下は、ガラスや煉瓦等の瓦礫で埋め尽くされていて、飛び降りることが出来ない。ニコラウスは諦めて、階段から玄関に回る事にした。
走る間も、屋敷は急速に崩れていく。ガラガラ、バリバリ、ガシャーン……。屋敷は耳を劈く様な、断末魔の悲鳴を上げる。床が踏み抜け屋根が落ち、壁が倒れ階段が崩れる。ニコラウスは剣を抜き、落ちてくる瓦礫を払い除けた。朽ちた木片や燭台や釘、ガラスの欠片が、豪雨の様に振り注ぎ、煉瓦の塊が落ちて来る。所々裂けていた服は穴だらけになり、新たに血が滲む。だがニコラウスに守られているユゼフには、ほんの掠り傷もない。
ニコラウスは屋敷が全壊する前に、なんとか玄関に辿り着いた。
玄関にあった大きな振り子時計は、斜めになってガラスが割れ、針も振り子も錆びている。ニコラウスがこの屋敷に来た時、確かに動いていたその時計は、ずっと長い間、止まっている様に見えた。そう、きっと……7年前のあの時間から。
時計の隣の椅子に、見覚えのある黒い女給の服を着た女性が座っていた。彼女は既に白骨化し、白髪が辛うじて残っている。今にも崩れそうな人骨なのに、彼女は、両手をキチンと膝に重ねて姿勢正しく座り、屋敷が崩壊する振動にも耐え、凛として前を見据えている。
「あばよ、婆さん」
ニコラウスはその人骨に向かって、軽く剣を振り上げた。
人骨はまるで、はいと頷くように、ころんと頭が捥げた。床に落ち、コロコロと転がる頭蓋骨が、ニコラウスには何だか、ありがとうございました、と言った様に感じた。相変わらず無表情で、抑揚が無い声で。
ニコラウスは屋敷の外に出ると、口笛を吹き直ぐにアポロを呼んだ。アポロは賢い馬だ。崩れ始めた屋敷に、埋まる筈がない。案の定、自力で厩を脱出したアポロが、ニコラウスに向かって走って来た。ヴィーナスも一緒だ。
ユゼフを抱えるニコラウスは、走って来るアポロを停めずに、いきなり飛び乗った。指示が無くても、ヴィーナスも停まる事なく、アポロに歩調を合わせて後ろをぴったり着いて来る。
一気に雪崩れる屋敷の轟音が、地鳴りとなって森に轟く。崩壊による地響きが、森を大きく揺るがす。土煙りが視界を塞ぐ。獣達が奇声をあげ、鳥達は一斉に飛び立った。
だがアポロとヴィーナスに、奇怪な行動は見られない。肝が据わったいつも通りの二頭に、ニコラウスは舌を巻いた。
ニコラウスは、後ろを振り返らない。来た道を、ただ真っ直ぐ駆けた。
森を抜けると、さっきの湖に出た。今は深夜の筈なのに、真上にある陽は、煌々と湖を照らしている。
ニコラウスは、初めて森に振り返った。まるで何事もなかったかのように、小鳥達が平和を囀り、風が戦ぎ、他に音などしない。森の空気は澄んでいて、とても平和で穏やかだ。
そうだユゼフ! ニコラウスは慌ててアポロから降りて、ユゼフを草むらにそっと座らせた。
俺が斬った背中の傷は……。ニコラウスは、焦ってユゼフの背中を確認した。結構な深さの傷を負わせた筈だ。出血もかなりあるだろう。
ところが、ユゼフの背中には傷が無い。それどころか、服も切れていない。他にも調べてみたが、ユゼフには、瓦礫が当った傷も服の綻びも汚れもなかった。
「よかった……」
ニコラウスは、気持ち良さそうに眠るユゼフを、そっと抱いた。手に伝わるユゼフの体温。合わせた胸に伝わるユゼフの鼓動。触れるユゼフの頬には弾力があり、指に絡めた髪はサラサラと落ちて行く。いつもと変わらぬユゼフだった。
ニコラウスには、失って怖いものなど何もなかった。自分の命すら惜しいとは思っていない。だが今は、ユゼフを失う事に、強い恐怖を感じていた。
「よかった……。俺のユゼフに傷が付かなくて」
強く抱き締めたい気持ちを抑えて、ニコラウスはユゼフを静かに横にした。
そうだ、俺は? ガラスや煉瓦で、かなりの傷を負った筈だったが、どこも痛みを感じない。腕や脚を見た。しかしニコラウスもユゼフ同様、傷も綻びも汚れも無い。
あれは、幻覚だったのか? ……。どこかに痕跡はないかと、自分の服装や持ち物、アポロの蹄まで調べた。だが、何も見付からない。
ニコラウスは、剣を抜いた。陽に翳すと、刃はいつもの様に冷たく鋭く光っている。
「何も無しか。お前に言葉が話せたら、色んな事を聞けるのにな」
