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ももも太郎異聞 2012

作者: 中川京人

 昔々の大昔。九月の空はかんかんに晴れまくっていた。

 それしか能がないのか。

 そうではない。昔話でのっけに雨なら、それは意味のある雨でなければならない。デフォルトは晴れである。物語の作者はつらかろう。白紙に墨滴のひとしずくから始めなければならないので無駄が書けない。無理をすれば不自然になる。本音では、いらんことでも書きたいのだろうが、そのたびに「あの伏線はどうなったのか」などとストーカーまがいの追及に見舞われること必定である。

 だからといって、たとえば「桃太郎事件の共同正犯とされる、犬、猿、雉の三者が揃って桃被告が当時貴重な糧食であった黍団子を簡単に差し出したと証言しているのはいかにも不自然である、逆にこの三者が共謀し桃被告をそそのかして鬼一族の大量虐殺へと向かわせたのだ」という、桃側弁護団の主張に対して、自分で書いておきながら、ちょっとこれはまずいなあと、作者が感じてきたところへもってきて、ならばと物語の途中で安易に、「じつは桃太郎は尿糖が出ていたので、黍団子は主治医に止められていたのである」などという新たな証人を立てて逃げたくなる気持ちはわかるのだが、それをやると、それならそれではじめに出しておくべきだ、その場しのぎはいただけない、などと読者になじられるのである。

 ところが読者というものは、いつの時代でもじつに猪口才であって、冒頭に書いたら書いたで、ああ、また例のあれね、と余裕をかましているので滅多なことは書けない。もういっそ、読者などこの世にいなければ好きに自由に書けるのに、などと出口のない想像で午前中いっぱいが台無しになり、昼飯のこなれる午後二時には早や疲れて眠りこけてしまいがちである。

 その点、二次は楽だなあ。べたべた書いてあるのを見下ろして、ふふ、ときどき端っこをひねるだけ。要るものはたいてい『あの』とか『例の』で通る。さっきの『九月』にもなんも意味ないもんね。ふほほ。あー楽楽。まあ大雨降らしてやってもいいんだけど、とりあえず晴れ。


 どことはちょっと言えませんが、その山に住む老翁、守山ジュスカペールは、いまだ杣人を自称してはいるものの、自らの悪行によって疾うの昔に山への立ち入りを禁止されていたのだった。小うるさい役人のせいで、もぐりの樵も立ち行かず、しかたなく他人の雑木林の下刈りを請け負うことで糊口をしのいでいた。いわゆる柴狩り業である。

 同い年の妻ジュスカメールとは連れ添ってかれこれ二十五年になるが、ふたりの間には子どもがなかった。老人といってもこの時代のことであるから、数えで四十過ぎである。へたをすると三十台後半の可能性もある。

 樵をやめてからはろくな収入もなく、されば年金はといえば、そんなもん、現役時代に保険料を集金に来た高飛車な村役人をナタでどつきまわして馬糞樽に放り込んでからというもの、まったく無縁と成り果てていた。

 だいたいが、平均的な貧乏世帯の周辺においては、収入と夫婦の不仲は逆比例の関係にあるようで、当該守山夫妻のいさかいの頻度は毎年のように界隈の最高記録を更新しつつあるのだった。

 四半世紀もの年月は、ありきたりの人間の属性をすべて反転させるまでの力を持っていた。現にこの者たちは、かつて何とほざいておったのか。

「ぼくたち、イザナギ・イザナミみたいに名前がそっくりだね」

「ほんと。年もいっしょだし」

「結ばれる運命だったんだね」

「ねえ、あなたのことスカペールって呼んでもいいかしら」

「スカ、はよしてくれよ。ペールでいいよ」

「うんわかった。ペールね」

「じゃあ、きみはメールだ」

「うん、メール」

「メールはきみだよ」

「わかったわ、ペール」

「メール」

「ペール」

「なんだいメール」

「なんでもないのペール」

「もういちどいってくれよ、メール」

「なんどでもいうわ、ペール」

「こんやもたのしみだね、メール」

「いやん。ペールのエッチ」

「ばんごはんの話だけど」

「やん。ペールのいじわる」

「ごめんよ、メール」

「ううん、ゆるさないわ、ペール」

「こんやは、きみのシバをかりたいな、メール」

「うふふ。とてもきけんな山よ、ペール」

 …………。まあ、好きにやっとれ、ひらがなばっかり大概にしさらせ、というような、不毛な会話を繰り返していたふたりであったのだが、それも蜜月時代ならではのこと。不毛のもうひとつの意味を知るのも、所帯をもって五年も過ぎたころで、そのころはふたりの会話は、倫理的にもまずまず正常値を示しており、お互いかつての会話を思い出すにつけ、おのれの吐いた台詞のあまりの恥ずかしさに、頬をかきむしり、ぶり返す記憶を誤魔化すように意味もない遠吠えをなんども髄膜に響かせるのだった。