ボルデン王家に、何代にも渡って受け継がれて来た剣。その剣は、ボルデン王国の国王となるべき者にしか、扱う事は出来ない。剣は、ニコラウスが始めて戦場に立った時、父国王から授けられた。国家統一の為、何十人何百人の命を奪ったその剣は、王家の宝であり呪いでもある。良きも悪しきも、王家の全てを背負う神剣だった。
よくよく見ると、剣の鍔に、赤毛が挟まっている。
これは……。ニコラウスは、それを手にとって微笑んだ。
はぁ……。俺はこの先、どれだけの家の後始末をしなけりゃならんのか……。溜め息を吐き失笑しながらも、自身に新たな想いが湧いて来るのを感じた。
何事も無かったように、すやすやと眠る、いつものユゼフ。彼女の顔に掛かる銀髪を、ニコラウスはそっと掻き揚げた。
アベルは分かってたんだな。母親が既に死んでいた事を。アベルがずっと待っていたのは、天国からの母親の迎えで、アベルがずっと探していたのは、母親を呼ぶ事が出来る、清らかな魂を持つ女。……ユゼフは適任だ。
俺とユゼフ。今回の舞台で、これ程適役な役者は、世界中探しても他にはいない。いや、今日のこの日に俺達たちがここに来たのは、偶然じゃない。
ニコラウスは、無意識に誘導され、まるで最初から仕組まれていた様な出来事に苦笑した。
ユゼフの長い睫が、彼女の頬に影を落とし、その影が微かに揺れる。美の女神も嫉妬しそうな、整ったユゼフの顔立ち。ユゼフの寝顔は、側で一日中でも見ていたい。ニコラウスは誘われるがまま、ユゼフに口付けを落とす。
ぱちりとユゼフが目を開けた。キスをしたまま、ユゼフはニコラウスを睨み付けた。ニコラウスは、慌ててユゼフから飛び退いた。
「ニコラウス……。私は白雪姫では無い。お前は御伽の国の王子様か」
「いや、俺は正真正銘、正義の味方の王子様さ。ユゼフの方は、純真無垢な姫ではないがな」
お茶目にウインクするニコラウスに、ユゼフは呆れて言葉が出ない。
ユゼフは上体を起こした。その時、背中がピリリと痛み、顔を顰めた。
「何だ? この背中の痛みは。変な格好で寝ていたからか、背中に小石があたっていたのか」
「背中か? なんともないぞ。ユゼフの気のせいだろ」
ニコラウスは、チラリとユゼフの背中を見て、直ぐに他へ目を逸らた。ユゼフは、身体を解すように腰を左右に捻る。
「それで、私はどれほど寝ていたんだ? 湖で泳いだ所までは覚えているんだが、なぜかその後の記憶がない。気がついたら、ここで寝ていた」
「時間か? 今は……」
ニコラウスが、懐中時計を取り出した。
「12時だ。そろそろ腹がへる時間だな」
「なんだ、まだそんな時間か。随分寝ていた気がする」
ニコラウスが、少しの間沈黙して、ぼそりと答えた。
「……俺もだ」
「なんだ? ニコラウスも、寝ていたのか?」
「ああ……。7年分の、永い眠りだったな」
「はぁ?」
ニコラウスは、眉を顰め首を傾げるユゼフから、森に目を移す。何かの想いに耽る様に、遠い目で森を見上げた。
「そう言えばニコラウス、確か今日の午後に、レツェニアの特使が来るんじゃなかったのか?」
「そうだったな」
「そうだったな、じゃないだろ。何をのんびりしている? 早く帰るぞ。まぁ特使が直ぐに帰国するとは思えんが、だからと言って、あまり長く待たせるのは失礼だ」
「そうだな」
ふたりはヴィーナスとアポロを呼び寄せ、それぞれの背に跨った。
その時、道の向こうから藁を積んだ荷馬車が、ゴトゴトとやって来た。荷馬車は、二人の前で停止した。
「旦那方、その森を通りなさるのか?」
荷馬車の男が、目の前に広がる森を、チラリと見て言った。
「いいや、逆方向だ。俺達は、これから城へ戻るところだからな」
「そうですかい。それはよかった。なにしろその森は、魔物が住む恐ろしい森なんでさぁ。
向こうの街に行くには、その森を抜ける方がずっと早いんですがね。それでも魔物の話を知る者は、怖がって誰も通りやせん」
ユゼフは森を見て、男に尋ねた。
「そうなのですか? 木々のバランスも良く、緑も鮮やかで美しいのに。とても静かで穏やかな森に見えますが」
ユゼフには、精霊が宿りそうな神秘的な森に見える。恐ろしいと言われるには、あまりに優しく美しく、男の言葉は的外れに感じた。