 さらに二十年がたった。──悲しいが現実だ。つまり、いまの話だ。


「あんた。集積所から苦情来てるで」

「なんの話や」

「なにて……決まったあるがな、ゴミやゴミ。あんたが出した生ゴミな、回収されやんと残ってもて、えらい臭とるそうやで」

「わしが出したゴミちゃう。わしが出しに行ってやったゴミじゃ」

「そんなもん、とっちゃでもええさけ。はよ行って片付けてきやれ。近くの人にあんじょう頭さげるんやで。あ、それからな。ついでに笹島のあほぼんからどんぶり返してもろてきて。ほっといたら忘れてまいよる。ええか、きっとやで」

 生ゴミの後片付けとどんぶりの回収のためにあばら家の勝手口から蹴り飛ばされたのは、他の誰あろう守山ジュスカペールその人である。かつてのソマビト、誇り高き樵であった。

「どくそばばあが。早よ洗濯にでもいにくされ。ついでに河太郎に足引っ張ってもろて、ヤマメにでも喰われてまえ」

 すっかり前かがみになっているので、左のわきの下から後ろに向けて、しかも妻には聞こえないように毒づいた。これはもう、ここ五年ほど前からの癖になっていた。

「ああけったくそ悪」

 口腔内の唾液にも、妻メールの吐いた息が溶け込んでいるような気がしてまことに忌々しく、それを考えていると、ますます口の中に溜まってきて、ジュスカペールは歩きながら何度も道端に唾を吐いた。

「ほんま、業腹な婆やで」

 ペール老人は、いまだにこの女と所帯をもったことをぐじぐじと後悔していた。繰り返しになるが、まだ前厄にも満たない年齢である。

 かつて広域樵組合連合会青年部の幹部としてまずまず羽振りのよかったペールは、たびたび悪友連中と繰り出した色里で遊ぶうち、ひとりの戯れ女を見初めてしまった。千種ジュスカメールと名乗るエキゾチックな風貌のテクニシャンだった。十八という妙齢に加えて、熟達者ばりの床上手に、同い年の紅顔の青年守山ジュスカペールの下半身は、文字通りお性根を抜かれてしまい、腎虚の態で家にたどり着いたのちも、三日に空けずメール、メールとやかましい。仕事が手につかないどころか、樵のくせに最後まで切り倒さずに中途半端で放り投げてどこかへ行ってしまうものだから、この男の担当した斜面では、ビーバーの試食跡みたいな吉野杉の赤身があちこちでへらへらと口を開けている。やむなく同業者がフォローしようにも、いつ倒れてもおかしくない大木がうようよする山では、危なくておいそれとは入れない。再三の注意にも一向に耳を貸そうとしないうえは、同業組合からの除籍通知と入会権剥奪決議は時間の問題だった。

 挙句には実家から勘当されるも、どうせおれは次男じゃからとどこ吹く風の体たらく、てて親の帳簿からちょろまかして溜め込んだ相当の金子を懐手に握り締め、無職勘当これ幸いとばかりに悪所に通い詰めること連日連夜に及んだ。これが若気の至りのひとことで済まされようか。良かれと思って言い募る眷属知音をもことごとく退け、無為徒食の日々に耽ったのである。

 さては音に聞く連理の契りかくの如しと、人の嗤うのも意に介さず、日を追うごとにジュスカメールへの思慕万々まことに断ちがたく、幾度も店側と交渉した末に、ついに彼はメールを請け出すことに成功したのである。

 ──あほくさ。何が成功か。大失敗じゃ。

 集積所に向かって歩きながら、ペールはまた唾を吐いた。過去を思い出しているうちにむかむかしてきたのだ。何をそんなに怒ることがあるのか。この男はあかん。この期に及んで、自らの難儀は、この性悪女を娶ったせいだと決めつけているのである。