「いいえ。見かけの美しさに惑わされてはいけやせん。長い間、この土地に住む俺等村人は、不用意に森に近付いたりはしやせん。村の男や老人子供が、その森で神隠しに遭ったという話は聞きやせんが、それでも村人達は、恐れて森に入りやせん。
村人の中には、偶に森に入り込む命知らずな輩がおり、何事も無く森の恵みを沢山持って帰って来たりもしやす。ですが、なぜか女は戻って来る事はありやせん。それでも、不思議と老婆や幼女は戻って来るんですがね。知らずに森に入った他所の女達は、誰一人戻ってきやせんでした。
まぁ、ご立派な紳士でいらっしゃる旦那方には、心配にゃ及びやせんが」
ユゼフは、その美貌から女神の様だと言われる事がある。だが、女だと間違われる事はない。
確かにユゼフは、男にしては華奢な身体付きだ。それでも武術剣術に長けるユゼフは、どこから見ても男らしい男だった。男の言葉に、ユゼフの横で聞いていたニコラウスは、噴き出しそうになった。
「それにしても、女性だけが行方不明になるなんて、穏やかな話ではありませんね。本当に一人も戻って来なかったのですか?」
尚も話を聞こうと、ヴィーナスから半身乗り出すユゼフの襟首を、ニコラウスが後ろから掴んだ。
「ユゼフ、もたもたするな。行くぞ。客人を待たせるのは失礼なんだろ?」
ニコラウスがアポロの腹を軽く蹴り、ボルデンの都に向かって走り出した。
「そうだったな。……っておいニコラウス、待てっ!
じゃ、おじさん気を付けて。面白い話を聞かせてくれて、ありがとう」
ユゼフは荷馬車の男に笑顔を向けて、ヴィーナスを走らせた。
「まぁ、伝説なんてどこの森にもあるからな。アルギスの森にも数え切れない程あった。精霊とか妖怪とか魔女とか……。大抵は、悪戯好きな子供達を、自重させる為の作り話だったが。
それにしても、妖精達が出迎えてくれそうな神秘的な森だったな。あれなら、伝説の一つや二つ、あっても可笑しくはない」
「そうだな」
ニコラウスは、並走して話し掛けて来るユゼフの方に、チラリと目をやり、何気なく後ろを振り返った。
すると、さっきの荷馬車は忽然と姿を消していた。
なるほどな……。奴は守り役として、あの森に留まったか。それで俺に釘を刺しに、態々追いかけて来たんだな……。
いらん心配だな。あの森を再び騒がす事は、今後一切ない。少なくとも俺が生きている間はな。ニコラウスは、そっと剣に触れた。
ルイーゼ夫人、安心してくれ。俺は誓いを守る男だ。
「ユゼフ、俺は今夜お前を抱く」
もはやニコラウスの口癖になっている言葉に、ユゼフは呆れた。
「今夜も、だろ。私のベッドはそんなによく眠れるのか? 私の部屋の何倍も広くて豪華なお前の部屋に、私のベッドの何倍も広いベッドがあるだろ」
「いやだね。ユゼフの体温がなけりゃ、俺は寝られない」
質素倹約質実剛健が大好きなユゼフは、城の中でも、狭く殺風景な部屋を間借りしていた。その粗末な部屋に、権力の象徴の様な豪華絢爛が大好きなニコラウスが、ずっと入り浸っている。城の侍女達も心得たもので、ユゼフの部屋には毎朝必ず、二人分の朝食を持って行った。勿論彼女達は、ユゼフが女だという事は知らない。
「暑苦しいだけだ。バカ言ってないで、サッサと帰るぞ」
ユゼフはヴィーナスの速度を上げて、ニコラウスの前に出た。
「待てよ、ユゼフ」
同じ様な森を幾つも駆け抜ける、白と黒の二頭の馬。二頭は、鬣と尾を真直ぐ靡かせている。そのコントラストが、森に美しく映える。
木々の間から零れる残夏の陽は、その馬に騎乗する二人のスポットライトだった。光りはキラキラと二人を照らし、ギリシャ神話の舞台の一場面を再現する。彼等が創る、息を呑むほどの光景に、森の精霊たちも時間を忘れて見惚れているようだった。
小鳥の囀りと木々の囁きだけが、微かに聞こえる静かな森。爽やかな風が、頬を撫ぜる。走馬灯の様に流れて行く木漏れ日に、ニコラウスはゆっくり目を伏せた。
―― あばよ、婆さん。あばよ、アベル ――
ありがとうございました。
本編の“百合と薔薇”は、R指定なので余りお勧めは出来ませんが、苦手でなければ、ムーンライトノベルズも、覗いて見て下さい。