 よく考えてみろというのだ。

 メールが性悪女だという事実は、いちどたりともなかったのだ。小金持ちの次男坊が遊女である自分に惚れていると知れば、誰でも小さな夢はもつものだ。決して懐の金を狙っているのではなく、人間ペールに引かれていったのだというメールの言葉もあながち嘘とは言い切れまい。ペールはその言葉を信じた。己を高く評価する女の言葉に酔ったのだ。先ほどのとろい会話も、意味はなくても、お互いの信頼を交わすことはできる。それはそれでよかったのだ。

 だがその先を、この自己中老人に喋らせておくと、ろくなことにならないので、事実に忠実に客観的に筆を進めるとしようものなら、早い話が、悪いのは、まぎれもなくこの爺さんなのである、終わり。としたいところだがもうひとこと。

 無職が勘当がどうのと言っているのではもちろんない。そんな境遇は世の中にいくらでも転がっているし、希望を胸に裸一貫から財を成すものもある。大事なのは、心だ。やる気だ。どれほど自己啓発書を読み込もうが、どれほど八卦見の言葉にうなずこうが、暗闇に火を灯し続けられるのは、自分自身の心に他ならない。自己肯定。彼はすぐにその欠缺を口にするが、いやらしい自己肯定の意識は保持し続けているのである。彼の不満の本質は、世間や妻から受ける評価が極めて低いとの認識なのであり、それとて彼の心内での思い過ごしかもしれないのだ。そもそも自分ひとりで解決できる問題であるうえに、世間と妻をちゃんぽんにするのもどうかしてるし。

 柴狩り業、大いに結構。この先、付加価値でいくらでも商品性を高めることができる優良職種ではないか。何もくさることはない。いまではむしろ樵の存続の方が危うい。年金保険料未納だって、その分を自分に投資したんだと思えばよろしい。受給権者が満額を受け取る姿をみて妬むなど愚の骨頂である。

 新婚時代のメールは初々しかった。彼女の前職は、彼女の体を蝕みはしたが、心は清らかなままだった。少なくとも、二十歳のペールはそう感じていた。だが、年齢が倍になってもじつにメールの心は安定していたのである。二十年の歳月で変わってしまったのは、同い年であるペール自身だったのだ。

 結婚と同時に失業したのだから、貯金を食いつぶす前に、さっさと正業に就けばいいものを、ちんけなプライドが許さないのか、単なる鈍らなのか、御託を並べるだけでなかなか腰を上げようとしない。ことさらにわが身の不運をあげつらい、死ぬだの消えたいだの、子どもじみた言辞で妻を苦しめた。己を不幸だと本気で思っているのか。子ができないのがそんなにあかんか。おれは組織には馴染まないたら、権力の歯車にはならんたら提灯たら、まさに笑止千万、それならば柴狩りを真面目に続ければそれでいいではないか、と他人は密かに笑うのだが当然何を言うわけでもない。

 もちろん、ペールにも自身の心内のことであるから相当のことはわかっていた。たまには己のぶよぶよの心に針治療を試みようともしていた。前向きに生きようとした。だが、心の調子が悪いのは体の老化のせいなのかもしれないと、相変わらず外部に原因を求める癖は抜けなかった。そうして、妻のわずかな物言いや当てこすりをことさら大仰に受け取って騒ぎ立て、あるいは打ち沈んだふりをするのだった。

 妻メールに対する邪な怒りがあっても、長続きがしない。燃料が足りなくなる。むろん、自分で捏ち上げた怒りだからである。きっかけはあっても燃やす実体がない。行き着く先は、わが身の一部を燻らせて生ずる自己嫌悪に尽きた。きたない灰である。だが灰は燃料と違い、燃えず消えずに残るため、なおさら始末が悪い。量によっては災いになり得る。

 集積所の門扉は、突き当たりのT字路を左にとり、橋を渡って二町ほどの所にある三昧のとなりにある。ジュスカペール老人は、そこに向かってとぼとぼと歩いた。左足でとぼ。右足でとぼ。どんぶりの件を思い出していた。笹島の息子の大柄な体が頭のどこかに浮かんだ。おれも年を取った。きょうの仕事。どんぶりの回収とゴミ出しの後始末──柴狩り請負の新規開拓は年に数回しかしなかった。

 営業はとくにいやではなかった。組合の幹部時代には人付き合いもそれなりにこなしたし、営業と聞いて一様に尻込みする同僚を小馬鹿にしてもきた。だが所詮は他人事だったのである。遊びだったのである。営業しか生計の道が残されていないと自覚する事態とは程遠かったのだ。

 さらにその本質を探れば些細なことで、きっかけは八年ほど前の樵組合のOB会に遡る。その席で、徳利の糸底をさすりながら、今どうしているのかとしきりに聞いてくる男がいた。いくつか言葉を交わすうちに、男の態度に変化が現れた。当初のやや卑屈な態度から、見下すような仕草へと、見事なグラデーションを見せたのである。

 ──ああ、柴狩りの営業ね。営業なんだな。ほぉう。

 何度も営業かそうでないかの確認をされながら酒臭い息をかけられた。明瞭に答えているので内容はわかっているはずなのに、何度も聞き込み、うんうんそうか、などと頷いて得心している容子だった。顔を覗き込む男の巨大な赤ら顔には優越感に由来する紫色が混じっていた。やがて男は前かがみの姿勢をとると、「おっしゃあ」の掛け声とともに立ち上がりざま上半身をひねった。それきり二度と目の前には現れなかった。

 ペールはそんなやりとり自体にも感想はなかった。むしろその場で彼に応えたことは、自分が真性の下戸であり、このような座が求める酒精許容量に遠く達していないことだったのだ。酒が飲めないとはなんと罪深いことか。「下戸の建てたる倉も無し」などとほざいて呵呵大笑する元同僚の酒興を横目に、それでも単なる肉体の問題だと認識していた。ちんまりした酒で業界の将来を憂いて獅子吼する元役員たちを、役者を見るような目で見ていたのだ。

 しかしそのとき彼、守山ジュスカペールは、鍋と酒精の蒸気に喧騒、三味線長唄の充満する満座の只中で、ひとつのか細い声を聞いたのである。

 ──メールがかわいそうだ。

 そうだ、そうとも言う。彼は悟っていた。酒の飲めない体も、人が見下す仕事を止むなしとする状況も、左右の地味な爺いの間の抜けたステロタイプな物言いも、長唄の歌詞も仲居の薀蓄も何もかも、この宴会のすべての要素が、この「メールがかわいそうだ」のひと言に集約され、彼を責め立てているのだ。

 ペールは無言で厠に急ぐふりをして席を立ち、そのまま戻らなかった。そういう子どもじみた振る舞いがさらに信用をなくすのだということに、彼は思いが至らないのである。

 彼は待合茶屋の勝手口からそっと外に出ると、月を見上げた。半開きのドアから漏れてくる三味や手拍子をかすかに聞きながら、十日月に語りかけようとしたが、つまらないからやめにした。この期に及んでも、じつに守山ジュスカペールは自分自身を哀れんでいたのである。

 妻メールに申し訳ないという気持ちは、心の底にあるにはある。ところがそれが素直に維持されることは滅多になく、体表面から外に出るころには、メールへの不満、不信、不足、不安が厚着した天麩羅の衣のようにまとわりつき、珍しく和食膳を食わしているのに、「どれがいちばんおいしかった?」「うんとね、えびのころも」などという馬鹿げた親子の会話が成立するように、ただ単に量の多いものが、同じ理由により我が物顔に跋扈跳梁するのだ。

 どんなときでも何が起きてもそんな調子である。己の不備を隠すために、自らの不如意と不遇を過剰に演出し続けてきたのだ。なんということか。こんなことのために、妻メールは苦しんできたのだ。

 ペールはT字路を左に折れ、やや歩を早めた。川音が聞こえる。

「おれが不幸なわけはない」

 漫画の雲形のフキダシのように、歩きながら唐突にこの爺いは独りごちた。

「すべてがうまくいっている」

 何をいきなり。

 どうせごちゃごちゃ考えているうちに、以前に見聞きした何か都合のいいフレーズが引っかかってきて、ついでに実際に紙に書いたり口に出したりする方がいい、などとあったのを思い出して実行したのだろう。調子こいている男である。

 川に架かる木橋に差し掛かった。

 その後もペールは草履を引き摺りながら、

「不運はそれを嘆きたい者に訪れる」

「夕べの紅顔もあしたには白骨となれり」

 などと半可通なわけのわからない言葉をいくつか口にした。ちょっと違ったかなと訂正してははにかんで見せた。驚くべきことに彼は小さな悦に入っていたのだ。

 ──そうだその調子だ。自分に自信を持て。

 ──その通り。何もかもうまくいっている。

 まったくあきれた話だが、はじめからそういう心積もりならメールの苦労はドンキ並みの八割引にまで抑えられただろう。あばたもえくぼ。ドミノ倒しのように、心が心を動かし、心は言葉を動かし、言葉は体を動かす。いい方向に、いい方向にと進んでいたはずである。

 子はなくても希望は生まれる。

 事実、彼らはかつて両手に抱えきれないほどのものを持っていたのである。

 臭う生ごみなど、ドンと来いだ。

「ペーちゃん、忙しいのにごめんね。集積所から困ったこと言ってきたの」

「どうしたのいったい」

「それがゴミなの。せっかくペーちゃんに出しに行ってもらったのに、回収しないで残っちゃってるみたいなのよ」

「そりゃいけない。ぼくの出し方が悪かったんだよきっと。すぐに行ってくる」

「ごめんね、わたしが出さなきゃいけなかったのに無理言って急がせちゃって。あとで改めてご近所に謝りに行くから。あ、それからついでにお願いしちゃってもいいかなあ。いい? そしたらね、あの笹島さんの息子さんなんだけど……」

 そういう会話もありえた筈である。

 笹島とはじつは、酒の席で営業かと念押ししてきた例の男であって、村役場から出向している土木管理部の次長である。子どもの時分は、十二の年まで九九が言えず、二十歳になっても手前の苗字を『笹鳥』と書くことがあった。図体ばかり大きくて中身は豚の脂身とさほど変わりはない。あのとき『エイギョウ』なのか、としつこく聞いてきたときも、はじめは、名刺の上の『營業』という漢字の読みを聞いているのかと疑ったほどだった。あほではあるが、根っからの我慢強さと人の好さと楽天的な性格で細切れの段差をこつこつ登ってきたのだ。どれもペールには欠けていた性質だった。

 その息子から、この息子というのが親に輪を掛けてなんともならんあほなのだが、どんぶりを返してもらうためには、この笹島の家を訪問しなければならない。橋の上を小股で歩きながら、なんでメールはこんなやつにどんぶりを貸してやったのかと考えるうちに、あ、これは新手の出合い系ではあるまいか、あの餓鬼なんちゅうことさらしよる二十も離れた他人の嫁に、などとメールを案じるよりも、自らの体内で沸々と湧いてくる怒りに悶えていた。嫉妬かどうかは自分ではわからなかった。とにかく焼けるように怒れた。

 川の音が大きい。普段より水嵩が増しているのは、ずっと前に降った大雨の影響がいまになって出ているからだろう。

 容量の小さなペールの炉は、わずかな燃料でもたちまちレッドゾーンに入った。相手の苗字が悪かった。

 ──笹島。おれを見下した男。

 当初はそんなふうに思っていなかったくせに。営業に引け目などなかったくせに。あほは優性遺伝だと嘲笑していたくせに。

 つまるところこの爺さんは、憤怒に酔うための燃料をあちこちから集めてまわっているのである。傷心だ絶望だと嘆くが、もとより自らが勃起せしめた妄想だとは思わないのか、メールの潔白を信じる気持ちにはなれないのか。だいたいが、浮気相手の家にどんぶりを受け取りにやらすはずがないではないか。

 理屈ではない。もはやペールの腐れた性根は、怒りの炎にくべる枯れ木の役割くらいしか使い道がなかったのだ。笹島もどんぶりも出合い系も単なるきっかけに過ぎなかった。

 新婚当時の閨事が否応なく思い出された。ペルシャ系クオーターであるジュスカメールの賞味期限内のナイスバディは、それまで買ったどのおなごよりも反応が凄まじかった。

 ──ああもう、あたしを無茶苦茶にして。

「くっ、かっ」

 かつての房事が脳裏に浮かぶなり老翁はごま塩頭をかきむしった。それがあの笹島のあほ息子と……。ペール爺は、不覚にも前をかちかちに怒張させながら、なおも憤った。どんなに振り切ろうとしても笹島の息子とメールの裸体が絡む絵が脳裏から去らない。忌々しかった。

「女郎蜘蛛や思とったら毒蜘蛛やった」

「こんなことなら」と、ジュスカペールは腰にぶら下げた鎌の柄を握って独りごちた。五分前に唱えた前向きな自分宣言とは正反対である。

「あん時、ほんまに無茶苦茶したったらよかった」

 そのときペール老人は橋の中ほどまで来ていたが、川面をなでる湿った空気に当てられたせいで、急に小便がしたくなった。というのか、じつは家を出たのは厠へ行こうとしていたところを放り出されたのだったと思い出し、南無三宝、我慢ももはやここまでと、あわてて橋の真ん中にある欄干の脇に立ち陰茎をまさぐり出すと、人目も憚らずに川下に向けて放尿を始めたのである。もはや子どもよりも憐れである。不用意な勃起による尿道の狭窄は、驚くほど巨大な水芸のアーチを描き、四間ほど下方をゆく川面にようよう飛沫の先端を届かしめたのだった。

 ──おれはこんな場所でこんな行動をとる人間ではなかったのに。

 自分の行為で心がエスカレートし、自分の心で行為がエスカレートした。悪い方に悪い方に。悲しいことだが、これがペールの現実だった。彼は陰茎をつまむと上下左右にふり、より下品さを演出した。そのたびに、彼の従順なしもべであるアーチは、数秒遅れで鮮やかな変化を見せた。

 そのときである。排尿の完遂とともに涙目になりつつあったペールの視界に入ったのは、川の中ほどを滔滔と流れ行く、ひと抱えほどもある丸い物体だった。なんじゃいあれは、とペールは思ったけれども、もう自分は関わりを持ってはいけないような気がした。拾われることを予期しているこの物体は、いまの自分には持ち上がらないとも考えてみた。

 尿が絶え、腰の回りを整えると、ペールはあたりを見渡した。

 光る川面と朱塗りの欄干、鮮やかな木立、ついで生まれ月の太陽を見上げた。

 次の瞬間、名状しがたい激情が彼を襲い、全身が瘧のようにがくがくと震えた。目も眩むような怒りに全身の血が沸騰しているようだった。ペールはおもむろに腰の鎌の柄をたしかめると踵を反し、いましがた半分渡ってきた橋を駆け戻った。一生に一度の主役が、こんな形で回ってきたのだった。


 九月の空はかんかんに晴れまくっていた。

 吉備津のお白洲は大悪逆人守山ジュスカペールの評定をひと目見ようとする見物人で大賑わいだった。弁当持ちの親子連れ。職権で良い席をせしめた山林組合の幹部。法学生。有休を取って駆けつけた団体職員。医学生。三文文士。弁当屋。やくざ者。弁護士。非番の公務員も多くいた。その他当時考えられるあらゆる階層、職業の人間が黒山の八重垣を作り、御沙汰はまだかと待ちわびていた。

 笹島親子と妻メールを殺害した理由を審問官に聞かれたペールは、顔を上げると目を眇め、噛みながら答えた。

「た、太陽がまぶしかったからざんす」

 その直後、荒縄で後ろ手に縛られたこの爺いは怒り狂った廷吏にどつきまわされたのだった。周囲には群集の投げた礫が無数に飛び交った。廷吏にではなく、ペールめがけて飛んできた石だった。

 守山ジュスカペールは、持ち場の山を守れず杣人の名に泥を塗り、また、仏語で意味するような、年寄りになるまでの人生を全うすることもかなわず、同月二十五日の午後、二十歳に満たないアルバイトの首切り役人の手であっさりとふたつに分裂されたのであった。

 辻で四日間晒されたのち、非人渡しにされたペールの首は葬送も戒名も許されない中、非人事務所の手違いだか手抜きだかが原因でゴミ置き場に放過されていたが、ある月夜の晩に、あの十日月を見上げたときの惚けた顔つきのままこっそりと川に投げ込まれ、そのままどんぶらこどんぶらこと瀬戸内海に向かって流れ下ったのである。首の行方は誰も知らない。


 彼は足元を流れる大きな桃にも、その中で眠る未生のヒーローにも気づかなかった。しかし気づかなかったのは世間も同じで、それぞれの関心はそれぞれ自身にしかない。桃がこの先誰かに拾われたとき……そのときだけが物語になるのだ。


 この世で最悪のももも太郎譚。なにせ主人公の出番がないのである。

(了)


細かい細かい修正を繰り返しています。

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